第3話 唯花
釈放された翌日、幸太郎は市街地の駅前通りを歩いていた。
線路を挟んで両サイドには店が立ち並び、朝から客でにぎわっている。幸太郎はというと、昨日の帰り際に「そうそう」とスリジェ本部から支給された〝私服〟を着て、とあるカフェに向かっていた。公国では軍服しか着たことのなかった彼にとって、スリジェの私服は派手で見慣れないものだったが、軍服よりも軽く動きやすかったので、慣れないながらも案外良いのかもしれないと思い始めていた。
カフェのある「ポールタワー」は、スリジェ本部から西へ10分程度歩いたところにある地上100階建ての高層タワーだ。50階に広めのオープンテラスがあるらしく、それ以外は全てガラス張りになっていて、その身に空や街の風景を映し出している。
「……でかいな」
入り口の前からタワーの頂上を見上げると果てしなく先まで続いているように見えて、首が痛くなった。
5メートルほどもある大きな自動ドアを潜ると、中は閑散としていた。談話用の椅子やテーブル、ソファに掛け軸など高級ホテルかのようなロビーなのだが、異様なことに客らしき人間は一人もおらず、そしてすべてのインテリアが白に統一されていた。
そして、いるのはフロアの中央に設置された受付らしきカウンターに立つ女性一人だけだった。カーペットもなく白い大理石の床を進み、幸太郎は受付嬢と対した。
「ここのカフェに、ミナミという女性がいるとスリジェ本部から聞いて来たんだが……」
ミナミはI・Cの元メンバーだ。メンバーの中でも遅くに加入した幸太郎に対し、彼女は姉のように接し、生活に関わるあらゆることを教えてくれた。自分のやりたいことが何なのかわからない中、昨日聞いた「生き残りの中にミナミもいる」という話を思い出し、まずは彼女を訪ねることにしたのだ。
受付嬢は何も言わず、ただ幸太郎をじっと見つめていた。眉一つ動かない彼女に思わず途中で話すのを止めてしまった。
すると彼女は不意に何かを受け取るように両手を前に出した。そこでふと、昨日のベルトリエの声が頭に響く。
「ここでは、身分は気にしないと言いながら、身分証明は常に行う必要があるんだ。両手を差し出されたら、身分証明書の提示を意味するから、素直に応じること。あと買い物するときも、これ見せるといいよ。請求は私のところに来るから」
「あ、そうか」
と幸太郎はズボンのポケットに入れていた証明書を両手で差し出した。これも昨日渡された資材の箱に入っていた。彼女は、それを両手で受け取り一瞥した後、手元のタブレット上で何かをはじいてから幸太郎を見た。
「上坂幸太郎様ですね。身分証の提示、ありがとうございます。ご案内いたしますので、私に続いてください」
そう言うと彼女は、タブレット以外のものをすべてカウンターに置き、手元にあったタブレットでまた何かをはじいた。すると、さっきまで床だったカウンターの足元に大きな穴が開き、カウンターはその中へと吸い込まれていった。その後、跡形もなく、さっきまでカウンターのあった場所には大理石の床以外、何もなくなっていた。
呆気に取られていると、後ろで声がした。
「遅れないようにお願いします」
見ると受付嬢は、20メートル先にあった柱の陰からこちらを見ていた。さっきまで真っ白で柱の区別もつかなかったが、よく見ると無数の柱が立っていて、それぞれの間に細い通路が続いていた。ただでさえ白で混乱するのに、何本も同じような道があって、ここの人は迷わないのだろうか。
するとそれを察したのか、受付嬢は近づいてくる俺を正面に捉えて言った。
「迷いませんよ」
まただ、と幸太郎は思った。昨日ベルトリエと話しているときにも心を読まれているような感覚があった。それを、この受付嬢にも感じた。
「私たちにはこのイヤーフックがあります」
そう言うと、彼女はボブカットの髪を左手でかきあげながら、左耳にかかったイヤーフックを見せる。どうなっているのかはわからないが、幸太郎からは白い宝石のような球体がフックの下についているのが見てわかった。
