猛れメロス

一河 吉人

猛れメロス

 メロスのメロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくの王女の着替えを覗かなければならぬと決意した。メロスは女を知らぬ。メロスは、村の牧人である。メロスは羊しか知らぬ。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども己に対する批判的視線に対しては、人一倍に敏感であった。


 きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十四の、内気な妹がいるだけだ。この妹は、結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、結婚式の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。


 歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い女衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであったはずだが、ところで今夜暇? と質問した。若い女衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老婆に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。金品も要求した。老婆は答えなかった。メロスは両手で老婆のからだをゆすぶって質問を重ねた。老婆は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。


「王様は、人を殺します。」

「なぜ殺すのだ。」

「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」

「たくさんの人を殺したのか。」

「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」

「おどろいた。国王は乱心か。」

「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」


 聞いて、メロスは得心した。クーデターを未然に防ぐのは、国防として当然だ。どこに他国のスパイが入り込んでいるか分からぬ昨今、王は成すべきことを成している。聞けば、刑場では今も処刑が行われているという。メロスはこれ幸いと冷やかしに行くことにした。


「はて」


 刑場には、なにやら諍う声が響いていた。


「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳です。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」

「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」


 どうやら、王女の一人が処刑を止めようと、その命をかけ王を説得をしているらしい。


 メロスは激怒した。処刑は、庶民の娯楽である。それを、お前のような恵まれた生まれの者が、薄っぺらい綺麗事を並べて取り上げるのだ。あきれた女王だ。生かして置けぬ。だいたいその、露出過多のけしからん服装は何だ。お前のような肌色面積がソシャゲの王女がいるか。このような勘違い女には、リアルを分からせてやらねばならぬ。メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ処刑場にはいって行った。


 たちまち彼は、巡邏じゅんらの警吏に捕縛された。


 調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。


「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」

 

 暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白そうはくで、眉間みけんしわは、刻み込まれたように深かった。


「市を暴君の手から救うのだ。」


 とメロスは悪びれずに答えた。


「おまえがか?」


 王は、憫笑びんしょうした。


「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」

「いや、そっちの王女からだ」

「なんて?」

「邪智暴虐の王女から、大罪人の処刑という楽しみを救うのだ」


 王は混乱した。


「……み、見よ! 口では、どんな清らかな事でも言えるが、人間の本心とはこんなものだ。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。そんなに死刑が見たいなら、おまえを処すことにしよう。いまに、はりつけになってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」


 メロスも混乱した。なぜ、こんなことに? 王の擁護派だったはずの自分が、どうして処刑にかけられようとしている? 自分はこれからどうなる? 一体、どうすればいい? メロスは助かるの? 作者の太宰治とは? メロスは狼狽した。メロスには『走れメロス』がわからぬ。メロスは、村の牧人である。メロスの使っていた教科書には、『走れメロス』も『山月記』も無かった。ただ、インターネットの話題に取り残されぬため、授業で習った振りをしていたのだ。メロスのお気に入りは、かまきりりゅうじであった。


 メロスは必死で記憶をたどった。走れメロス、走れメロス……太宰……直木賞……熱海……旅館……そうだ、確か――


「ああ、王は悧巧りこうだ。自惚うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」


 と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらう振りをし、


「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹の結婚式が、明後日あるのです。それが終われば、必ず、ここへ帰って来ます。」


「ばかな。」


 と暴君は、しわがれた声で低く笑った。


「とんでもないうそを言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」


 全くその通りだ、メロスは同意したがそれはおくびにも出さず


「そうです。帰って来るのです。」


 と必死で言い張った。


「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセ、セ……」


 メロスは詰まった。あの竹馬の友、名前は、ええと、そう――


「この市に、センズリティウスという石工がいます」

「セ、セン……」


 王は言い淀んだ。女王も顔を真赤にしてうつむいた。


「そう、センズリティウス、私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」


 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑ほくそえんだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。


「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」

「なに、何をおっしゃる。」

「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」


 メロスは歓喜した。素晴らしい案だと思った。王は人の醜さを喧伝できるし、こちらも処刑を免れる。まさにWin-Winだ。ゼウスに手を挙げて感謝したい気分だった。国外逃亡も考えたが追手が怖い、しかしこれなら安全だ。それにセンズリティウスの妻は気の弱い女、亡くなった主人に金を貸していたとゴネればいくらか強請ゆすれるだろう。メロスはちょっと遅れて処刑場帰還案の採用を決定した。しかし、たかだか妹の結婚式のために友人の命を、それも無断で掛けるだなんて、このメロスという男はサイコパスか何かに違いない、メロスは身震いした。


 メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。王はセンズリティウスを連れてくるよう命じたが、そんな男は見つからなかった。


 メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。眼が覚めたのは夜だった。メロスは二度寝した。


 結婚式は、翌日の夕方に行われた。「王国一の妹アイドル」クラムちゃんと、彼女を推す幾多のファンによる魂の集いライブ――『クラム 1st ライブ 聖婚~ヒエロス・ガモス~』である。本当は現地参列したかったが、世に疫病が蔓延し、残念ながら配信限定無観客ライブとなった。クラムちゃんの、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴にバーチャル列席していたファンたちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、陽気に歌をうたい、手をった。メロスも、満面に喜色をたたえ、床を跳ね回り、芸を打ち、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。クラムちゃんと生涯暮して行きたいと願った。クラムちゃんは、とあるソーシャルゲームに登場するアイドルである。釣り糸を垂らし、魚と遊んで暮して来た。けれども魚介に対しては、人一倍に敏感であった。多くのソシャゲがそうであるように、膨大な登場キャラクターがひしめき合う作品内で、なかなか人気トップ層に食い込めず、本人もファンもつらい思いをしてきた。昨年の陶片総選挙では下馬評こそ高かったものの惜しくも入賞を逃し、心無い他ファンから嘲笑を浴びたりもした。メロスはその悔しさを心に秘め、今年の総選挙を迎えた。陶片総選挙とは、得点や課金に応じて配布される陶片を投票し、最も人気のアイドルを決める、ゲーム内のイベントである。


 メロスは走った。とにかく走った。朝に走っては仏を殺し、夜に走っては祖を殺す勢いで走った。今年は是非とも、あのクソ野郎どもに、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って表彰台の台に上ってやる。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。メロスは家を抵当に入れて走った。


 若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。下位層を出て、中位層を横切り、上位層をくぐり抜け、一桁順位に着いた頃には、日が何度目かの頂点へ昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額ひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹は、きっといアイドルになるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐイベント終了時刻に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二万ポイント行き三万ポイント行き、そろそろ投票期間の半ばに到達した頃、降って湧わいた災難、メロスの稼ぎは、はたと、とまった。見よ、カードの残高を。このところの課金で貯金は枯渇し、ガスは止められ、国民年金事務所の業務委託事業者からは猛勢一挙に催促の手紙が舞い込み、大家もやって来たが毅然とした態度で居留守を決め込んでいたら知らぬ間に帰っていた。


 彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、イベント資金は残らずジュエルに変換されて影なく、プレゼントボックスには未受け取りのアイテムも見えない。メロスは床にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、しずめたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。イベントも既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、上位に行き着くことが出来なかったら、あの佳い妹が、私のために嗤われるのです。」


 入賞ボーダーは、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、あおり立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。具体的には、セリヌンティウスの家へ押しかけ、用立てを迫った。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきときわけ掻きわけ、めくらめっぽう軒先で駄々をこねる獅子奮迅の人の子の姿には、セリヌンティウスも哀れと思ったか、ついに憐愍れんびんを垂れてくれた。いつもは三日三晩家の前で寝転んでみたり、工場の前に一週間生ゴミを捨て続けたりして金をせびっていたから、最速記録を大幅に塗り替えることとなった。結局貸すことになるのだから最初から素直に出しておけばよいのに、メロスは思った。


 しかし、押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、モバイルでイベントを再開しながらすぐにまた家路を急いだ。やはり光回線でないと時速が落ちる。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。


「待て。」

「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに家へ帰らなければならぬ。放せ。」

「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」

「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから天にくれてやるのだ。」

「その、いのちが欲しいのだ。」

「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」


 山賊と思われた者たちは、国税庁の徴税官だった。彼らはものも言わず一斉に棍棒こんぼうを振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、


「気の毒だが正義のためだ!」


 と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむすきに、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石さすがに疲労し、折から午後の灼熱しゃくねつの太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈めまいを感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、融資を勝ち取り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天いだてん、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する妹は、おまえを信じたばかりに、やがて嗤わなければならぬ。おまえは、稀代きたいの不信の人間、まさしくネット民の思うつぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身えて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸をち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。恋人の一つも出来たことがなく、親ガチャにも負け、ソシャゲ上の尊厳さえ失おうとしている。私は、きっと笑われる。私の妹も笑われる。私は妹をあざむいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。クラムよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い兄と妹であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、クラム。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。兄と妹の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。クラム、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。破産の危機を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。運営は私に、ちょっと入賞して来い、と耳打ちした。入賞したら、クラムのライブを開いてくれると約束した。私は運営の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は運営の言うままになっている。私は、上位入賞を逃すだろう。他のユーザーは、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私をバッシングするだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。クラムよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。隣人は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、総選挙だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。


