第8話 お妃様候補の王女様

 意識がふんわり浮上して、最初に気が付いたのは手が暖かいな?という事だった。


 私は目を開けようとしたのだが、瞼が重い。う~ん、と唸りながら目を開くと、愕然としたような顔をしたブレンディアス様と目が合った。あ、ブレンディアス様、と言おうとしたのだが口が動かない。対照的にブレンディアス様は振り向いて大きな声で叫んだ。


「カムライールが目を覚ました!」


 ドアが開く音がして、侍女長とコルメリアが走って来た。二人とも泣いたような目をしている。「カムライール様!」呼び掛ける声も悲鳴の様だ。コルメリアが吸い口を差し出して叫ぶ。


「カムライール様!これを、これを少しでも飲んで下さい。意識がおありの内に!」


 吹口の先を口に突っ込まれ、何だか味がしない液体が流れ込んできた。これを飲めばいいの?私はぼんやりした意識で、動かない口をなんとか動かして二口程それを飲んだ。「良かった!」コルメリアが涙を流して喜んでいる。大げさだなぁ。それより赤ちゃんはどうなったのかしら・・・。と、思いながらも私は意識を保っている事が出来ず、再び意識を失ってしまった。


 そんな風に意識を取り戻したり、失ったりを繰り返して、ようやくはっきり目が覚めたのはどうやら出産から何日も経ってからのようだった。勿論、私にそんな意識は無い。何とか意識が途切れなくなり、それから口に入れられる流動食を食べ続ける事また数日。しゃべれるようになったのは後で聞くところによれば出産から2週間も経ってからだった。びっくりだ。


 ブレンディアス様も侍女長もコルメリアも私がしゃべれるようになると本当に涙を流して喜んでくれた。どういう事なのか。私が説明を求めるとブレンディアス様は恐ろしい事を言った。


「君は危うく死ぬところだったのだ」


 何でも出産の際の出血が多かったらしく、意識を失った私はそのまま死んでもおかしく無かったらしい。というか、医者は恐らくダメだろうと言い、ブレンディアス様は私と最後の別れがしたいからと最初に意識を取り戻した時には二人きりで私の手を握って泣いていたらしい。あの時に飲ませてくれたのは強壮と造血効果のある薬だそうで、本当は物凄くまずい薬だったらしいが、あれが何とか飲めたお陰でギリギリ助かったという事らしい。みんなが喜ぶ訳である。


 まさか死に掛かっていたとまでは思わなかった。出産て怖いわね。出産時の事故で死ぬ女性はかなり多いらしいので、私の例も珍しくは無いのだろうけど。何となく妊娠してしまえばそれなりに生まれるんじゃない?と軽々しく妊活に励んでいた自分を叱ってやりたい。


 というか、大事な事を聞いていなかった。赤ちゃんは?赤ちゃんはどうなったの?ちゃんと生まれたの?それともあんな苦労をしたのに駄目だったのかしら?


 私が恐る恐る聞くと、ようやく侍女長が顔を輝かせた。


「いいえ、ちゃんと元気にお生まれになりましたとも。今お連れします」


 おお、ちゃんと生まれたのか。良かったわ。私がほっとしていると、ブレンディアス様が私の手を強く握って涙声で言った。


「済まなかった。出産がこんなに危険な事なのなら、君に子供を産んで欲しいなどと言うのでは無かった」


「いえ、ブレンディアス様。私が御子を欲しがったのです。ブレンディアス様のせいではありませんよ」


「ありがとう。本当にありがとう」


 ブレンディアス様は後悔していると同時に喜んで下さってもいるようだった。良かったわ。あんなに大変な思いをして死に掛かって、それでブレンディアス様が喜んで下さらなかったらがっかりだもの。


 侍女長が連れて来てくれて、私はようやく我が子を胸に抱く事が出来た。ふわふわ金髪の可愛い赤ん坊だ。瞳は薄い茶色。うん。私とブレンディアス様の御子っぽい。既に生後二週間も経っているからすっかり丸々した赤ん坊だが、生まれたばかりの時はもっと小さくてしわくちゃだったそうだ。