「この球体には受信機が内蔵されていて、常に周囲から情報を集めています。スリジェでは感情に関する情報も集めておりますので……」
そこまで言うと、彼女は幸太郎の足元を手のひらで指した。
「今、上坂様の足元にあるタイルも、センサーの一部です。ついでに申し上げると、周囲にある柱や家具にもセンサーがついております。細かいことは省略しますが……つまりそこから上坂様の感情を、私のイヤーフックでキャッチしているために、おおよそお考えになられていることが私にもわかるのです」
スリジェの人間は皆これを持っているのか。急に目の前にいる受付嬢や周りのものが自分を縛る鎖のように、幸太郎には思えた。これなら、昨日までいた牢獄の方がまだましだ。
通路の先には、白塗りのエレベーターが1つだけあった。ボタンは無く、幸太郎たちが扉の前に来ると自動で開いた。二人を乗せたエレベーターは、ガラス張りの壁を背にぐんぐんと上へ登っていく。窓からは元公国、現スリジェの全貌が見渡せた。色とりどりの家が立ち並んでいる中で、スリジェ本部と鉄道網がひときわ目立っている。しかし、ベルトリエの言う通り、本当に街は無事のようだった。I・Cの施設に籠りきりだった幸太郎にとって、ほとんど初めて見た街はあまりにも小さくて、とても新鮮な気持ちになった。
ポーンという音がして、エレベーターは50階に着いた。
そこは、円形の広間だった。電気はなく、奥から洩れる光で道が続いていた。
テラスだと思って出てみたが、そこは吹き抜けで50階と51階が続いていて、あとは他の階と同じガラス張りの部屋だった。まあ、建物の高さを考えれば、オープンテラスでないのは当たり前と言えば当たり前だが。
カフェというのは、本当だった。相席が2つ、その他は右手のカウンターに6席。こぢんまりとしているが、日の光と植物に囲まれて落ち着いた雰囲気に包まれている。
幸太郎が受付嬢を見ると、彼女は「ごゆっくり」と言うように、伏し目で頷いた。だが、幸太郎が相席の入り口側の席に座っても、彼女は下には戻らずに、少し後ろで待機していた。
「ありがとう、もう戻ってもいいぞ」
気を遣ってくれているのかと、幸太郎は彼女に戻るよう言ったが、
「いえ、これも仕事の内ですので。お気になさらず」
と彼女は言い、再びタブレットで何かをはじいていた。
「お気になさらずと言われてもな」
「私のここでの仕事は、上坂様のエスコートと監視です」
ここでも、監視は続くのか。もう驚くよりも呆れてしまった。そこまでスリジェはI・Cのメンバーを信用していないのか。無理もないが、久しぶりに仲間と会えるのだから、その時間は邪魔しないでほしかった。
「まあ、いいじゃん。その子もやりたくてやってるわけじゃないんだし」
渋い顔をしている幸太郎に誰かが声をかけた。
─ミナミだ─
幸太郎はその艶っぽい声ですぐにわかった。振り返ると、茶髪ロングで細身の女性が水とメニューを持って、幸太郎の向かいに座っていた。
彼女は誰よりも自分に厳しく訓練に励む、チームの中でも指折りの実力者だった。そして、幼少期に育成施設へ連れてこられて、右も左もわからない幸太郎の面倒を見た、姉のような存在でもあった。そのせいか年は同じでも、幸太郎はミナミをいつまでも目指すべき対象として憧れ、心から尊敬していた。
「珍しいね、あんたが来るなんて」
バーの店主が名のある飛行艇乗りを迎えるように、ミナミは言った。
「聞いたよ。幸太郎、一年間も捕まってたんだって?」
下手に覆い隠さず、聞いてくる。拘留された話なんて普通は遠ざけてくるものだが、こうも遠慮なく話してくれるミナミの距離感が、今はありがたかった。
「何笑ってんの」
「いや、こういう奴だったなと思って」
「ふっ、あんたも大概失礼だね」
そう言いながらも、ミナミは幸太郎との再会を心底喜んでいるようだった。だがそれが、幸太郎には辛くもあった。
「……咎めないのか?」
「なんで?」
