あかりがきえる

大宮コウ

202号室

 俺はといえば、我ながらずいぶんと忠実な人間だと思う。

 学生は何かと縛られている。法律だったり、校則だったり。

 高校までは酒と煙草はもちろん髪を染めることも、耳にピアスを開けることさえ禁止。勝手にさせておけば、とは思う。結局やるやつはやるのだ。それに、高校側も結果さえ出して、ほどほどに迷惑がかけられなければいいのだろう。

 とはいえ、何かと人や社会はコントロールしたがる。人生の指針を定めてくる。

 普通に生きている分には、忠実に従っていればさしあたっての問題もない。

 そんなわけで、俺が今の大学に入る上で、決められたことは一つ。

 バイトは禁止。



 講義が終わり、手帳を見て予定を確認後、講義室を出ようとする直前。後ろの座席から声をかけられる。

苅屋かりやくん、お得なバイトの話があるんだけどさぁ、ちょっと聞いてかなぁい?」

「聞かない」

「いや待って待って話だけ聞いてよ! どうせ暇でしょ!」

「人の予定を暇と決めつける性根がまず減点ですね」

「ごめんってー! ほら、男って帰ってマスかいてるくらいしかやることないでしょ」

 悪びれてない態度にいらぁ……っとして、そのツラを拝ませて貰うべく振り返る。果たして、たるんだ顔でへらへらと笑いながら喚いていたのは、同じ学部のキリンジだ。

 俺はわざと大きくため息をついてから答える。

「キリンジさんの、その偏った知識はどうでもいい……あと下ネタはやめて下さい。みっともない。おっさん臭いですよ一応、女性なんだから」

「扱いがひどい! 私の方が年上なのに! それに一応は余計じゃないかな!」

 改めて見る。顔は悪くはない。元はいいと思う。しかし分厚いメガネをかけていて垢抜けない。髪はこだわりがあると言うよりは、雑に伸びた黒髪。手入れはしているのだろうが、なんかこう、全体的に野暮ったい。