 はー。可愛いじゃない!赤ん坊は不思議そうな顔をして私の方に小さな手を伸ばしている。こんな可愛い子なら頑張って産んだ甲斐があるってものだ。


「男の子ですよ」


 コルメリアが表情を崩して言う。この感じなら侍女たちもこの子を可愛がってくれていそうだ。ちなみに乳母は出産前から男爵家の夫人が来てくれている。自分の手で3人の子供を育てたベテランお母さんで、侍女長の親戚だそうだ。


 男の子!お世継ぎだ。それは凄い。まぁブレンディアス様がお妃を迎えられて、その方が男の子を産んだらこの子は庶子になるんだけど。もしもお妃様が男の子を産めなかったら多分お妃様のご養子になるだろうとの事。


 私がニコニコしながら我が子を見ていると、ブレンディアス様が複雑そうな顔をなさっていた。しかし、気を取り直したように私に言った。


「名前はまだ付けて無い。君はどんな名前が良いと思う?」


 あら、まだ名前を付けて無かったんですか。二週間も名無しだったなんて可哀想に。私が言うと、ブレンディアス様は憮然としたお顔をなさった。


「君が心配でそれどころではなかったのだ」


「私なんかよりも子供の方が大事では無いですか?」


「私にとっては子供より君の方が大事だ」


 後で聞いた話だが、ブレンディアス様は「赤ん坊のせいでカムライールが死に掛けた」と怒っていたらしい。それで赤ん坊に対する態度が微妙なのね。


「私は名前など考えていませんでしたし、名付けは男親の役目ですからブレンディアス様が考えてください」


 私が言うと、ブレンディアス様は困ってしまったようだった。結局、ブレンディアス様は名付けを国王様に丸投げしたらしく、この子の名前は畏れ多くも国王様が付けてくださり(喜んで付けて下さったらしいけど)古の英雄から取ってイーデルシアとなった。愛称はシアだ。


 シアは生まれる時にはあんなに手間をかけさせた割に大人しい男の子で、夜泣きもあまりしないらしく乳母が拍子抜けしていたくらいだった。お乳もよく飲み、私もたまに授乳するのだが中々オッパイを離してくれなくて大変なくらいだった。さすがは私の子供ね。


 ブレンディアス様も可愛がって下さるし、何より私の体調が戻ってから駆けつけて下さった国王様ご夫婦はシアが生まれた事を物凄く喜んで下さって、私に何度も感謝の御言葉を下さった。そして、シアを可愛がること可愛がること。公務の予定をすっぽかしてでもシアの側にいたがって、国王様の側近の方々が非常に困っていた。勿論、私の父母もやってきて、大いに喜んでいたが、やはり単なる孫では無く王孫だという意識が強いのだろう。可愛がり方はどこか腰が引けていた。


 素晴らしいお父さんであるブレンディアス様。可愛いイーデルシア。優しい国王様ご夫婦。シアを可愛がり私を支えてくれる侍女たち。色々助けてくれる父母。良い人達に囲まれて、私は毎日が凄く幸せだった。こんなに幸せになるとは愛人になった時には思いもしなかったな。頑張ってシアを産んだ甲斐があったわ。


 この幸せがいつまでも続けば良いのに。私は心から願っていた。




 その日、私はシアに会う為に子供部屋に向かっていた。


 私は平民だったが、私が生まれた頃は父母は裕福な商人でしかも忙しかったため、乳母に育てられた。しかし、父母は出来る限り私の所に来てくれたものだ。だから私も、再開して忙しくなった社交の合間には出来る限りシアの側にいるようにしていた。ブレンディアス様も毎日お帰りになると必ず一度はシアの顔を見に子供部屋に寄る。