「俺、皆を殺しかけてるんだぞ」
少し逡巡してミナミが答える。
「でも、あんたがいなかったら、皆UDUKIに吞まれて死んでたかもしれないし?」
「いや、だけど」
「いいんだって、今こうして生きてるんだから。今この世界にいない子も、きっとあんたには救ってもらったって思ってると思うよ」
「なんで……」
自責の念がこみ上げてきて、幸太郎は言葉が出なくなった。
「思えばさ、私たちが受けてた訓練ってほんとにしんどかったでしょ。ありえないってぐらいに。しかも、UDUKI飲んだら、いつも気持ち悪くて、自分の衝動も抑えきれなくて。
だから気にしなくていいよ。我を失って無差別に殺戮するなんて、皆望んでない」
「だけど、俺は……レイを…」
〝レイ〟と聞いた時、ミナミがピクっと反応した。お互いが黙り込む。
レイはI・Cの中でも一番年上で、皆の兄貴的存在だった。そして、ミナミが想いを寄せていた対象でもあった。幸太郎もそれには気づいていて、悔しくもレイならしょうがないと思っていた。
だが、幸太郎は一年前に、UDUKIで敵味方を判別できなくなった兄貴分を殺した。それもレイに殺されかけて、地面に突っ伏したミナミの目の前で。ミナミは擦り切れるような叫び声をあげて、そのまま気を失った。
死に際にレイは、幸太郎に「ありがとう」とかすれる声で微笑みかけ、その場に前のめりで倒れた。最期に、震える手でミナミの髪をなでた後、目をつむった。
「うん……レイも。きっとあんな自分は望んでなかったはずだよ。だから大丈夫。それよりさ、もっと今の話しようよ。」
「だけど……」
「だけどじゃない。ちゃんと私も向き合ってるから。少しずつでいいからさ」
「……わかった」
しんみりとした雰囲気も、ミナミのおかげで少しずつ晴れて。これ以上いじけていても悪いので、気を取り直して普段通りに話すことにした。
「それで、ミナミはどうしてここに?」
「うんうん、そういうのでいいんだよ。
知り合いの伝手でね。この建物、スリジェが占領してからできたんだけど、その人のおかげで雇ってもらえたんだよね」
そう言うと、彼女は親指でカウンターの方を指した。見ると、三つ編みにメガネをかけたエプロン姿の女性が、こちらに笑顔を向けていた。
「彼女が私の監察官もしてくれてるの。一日中一緒だけど、知っている仲だから気楽に過ごせてるんだ」
「一日中?」
「あれ? あんたの監察官はずっと一緒にいないの? 随分可愛らしいけど」
ミナミは幸太郎の後ろにいた受付嬢を指して言う。
「いや、彼女は今日ここの1階で初めて会ったんだ。昨日はスリジェの本部で寝泊まりしたけど、基本一人行動だよ」
すると、ミナミは間の抜けたような顔で幸太郎を見た。
「ふうん、随分あんたは優遇されてるんだね」
「ん? どういうことだ?」
「いや、だって私ら他のメンバーは皆一人か二人の監察官が常についてるんだよ。たとえ寝る時だって、部屋の隅には監察官が座ってる。その点、あんたは自由みたいじゃん」
「そうなのか?」
幸太郎は振り返って受付嬢を見た。彼女は頷いて口を開いた。
「私が受けた指令は、本日ここでの監視のみです。他については私の管轄外です」
「へえ、やっぱりあんたは優遇されてるよ。あの髭オヤジの仕業かな」
ミナミはむすっとした表情を見せる。
〝髭オヤジ〟とは、恐らくベルトリエのことだろう。すると、今まで口を開かずにカウンターの奥から様子を見ていたミナミの知り合いが、ミナミに笑いながら注意した。
「こらこら、ミナちゃん。本部長の悪口はダメだよ」
「はいはい、わかってますよ」
ミナミは渋々応じた。どうやら三つ編みの監察官も、ベルトリエのことだとわかったようだ。ミナミはカウンターの奥の彼女に聞こえないように、囁く。
「これも、言論統制の一つだよ。口うるさいったらありゃしない」
「ミナちゃん、聞こえてるよ」
笑ってはいるものの、三つ編み監察官の言葉には重みがあった。
「気を付けるよ」
ミナミの忠告に、幸太郎は素直に応じた。
