第2話 スリジェの長

─1年後─


 薄暗いコンクリートの階段を、コッコッと音を鳴らして誰かが下りてくる。今まで聞いたこともない、重くずっしりとした靴の音。明かりはなく音の主の姿はよく見えないが、一歩、また一歩とこちらに近づいてくるのがわかる。


「出してくれ! 頼む」


 遠くの牢にいる囚人が叫んでも、主は歩くスピードを落とさない。一つ、また一つと牢を過ぎて行き、ついに幸太郎がいる最奥の牢まで辿り着くと、扉の前でこちらを向き、立ち止まった。


 幸太郎は顔を上げて目を凝らしてみたが、大柄な影は見えても、やはり細部まではよく見えない。そうして対峙してから10秒ほど経って、主が野太い声で尋ねた。


「上坂幸太郎様ですね」


 誰かは知らないが、喉から吐き出す息だけで「ああ」と答える。主は安堵の息を漏らした。


「私、スリジェにて軍事補佐官を務めております、オリヴァと申します」


 スリジェと聞いて、刹那全身の臓器が目を覚ました。スリジェは幸太郎のいる公国が、敵対していた新興国家だ。戦時中に捕まった幸太郎だが、戦場から近いこの牢獄が無傷で残っているのだから、てっきり公国が勝利したと思っていたが。


「なんで、スリジェの奴がこんなところに」


「上坂様が牢に入られてからおよそ3日で、スリジェは公国を制圧しました」


「……うそだろ」


「エージェントだった貴方はご存じないかもしれませんが、公国はとても列強に及ぶとは言い難い、軍事的にも劣る国でした。そこに我々が軍の半数を投入し、実質には2日。国王が降伏するまでで3日。あっという間でした」


「そうか……みんなは、住民はどうなった……?」


「無事です。こちらで保護しております。ですが、我々に反逆の意志を露にされた方はその限りではありません」


 そう言うと、オリヴァは持っていた鍵を牢の鍵穴に差し込み、さびた金属音をあげてゆっくりと扉を開いた。


「だいぶ遅くなってしまいましたが、私の上官から貴方を保護し、お迎えするよう指示を受けました。よって、ただいまから牢を出て頂きます」


「こんなことしていいのか。看守たちに見つかるぞ」


「問題ありません。先ほどもお伝えしました通り、現在この国はスリジェの占領地となっています。この牢獄もすべての囚人が解放される運びとなりました」


「おい、それこそ問題なんじゃ」


「問題ありません。いくら以前の国で死刑囚だったと言えど、何も罪を犯していません。そういった者たちは、皆解放せよとのことでした」


「誰かは知らないけど、あんたの国のトップは寛大なんだな」


「ええ、私もそう思います」


 オリヴァが先導する形で扉を出ようとすると、突然白いサーチライトが階段方向から各牢の鍵穴を指すように向けられた。と同時に複数人の大柄な男が次々と階段を降りてきて各牢の前に一人ずつ立った。再び牢内が静かになると、男たちはサーチライトの横にいる者の指示を受けて錠を開けた。


 すると、あろうことか中からここぞとばかりに囚人たちが飛び出し、一斉に階段を駆け上がり始めた。


「誰だか知らねえが、出させてもらうぜ!」


 口々にそう叫んでは、我先にと押し合いへし合い登っていく。盛った猿のような荒い息は一瞬で階上に姿を消し、辺りは大柄な男たちと幸太郎だけになった。


 サーチライトを頼りにして、まだ味方ともわからないオリヴァの様子を見ているさなか、突如、上方から銃声が響き渡った。それは一発ではなく、マシンガンのように何発も、連続で。金属のこすれる音や、コンクリートで金属が跳ね返る音、何かが何かを射抜くような音。古いビデオテープを高速で巻き戻したような喧騒が10秒ほど続き、そして再び静寂に包まれた。唖然としている幸太郎にオリヴァはやれやれというようなため息をついて、


「行きましょう」


 とだけ言い、階段を上り始めた。なぜそこまで冷静でいられるのかわからないが、今は従っていた方がいいような気がして、オリヴァに続き階段を上った。


 一年もの間、硬い地面に座り続けていたので、階段はおろか歩くのでさえ、足がもつれて一苦労だった。段を上るにつれて足元がかすかにはっきりと見えてくる。それと並行して差してきた光が目を刺激する。久しぶりの光に目を手で押さえながら、少しずつ視界が開けるのを待った。


 久しぶりの地上は、物々しかった。


 両サイドに15メートルほどの塀が、階段から出口までの石畳でできた一本道と芝生を囲んでいる。そこまではいいのだが、そこに仰々しく武装したロボットが並んでいて、幸太郎の足元や芝生の上には、先ほどまで同じ牢にいた囚人たちが皆倒れていた。