 いそいそと廊下を歩いていると、下級侍女が立ち話をしていた。下級侍女は勿論全員知っているし、お友達ばかりだ。顔を合わせれば楽しく挨拶を交わし雑談などをするが、この時彼女たちは私に気が付かなかったようだ。何やら深刻な顔で話し合っている。ふと、会話の断片が私の耳に飛び込んで来た。


「じゃあ、王太子様のお妃は決まりね」


「カムライール様もお可哀想に」


 私は愕然となった。何?何の話⁉︎私が顔色を変えると私の後ろを歩いていた侍女長が血相を変えて叫んだ。


「あなたたち!」


 下級侍女達は飛び上がって驚き、私を見て真っ青になった。


「か、カムライール様!」


「今のは?今のは何の話なのですか!」


 私は勢い込んで聞いたのだが、下級侍女たちは頭を下げて震えたまま返事をしない。私は振り返って思わず叫んだ。


「ハーマウェイ!」


 いつもハーマウェイと呼ぶようにと言われながら侍女長と呼んでしまうのに。それくらい切羽詰まっていたのだ。侍女長は一瞬ぐっと迷ったような表情を見せた後、少し俯いて言った。


「分かりました。殿下には口止めされていたのですが・・・。お話致します」


 自室に帰り、私は震える身体をソファーに落とした。コルメリアが直ぐに肩にケープを掛け、お茶を入れてくれた。私の正面に立つ侍女長も心配そうな顔をしてくれている。


「カムライール様。落ち着いてお聞きください。けしてカムライール様がお考えの様なお話ではありません」


「で、でも、お妃さまの話なのですよね」


 侍女長は跪いて私の手を握って落ち着かせようとする。


「そうです。殿下に隣国のフロルン王国の姫君との縁談があった事はご存知ですね?」


 それは知っている。確かほぼ婚約まで行き掛けたのだが、ブレンディアス様の女癖の噂を聞いたフロルン王国側が怒って断りを入れて来て破談になったと聞いた。


「そのフロルン王国から我が国に再度縁談の打診があったのです」


 何でも、ブレンディアス様に男の子が生まれた事を聞きつけたらしい。そもそも国王様もブレンディアス様も子供が出来難い体質だと思われており、その王子に嫁いだら子供が出来ずに姫が苦労するのではないか?と危惧されたのも破談の原因の一つだったとか。


 どうやら女癖の悪さも収まって愛人一人(私の事だ)を熱烈に愛しているそうで、女性をちゃんと愛せるようだし、男の子が既にいればその子供を養子にすれば跡継ぎには困らないから輿入れした姫君に子供が出来なくても心配無い。これなら我が姫君を嫁がせても問題は無いだろう、と再度の縁談の打診がフロルン王国からあったそうな。


 実はそのフロルン王国の姫君、ブレンディアス様と一つ違いの23歳であるヘルミーネ王女とブレンディアス様の縁談は、お二人が幼少の頃から繰り返し持ち上がっては消えてを繰り返していたそうだ。7年ほども前には両国の間で戦争が起き、その時に完全に無くなった筈が、停戦してその証として再度婚約の話が持ち上がり、寸前でブレンディアス様の悪評が問題になって無くなりと紆余曲折を繰り返したために、ヘルミーネ様の縁談は宙ぶらりんになり、23歳にまでなってしまったそうだ。勿論、我が国とブレンディアス様のせいでは無いのだが、どうも嫁に行き損ねた責任を匂わせて来てもいるらしい。


 我が国エイマー王国とフロルン王国は宿命のライバルともいうべき間柄で、何回も戦争をしているそうだ。ここらで婚姻を交わしてお互いの相互理解に繋げようじゃないか、という話なのだそうだ。その割には近年に戦争までしている訳だが。ちなみにその戦争で損したのが私の父母の破産の理由の一つである。