「それで、あんたはどうすんの?」
「どうって?」
「いや、髭部長が言ってなかった? 自由やらなんやらって」
「……ああ、確かに」
「で、何かやりたい事とかってあるの?」
「俺は……」
幸太郎は少し考え込んで、それでも何も思い浮かばずに曖昧な返事をした。
「俺もよくわかってない」
するとミナミの声が急に乾いた。
「そっか、まあ皆同じだね」
彼女が笑う。
「正直私にも、自由って何かわからなかったけど、今はとにかく生活するために生きてるって感じかな。悔しいじゃん。わからないでいるのは」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ」
ミナミは自分なりの自由と向き合う決意をしたようだった。そうした、はっきりと自分の生き方を決められるところが、幸太郎には心底羨ましかった。
「そう言えば」
とミナミが話を変える。
「さっきもちらっと聞いたけど、あんたは本部に住んでるの?」
「いや、今日からは隣の寮で寝泊まりすることになる」
「そっか、じゃあいつでも会えるね」
ミナミが嬉しそうに笑う。
「ミナミも寮に住んでるのか?」
「うん、と言っても女しか入れないとこだけどね」
スリジェ本部の隣には、職員専用の寮がある。普段は職員以外に入ることはできないが、幸太郎たちは今回特別に入寮を許可された。
「何か困ったことあったら、いつでも言ってね」
「助かるよ」
それから、これまでの獄中でのことや、一年の内に起きた出来事についてひとしきり話した後、席を立って店を出た。
外に出ると、もう日が暮れ始めていた。来るときも見たが、街は昼よりも賑わいであふれている。学校帰りの子どもたちが笑い声をあげて、幸太郎の横を通り過ぎて行く。普通だったら、特に子どもなんかは戦争が心に傷を残していることもよくあるが、あの子どもたちからは心の影が見えなかった。スリジェの侵攻があっさりと、無血で行われたということの表れとも言えるのだろう。
良い時代になったなと、つい年寄りのようなことを思ってしまう。生をも忘れて無我夢中に戦場を駆け巡っていた頃が、少し懐かしいとさえ思った。
ミナミ以外の仲間は皆どうしているのだろうか。今日はその話もしなかったから、今度会ったら聞いてみよう。
幸太郎は、そのまま今日から世話になる寮に向かった。荷物は既にオリヴァが運んでくれている。今朝、客室に訪ねてきた彼からそう伝えられていた。
資材に紛れ込んでいた寮のメモを頼りに本部の横を通り過ぎると、10階建ての集合住宅地が見えてきた。本部と同じように外壁は白く、それが団地のように連なっているので、圧迫感があった。
だが、幸太郎が世話になるのはここではなく、さらに東へ進んだところにある木造住宅だった。寮というよりは、巨大な丸太で外壁が組まれた家だなと幸太郎は思った。I・Cの施設にあった図書室で建築物の写真はよく見ていたが、それは彼が本で見た定食屋に似ていた。頑丈な施設で生きてきた幸太郎にとって、自然そのものを感じるような造りの建築物は新鮮だった。
インターホンを押すと、幸太郎と同じくらいの少女が「どなた?」と扉を開けた。無防備さが心配になったが、その思いはいったん置いておき、名前と今日から世話になる旨を伝えた。すると少女は「あら、お客さんだったのね」と簡単に幸太郎を家に通した。
「ちょっと待っててね。お母さん呼んでくるから」
そう言うと、彼女はスリッパの音を立てながら目の前の階段を上っていった。
一人玄関に残された幸太郎は、玄関から室内を眺めた。目の前(正確には部屋の中央)には階段があり、その奥に広いリビングがある。左手にはキッチンがあり、そこから時計回りにダイニングテーブルと薪ストーブ、テレビ、ソファがあった。玄関は段差がなく、1階のどこからでも玄関を見ることが出来る、とても開放的な造りだった。窓枠や柱も木製で、思っていたよりも暖かい。
