目が覚めたら愛の国

天野 星

第一話

 日の出を知らせるラッパ音が起床の合図。薄い敷き布団から体を起こすと、配給された朝食でいくらか腹を満たして十二時を知らせる音楽が鳴るまで肉体労働。監視のもと三十分の休憩を取り、日の入りの鐘が鳴るまで働き続ける。これが『死の国』の最下層の更に最下層で生きる俺の日常。敗者の定め。

 この国に補充されて二十年。毎日、毎日、其処彼処で起きる闘争。それによって発生した火災で辺り一面炎の海。空は煙と灰の黒で塗り潰され、青空なんて一度も拝んだことはない。

 いつ、誰が、どこで死んでもおかしくない国で、奴隷だった俺はいつだって暴力と死の隣で生きてきた。だからこそ王の嘆きを聞いたとき、俺を虐げてきた人間どもに復讐する絶好の機会だと思ったのに――。


 ――人生は理不尽で構築されている。


ドゥースディーさん、起きてますかー? 烙印が痛むの?」

「あっ、いや、痛くない。先を急ごう」


 まただ。どうして愛の国に授けられた少女が、死の国での呼称を知っているのか。いくつもの疑問を抱えたまま、前を歩く小さな背中を追いかけた。


 遡ること数時間前。

 生国の王が乱心したとの話を耳にした最下層の全住民が、三役の居住区に通じる階段に押し寄せた。数字の大小などお構いなしの取っ組み合いを切り抜け、ようやく一段目に足を掛けた途端。王の咆哮が国全体を揺らした。


『儂も操り人形だと言うのか? 玩具だと言うのか! 馬鹿なことを言うな! 民も水も土地も! 生きとし生ける物全てが! 否、大空さえ儂の一声で赤にも黒にも染まるというのに。全て幻だと? 笑わせるな! この国は、世界は。お前の、ジョーカーの手の――』


 俺の記憶はここで途切れている。

 次に目覚めた俺が最初に目にしたのが、眼前でスキップをしているレッド性もとい『愛の国』では〝女性〟というらしい。少女のピンク色の双眸だった。


「おじさん、大丈夫?」


 齢二十の俺に対する失礼な言動よりも、子どもの出で立ちに息をのんだ。

 目が眩むような金の髪とつややかなピンクのひとみ。煙の黒と、火と血の赤を連想させる豪奢な服。そして、見知らぬ記号をアクセントとした赤色の首輪が、己の首に刻まれた〝烙印〟と重なり、暴力と罵倒による心身の傷が疼いた。


「転んだの?」


 伸ばされた腕を払いのけて立ち上がると、無言でその場を立ち去った。


「待って! ねえ、待ってよ!」


 早足で歩いて距離を空けても、走って撒いても追いかけてくる謎の子ども。背後から『ドテッ』とか『ベシャッ』とか転倒したであろう音が聞こえても歩き続けること数十分。

 色彩豊かな街に響く溌剌とした声や弾ける笑顔。見慣れない光景に心が疲弊して立ち止まったところで、幼いレッド性に捕まってしまった。


「どうして置いていくの? 怪我はない? 大丈夫?」


 ふくらはぎ辺りを掴む子どもを睨み付けると、足を動かして幼い手を振り払った。


「うーん……話せないのかな? それなら仕方ないか……数字を開示せよ」


 子どもが発した文言に血の気が引いた。

 数字は序列。従属の象徴。俺より遙かに小さくて幼い子どもが〝番号を見せろ〟と命令したのだ。

 逆らいたいのに、俺の体は俺の心を無視して動き出す。恭しく跪くと、十も離れているであろう子どもに首元を晒した。


「そこじゃないよ?」

「は?」

「うーん……おじさんはなのかー。まあいいや! ここは愛の国で、数字はここ! 顔を上げて!」


 目線だけ上げると、左胸を指さす子どもがいた。


「名前となる数字を示す紋様は、左胸に刻まれているの! だけどおじさんは首を見せた。おじさんはどこから来たの?」

「――――」


 言葉に詰まる俺を嬉しそうに見下ろす双眸に、全身から汗が噴き出した。

 この子は危険だと本能が告げている。

 逃げ出す方法を必死で考えるも恐怖に支配されている頭では、上手く切り抜ける妙案など浮かぶはずもない。それでも思案すること数秒。


「決めた! おじさんは国に帰りたいでしょう? 私は行きたいところがあるの! そこに行けばおじさんの知りたいこともわかるし、私も話し相手ができて一石二鳥! だから、一緒に冒険をしよう! 善は急げ! レッツゴー!」