 両国にとって良い話ではあるそうだ。そのため、以前からこの縁談を推している貴族は喜んだらしいが、この縁談をブレンディアス様が一蹴したそうだ。


「私の妻はカムライール一人で良い」


 と断言して、縁談の打診に来たフロルン王国の貴族に丁重に断りを入れ、断りの書簡を書いてヘルミーネ様とあちらの国王に送ったそうだ。国王様も王妃様も使者に丁重に断りを入れ、使者を丁重にもてなした後帰ってもらったらしい。これは実は一カ月も前の話だという。ブレンディアス様が口止めしていたから私の耳には入らなかったのだ。


「どうして口止めなど?」


「その頃はまだカムライール様の体調が本調子ではありませんでしたから、ショックを与えたくないというご配慮ですよ」


 確かに産後のあの体調でそんな衝撃的な話を聞いたら寝込んでしまったかもしれない。


「しっかり断りを入れたのですが、フロルン王国が諦めなかったのです」


 なんでも、子供を産んだのは愛人で王妃では無いのだし、何も愛人と別れろと言っている訳でもない。平民出身で妃として格が足りないから愛人なのだろうし、別に妃を迎えるのに障害は無いでは無いか、と言って来たそうだ。確かに言う事に一理ある。ブレンディアス様がお妃様を迎えない訳には行かないのだから。


 両国友好の懸け橋、という立派な建前は兎も角、ブレンディアス様の妃となれば将来の王妃だ。こちらの内政に干渉する絶好の口実になる。この機会を逃したくないのだろうとの事。後、年齢的に嫁ぎ遅れになりつつあるヘルミーネ王女の輿入れ先に困っているという切実な事情もあるのだろうという。


 何度か早馬で書簡がやり取りされた挙句、フロルン王国から「とりあえず王女をそちらに顔見せに行かせるから、顔を見て話をしてから考えてくれ」と無理やり王女が来ることが決まってしまったそうだ。ずいぶんと強引な話だが、直接ブレンディアス様が断ってその話が終わるならと、このお見合いで決定では無い、と約束させて王女の来訪が認められたのだという。


 その王女の来訪が来週なのだという。王族のゆっくりした馬車での移動だと両国の王都間を移動するには2週間は掛かるから、ヘルミーネ様はとっくに出発している筈だ。私の耳に入らないようにブレンディアス様が厳重に口止めしていたおかげで私の耳には入らなかったようだが、社交界でも市民の間でも王女の来訪は噂になっていたらしい。それがうっかり私の耳に入ってしまったということだ。


 私だけが知らなかったなんて、と口止めを恨めしく思うと同時に、小耳に挟んだだけでこんなにショックなのだから、社交界で普通に聞かされていたらその場で平常心を失って大変な事になる所だったから、口止めして頂いていて良かったのかも知れない、とも思う。


「殿下はヘルミーネ様にお会いして面と向かってしっかりお断りするつもりだと言っておりました。カムライール様が案ずるような事にはなりません。ご安心ください」


 侍女長が励ましてくれるが私の心は沈んだままだった。フロルン王国は我が国と対等の勢力を持った国家だ。そのフロルン王国からの要求を強く拒絶するのは難しいのではないか。ましてブレンディアス様が結婚していないのは事実で、お妃には他国の王族レベルの方が相応しく、フロルン王国の姫ともなれば正にピッタリだ。


 私がブレンディアス様のお妃になれないのは明白なのだ。私の存在を理由にして輿入れを拒絶するのはおかしいだろう。お妃とは別に愛する者を作る為にご愛人様の制度はあるのだから。


 私があんまりにもショックを受けているのを見た侍女長は、私を励ますように言った。


「大丈夫です。もしも輿入れがあるような事があっても私たちはカムライール様の味方です」


「ありがとう。ハーマウェイ」


 しかしながら気分は上昇しないまま、夕方になり、ブレンディアス様がお帰りになった。あからさまにテンションが落ちている私を見てブレンディアス様は驚かれたようだった。そして事情を侍女長に聞いたブレンディアス様は激怒なさった。