ふと、かまぼこの焼きあがったような香りが幸太郎の鼻に届く。キッチンでは鍋が温められ、隣に置かれた平皿には色々な形のかまぼこが並んでいた。唾液が口内を満たし、腹の音が鳴る。そうやって、しばらく玄関からキッチンを眺めていると、エプロンをした女性が慌てて階段を下りてきた。
「ごめんなさいにお待たせして」
女性は、後ろで髪を結い直しながら、幸太郎の顔を見る。
「あら、貴方が今日から来られる予定だった方?」
息を切らす女性に、幸太郎は慣れない敬語で答えた。
「ああ、……はい、上坂幸太郎だ……です。今日からここで世話に……お世話になるとスリジェ本部より言われていて……」
「あ、はいはい。上坂さんね。ようこそおいでくださいました」
慣れない敬語で恥ずかしくなる幸太郎を、女性は丁寧な言葉づかいで歓迎した。
「私は、ここの寮長をやってます、三谷です。まあ、寮と言っても普通の家なんですけど。今は私と娘の二人で暮らしているので、娘の方は後で紹介しますね」
そう言うと、三谷は再び階段を上り始めた。
「お部屋、ご案内しますのでついてきてください」
三谷に促され、幸太郎は靴を脱いで後に続いた。踊り場を回り2階に上がると、横長に続いた廊下を挟んで右に2部屋、左に4部屋で計6つの部屋があった。
三谷が右手の奥から順に説明する。
「右の階段側が浴室で向かいがお手洗い。階段から見て時計回りに私の部屋と娘の部屋、物置になっているお部屋と、今は開いている客室です。上坂さんには開いているお部屋を使っていただきます」
三谷は、空き部屋の扉を開き、幸太郎を中に入れた。
部屋の広さは8畳ほどだった。ベッドなどの家具は備え付けられていたし、一人で生活するには何も問題なかった。
「お風呂とお手洗いは共用ですけど、家の中にあるものはすべて自由に使っていただいて構いません。明日は7時に朝食ですから、時間になったら下りてきてくださいね。あと、何かわからないこととかあったらいつでもいいので言ってください」
そう言うと、三谷は部屋の扉を開けた。
「すまな……すみません。わかり……ました」
「あ、あとそれから」
三谷は出ていきかけた足を部屋に戻し、
「ここでは敬語で話さなくて大丈夫ですよ。あと私のことは三谷さんでいいので」
「……わかった、三谷さん」
「はい、それでお願いします」
今度こそ、三谷は部屋を出て階段を下りて行った。ベッドに座ると急に眠気が押し寄せてきた。戦争から牢獄へと、いつ自分の命が尽きてもおかしくない状況を生きてきただけに、昨日今日の平和な時間は慣れないもので、座った瞬間に疲労が押し寄せてきた。服もそのままに横になると、すぐに瞼がおりて幸太郎は眠りについた。
目を覚ますと、誰かが幸太郎の頭を撫でていた。どこか懐かしく、優しい香りがして幸太郎は無意識にミナミの名前を呼んでいた。
「誰ですか? その人」
寝ぼけている目をこすり顔を上げると、ベッドの横で昨日の少女が幸太郎の顔を覗き込んでいた。幸太郎の意識がはっきりしてきたのを確認すると、少女は笑って頭を下げた。
「おはようございます。電気つけっぱなしだったので消しに来たんですけど。すみません、勝手にお部屋に入って」
「いや、いいんだ。こっちこそすまない。ところで、今何時だ」
あたりを見回すが、まだ資材の箱から時計を出していないことに気づき、幸太郎は少女に聞いた。
「今はまだ5時を過ぎたところです。まだ寝てていいですよ」
「いや、目も覚めたし、荷物の整理でもするよ」
「そうですか、わかりました」
そう言うと、少女は窓を開けて外を眺めた。カーテンのレースがふわりとなびき、朝の肌寒い空気が部屋に流れ込んでくる。すると彼女は何かを思い出したように、急いで窓を閉めて幸太郎に謝った。
「すみません、外寒いのに」
「いいよ。それよりなんで、こんなに早く起きてるんだ?」
「日課なんです。この時間に起きて海まで歩くの。一緒に来ますか?」
「ああ。でもいいのか? ついてって」
「はい、もちろん!」
少女は屈託のない笑みを浮かべると、部屋の扉を開いた。