 加えて、その体躯だ。背が高いというより身体が大きい。身長は……たしか185cmセンチだったか。どうせなら半分くらい分けて欲しい。

「年上である、というのはそれだけで尊敬の対象にはならない。第一、砕けた風に接してと言ったのはあなたでしょうに」

「……えー、そうでしたっけ」

「まあ、酒の席だったし忘れていても無理はないか……」

「……あー、あのときね! うんうん覚えてる覚えてる!」

「嘘くせえ……」

 一緒に飲んだのは一度きり。まあ、覚えてなくても納得の酒癖だった。もう二度とこの女と一緒に飲まないようにしよう、と心に誓っている。

「今日は帰ってから、講義の復習をする予定だってしっかりある」

「うわ、ちゃんと勉強する人ってほんとにいるんだ……」

「別に……変ってわけでもないだろ。これまで身近にいないってこともないでしょ? なにせ……これまで八年も大学に行ってるんだし」

「いや、まあいたことにはいたけどね」

「ところで今年で何歳でしたっけ?」

「そこ突っ込む必要ある?」

 この女史、大学への入学を繰り返しているのだ。自分から公言している。これでも、別に学ぶ姿勢が伴えばいいのだが。

「で、またレポートの代筆ですか? 言っとくけど、そういうことしても身になりませんよ?」

「あのときは本当に助かったよ! でも忙しいのは仕方がなくってぇ……」

「はぁ……金がもったいないですよ。何のために大学に来てるんですか」

「えへへ、親が金持ちだからね」

 えへへじゃあないんだよ、と密かに思った。

 アホ顔で笑うキリンジが、実家が金持ちであることは学部で周知の事実だ。この大学が、三つ目に入った大学であることも。

 お金はどうしてこんなちゃらんぽらんの下にあるのか、人生は甚だ不公平だ。

「俺が金目当てで人付き合いをしてると思われるのも心外です」

「ごめんて~言葉の綾だって。ほら、前みたいに寿司奢るからさ。銀座の! めっちゃおいしいやつ!」

 ふむ、と考えるをする。キリンジから声をかけられた時点で、この話の流れは想定していた。

 バイトとは、金銭のやりとりが生じるものが一般的だ。だが現物支給であるのなら、話は変わってくる。俺は親の言うことには忠実な人間なので。

 また、ダテに長い間大学で遊び呆けていない、というべきか。キリンジの飯屋選びは並じゃない。

 最後に、キリンジの頼みを俺が断ったことはない。つまりは。

「……それで、いつ行くんですか?」

 了承する俺に、キリンジは満面の笑顔で答える。

「いまから!」

「マジで?」

 流石に当日は予想していない俺だった。

 断る理由はないけれど。



 同じ学部の同期、本多という男子生徒からのタレ込みが、今回の発端らしい。

 バイトの出前でよく向かうアパートでの話。

 アパートは入ったときからやけに薄暗いな、とは思っていたらしい。切れかけているのか、明滅を繰り返す電球のせいかもしれない。

 そのときから、既に嫌な予感はしていたらしく、早足で帰ろうとした。しかし、荷物を届け終えて振り返ったとき、それはいたようだ。

 曰く、ベージュのワンピースを着た女性。

 まず、不自然、と感じたらしい。既に肌寒い冬だ。薄手のワンピースを着ているのは、確かに違和感を抱いてもおかしくない。振り返ったとき、いきなりそんな女性がいるのも変だろう。

 次に、電灯が切れていることに気づいたそうだ。なのに、その姿がはっきりと浮かんで見えているのは道理に沿わない。

 最後に、その足は裸足で、地面についていなかったそうだ。

 この三つの条件から、これは霊だ、と思ったらしい。しかし帰るには、その女性がいる場所を通らなければならない。

 本多はこういうとき、見ない振りをするべきだ、と聞きかじっていたようだ。

 幸いに、というべきか、その霊というものは彼女の方を向いていないようだった。激しくなる動悸をごまかし、何事もないかのように歩く。

 そして通り抜けたら振り返らず、一目散に駆け抜けた。

 後日、今度は日中に届けた際に、丁度大家さんがいたのでそれとなく話を聞いてみたらしい。

 すると、やたら食いついてきた。というのも、ある部屋の住人から相談を受けたばかりだというのだ。

 というわけで、霊的な現象に詳しい友人として、大家経由でキリンジが推薦された。

 本日、その人物のアポが取れたのでこれから会いに行くらしい。

 以上。キリンジが運転する車に乗っての説明だった。



「……で、キリンジさんはその話、信じてるの?」

「もちろん!」

 分かってはいたけど、一応確認したら元気な返事だった。

 このキリンジという女、根っからのオカルト好きだ。そのせいで、うちの大学の一部では、ホラーブームが来てさえいる。

 というのも、俺の大学はゴリゴリの理系なのだ。男女の比率が9:1。そこに顔が良く、飲み会とあればどこでも駆けつけ、誰が相手でも関係なく話しかける社交的な女性がいたらどうなるか? 語るべくもない。

 とはいえ生徒の誰よりも年上だ。端から見ていて、姫というよりは姉御肌なポジションな所感。

 いずれにしても、声をかける相手には事欠かないはずなのだ。わざわざ声をかけてきた理由が気になった。

「俺以外に、誘う相手いなかったんですか?」

「いやいや、あえてだよ。あえて苅屋くんを誘ったのさ。苅屋くんがこういうのを信じてないからね」

「キリンジさんは俺にオカルトを信じさせたいんですか……? 信教の自由って知ってます?」

「憲法を出してくるのは意地が悪いなぁ……まあ、別にいいじゃないか。こうして車に乗せてしまえばこっちのものさ、へっへっへ」

 俺も少し気になっただけで、別にいいのは同様だ。

 元々、バイトなんて誘い文句で話しかけてきた時点でこうなるとは分かっていた。

 ついていく理由もあるのだ。この世に未解明な現象があるのなら、それは気になる。当然のことだ。いくら科学が発達しているとはいえ、人の叡智の光で照らされていない事柄は未だ多い。大学で学んでいて、その実感はより強くなる。