「その下級侍女は今すぐ首にしろ!」


 私は慌てた。下級侍女は全員私が下級侍女だった頃からお世話になった方ばかりだ。


「悪気があっての事ではありません。私を案じてくれていたのです。勘弁してあげてください」


「しかし・・・」


「私は大丈夫です。少し、驚いただけですから」


 ブレンディアス様は天を仰いだ。


「カムライール。キチンと説明しようと思う。大丈夫か?」


「だ、大丈夫です。聞きます。聞かせて下さい」


 私たちはソファーに並んで腰掛けた。ブレンディアス様が私の頭を抱いて髪を撫でてくれた。


「もっと簡単に話が終わると思っていたのだ。先月に断りを入れて終われば、産後で大変な君に余計な負担を掛けるよりは、と君に言わなかったのだ」


 ブレンディアス様は後悔の溜め息を吐いた。


「どうしたわけか先方がこちらの断りに納得しなかったのだ。私にも父上にも受け入れる気がないというのに、どうしても輿入れすると言って聞かないのだ」


「どうしてお断りになるのですか?フロルン王国の姫君ならブレンディアス様のお妃様に相応しいのでしょう?」


 私が言うと、ブレンディアス様は目を剥いて驚いた。


「君は私が妃を迎えるべきだというのか?」


 私はグッと胸を突き刺されるような心地になりながらも頷いた。


「はい。まさか王太子様がお妃を迎え無い訳にはいきませんでしょう?隣国の王女であれば相応しいではありませんか」


 ブレンディアス様は信じられないというお顔をなさった。


「・・・君はそれで良いのか?」


 私は自分がバラバラになるような心地で答えた。


「・・・私は、最初から愛人ですから」


 ブレンディアス様が衝撃を隠し切れないという表情をなさった。そうなのだ。私は愛人。社交界でブレンディアス様の妻の一人として扱われようが、所詮は教会で愛の誓いを果たしていない神に認められていない関係に過ぎないのだ。


 イーデルシアを産んだのもお妃様に子供が産まれなかった時の予備のため。勘違いしてはいけなかったのだ。勘違いしてずっとブレンディアス様の愛情を独占出来るつもりでいた。だからショックを受けたのだ。お妃様が決まりつつある今、私は自分の地位を再確認する必要があるだろう。


 ブレンディアス様は怒ったようなお顔でいらっしゃる。どうして、何を怒ってらっしゃるのか。分からない私が見上げていると、ブレンディアス様は私の頬を両手で挟むと、強制的に真っ正面から私に視線を合わさせた。


「カムライール、私は君に何度も言ったはずだがな」


「な、何をでしょうか」


 ブレンディアス様はぐぐぐっと私に麗しいお顔を近付けながら言った。


「私の妻は君一人だと。君だけがいれば良いのだと」


「で、でも、ブレンディアス様がお妃を迎え無いわけには・・・」


 ブレンディアス様は口付けするような近さで、噛み付くように言った。


「簡単だ。君が妃になれば良い」


 ・・・とんでも無い事を仰ったわよ、この人。正気かしら。と、いう顔で見てしまったのだろう。ブレンディアス様は苦笑しながら私を抱き寄せ、髪を撫でた。


「私は最初からそのつもりだったのだ。その為に色々動いていたのだぞ。それに、あんなに頑張って私の子を産んでくれた君が私の妃になったからと言って誰が文句を言うものか」


「ですが、私は平民で・・・」


「もう爵位を授与されて二年も経っているし、君の父母も貴族に復帰している。そもそも君は血筋も良いのだし、既に周囲は平民扱いしていない。それに、私の子を産んだのは戦で大将を討ち取るよりも大殊勲ではないか」