「玄関で待ってますので、準備できたら下りてきてください」
そう言うと鼻歌交じりに部屋を出て、階段を下りて行った。幸太郎もベッドを出て、部屋の端にあった資材の箱の中からベージュのコートを取り出した。コートは初めて着たが、サイズ感も良く、軽いのにとても温かかった。他に身分証をポケットに入れ、幸太郎は部屋を出た。
階段を下りると少女は靴を履いて待っていた。白いスカートに黒のブラウスを着て、上から薄手のコートを羽織っている。反対に幸太郎は、全身黒のシャツとパンツに、ベージュのコートだった。色が合っているのかはわからないが、階段を下りてきた彼を少女は笑顔で見つめた。
「コート、似合ってますね」
下りてきた幸太郎を見て、少女が褒める。幸太郎は表情を変えず、少女の隣に来て靴を履いた。少女は好奇の眼差しで幸太郎を見ている。だが、幸太郎は自分に向けられた温かな眼差しを素通りして、外に出た。
空はまだほんのりと青みがかっていた。冷水の入ったボトルをつけるように、風が幸太郎の頬を撫でる。手袋も取ってくればよかったと袖に拳を隠しながら後悔していると、少女が幸太郎の前に来て、ネイビーの手袋を腹に押し付けてきた。戸惑って少女の顔を見る幸太郎に、彼女は少し不満げな顔をして答える。
「手袋使ってください。あと、私が似合ってますねって貴方に言ったんだから、貴方も私に何か言ってください」
少女は得意げな顔をして、ほんのりと膨らんだ胸を張った。幸太郎は何を言うべきか迷ったがここは素直に、
「ありがとう」
と感謝を伝えた。だが少女は幸太郎の言葉を深いため息であしらった。
「まあ、いいです。行きましょう」
少女は東に向かって歩き出した。彼女が不機嫌になったのを、幸太郎も足音を聞いてわかったが、その原因が何かはわからなかったので、大人しくついて行くことにした。
互いに無言のまま10分ほど歩くと、風が甘い塩の香りに変わるのがわかった。ザザン……ザザンと波が砂浜に押し上げられる音が聞こえる。辺りの建物も段々と古くなり、シャッターの降りた海の家を通り過ぎた時、海は見えた。まだ空は青みが残っていて、水平線は暗く不気味に佇んでいる。
少女は一度砂浜に出た後、大きく息を吸い、腹からありったけの声でまだ暗くよどんだ海に向かって叫んだ。彼女の不意な叫びに、幸太郎は思わず体を跳ねあがらせた。甲高い声は、押し寄せる波の反響に消えていった。
少女は吸い込んだ息を吐ききると、ふう、と一息ついて二人の後ろにあった堤防を指さした。
「あそこに座りましょう」
そう言うと、彼女はスカートの裾を持ちながら、幸太郎の横を通り過ぎた。
堤防はさほど高くなく、少女でも上ることが出来た。とは言え白のスカートが汚れるだろうと、幸太郎は端にあった階段を使うよう勧めたが、彼女は意地になって、ついには背面跳びのような格好で堤防に乗り上げると、そのまま奥までゴロゴロと転がった。だが、堤防の幅はそう広いものではなく、気づいた幸太郎は急いで堤防に飛び乗り、転がる少女の肩を押さえた。少女はふふふ、といたずらっぽく笑い、寝転んだまま幸太郎の顔を見上げて「ありがとうございます」と言った。
「落ちるところだったぞ」
「でも、助けてくれるってわかってましたから」
「お前な……」
そう言いながらふと、幸太郎は我に返った。自分はなぜ昨日初めて会ったこの少女に、こんなにも心を許して話しているのだろうか。彼女がなぜこんなに自分との距離感が近いのかもわからない。そもそも彼女の名前も知らない。
一つ気づけば疑問は次々に積もっていく。仕方がないので、一つずつ解決していくことにした。少女の手を引いて起こし、幸太郎は隣に座った。
「名前、教えてもらってもいいか?」
ぶっきらぼうだが、これが幸太郎の自然体だった。急に自分に興味を示した幸太郎を、少女は瞬く眼で見つめた。だが、すぐに頬を緩めて皮肉交じりに答えた。
「ようやく聞いてくれましたね……唯花です。普通初めに聞きますよね、そういうことは」