 そしてこのキリンジという女は、よくを引いてくる。

 運命というものは信じていない。そういった星の下に生まれたような、というよりは傾向が偏っている人間、とキリンジを指して俺は言いたい。

 俺が連れ出されるのはこれで三度目。これまでの二度、不可思議な現象を体感している。

 けれども、俺はオカルトを信じていなかった。

 そういえば二人で向かうのは、これが初めてか。なんて考えていると、運転中のキリンジから、おずおずと声をかけられる。

「と、ところでさ……キリンジって呼ぶの辞めてくれないかな? 別にあだ名としては気に入ってないわけじゃないんだけど……ほ、ほら! 正直恥ずかしいんだよね」

 だってキリンジだよキリンジ! と照れたように言うのだが。

「……キリンジって、本名じゃないの?」

「まずそこから!?」

 驚くキリンジを余所に、スマホで単語を検索する。キリンジ。候補として、麒麟児と出る。

 麒麟児: 才知、技芸に特にすぐれた年若い者。神童。

「あ、駐車場はすぐそこです」

 地図アプリからの通知が出たので、急いで指示を出す。

 駐車場から一分足らずで、問題の場所に着く。



「確かに暗いですね」

 ネットで見たときは、昼の写真が出ていた。普通の、住宅地の片隅にあるアパートともいうべき、何の変哲もない形だった。

 けれども、実物を見れば確かに雰囲気が出ている。時間帯も悪いのか。逢魔が時、ともいうべき昼と夜の間、夕方の時間。

 アパートの一体だけ、どこか暗い気がした。

「苅屋くん、そこじゃないよ」

「え?」

「だから、消えていたのは玄関じゃなくって、部屋に続く廊下だって言ってたじゃないか」

 言われてみると、確かに玄関の明かりが消えている。道路の電灯も、あるいは目の前のアパートの二階と三階からも、明かりが見える。

「私がいるから任せたまえよ」

「それが問題なんですよ」

「どういう意味かな!?」

 オカルトを信じていない、と言っておきながら、早くも雰囲気に飲まれてしまったのは恥ずかしい。早足に中に入る。

 会う予定であるのは、202号室の住人だ。階段を上がってすぐなのだが。

「ついてますね、電球」

 確かに明滅はしているけど、何かがあるような気配もなし。キリンジさんは構わず素早く向かっていく。

「ちょっと試しに消してみるから、見ていてくれる?」

「それアリですか?」

「アリアリ」

 消えているときに現れるのなら、こちらからその条件を作るのはアリなのか。まあ、試してみる価値はあるだろう。

「じゃあカメラ回すので、いつでもどうぞ」

「はーい」

 廊下の天井は結構距離があるのだが、身長が高いので手を伸ばせば易々と届く。コードを引っ張り、かちり、と音が鳴って消える。俺はその光景をスマホで捉える。

 何も現れない。

「何か見えるー?」

「見えませーん」

「そっかー」

 キリンジは電気を付け直す。キリンジの方へ俺も近づき、スマホの画面を見せる。

「何も映ってないですよね」

「うーん、条件が悪いのかなー。まあ、とりあえず話を聞いてみようか」

 チャイムを押せば、女性の声が聞こえる。こちらが心霊現象について聞きに来たと話せば、直ぐに扉から顔を出してきた。

「お、お待ちしてました!」

 やけに喰い気味だな、と思った。駆け足で来たのだろう。少し乱れた髪を直しながら、現れた女性は歓迎してくる様子。想像以上に厄介ごとに巻き込まれたのではと、不安になってくる。

 対してキリンジは、気にもした風もなく、柔和な笑みを浮かべて言葉を返す。

「改めまして、霊媒師をさせて頂いております、ナナシロと申します。こちらは助手の苅屋です」

 キリンジは名刺を取り出して話す。俺はどうも、と頷く。

「あ、これはどうもご丁寧に……私、柳木アキと言います。と、とりあえず寒いですし、中にどうぞ」

 促されるがまま、中へと入った。2Kの、普通の部屋、という印象だった。ただ、女性の部屋というには、どこか生活臭が強いというか……実家に似たような、いわゆる既視感があった。

 目立つものと言えば、部屋の隅にある、ひときわ大きな仏壇が一つ。素人目で見ても、豪華な作りだった。けれども、仏壇には写真立てや香炉くらいしか並べられておらず、どこかわびしさがある。