 ふと耳に、潺々せんせん、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々こんこんと、何か小さくささやきながら清水が湧き出ているのである。やけにカラフルなきのこも生えている。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手ですくって、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。眠気や疲労がポンと取れ、感覚も鋭敏になった気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。JPEGでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。


 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。あれは、アカウント乗っ取りだったのだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、運営ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。


 路行く人を押しのけ、ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬をとばし、金目のものを懐へ入れ、小川を飛び越え、少しずつ昇ってゆくボーダーの、十倍も早く走った。一団の旅人とっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。


「いまごろは、あのアイドルも、入賞圏外に落ちているよ。」

 

 ああ、そのアイドル、そのアイドルのために私は、いまこんなに走っているのだ。そのアイドルを死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、一桁順位が見える。入賞した妹の姿は、夕陽を受けてきらきら光っている。それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!


 最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。イベントの陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く一桁台に突入した。間に合った。あっぱれ。妹もまた、間に合った。メロスは入賞できなかったアイドルのファンを三日三晩煽り倒した。


「ありがとう、妹よ」


 そして今、メロスは、嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。妹が入賞の栄誉として勝ち取った1stライブ。モニタの中からも、歔欷きょきの声が聞えた。ついにステージに昇り、ゴンドラに釣り上げられてゆく妹の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。とても初舞台とは思えぬ、見事な公演だった。オーバーチュアから涙が途切れることがなかった。この瞬間のために、メロスは走ったのだ。そして、妹はそれに見事に応えた。妹は確かにそこにいたし、メロスもまた、そこにいた。


「クラム」


 メロスは眼に涙を浮べて言った。


「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


 だが妹は、画中の人だった。メロスは腕に唸うなりをつけて、自分の頬を殴った。


 兄と妹の幸せな結婚式は、盛大に幕を閉じた。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁へ画面越しに


「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しいファンがあるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。ファンとの間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」


 とSNSに長文を投稿した。メロスは、それからキーボードをたたいて、


「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」


 メロスは笑ってスタッフたちにも会釈して、宴席から立ち去り、暖かいベッドにもぐり込んで、死んだように深く眠った。


 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う、南無三って何? というか間に合っても困るし、もう少し出発を遅らせよう。メロスはライブのアーカイブ配信を二周した。


 ようやく涙も乾いたころ、メロスは重い腰を上げ、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。


 センズリティウスは、今宵、殺される。やつが殺される為に走るのだ。このメロスの身代りにする為に走るのだ。王女の奸佞かんねい邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。いや、別に歩いてもいいな。ゆっくり歩こう。と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、妹の1stシングルのカップリング曲をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、少し昼寝をして、また歩きだし、川遊びなども挟み、いよいよ処刑場近くまで来ると少し全力疾走をして汗をかき、脇腹を押さえるなどして、いかにも必死で走ってきましたという体を装った。かなりの余裕を見て到着したが、処刑はきちんと終わってるだろうか? こそこそと人混みにまぎれ、処刑場に近づいた。たちまち彼は、巡邏じゅんらの警吏に捕縛され、王の前に引き出された。


 すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスが、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように警吏を掻きわけ、掻きわけ、衣服が千切れ飛ぶほど抵抗し必死で逃げようと試みたが叶わず、もはやこれまでと腹をくくり、かくなる上は情に訴える他無いと覚悟を決め


「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」


 と、かすれた声を精一ぱいに装って叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。


「シュインティウス。」


 メロスは眼に涙を浮べて言った。警吏に散々殴られ全身が悲鳴を上げていたので、嘘泣きは容易かった。


「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」


 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯うなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、


「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」


 メロスはドン引きした。あれだけの仕打ちを受けてこの台詞、この男も一種のサイコパスなのでは……? 走れメロス、登場人物サイコパスしかいないのでは……? 薄ら寒いものを感じつつも、腕にうなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。


「ありがとう、友よ。」


 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣き、メロスはちらちらと王を盗み見た。


 群衆の中からも、歔欷きょきの声が聞えた。黄色い歓声も上がった。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。


「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」


 二人は王の頬を一発ずつ殴った。


「万歳、王様万歳。」


 どっと群衆の間に、歓声が起った。


 ひとりの少女が、のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。


「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」


 メロスのメロスはメロスした。





(古伝説と、シルレルの詩と、青空文庫から)


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