「仕方ないだろ。俺はずっと……」
I・Cの施設から出たことがないのだから、と言いかけた口を幸太郎はつぐんだ。仮にも初めて会った少女が自分のことについてスリジェからどの程度聞かされているかもわからない。それに、例え知っていたとしてもI・Cの施設の中を知らない彼女に、自分がそこにいたことと常識が備わっていないことの関連性は結び付けられないだろう。
だが、少女……唯花は不意に黙った幸太郎の逡巡を、容易く解いてしまった。
「I・C……ですか?」
幸太郎は驚いて唯花を見る。しかし、彼女は意に介さずに続けた。
「この国の人たちは皆知ってますよ。上坂さんがI・Cだってことも、施設に閉じ込められて、厳しい訓練をずっと受けていたということも。もちろん他のI・Cの人たちについてもです。まあ、詳しいことは知りませんけど……スリジェが侵攻してすぐに公国の内部事情とかその他の機密事項が公表されましたからね」
唯花の話を聞いて、幸太郎は昨日のミナミとの会話を思い出していた。いくらスリジェの人間とは言え、ベルトリエからは地位的に遠い位置にいるであろう監察官の前で、ミナミはI・Cの話をした。自分たちのことは上層部しか知らないシークレットではないのかと、あの時は疑問に思ってはいたが、ミナミが堂々と話すのでそれに合わせていた。
だが、もし唯花の話が本当ならば、今この国はある程度のことをわかったうえで、元I・Cのメンバーを野放しにしているということになる。普通だったら、と言うより自分だったら、いつまた自我を忘れて暴走するかもしれない人間を、いくら監視がいるとは言え、放っておくなんて恐ろしくてできない。それこそスリジェ本部に泣きついて、元I・Cメンバーの全員を処分するよう嘆願するかもしれない。
しかし、それでも恐れる様子もなく、目の前にいる唯花は自分と接している。
─もしかするとI・Cはそれほど脅威ではなかったのか?─
施設ではたびたび来る公国の上層部から「お前たちは強い」と言い聞かされてきたが、実は子どもを都合よく使うためのでまかせだったのか。
恐る恐る、幸太郎は唯花に聞いた。
「俺たちのことは、その、怖くないのか?」
「勿論怖いですよ」
唯花はあっさりと否定した。
「じゃあ、なんで君は俺と二人で出かけようなんて思ったんだ? なんで昨日会ったばかりの俺と、距離感がこんなにも近いんだ?」
「あはは、やっぱ距離感近いか」
彼女は少し残念そうな声で無理に笑った。
「I・Cのことを知ったとき、というかUDUKIってもののことを知ったとき、それで衝動が抑えきれなくなった人たちが近くにいるんだということだけでもとても恐ろしかったです。しかも、その人たちが私たち一般市民と一緒に暮らすなんて言うから、最初はどうしたらいいのかわかりませんでした。
だけどある日、元I・Cの人が近くの店にいるって聞いて、私、怖いもの見たさで見に行っちゃったんです。当時は珍しいもの見たさでI・Cの人を見に集まる人たちも多くいました。それに紛れて私も陰から見たんですけど、そこで見たのは、ほんとに私と全然背丈も雰囲気も変わらない落ち着いた女性でした。その時、この人たちはただ公国を守るために自分の身を犠牲にしていただけなんだ、って思ったんです。そうしたら、それまでの恐怖心とかが徐々に消えて行って。近寄りがたさはまだあったけど、でもこちらからかたくなに拒むのも違うと思ったんです」
そこまで言うと、彼女は幸太郎から海へと視線をずらした。
「そんなこんなで、私がI・Cへの見方を友好的なものに移行し始めた頃に、元公国の牢獄が解放されるというニュースが報道されました。それは一大ニュースで、多くの人が政府に反対運動を起こしました。
だけど、滅多に姿を現さない本部長が国民の前に現れて、ロボットによる安全の保障と元公国国民への融和的な態度、そして囚人のスリジェにおける無罪と自由を主張しました。今この国には元公国の人が多く残っていますが、元々公国のやり方を好まない人は多く、本部長を救世主のように見ている人が多いんです。