「は? いや、子どもとはいえ得体の知れない奴と行動をともにする気は」


 突拍子もない提案に顔を上げて全力で否定をすると。


「お兄ちゃん置いていかないでー! 一人じゃ帰れないよー! もう悪いことしないから連れていってよー!」


 往来で叫び始めた。

 突然の奇行に立ち尽くしていると、いつの間にか大勢の人間に取り囲まれていた。


「おにーちゃーん!」

「わかった! わかったから泣き止んでくれ! な?」


 手を取って「お騒がせしました」と野次馬に声をかけてその場を後にした。

 人集りが見えなくなった辺りで繋いでいた手を離すと、再び大きく口を開いたのが見えた。


「お!」

「わかったから叫ぶな! 人を呼ぶな!」

「一緒に冒険する?」

「……仕方ないから連れて行ってやる……」

「ありがとう! じゃあ、おじさんの名前教えて?」


 最初から返事を聞くつもりはなかったのだろう。許可なく俺の服を捲り上げると、


ドゥースディーさん! 私はQクイーンドゥース! 長ったらしいから、キューツーでいいよ! よろしくね!」


 と満面の笑みで俺の数字を読み上げた。


 渋々ながら二人で冒険をすることになったのだが、少女の数字を知った今は断固拒否すればよかったと思っている。

 Qクイーンという数字は、俺を玩具として扱っていた奴らの名前と同じ。たとえ国が違っても怖いものは怖い。それに、子どものお遊びに付き合っている暇もない。

 暴虐の限りを尽くしていた国王があれだけ怯えるジョーカーという人間。俺はそいつと接触して、生国の連中に復讐すると決めているのだ。


ドゥースディーさーん! また足が止まってますよー? お腹が空いたのかな? あのお店でオレンジ飴買ってくるね!」

「待ってください!」


 ずっとこの調子で一向に進む気配がない。俺が食べたこともない果物の飴やら、魚介類やら何やらと、視界に入った店に飛び込んでいくのだ。

 日が沈むまでには目的地に到着したいと言っていたのはどこの誰なのかと叱ってやりたいが、数字が大きい相手には何も言えないのが俺の宿命。


「おじさん?」


 いつの間に戻ってきたのだろうか。じゃなくて!