「こいつら、どうしたんだ」


「それについては、私からお話させていただきます」


 紅く汚れた芝生に気を取られ、胸に多くの勲章を付けた初老の男がロボットの後ろに立っていることに、声がするまで気づけなかった。


 初老の男は前へ出て、コンチェルトを仕切る指揮者のように両腕を広げて、歓迎の意を見せた。


「スリジェは公国の皆さまを歓迎いたします。しかしながら、反逆の意志が見られた方々、また精神状態が「異常」とみなされた方々は、スリジェの法により処罰の対象といたします。今ここで伏せられている皆さまは、階段を上るなり一斉に出口へと駆け出しました。それも狂ったように、水の中をもがくような動きで。

 私としては、皆さまを解放するにあたって解放式典を執り行いたかったのですが……皆さまはそれに応じられなかったので、こうして眠って頂いた次第です」


 目の前の光景もそうだが、この初老の男の丁寧な言葉遣いとは裏腹に、あまりにも過激で利己的な思想に幸太郎は絶句していた。


 その様子を意に介さず、男は続けた。


「しかし、上坂様はこうして落ち着いていらっしゃる。私としては上の目もありますし、このまますぐに本部へと向かって頂きたく思います」


「……」


 何かを言ってやりたかったが、相手のことが何もわからない以上、下手にも動けない。幸太郎は大人しくオリヴァの後に続いて牢獄の門を出た。




 数か月ぶりに見た地上の世界は全くの別物だった。ガラス張りの高層ビルが立ち並び空は飛行船や戦闘機が飛び交っている。街はAIのロボットが人間に交じりこみ、買い物の支援や交通の整理など、それまで人々が行っていた仕事を代わりにこなしていた。


 かといって、人々が仕事にあぶれているというような様子も見られず、皆各々がより生き生きと自らのやりたいことを取り組んでいるように見えた。


 少し後に知ることだが、交じりこんだロボットたちは、一見人々の負担を軽減しているように見えるが、実際のねらいは人々の監視のようだった。一部の地域では地面すらAIの設備が入っていて、歩く速度や息遣いから一人一人の体調や感情までを把握しているらしい。こうも監視をされると、公国での生活に慣れていた自分にとっては窮屈で仕方ないと幸太郎は思ったが、街の人々は案外楽しく暮らしているようだった。


 幸太郎を連れた一行は、多くの電車が経由する駅の前で止まった。どうやらここからは、電車での輸送になるようだった。


 戦地への輸送はかなりの数経験していたが、一般人もいる駅での輸送は経験がない。それも、つい1年前に侵攻してきた元敵国の輸送車に乗るのは、もちろんこれが初めてだ。


 スリジェに占領されたというのが、いまだに信じきれてはいない幸太郎だったが、初めての経験ができるという期待感には抗えず、思いのほかワクワクしていた。


 だが、オリヴァに連れられて乗ったのは、一般客も乗る公共の電車だった。さっきまでの丁重な扱いはどこに行ったと、てっきり専用の電車にでも送迎されるのかと思っていた幸太郎は、そのあまりの無防備さに拍子抜けして、オリヴァの顔を見た。すると視線に気づいたのかオリヴァは、


「お気づきの通り、スリジェの占領後、街のハイテク化と共に監視がかなりの範囲で強化されました。同時に防衛システムも強化されましたので、私共が一般人の利用する車両に同乗しても、安全に目的地まで辿り着くことが出来るのです」


 と答えた。


「これも「異常」と判断されなければという枕詞が付くのか」


「……ええ、その通りです」


 結局、オリヴァの言う通り安全に電車は運行し、横浜駅に着いた。占領後、スリジェの本部と一体化したと聞いていたが、かつての面影はどこへやら、ハリウッド映画のヒーローたちが集まる基地のような外観をしていた。


 電車は本部の入り口を終点とし、一般客も先に続く階段から外に出ている。一方で本部に用がある人々は専用のカードキーのようなものでゲートを抜け、本部の正面玄関へと続く薄暗い一本道を進んで行った。幸太郎もオリヴァに渡されたカードで、地下鉄の改札のようなゲートを抜け、一本道を進む。


「少々暗くなりますが、足元にご注意ください」


 入り口では機械のアナウンスが流れていた。ライトは足元の微かな間接照明だけで、オリヴァの誘導がなければ容易に転んでしまいそうである。幸太郎は、暗転後の映画館を思い出していた。