「あ、すいません、いま飲み物を用意しますね! お茶がいいですか? それ以外だと、コーラとコーヒーくらいですけど」

 お茶で大丈夫です、と二人で返せば慌てて台所に駆けていく。離れたところを見計らい、キリンジに小声で確認する。

「ナナシロって本名?」

「偽名。名刺は昨日作った」

「マジで何してるんですかアンタ」

 肘で小さくどつけば、へへへと笑うキリンジ。へへへ、じゃあないんだよ。

「すいません、お菓子の一つも用意していなくて……」

「いえいえ、それで、早速ですがお話を聞いてもよろしいでしょうか?」

 二人で頷くと、アキさんは語り始めた。



 私は、このアパートには学生の頃から母親と住んでいました。一昨年に他界してからは、一人暮らしですけど。

 ……変なことが起きるようになったのはつい最近からなんですよね。最近、というのは……そうですね、二ヶ月前からです。ほら、丁度駅の近くで大きな人身事故があったじゃないですか。時期的には、確かそのあたりです。

 無言電話、ってあるじゃないですか。ええ、それが来るようになったんですよ。それも仕事帰りで、一息ついているときに。ほんと迷惑で……あ、この部屋に電話がないことですか? ほら、固定電話なんて滅多に使わないじゃないですか。なので勢い余って捨てちゃったんですよね。

 まあでも、そのときは変な悪戯だなって思ってたぐらいなんですよね。そしたら今度は、ポストに変なものが入るようになったんですよ。

 手紙とか、チラシとかじゃなくて……ゴミみたいなものが入っていたんです。枯れた花とか、木の枝とか、なにか金属片とか。あ、すいません、捨てちゃったのでいま手元にないんですよ。置いておくのも気味が悪くって。

 それで最初はストーカーだと思って、警察にも相談したんですけど、何も進展がなくて……

 このアパート、監視カメラあるんですよ。玄関だけですけど。なので相談したんですけど、何も映っていなかったみたいで……柵があるので、廊下から入ったりはできないですし。

 それで、ここ数日になって、山中さん……あ、同じ階の、201号室の人に、聞かれたんですよ。何かストーカーにでも遭っていないか、って。大家さんにも話していますし、警察も呼んでいましたからね。話が広まっちゃったかな……と思ったんですよ。

 ええ、違いました。

 その人が言うには、私の部屋の前に誰かがいたみたいです。

 詳しく聞いたんですけど、どうにも、女性としか覚えてなかったみたいで……その人が、私の部屋の前に立っていたみたいです。

 女性の人は、私の部屋の前に立ちながら、山中さんを見続けていたみたいで。山中さんも怖くなってすぐに部屋に逃げ帰ったらしいです。

 はい、勿論そのことについて話されたあと、大家さんに相談したんです。でも防犯カメラには何も映ってないですし……でもこのアパートの人たちが、そんな変なことするとも思えなくって……それなら、いっそのこと幽霊とかの仕業だって言われた方が、納得できるところもあるなって。

 もう、に相談するしかないか悩んでいたら、丁度話が来たんですよ。

 なのでお願いします、本当に。



「相当参ってるみたいですね」

 一通り語り終えると、アキさんはいつの間にか空になっていたコップを満たしに台所へ向かった。ため込んでいたのだろう。話す姿には鬼気迫っているものがあった。

「苅屋くんは平気そうだね」

「まあ、聞いてるだけだったので」

「……こういうのって、聞いてるだけで結構消耗するものだよ。なにせ語り手の熱量があるからね」

「人それぞれということで。あ、柳木さんに質問したいことがあるので、俺からいいですか」

「構わないとも、遠慮なくしたまえ助手くん」

「突っ込むのを忘れてましたけど誰が助手ですか、誰が」

 キリンジさんと戯れていたらアキさんが帰ってきたので、早速質問。

「あの、聞きたいことがあるんですけど、これまでそういった霊的な体験はされたことがないんですよね」

「そう、ですね……というより、霊的なものに疎かったですね。友達が何かいるとか、昔にお化け騒ぎで賑わってた場所とか……お墓にお参りに行くときとかにも、何化を感じたことがないですし」

「では、お母さんの方はどうでした?」

 キリンジさんが、俺に続く形で問いかける。

「ああ……そういえば昔、私が子供の頃に、母がたまに何かいる、とか脅してきたことがありました。私は見えなかったんですけど……もしかしたら、母には見えていたかもしれません」