 どうやらブレンディアス様は本気のようだ。私は狼狽した。私はブレンディアス様から身体を離そうとしたが、逆にしっかり抱きしめられてしまった。


「君は心配しなくて良い。ヘルミーネが来たら彼女と会って誠心誠意断る。そしてその後君を妃にする。私はもう決めたのだ」


 私は感動のあまり声も出せなかった。ブレンディアス様が私の事をそんなにも想って下さっているとは。いや、溺愛して下さっているとは思っていたけど、それは私を愛人として想って下さっているのだと思っていたのだ。まさか妻として、妃にしようと思って下さっているなどとは夢にも思わなかった。


 だが同時に恐ろしくもなった。平民の自分が王太子様のお妃、つまり将来の王妃になるなどとんでもない事だ。貴族界では大騒動になるのではないか。ましてや隣国の姫君の輿入れの話があるのだ。それなのに、姫君を断って平民の私を選ぶなど許されるのだろうか?


「・・・そんな事をしたら隣国との関係が壊れてしまいませんか?」


「そんな事を君が気にする事は無いよ。なに、たとえ戦争になろうとも断る」


「だ、ダメです!」


 私は真っ青になった。身体を無理やりブレンディアス様から引き離して叫ぶ。


「戦争などになったら、両国の人々が大変な事になります!お願いです。そんな事は止めて下さい!」


 私の剣幕にブレンディアス様が驚いている。しかし、私は思わず出てしまった涙を両手で拭いながら言った。


「私は平気です。ブレンディアス様が愛して頂けるなら、愛人のままでも満足です。両国のために姫君を御娶り下さい」


 ブレンディアス様の顔色がスーッと青くなっていく。怒らせてしまったかもしれない。でも私のために両国の関係が悪化して戦争などが起これば多大な人々の生活に被害が出てしまう。私の両親が破産したのは戦争で作った借金のせいなのだ。私一人が我慢して戦争が回避出来るならそれが一番ではないか。


 私はブレンディアス様から身体を離し、一礼して、廊下へ駆け出た。ブレンディアス様は呆然とした顔をなさっていた。私は子供部屋に駆け込んでイーデルシアを抱き締めた。大人しいイーデルシアはされるがままに抱かれている。


「どうしました?カムライール様」


 乳母が心配そうに言ってくれるが私は次第に起こる震えが止まらなくなってきた。追い掛けてきたコルメリアが背中を撫でてくれる。


「大丈夫です。カムライール様。今日は殿下にはご自分のお部屋で寝るように言いました。お戻りになっても殿下とお顔を合わす事はありません」


 今日はブレンディアス様と顔を合わせられない気分だったからそれが良いのかもしれない。私は震えるままシアを抱き締める。そう。お妃さまが来ればこの子はお妃さまのご養子になる。そうすればこうして抱き締める事も叶わぬ存在になるのだ。そんな事はとっくに分かって、覚悟していたつもりだったが、こうして実感してしまうと恐ろしくてたまらない。


 慣れ親しんだお屋敷、イーデルシア、そしてブレンディアス様。全て手から零れ落ちて行く。自分には過ぎた幸せが失われて行く。そういう予感が身体を包んで、私はその寒さに体をただ震わせていた。



 一週間後、フロルン王国の姫君、ヘルミーネ様が王都に到着なさった。王宮に部屋が用意されて、ヘルミーネ様は王宮に入られた。


 ヘルミーネ様の歓迎式典、夜会には私も出なければならない。本当はブレンディアス様は私を出さない気だったそうだ。というかヘルミーネ様とは王宮の門でお会いして、そこで縁談を断り、そのまま追い返すつもりだったと聞いた。そんな無礼な事をしたら戦争になっても文句は言えない。私は胸を撫で下ろした。私があの剣幕で戦争を嫌がったから穏便にお迎えすることにしたらしい。


 ブレンディアス様はあれからも何度も私に「妃に迎えるのは君だから」と仰って下さる。しかしそんな事に首を縦に振るわけにはいかない。私は「ヘルミーネ様をお妃にお迎え下さい」と言い、あれ以来私達は違うお部屋で寝ている。正直、寂しくて仕方が無いが、お妃さまが来ればこれが日常になるのだから慣れなければならない。


