『冷たい空に希う』——朧月

 小さな暖炉に火が灯る。揺れる炎を見つめると、遠ざかったはずの過去を思い出す。


 雪から逃れて駆け込んだ小屋は大きくはなかったが、しばらく過ごすぶんには不自由ない広さだった。備え付けられていた暖炉に火を入れて、カナンは窓の外を見つめる。


「……吹雪いてきたか。すぐには止みそうもないな」


 窓にぶつかる白い塊が、曇ったガラスを揺らした。横殴りに吹き付けてくる風の強さを思えば、外を出歩くのは賢明ではない。ガラス越しの空は暗く、隙間風は冷え切っている。


 暖炉の前に立つと、炎の暖かさが冷えた体に伝わってくる。石喰いといえども、体温を失えば生きてはいけない。人とは違い、それで死ぬことはないだろう。けれど、死なないからといって、雪に埋もれてしまいとは思うわけもなかった。


「寒いのは、どうにも苦手だね」


 手を暖炉にかざして座り込んだ私に、カナンは怪訝そうな目を向けてくる。不思議がるような要素はないはずなのだけど。首を傾げながら、私はそばの薪を手に取る。


「……何かな。そんなおかしい目で見られるようなことは言ってないよ」

「お前の口から苦手なんて単語が出たものでな」

「失礼だな人だね。私だって生きているんだ。嫌いとまではいかなくても、好きになれないものはあるさ」


 薪をカナンに放ると、難なく受け止められた。元よりぶつける意図はないけれど、何となく理不尽なものを感じるのはどうしてなのだろう。


「好きになれないものか。他には何があるんだ?」


 受け止めた薪を暖炉に投げ込んで、カナンはそばに置かれていた椅子に腰掛けた。長い脚を組んで見下ろされると、さらなる理不尽さを感じないでもない。


「……見下されるのは好きじゃないかな」

「これは見下しているんじゃない。見下ろしているんだ」

「そういう揚げ足取りも好きじゃないんだけど。カナンは私が嫌いなのかい」

「嫌いではないが」


 薄く苦笑いした顔を憎らしく感じるのは、「らしく」ないかもしれない。


 脚を組み替えると、カナンは窓の外に目を向けた。暖炉の炎が、窓に揺らめく影を映し出している。当然ながら雪は止まない。冷たい空は、遠くなった記憶を思い出させる。


「嫌いではない。……だが、思うところはある」


 再び向けられた顔に浮かんだ笑みは、やはり苦かった。その表情一つで、君が何を思い出していたか気づいてしまう。私は暖炉の炎を見つめた。思い出す。忘れはしない。


「……君が私を許していないのは、知っているよ」


 炎。身を焼くような痛み。冷たい空から降り注いでいたのは、雪ではなく雨だった。


 カナン。彼が仕え、彼が守っていた国は戦いの果てに敗れ、滅んだ。

 若くして将軍の位にあった彼は、勝敗の決した後も戦い続け、とある森の中で力尽きた。それを見つけ、助けたのが私だった。助けた、というのは正確ではないかもしれない。


 少なくとも、あの時のカナンが求めたのは、戦いの中で果てることだった。


 それを助けることは、彼からすると「余計なお世話」だったはずだ。実際に意識を取り戻したカナンは、私に怒りを向けた。全てを失った彼の目には、私が理不尽で許しがたい存在に映ったに違いない。


「まさか、後悔しているなどと言わないだろうな」

「それこそまさかだよ。……後悔するなら、初めから助けていない。君から責められたとしても、それは私が背負うべき「咎」なんだと思ってる」


 咎、なんて。言葉にすると滑稽だった。少なくともカナンは、私を罰したりはしないだろう。彼は優しい。私を許さないとしても、傷つけようとは思わない。


 私の吐いた言葉に、カナンは眉を軽く持ち上げ笑う。困ったような笑みは、やはり私を傷つけるものではなかった。


「……咎とは、大げさなことだな」

「大げさなものか。君が望まないと解っていて。君が苦しむと気づいていて。それでも助けたのは……結局」


 苦しいと思ったところで、私はきっと同じ道を選んでいた。後悔していないのは本当で、だからこそ私が罪深いのだと知れる。


 私は私の望みのために、君を助けたのだろう。どう取り繕ったところで、それは。


「君を助けたのは、私のエゴだ。今思えば、たぶん……そういうことなんだと思う」


 カナンはどんな顔をしているだろうか。炎に目を向けている私には見ることができない。いや、見たくないのか。君の顔に浮かんだ表情一つで、私の心は痛みに染まってしまう。


 雪風が窓を強く打った。光はすでに遠くて、小屋の中には暖炉の炎だけが揺れる。寒いな。不意に思えば、静かな声音が空気を揺らした。


「死ぬことに、意味はなかった」


 思わず、カナンを見つめた。だけど、カナンは私を見ていなかった。窓に向けられた深い色の瞳は、時が止まった雪原のように静かで冷えていた。熱を失った感情は、在りし日に寄り添う心の残滓のように、カナンの瞳を捕らえている。


「生きることにも、意味はなかった」


 言葉が痛い。報われないのはおそらく、私の方じゃない。私の願い、私の想い。そして私のエゴ。全てがカナンにとって意味のないものだったとしても、私は何も言えない。


 想いは片方だけだ。だから無意味だと言われても、それに反論する言葉はなかった。


 かなしいと、思うのは気のせいだった。選べた私に、そう思う資格はない。


「だが」


 冴え冴えとした月の光のように、君の瞳に宿っていたもの。うつむいていた顔を上げると、君の目が私を捉えていた。いつものように少しだけ笑って、私を見る君の目が。


「後悔している、と。そう言えるほど、後悔してはいない」


 カナン。君は結局、私を傷つけてはくれないんだね。


 君は優しい。だから私は、君のそばには居られない。たとえ、それが私の望みでなかったとしても——。


「だから、意味ならあった。少なくとも俺は今、生きている」


 痛みが消えた時に思うのは、救われたということだけだ。


 ならば私の救いとは、一体何なのだろう? 微笑む君を見ても、その答えは出なかった。いや、答えが出ないのではない。その答えを認めたくない。ただそれだけなのだ。


 全ての痛みが消えたなら、それは幸せなことだろう。けれど私は、その世界で生きることはない。何故なら、私は——。


「君が生きているなら、私は充分だよ」


 願いは、叶わないだろう。残り少なくなった旅路の果てに、私が選ぶこと。


 石に花が咲いたら、それは幸せなのだ。だけどその時に私はいない。


 君を想う。ただそれだけで、終わりのない季節は終わるのだから——。



『冷たい両手に込めた冬が』——了


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