第7話 妊活をする

 御披露目も無事終わり私に日常が帰って、来なかった。


 無理もない事ではある。私は爵位を得て王太子様の正式な愛人となってしまった。王太子様には現在お妃様がいらっしゃらない。婚約者もいない。愛人とはいえ公的に認められている私という存在が王太子様の唯一のパートナーなのだ。


 すると王太子様が出席されるパートナーを伴う様々な行事でに私も出席しなければいけなくなるのだった。行事、夜会、園遊会、昼食会などなど。


 それに加えて、私は伯爵夫人として貴族女性の開催するお茶会にも呼ばれるようになってしまった。伯爵夫人としてとは言うが、実際にはこれも王太子のご愛人様に対してのご招待だ。なのでこれも断れない。断ったりしたら王太子様が悪く言われてしまう。


 つまりお屋敷でのんびり暮らして王太子様のお帰りだけを待つような呑気な日常は終わりを告げ、貴族女性としての忙しい毎日が始まったのだった。どうしてこうなった。


 しかもどうやら私は王妃様に気に入って頂けたらしく、頻繁に内宮に呼び出され、お食事やお茶をご一緒するようになった。二人きりの事もあれば王妃様と仲が良い貴族夫人と一緒の事もあった。いや、二人きりもかなりの緊張感だが、王妃様のお友だちは全員高位の貴族夫人だ。場違いだ。競争馬の中にロバが紛れ込んだような違和感がある。しかし王妃様が息子の愛人として好意的に紹介してくれたお陰で私が社交界にスムーズに入り込めたのも事実なので、それには大変感謝しているけど。


 お茶会や夜会は、出るだけでなく私も開催しなければならなかった。しても良いではない。しなければならないだ。王太子様の愛人なら当たり前の事であるらしい。ちょっと待ってくださいよ。私にそんなスキルはありませんよ。どんな無茶振りですか。子供の頃からそういう教育を受けてるような貴族令嬢とは違うんですからね!当然だが私には無理難題だったので、全面的に侍女長とコルメリアにお任せするしかなかった。


 コルメリアは嬉々としてお茶会や夜会の準備をしてくれた。子供の頃から親の開催する社交行事を見て「将来はこういう事をしてみたい」と色々趣向を考えていたらしい。それが実現出来る。しかもご愛人様のふんだんな予算を使って!と嬉しそうだ。


 でも私のためにアイデアを使ってしまったら、自分が結婚してから困るんじゃない?と私が言うと、コルメリアは乾いた笑いを浮かべた。


 なんでも、コルメリアは侯爵家の三女なのだが、家の予算的に嫁に出して貰えるかは微妙なところなのだという。それで親が立てた、王太子妃を狙うために王太子様の侍女となり、王太子様を誘惑するという計画に乗ったのだという。誘惑には成功し、見事コルメリアは本懐を遂げた。これで王太子妃!と喜んだのは一瞬で、すぐに処女喰い王子の話を知り、実際王太子様はその後は無視。騙されたと怒っても後の祭りだった。


 王太子様が自分の上級侍女全員に手を付けた話は有名で、コルメリアが処女で無いことは知れ渡ってしまったと言っても良い。そもそも嫁に行けるか微妙だった自分が良縁に恵まれる可能性は極小になっただろう。行けたとしても格下の子爵辺りになるだろうから、夜会などそう開けないし、豪華な趣向の実現など夢のまた夢だ。だからご愛人様の侍女として夢が実現出来るならこれ以上の事は無いのだとのこと。なんか申し訳無い。


 コルメリアと侍女長の手配でお茶会や夜会は無事に開催出来たのだけど、二人に任せっぱなしにしている訳にはいかず、私も段取りや準備方法などを勉強した。あと、私もアイデアを出せと言われたので、異国風の装飾を提案してみた。


 準備はお任せ出来ても、ホストとしてのおもてなしは私がやらなければならない。私は侍女長の事前講習を必死に覚えて、おほほほ、うふふ、と笑って何とか乗り切った。お茶会は兎も角、夜会は王太子様の屋敷で開くのだから主催は王太子様の扱いになり、それは上位貴族がこぞって出席する事を意味した。名前と顔を覚えるだけでも一苦労で、各々の家族関係、友人関係、敵対関係まで覚えて気を配らなければならない。一夜漬けも本気でやらなきゃ追い付かない。必死だった。幸い、夜会はせいぜい半年に一回くらい開催すれば十分な事で、毎月やれと言われたら私は過労死していたかもしれない。


 慣れない上に忙しい日々で、正直、なんで私がこんな苦労をしなければならないのか?と深刻に疑問に思わないでも無かったが、私はそもそも物事を投げ出せない損な性質であることと、やはり王太子様と離れるのはもう嫌だったので頑張った。王太子様の愛人として頑張らなければならないのなら頑張るしか無いのだ。


 王太子様は私が爵位を得て公的な愛人となってからは出る夜会の全てで私を伴った。そのため、私はそれまで少しは疑っていた彼の女癖が完全に誤解であることを知った。王太子様は夜会で私の側をほとんど離れず、ダンスもほとんど私としか踊らない。儀礼上仕方無く踊る時でも手を触れ合って少し離れて踊るダンスしかせず、ワルツは本当に私としか踊らない。