「手荷物の検査を行います。機械が自動で行いますので、多少青いライトが光りますが気にせずまっすぐにお進みください」


 幸太郎の前から、オリヴァの声が聞こえる。辺りを気にしながら歩いていた幸太郎とは違い、オリヴァはもう随分と前にいるようだった。目を凝らして見ると突然、無数の青い光線が前方に向かって注がれ、オリヴァを包むように形を変えた。そしてぐるぐると右回りに光線が回転すると、一瞬でそれら全てが無数の蝶へと姿を変えた。幸太郎が目を奪われていると、オリヴァが振り返って言った。


「この光が蝶の形になれば異常はありません。ですが、鳥の形をした場合には再検査をして頂くことになります」


「これは何をしたら引っかかるんだ」


「武器となるようなものを所持していた場合です」


「なるほど、光を当てただけでわかるんだな」


 オリヴァは答えなかったが、スリジェは噂以上に科学が発展しているようだった。幸太郎の元にも光線が注がれ、小さな蝶が辺りを舞う。その様子を見たオリヴァは、すぐに前を向いて蝶が去った後の暗闇を歩き始めた。



 

 しばらく進むと、目の前が開けてきた。扉一枚分のゲートを抜けると、そこは空港のロビーが再現されたような空間が広がっていた。一面ガラス張りの窓から差し込む光と白い内壁で中はとても明るい。ただ、一人として人はおらず、置かれた椅子や手荷物用の機械もすべてオブジェのようだった。オリヴァもその一つ一つには目もくれず、すたすたと横を通りすぎた。


「本部長の部屋にはエレベーターを利用します」


 ロビーの奥には3機のエレベーターがあり、一行は中央の1機に乗って上を目指した。すぐに扉は開き、目の前に本部長室と書かれた扉が現れた。オリヴァはノックをすると、返事を待たずに中へと入った。30秒ほど待って、帰ってきたオリヴァが扉を開き、それに合わせて幸太郎も中へと入った。


 室内はやけに明るかった。まず左手に横浜の街と海が見えた。ガラス張りの壁からはまだ昇ったばかりの太陽の光が十二分に差し込んでいた。次に右手を見ると、あまり使われていなさそうな扉が等間隔に三枚設置されていた。これも何かに使うのだろうか。


 ただ、本部長室という割には小さなシャンデリアが一つあるくらいで、それ以外は公国の一般家庭と何も変わらなかった。


「珍しいものでもあったかな?」


 不意に後ろから、喉元に響くような声がした。見ると、スーツにメガネのいかにもな服装をした40代くらいの男が、窓と扉の陰に立って幸太郎を見ていた。


「こんにちは、いや初めましてかな。上坂幸太郎君」


 男は兎の毛のような、白くなりかけの鬚をさわりながら、にやりと笑って続けた。

「私はベルトリエ・ルーデンバーグ。ここの長を任されている。それで、さっきの質問の続きだが、何か珍しいものでもあったかな?」


 元敵国の長に対し、簡単に口を開くべきか躊躇われたが、幸太郎はこの男の醸し出す空気に、オリヴァや兵たちとは違った一般市民に近いようなものを感じて、口を開いた。


「いや、長の部屋にしてはやけにだと思ってな」


「そりゃそうさ、もともと僕は一般市民の出だからね。こっちのほうが落ち着くんだよ」


「公国の人間が聞いたら、驚くだろうな」


「……まあ、貴族が残っている国にしてみればスリジェの在り方は考えられないものだろうね」


 公国では貴族層が政権トップを占めていた。だから何かをするにも貴族との関係性はないがしろにできないものであり、幸太郎はそれが苦痛で仕方なかった。だが、このベルトリエという男は、長であるのに敵国の兵士とわかっていても対等に話す。貴族と話すときの重苦しさがなく、寧ろこちらを落ち着いた気持ちにさせてくれる。器量の広さからも、既に幸太郎は公国とスリジェの差を感じ始めていた。


「そうだ、君について話しておこう。どうして公国の牢に閉じ込められていた君が、スリジェの人間に釈放され、そのまま本部に連れてこられたのかを」


 ベルトリエが何やら頷くと、オリヴァや周りの護衛は皆、部屋の外に出ていった。


「すまない、大勢に囲まれていると居心地が悪いと思ってね。だがしかし、彼らは実によく働いてくれるんだよ」


 たしかに、この国の人間はバランスよく落ち着いている。体形のせいかとても余裕があり、よく働くのだろうという印象を、オリヴァや周りの護衛から感じていた。


「さて、まず釈放についてだが」


 ベルトリエは、早速といった様子で話し始めた。


「オリヴァにも聞いていると思うが、公国は先の戦争で我々スリジェが占領した。だが、むやみやたらに攻撃するようなことは信条に反していてね。抵抗しない者には身分を問わず規則の範疇でこれまで通りの生活や自由を保障しているよ」