 あくまで推測ですけどね、と頬を掻くアキさん。

 キリンジさんは問いを続ける。

「家族仲は、よろしかったんですか?」

「ええ、はい。昔から、二人で暮らしていましたし……それに祖父母とも縁が切れていたので……たった一人の肉親でしたから」

「そうですか。あと、もう一つよろしいでしょうか」

「はい、なんでしょうか……?」

「駄目だったらいいのですが……クローゼットの中身を確認させて頂いてもよろしいでしょうか?」



 キリンジさんが一人で確認する、といったので、先に外に出ていた。まあ、女性の部屋の、それも服の収納場所を調べるのに男は不要だろう。大人しく、外で凍えている。

 外はすっかり日が暮れていた。電灯はあいかわらず不安定に輝いたり、消えたりしている。ひとつ隣の201号室の前も、だ。心身穏やかじゃなくなるのも、これでは無理はないだろう。

 俺には何も感じないし、見えない。だから構わず歩く。階段を降りた先の玄関は、相変わらず電気がついていない。

 キリンジさんからは、頼み事をされてもいた。車の後ろに置いてあるものを持ってきて欲しい、と。あらかじめ車の鍵も渡されている。

 駐車場に戻り、車を開けば大きな袋があった。お札か何か、大きすぎて一部はみ出ているものもある。中を覗けば他にも盛り沢山だ。持つと結構重たいが、これくらいは頑張ろう。寿司のためだ。

 戻ると、既にキリンジさんが部屋の前に出ていた。

 いや……キリンジさんだけではない。ベージュのワンピースの何者かが、背後に見えた。

 202号室の部屋の前の電灯は、消えていた。

 俺が足を止めていれば、キリンジさんは俺の方へ気にもせず駆け寄ってくる。そうして紙袋を受け取ってからその女性に向き直った。

、改めて確認します。お母さんを成仏してほしい、ということでよろしいですか?」



「これからは、ちゃんと線香をあげようと思います」

 と。それがアキさんとの最後の会話だった。

 結局俺がしたことは、話を聞くか、荷物を取りに行く程度。諸々の事情は全てキリンジさんが丸く収めた様子だ。

 アキさんに見送られて、アパートをあとにする。玄関の電灯は切れたまま。その一角は、相変わらず不自然なほどに暗かった。

「コーヒーでいいかい?」

「奢りなら」

 自販機で買った缶コーヒーを、キリンジさんから受け取る。温かさが手に伝わる。

 車の中に入ってから、プルタブを開く。容易に開いた。嚥下すれば、仄かな苦みと共に、冷えていた身体が温まっていく。

 発車前の車の中で、確認する。

「つまり、部屋の前に立っていた人は、アキさんのお母さんだったってことなんですね」

「まあ、そうだね」

 事もなげに、キリンジさんは肯定する。

 アキさんが着ていたワンピース。あれは母親の形見だったらしい。昔、使っていたものが保管されていたそうだ。

 目撃者の一人である、本多が見たのもベージュのワンピースを着た女性。

 これを単純に共通項として結ぶのであれば。

「死んでも娘を気にかける母親。なんとも素敵な話だとは思わないかい?」

「成仏させといて何言ってるんですか。それに俺には見えてないので。現実的に考えれば、アキさんがお母さん恋しさにワンピースを着て立っていた可能性もありますし」

「その可能性もあるねえ」

 適当な返事。俺はため息をつく。

「にしてもですよ、詐欺は良くないですよ」

「お金はとっていないよ」

 まるで鼻歌を口ずさむように答える。

「色々言いくるめてね。お金には困っていないし……流石に私だって捕まりたくはないから」

「いや、詐欺はそこではなく」

「じゃあ、どこかな?」

 キリンジさんの返答に、どこか喜色めいたものが混ざる。まるで獲物を丸呑みにする、舌舐めずりする蛇のような感覚。

 一度口に出したものは飲み込めない。続ける。

「これは仮定の話ですが……もし霊が存在するとしたら、祓えてないでしょう。お母さんではなく、の方が」

「理由は?」

「仏壇です。それに、電灯」

「続けて」

 俺の言及に、キリンジさんは肯定も否定もせずに催促する。

「部屋に入ったとき、締め切った様子なのに線香の香りがしませんでした。お供えものも見当たらなかったですし、あまり大事にされていなかったのでしょう。それに……帰り際の言葉で、確信しました」