 歓迎式典の当日、私は薄い黄色のドレスを身に纏い、髪は下ろした。再三コルメリアや侍女長は上げるように言ってくれたが、事前に調べた限りでは、愛人はお妃様が一緒に出席なさる時は髪を下ろすものだと分かったからだ。


「正式にお妃が決まっていない限り、殿下の妻はまだカムライール様お一人です」


 とコルメリアは涙を浮かべて抵抗したが、私が懸命に頼むと仕方なくハーフアップにセットしてくれた。ヘルミーネ様の輿入れの歓迎式典で愛人があえて挑むような装いをするのは避けるべきだろう。私はヘルミーネ様と対決する気は毛頭無い。ヘルミーネ様がお妃になってもブレンディアス様の愛人として、ブレンディアス様に今ほどで無くても愛し続けて頂ければ良いのだ。それに、イーデルシアをご養子にして頂くのに心証を悪くしたらイーデルシアの境遇に影響があるかもしれない。


 私が髪を下ろした姿でエントランスロビーに現れると、ブレンディアス様は物凄い形相で侍女長を睨んだが、侍女長の悲しげな顔で私の意向である事が分かったのだろう。仕方無さそうに私に手を差し出した。


 王宮で馬車を降り、私の御披露目の時のように廊下を進む。同じ大謁見室でヘルミーネ様を歓迎する式典が行われるのだ。ひそひそざわざわしている貴族たちの間を歩く。私に向けられる視線には同情の色が濃い。私は仲の良い貴族婦人の何人かに挨拶をしながら謁見室に入った。


 私は王族では無いが一応伯爵夫人、しかも愛人様なのでかなり上位の位置にいなければならない。国王様ご夫妻とブレンディアス様は階の上、そのすぐ下には傍系王族たる公爵様がお二人。その次に王国には10家しかない侯爵様。そのすぐ次が私の位置になる。ブレンディアス様は時間直前まで私の側にいて下さったが、王太子様の席は階の上だ。悲しそうな顔で私の頬にキスをなさると歩き去って行かれた。私の後ろの侍女長がポンポンと背中を叩いて慰めてくれたし、コルメリアは手を握ってくれている。


 時間になり、国王様と王妃様、王太子様がご光来なさった。大扉から入り、赤い絨毯を進んで行く。私達は頭を下げてお待ちする。皆様が階上の席に着かれ、しばらくすると、侍従が大きな声で今日の主役の到着を告げた。


「フロルン王国王女、ヘルミーネ・ルクタクス・フロルン王女、御入来!」


 大扉が開き、ヘルミーネ様と思しき女性とその付き添い数人がしずしずと入場して来た。あれが、ヘルミーネ様か・・・。


 背が高い女性だった。そして何というか、王妃様レベルの美人だった。つまり、三国一と言って良い、物凄い美人。


 亜麻色のウェーブした美しい髪が腰の辺りにまで流れ、肌はきめ細やかに白く輝き、流麗な女性らしい曲線を描く身体をベージュと金のドレスで包み、流れるような素晴らしい歩様で進んでいる。滑らかな輪郭に綺麗に収まった秀麗なお顔。大きなエメラルドの様な瞳で周囲を睥睨する様は流石に一国の王女だった。


 私の周囲でも感嘆の溜息が漏れていた。そう。これは圧巻だ。凄い。物凄い美人だ。私が敵う敵わないというレベルの話では無かった。私も我知らず嘆息を吐いてしまった。


 ヘルミーネ様は階の前で跪き、国王様と挨拶を交わされている。その態度も堂々としていて、国王様を前に風格さえ感じる態度だった。私は国王様とヘルミーネ様のやり取りを聞きながら、何となく吹っ切れたような、そんな気さえした。この方なら仕方が無い。どうも私が敵うところなど一つも無ではないか。安心してブレンディアス様のお妃、そしてイーデルシアの母親の地位をお譲り出来る。私はそう思った。