 そこまで話すと、彼はコーヒーカップを二つ、机の横にあった戸棚から取り出した。


「まあ、規則と言っても、我々に反逆する姿勢を見せない限りは、こちらも何もしないというだけのことなんだ。外にいる監視ロボットが、「異常」と判断した際には攻撃する。それ以外については何もしない。ただそれだけのことだ。見てごらん。あの海辺のところ」


 ベルトリエが指した先に、二階の窓まで届きそうなほどの大きな黒い塊が、海岸に沿って壁のように並んでいた。


「あれもロボットだ。スリジェには、ああいったロボットがたくさんいる。監視以外にも市民の生活支援や輸送も行っている。君が今日乗ってきたであろう電車も、実は無人で動かしているんだ」


 公国にもロボットはいたが、生活の大部分に関わるような技術は、まだ無かった。それを易々と出来てしまうスリジェ。公国の貴族たちはスリジェを、ぽっと出の新人でも見るかのように甘く見ていたが、公国とスリジェの差は幸太郎が思っていた以上のようだった。


「因みに地面や壁なんかにもロボットの機能は働いているよ。人々が発するあらゆる信号をスリジェではキャッチしてより良い生活のために活かしている」


 「話がそれたね」とベルトリエは幸太郎の分のコーヒーを淹れながら笑った。


「大丈夫だよ。何も入ってないから」


 幸太郎に手渡されたカップの水面を、ベルトリエはティースプーンで少しつついて口に運ぶ。


「失礼。そして何より、スリジェは身分の差を是としない。そして不要な拘留を行わない。つまるところ人々の自由は阻害しないことを第一の目標としている。ゆえに、牢獄は解放した。

 しかし、捕まっていた者の中には狂気をまとって外に出ようとしたものがいたそうだね。そういった人々は「異常」と判断され攻撃される。一方で落ち着いていた君には攻撃しない。いや、仮に君を「異常」と判断したとしてもオリヴァが機械の作動を止めていただろう。それぐらいに君は……いや君たちは特別なんだよ」


 引っかかる言い方だった。まるで他にもここに連れてこられた人がいるみたいに。


「……〝君たち〟とは、公国に住んでいた人々のことか」


 すると、ベルトリエはあっさりと否定した。


「いや一般人は確かに特別だがね、僕が言うのは君たちI・Cの子たちだよ。」



 ─バシャ─



 嘘のように幸太郎の手から力が抜け、床に赤銅色の水たまりを創る。顔から血の気が引いていき、手も震えているのが自分でもわかる。


「ああ、勿体ない」


 ベルトリエは、胸ポケットからハンカチを取り出して床を拭いた。


「いや、君が動揺するのも無理はないよね。なんせI・Cの子たちは皆、君が処分しているってことになっているんだから」



 ─なっている?─



 確かに、あの時本意ではなくても仲間を一人残らず殺したはずだ。UDUKIを飲んだ後で意識は曖昧になっていたけれども、倒れた仲間の姿は、はっきりと確認した……ような気がする。


 ベルトリエは拭くのを諦めると、立ち上がって幸太郎の顔前に濡れていない方の手のひらを出し、思考を制止する。


「あの時君は、仲間を全員殺した……そう思っているんだろうけど、実際は違う。生き残った子も何人かいるんだよ。」


 ベルトリエは一息ついて続けた。


「きっと君は、その時UDUKIを飲んでいたんだろう?」


 UDUKIの存在は公国でも国家機密に相当した。それをなぜ敵国の人間が知っているのか。仲間が生きていたという事実といい、UDUKIのことといい、幸太郎は混乱の渦に投げ出されていた。


「そうか、まずUDUKIの話からかな。UDUKIはね、スリジェで作っているんだよ」


 幸太郎は唖然とした。つまり公国は、敵国スリジェで作られた薬を使って、そのスリジェと戦っていたことになる。戦争を始める前から、既に勝負はついていたのだ。


 ベルトリエは愁い気に幸太郎の顔を見て、また息を吐いた。


「皆、そんな顔をしたよ。UDUKIはね、内なる自分と対峙するための薬なんだ。本来は内なる自分と向き合って、そこから気づきを得るために作られた学習教材みたいなものなんだけどね。