『これからは、ちゃんと線香をあげようと思います』と彼女は言った。ということは、これまでは上げていなかったことがわかる。

「守護霊、という概念があるじゃないですか。仏壇は、あの部屋にあるには豪華でしたからね……あれを用意した人は信心深い人だったか、もしくはそれに足る理由があったか。校舎なら、単純に言えば運が悪い、だとか。もしかしたら、先祖を手厚く先祖に祈ることで、それを回避しようとしていたのかもしれません。あの女性はしていなかったみたいですけど」

 至極現代的な価値観。日本的な無神論。

 仏壇に線香を殊更上げることはない。他でもない、俺自信も同じような人種だからわかる。

 人のことをやり玉にできるほど言えたことではないのだ。俺は実の親の仏壇に、線香をろくに上げていない。

 仮にやれ、と強制されていたならしただろうか。俺には、自信がない。

「外敵の可能性として、電灯が切れたままでした。仮に霊的な現象により、電灯が消えていた場合。霊が祓えたら、消えるのが道理です」

「でも、電灯は切れたまま。おまけに202号室に繋がる電灯が全て消えていました。これは……明らかに不自然でしょう。母親がいるだけなら、202号室の正面だけでいいはず。自然に考えれば、そこを繋げている線に不調があると考えるのが普通です。でもで考えたなら、これはおかしい」

「無言電話も、投函物も母親がするには不自然です。関連性があるとするなら、他の害を与えようとするから守ろうとしている、というのが道理です。ワンピースの女が階段の方を向いていた、という情報も、理由の一つに挙げられます」

 缶の底に残ったコーヒーを飲み干して、最後の結論を述べる。

「以上の理由から、霊は二種類……母親と、第三者の霊の二体がいたことが考えられます。故に、前者のみ祓ったのは詐欺みたいなもんじゃないか、と考えました」

 話を結べば、わずかな静寂のあと、ケタケタと笑い声が車内に響く。キリンジさんの笑い声は、心の底から愉快そうだった。

「そっかあ! で、どうするのかな? 今すぐに戻って話に行く?」

「何もしませんよ。あくまで得られた情報から仮説を述べただけです。それに……ああいうのは、信じたい人が信じるものでしょう」

 一息に言い切る。言葉は、紛れもなく本心だ。

「苅屋くんは、信じたくないの?」

 キリンジさんの、何気ない質問。

 信じたくない、というのが俺の本音。

 論理的に考えてみればわかる単純な話だ。子供を思っていた親が死んだ後、化けてしかるべきなら、親が化けて出なければ愛されていなかったことになる。

 俺の生みの親は、俺が物心つく頃に死んでいる。そのことを知る祖父母や周りの大人は、みな一様に親が俺のことを愛していた、という。

 しかし証明はできない。あるかもわからない証拠品さえ、家ごと燃えてしまったからだ。俺は偶然外に出ていただけ。証明できないものは、実在も不在も不確定になる。

 けど、それを口にしてどうなるのか。どうにもならない。大人しく蓋をするに限る。

「……まあ、明日になれば、大家さんが電灯を取り替えているんじゃないんですかね。というか、キリンジさんはどうするんですか」

「私も、どうもしないよ」

 聞きたいものも聞けたからね、とキリンジさんは締めくくる。

「じゃあ寿司は……ちょっと遅くなったから後日にして、これからウチに飲みに来る?」

「いやですよ酔っ払いの面倒見るの」

「大丈夫大丈夫! ……少ししか飲まないから」

「前も同じこと言ってたじゃん……」

 非日常から日常へと回帰する。

 こうして、一夜の怪談話は閉幕となった。



 後日、月を一つまたいだ何でもない日の夕方。俺は偶然用事があって近くに来たときに、アパートに足を運んでしまった。

 いや、この世に偶然はないと少なくとも俺は考えている。結果があるなら、当然原因があってしかるべきで。

 つまるところ、俺はあの女性がどうなったのか気になったのだ。



 不確定な推測はいらない。事実を二つだけ述べよう。

 電灯は取り替えられていた。

 202号室は空き部屋になっていた。

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