 謁見の儀が終わり、謁見室から待合室に移る。私はブレンディアス様の控室に入ったのだが、直ぐに侍従が来て違う部屋に行ってくれと言う。どうやらブレンディアス様がヘルミーネ様をエスコートして広間に入るとの事で私をエスコートすることが出来ないらしい。それを聞いて侍女長とコルメリアが激昂しかけたが、私は二人を止めて控室を出て、大広間(外国の来賓を歓待するために使われる一番格の高い広間だ)の共同控室に行った。そこは大きな控室に貴族たちが集まっている所だ。私が入ると部屋にどよめきが起きた。私が王宮の夜会ではブレンディアス様のエスコートを受けて殿下の控室から二人で出てくるからだろう。


「これは・・・、やはりヘルミーネ様がお妃に・・・」


「しかし、殿下はカムライール様をどうなさるおつもりか・・・」


 チラチラとこちらを見ながら噂話をするのが聞こえる。私は椅子を用意してもらい、腰を下ろした。ここで気を抜いてだらしのない姿を見せるわけにはいかない。私は姿勢を正し、微笑みながら、挨拶に来る貴族と談笑を交わしていた。


 そこに足音高く歩み寄って来る人がいた。黒いコートに似合わないから止めて下さいと言うのにいつも締めるこげ茶色のネクタイ。キラキラと光る金髪。ブレンディアス様は私の所に一気に歩み寄ると、立ち上がりかけた私をお腹にがっしりと抱き締めた。


「済まないカムライール!」


 私は公衆の面前で抱きしめられた事に慌てたが、ブレンディアス様は大きな声で私に詫びた。何でしょう。とりあえずマナー違反ですから!私はブレンディアス様の背中を叩いた。しかしブレンディアス様は構わず私の前にしゃがみ込み、改めて私の首をかき抱くと言った。


「来賓だから私がエスコートすべきだというので仕方無いのだ!許してくれ!入場したらすぐに君の所に駆け付けるからな!」


 そして私の唇に軽くキスをして、名残惜しそうに私から離れると、また足早に去って行かれた。周囲の者は呆然だ。ざわざわとしている貴族たちは混乱しているようだった。それはそうだろう。ブレンディアス様が私ではなくヘルミーネ様をエスコートすると聞いて「ヘルミーネ様がやはり妃になるのか?」と思っていたところにこれである。


「カムライール様、口紅が乱れてしまいました。直しましょう」


 侍女長が言ってくれたので、私は立ち上がり化粧室へと向かった。


「あれなら大丈夫そうですね」


 侍女長が言った。コルメリアも憤然とした顔で言う。


「エスコートなど断って男を見せる場面ではありませんか!まったく情けない」


 外国からの来賓、しかも輿入れの打診をしてきた王女の歓迎会で、王女をエスコートせずに、愛人の手を引いて入場なんかしたらヘルミーネ様に真正面から喧嘩を売る事になる。私がそういう事を望んでいないと分かってブレンディアス様が妥協して下さったのだろう。その上で自分の気持ちに変わりが無い事をああいう形で貴族社会に示して下さったのだ。ブレンディアス様のお気遣いが私は正直に言って物凄く嬉しくて幸せだった。あの方は私の事を本当に考えて下さるのだなぁ。


 そう思ったら涙が、なぜか涙が出てきてしまった。コルメリアが慌ててハンカチを出して押さえてくれるが、中々止まらない。侍女長が優しく言った。


「大丈夫ですよ。泣いてしまっても化粧品は有ります。しっかりお化粧を直しましょう。お化粧は女の武装。カムライール様はこれからヘルミーネ様と対決なさるんですからね」


 対決?あんな素敵な王女様と対決なんて出来るわけが無い。出来る訳ないけど・・・。


 私の心にはこの時初めて、ブレンディアス様を誰にも渡したくない、という思いが芽生え始めていたのだった。


 





 

 





 


 

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