だから、その人の言葉で、混乱は収まりました。翌日、囚人たちの細かな情報も公開されたのですが、まあ勿論ほとんどがあくどい顔をしている中で、一人だけ不自然なほどに無表情の人がいたんです」
「……俺か」
「そうです」
唯花は深く頷く。
「なんとなく上坂さんからは、他の人たちとは違う何かを感じました。しかも偶然にもI・Cの元メンバーだった。私、いてもたってもいられなくなって母に頼んだんです。上坂さんを今空いている部屋に入れてほしいって。
当時、I・Cへのイメージはまだあまり良くなかったので、どこの宿舎も元I・Cメンバーの入居はお断りで、保護していたスリジェ本部が仕方なく職員寮に入れていたんです。母もその事実は知っていましたが、まだ恐ろしさが残っていたみたいで、元I・Cの人は入れていませんでした。
だけど私があんまりしつこく言うので、ついに母が許してくれてスリジェの本部に連絡してくれました。私ほんとに嬉しくて。そうしたら、翌日本部長が直々に挨拶に来てくれました。その時オリヴァっていう大きな人もいたんですけど、その人が監視をするからって本部長からも言ってくれて、上坂さんの入居が決まったんです」
「……そうだったのか」
幸太郎はありきたりの返事しかできなかった。ベルトリエや三谷、唯花がそこまで自分のために動いていたとは勿論知らなかった。今更ながら、感謝の念が湧いてきた。
「ありがとう、そこまでしてくれて」
「いえいえ、当たり前のことをしたまでです」
唯花は、さっきまで堤防にかかとをぶつけていた足を伸ばして得意げに笑った。
そんなに長い間話した感覚はなかったが、空は柑子色に変わり水面が輝き始めた。さっきよりも暖かな風が吹いて、海が揺れる。
海ってこんなに大きかったんだな、と幸太郎は思った。戦争で海岸付近を通ったことはあったが、硝煙と雲に覆われた海は薄暗く不気味だった。だがこうして朝日に照らされて、広々と広がる海を前にしたとき、幸太郎は初めて海を見た気がした。
そんな幸太郎を、唯花は横から眺めていた。
「たぶん、私の予想は当たっています。上坂さんはいい人です」
「……まだ、決めるのは早いぞ」
「いいえ、私の勘よく当たるんで!」
「おいっ……」
彼女は立ち上がり、海に背を向けて堤防から飛び下りた。高さはないといっても、1・5メートルはある所から飛び下りたら、普通は脚に衝撃が走る。案の定、彼女は「あああ」と声を上げていた。
「大丈夫か?」
心配する幸太郎に、唯花は顔をしかめながら応じた。
「あい、だいじょうぶ……です」
よろよろと唯花が立ち上がる。椅子から立ち上がる老人のような動きだと幸太郎は思ったが、それを言うのは控えた。
「それより……」
と唯花が腰を押さえて幸太郎に言う。
「上坂さんは大丈夫ですか?」
「ん? 何が?」
「いや、今私と同じように飛び下りたじゃないですか」
「全然。でかいからな」
「……皮肉ですね」
そんなつもりはなかったが、そう言われるとなんだか申し訳なくなった。175センチメートルの幸太郎が唯花の150センチメートルの体をつま先から頭まで見てから言った。
「……悪い」
「やっぱり皮肉ですね!」
唯花は、熊が襲い掛かってくるかのように両手を上げた。でもすぐに腕を下ろして、ため息をつき頬を緩めた。
「帰りましょう。そろそろご飯の時間です」
「……うん」
幸太郎は唯花の後に続いて歩いた。彼女の長い後ろ髪が左右に揺れるたび、ほのかに甘い香りがする。
結局、寮に帰るまで一言も喋らなかったが、なんとなく幸太郎は唯花が今まで会った人間の中で、一番自分を見てくれているような気がした。少し温かい気持ちになって、でもそれが何か自分にはわからなかった。
唯花に返した言葉が少しだけ柔らかくなっていることに、幸太郎は気づいてはいなかった。
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