「俺はまだ二十歳のお・に・い・さ・ん! 何回言ったらわかるんだ、ですか……」

「また敬語になってる!」

「仕方ないでしょう……癖、みたいなものなんだ、です……」

「おじさんがいた国では、数字の大きい人が小さい人を虐めてたんだね……」


 苦痛に歪む血色の良いあどけない顔。

 何処の国から来たのかも、本来の数字についても。自分のことは何一つ話していないのに、どうして少女が悲しそうな表情をするのか。


「怖かったよね、痛かったよね……」


 俯いた少女の言葉は紛うことなき優しさの欠片で。震える華奢な肩は泣くのを耐えているように見えた。


「大丈夫……だから」


 頭を撫でたいけれど、数字の格差が邪魔をする。

 俺が触れていい相手ではない。

 行き場を失った右手を引っ込めようとした直後。


「なんてね! 泣いてると思った? びっくりしったい!」


 俺の葛藤を返してほしい。

 感情に任せて、悪戯っ子の頭を叩いてしまった。


「暴力はんたーい!」


 本来の俺だったら即座に土下座していたのに。

「にしし!」なんて可笑しな声を上げてはしゃぐ様を見ていると、じゃれ合いの一種に過ぎないのだと安心する自分がいて困る。


「お前なんか知らん! 一人で行く! じゃあな!」


 急激に自分を変えていくQキューツーの明るさから逃げるように歩みを再開した。

 誰かと時間を共有する日がくるなんて想像もしなかった俺は、当然のように隣に並んだQ-2の手を取ろうとして止めた。


 Q-2は十歳という若さで、愛の国のQクイーン家の妻候補として、ゴール地点にある『どう』の前に授けられたそうだ。

 授けられる年齢や数字はその時々で変わるらしい。話を聞いていくうちに、二カ国の間には幾つかの共通点が存在していることがわかった。だが、生国と愛の国では決定的に違う点があった。


「数字は序列じゃなくて名前なの! それから、居住区は三カ所! 1番から10番が一階。JジャックQクイーンKキングが二階。王家のAエースは三階。上に行くほど土地が広いとかそういったことはないよ! あとね、大切なことは皆で話し合って決めるの!」


 愛の国の四役は、国民と机を並べる仲。死の国の三役や王家とは存在も役割も何もかもが正反対。現在地の1番から10番の居住区〝白〟を意味するblancブロンの名に相応しい清廉潔白な人々。

 青空に浮かぶ濁りなき雲。酔いしれるような柑橘類の風に揺れる万緑。太陽光を反射して煌めく小川。整備された石畳に、自然の色が映える真っ白な建物。Q-2曰く調度品も白で統一されているとか。

 子どもから逃げている最中にも拘わらず、街の煌びやかさに気を失いそうになったくらいだ。

 血と硝煙、逃げ惑う人々の叫喚とは無縁の活気溢れる街。一歩進むたびに生国との違いに絶望しては復讐心が増幅されていく。


「一つ、聞いてもいいです、だろうか?」


 どうしても敬語になってしまう。それは左胸の紋様が、死の国と同じ番号を刻んでいるからだろう。今は一人の人間でも、生国に戻れば奴隷なのだ。


「なかなか伸びませんね~」

「止めろください」


 一階と二階を繋ぐ階段の段差を利用して、俺の眉間の皺を伸ばそうとしているQ-2を咎めるも何の効果もない。


「今のペースだと日が沈みますよ」

「はーい!」


 散々弄んで満足したのか。漆黒のスカートを翻すと、軽快な足取りで階段を上っていった。結局、何も訊けないままQ-2の邸宅がある二階に到着した俺は、眼前の光景に絶句した。


「鏡?」

「ここはmiroirミロワールだもん!」


 何も言うまい。

 一面鏡。上下左右、どこを見ても鏡、鏡、鏡。方向感覚を失い始めた俺の右腕をQ-2が掴んだ。


「あ、ありがとう……ございます」

「どういたしまして! 奥行きがあるように見えるから、慣れない人はぶつかって怪我しちゃうんだよね! ここに用事はないから三階のflaeurフラールに行くよー!」

「フラールって? ちょっ、ちょっ、危ないですって!」

「愛の国でしか咲かない白炎はくえんの花の名前だよ!」


 駆け出したQ-2の声は弾んでいて。縺れそうになる足も手首を掴むか細い腕も、ふわふわと揺れる金糸も。今在る全てが眩い。

 この国に授けられていたら、煤と血液で汚れた人間どもへの怒りも、体中に残っていた打撲痕や擦過傷とも無縁の人生だったのに。

 blancの街に咲いていた〝ひまわり〟という花のような笑みを湛えるQ-2。

 この子も殺してしまおうか。

 愛の国を死で埋め尽くしてしまおうか。

 ジョーカーに会うことができたなら、心のおりは浄化されるのだろうか。

 重い感情に引きずられて足を止めると、Q-2が振り返った。


「私も殺すの?」


 この子も殺してしまおうか。


「この子も殺してしまおうか」


 愛の国を死で埋め尽くしてしまおうか。


「愛の国を死で埋め尽くしてしまおうか」


 口に出していた?