 ただ、あまりに自分の弱さや抑えきれない衝動をも呼び起こすから、スリジェでも一部の大人以外の使用は禁じられているんだ。だけど困ったことに、その内の誰かが公国に売っちゃったんだろうね。効果を知った公国は、それをあろうことか軍事に利用して、しかも子供に服用させた。それも何らかの原因で幼少期からとても強い衝動や闇を抱えた子どもを選んでね。そうして集められたのが、〝Independent Children〟。君のいたI・Cだよ。」


 幸太郎は、自分が拾われたときのことを思い出した。雪が降る街の片隅で、鼻の中が痛くなるような寒さをしのぐために新聞紙をかぶり、店の室外機から出る暖気の下でじっとしていた彼を、公国の上層部は保護してくれた。彼らは心を痛めたような顔をして幸太郎を見ていたが、今思えばあれも演技だったのか。


「君たちは訓練も受けさせられただろう。それも内なる衝動に攻撃的な側面を持たせるためのものだ。表の人格が我を失った状態で、身にしみ込んだ武技を入れ替わった内なる衝動のままに振るえば、それは一種の凶器となる。

 君はもう、UDUKIの顔を見たのかい?」


 幸太郎は、震える唇を噛みながら、ふと戦場で見た幼女の顔を思い出した。あれがベルトリエの言うUDUKIなのだろうか。


「そうか……UDUKIの限界量は100粒だ。それに到達すると、人は内なる自分と完全に入れ替わってしまう。それまでは何となく内なる自分の姿が見えるだけだけど、だんだんと限界量に近づくにあたってその輪郭がはっきりとしてくる。そして、100粒目を迎えたとき、内なる自分、別名UDUKIの姿をはっきりと確認できる。それが見えたってことは……まあそう言うことだろう。どんな顔をしていたのかな」


「無表情……だった。」


 それ以上は幸太郎の口から出てこなかった。


「そうか」


 ベルトリエも口をつぐんだ。そうしてしばらくの時間が過ぎ、時計の秒針が3周回ったところで、幸太郎が口を開いた。


「それで、運よく生き残った俺たちに、スリジェは何を期待しているんだ?」


 幸太郎は拾われてから今日まで、戦う以外の生きる意味を持ち合わせてはいなかった。拾われる前の記憶は、UDUKIを飲み始めてから、ほとんど思い出せなくなっていた。


「UDUKIを100粒飲んだ以上、俺たちの衝動は使い物にならないぞ」

 それを聞いたベルトリエは、首をかしげてから可笑しそうに笑って幸太郎に言った。


「いや、何か勘違いしているみたいだけどね、僕らは別に君らの強さが欲しくて呼んだんじゃないんだよ」


 幸太郎は拍子抜けした。戦闘以外に利用価値などないと、拾われてこの方思ってきた自分としては、ベルトリエの考えていることがわからなかった。


「君らは強い。それは相当の、僕なんかが考えても及ばないような厳しい訓練を受けてきたのだろう。だけどさっき言った通り、僕らは人々の自由を尊重したいんだよ。それは無論、君らも同じだ。君たちには、これまでに味わうことのできなかった平和な世界での、自由気ままでごく普通の、当たり前にある幸せを感じてもらいたいんだよ」


「当たり前の幸せって何だ?」


「それは……例えば学校に通ったり、友達と遅くまで談笑したり、好きなものを食べて満足したり、恋をしたり……そんな戦争さえなければ本来できるはずのことだよ。


 無論、それでも戦いに赴くというのであれば、私は止めない。だがせっかく手に入れた自由なのだから、しっかり使ってみてもいいとは思わないか」


 恋や友情といったものもそうだが、自由というのが幸太郎にはよくわからなかった。


「他の子たちにも同じ話をしている。君が最後の一人だ。君の自由だ、好きに考えていい。」


 幸太郎はその場に立ち尽くした。そんなこと今まで言われたこともなかったから。本当に自分は何をしたいのか、「自由」に投げ出されても何をしたら良いのかが、まったくもってわからなかった。


「もし決まったら、私のところへ来なさい。それからささやかなプレゼントだが、この国で生活するための資材だ。持って行きなさい。明日からは隣の寮に君も住めるよう、話を通してある。学校も行きたければ、話は通すから。とにかく今日はこれを持って3階の客室に泊りなさい」


 幸太郎は、カップを置いて両手でやっと抱えきれるほどの箱に入った資材を持つと、まだ困惑した表情のまま一礼して、部屋を出て行った。


 置かれたカップを片付けて、ベルトリエは窓から街を眺めた。既に日は傾き、鉛丹色の空に包まれた街は、そこだけ温度を失ったかのように暗くひっそりと佇んでいた。


 沈む夕日に照らされながら、ベルトリエは怪しげに笑った。


「幸運を祈るよ。若き玄人たち」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る