「おじさんは何も喋ってないよ。でもね、私には分かるの」

「さっきから何を」

「残念だけど、貴方とはここでお別れ」


 首輪のアクセントを弄りながらクスクスと笑うQ-2。

 いつの間にか三階に到着していたらしい。


「私が言ったこと、覚えてる? 街の名前になっているflaeurフラールの花。デイジーの花を象った白の炎。人間の言葉で例えるならば命の火。このフロアを彩る花々とは違う、生命を司る特別な花」


 先ほどまでの天真爛漫な少女とは打って変わって、威風堂々とした大人の振る舞いに目を疑う。


「そうだ。このフロアに咲いている花、分かる? 分からないか。赤い花はカーネーション、キク、コスモス、チューリップ、アンスリウム、私の好きな薔薇もあるわ。紫の花はグラジオラス。なんて説明しても意味がないわね。貴方はそういう国の人間だもの」

「そういうくにのにんげん?」


 口元を手で隠して笑う品の良さとは裏腹な言葉。俺を見下し、馬鹿にしてきた人間どもと同じ悪意の塊。反射的に振り上げた拳は、意に反して少女の前で停止した。


「殺し合いによる選別だと、野蛮な人間になってしまうのね」


 選別? 野蛮?


「貴方と会話をする気はないの」


 小蠅を厭うかのように俺の手を払いのけると、一瞥もくれることなく背を向けて歩き始めた。

 静止を促そうにも声が出せない。見えない力で行動も言動も封じられた俺は、あのとき逃げなかったことを悔いた。


「逃げればよかったって思っているのね。誰も信じられない、人間は裏切る生き物だって。愛の国に授けられていたらなんて甘い夢を見たのね。本当に、本当に」


「可哀想な人間」


 振り向いたQ-2の顔に、ひまわりのような笑顔はなく――。


「最期だから、貴方の疑問に一つだけ答えてあげる」


 烙印のこと。

 希有な現象とは。

 首輪のアクセント。


 幾つもの疑問が頭に過るも、問いかけることは叶わない。

 不思議な力で自由を奪われている俺に許されているのは、少女と視線を重ねることだけ。


「どれも面白みに欠ける」


 ジョーカーという存在。


「そうだ。そうだったな。お前は聞いていたのだな。では、その疑問に答えようか」


 少女が不敵な笑みを浮かべた次の瞬間。

 数時間を共にした少女は、写真や絵画で見かけた女性へと姿を変えた。

 何をどうしたらただの人間が別人に変身できるのか。次々と起こる不可思議な現象に思考は混乱するばかり。


「滑稽ね」


 狼狽する俺を見て喜喜としている女性に腸が煮えくりかえる思いだが、視線を逸らすことも、ましてや殴りつけるなんて出来るわけがない。


「疑問に答えようか。お前の目には、この国を統べるAエースの女王が映っているのだろう? だが、それも仮の姿」


 コツコツ。コツコツ。鮮血いろのヒールが地面を打つたび、俺が手を取ろうとした少女の面影は消えていく。姿形は愛の国の慈愛に満ちた女王そのものだが、眼前に迫る女性に感じるものは。


 ――畏怖。


 カツン――


 一際高いヒール音が鳴る。

 靴先が触れ合う距離で、女性の真っ赤な瞳と見つめ合った。


「きゅ……つー……」

「そんな者は最初から存在しない」


 発言を許された俺の精一杯の抵抗ですら、バッサリと切り捨てる慈悲なき者。

 未だ束縛された体にできる唯一の行動で女性を非難するも、視線を逸らされては何の意味もない。抵抗を余所にゆっくりと顔を近づけてくる女性の圧に息が止まった刹那。死体のような冷たい何かが耳に触れた。


「私はJOKERジョーカー。お前の尋ね人である」


 え?


 冷めた熱が離れていくと、再び視線が絡まり合った。


「お前が――」

「さようなら。死の国のツーツーさん!」


 愛の国の女王の顔で、ひまわりのような笑顔を向けたJOKERが一歩後退した瞬間。

 視界は闇に覆われ、俺の意識は消失した。


                                  〈了〉

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目が覚めたら愛の国 天野 星 @amano_sei

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