 実は私が愛人となり仲睦まじくしている様子を見て、王太子様はちゃんと女性を愛せるのだと処女喰い王子の評価は少し向上したらしい。そのため、空いているお妃の座を狙って令嬢が何人か王太子様に粉を掛けてきたのだが、王太子様は以前のようにけんもほろろに追い返すのではなく、丁重に私をいかに愛しているかを語って、だからダメなのだと断っていた。私のすぐ横で。熱烈なのろけを聞かされる令嬢も災難だったが、間近で聞かされる私もいたたまれない。


 私は自分が今や王太子様に溺愛されている事を知っていた。どんな鈍い女でもあれだけ大事にされれば分かるだろう。兎に角王太子様は私を大事にして下さったのだ。夜会での振る舞いもそうだし、私が苦慮していたお茶会や夜会の開催にしてもお忙しい中で出来る限りの手助けをしてくださったし、なるべく開催しないで済むように配慮して下さった。愛人の責任だからと無理強いすることはけしてせず、無理であれば私が断るからとまで言って下さった。侍女長にも絶対に無理はさせないようにと言いつけて下さった。


 慣れない貴族の世界で悪戦苦闘していた私にとって、王太子様が絶対の味方でいて下さった事は本当に嬉しく、だからこそ王太子様にご迷惑を掛けられないと奮起して難局を乗り越える原動力にもなった。口先だけではなく心底私を思いやって私に寄り添って行動してくれる。だからこそ私は王太子様を信じられたし、信じることをエネルギーにして社交を乗り切れたのである。


 私はもう王太子様を心底お慕いするようになっていたし、自分が王太子様の事実上の妻であることが誇らしく思えるようになっていた。自分に出来ることなら王太子様になんでもして差し上げるつもりだったし、どんな努力もするつもりだった。


 ただ、それと同時に怖くなってもいた。王太子様に捨てられるのが怖くなっていたのだ。なにしろ私は愛人だ。それは、爵位まで頂いた「事実上の妻」ではあるが、本当のお妃様ではない。もしも王太子様が正式にお妃様を迎えれば、私は自動的に「二番目」になる。そうなれば私はおそらくこのお屋敷にもいられず、別に屋敷を頂いて王太子様のお通いを待つ身となる。毎日王太子様のお帰りをお待ちし、毎日王太子様の体温を感じながら眠っているこの幸せな生活は続けられないのだ。それどころか本当は女性に誠実な王太子様だ。お妃様を大事にするあまり私を忘れてしまわれるかもしれない。その事を考えると私は胸が詰まるような心地になった。


 そうなれば以前のような気楽な生活が戻って来る。戻ってくるのだが、私はもはや、どんな苦労をしても王太子様と一緒の生活が良い、と思ってしまっているのだった。愛は人を変えるものである。自分でも自分がこんなに王太子様に執着するようになるとは思わなかった。しかも意外と嫉妬深く独占欲も強いようなのである。王太子様が他の女性と話しているのを見るだけで胸が騒ぐし、儀礼的にでも踊っているのを見ると自分が捨てられてしまう日を思って悲しくなってきてしまうのだ。


 自分に自信が無いのだ。私は所詮平民だし、ご愛人様になれたのが既に物凄い幸運なのだ。王太子様があれほど女性からの評判が悪くなければ平民が王太子様の愛人になるなど認められる筈がないのだから。


 私が王太子様に御恩を返せる方法は何か無いだろうか。私はいつも考えていた。私は何も持っていないし、何も出来ない。私をこんなに大事にして下さって、欲しいものは何でも与えて下さる王太子様に何も返せないのは辛い事だった。ある日私は侍女長に聞いてみた。侍女長はビックリしたような顔をした。


「カムライール様が殿下と仲睦まじくしていらっしゃるおかげで、女癖についての悪い噂は止みました。それに殿下は前よりずっと幸せそうですよ。それで十分ではありませんか?」


「でも、私は何もしていません。殿下のお望みを私も叶えたいのです」


 すると侍女長は少しためらったような表情で言った。


「・・・一番殿下が喜ばれるのは、カムライール様が殿下の御子をお産みになる事だと思いますが・・・」


 私はハッとなった。確かにそうだ。私は愛人様。本来はお妃様に御子が出来ない時に代わりに御子を産むのが役目みたいなものだ。王太子様は今まで多くの女性と関係を持たれても一度も子供が出来ていない。王太子様は国王様の一人子。御子を得て王家を存続するのは義務なのだ。


 それだ!私はグッと手を握った。・・・が、そこで固まった。御子を産むって言っても何すれば良いのよ。産みたくて産めるなら王太子様の御子は今頃一ダースくらいいるんじゃない?


 私は妊娠するにはどうしたら良いのか調べ始めた。王太子様の図書室にはそんな本は無かったので、お茶会で王宮に行った時に大図書館に寄って調べたり、買い物する為に呼んだ商人から聞いてみたり、貴族夫人や下働きの女性から聞いたりもした。


 まぁ、そんな簡単じゃないわよね。夜中に馬の尻尾を抜いてきてそれを煎じて飲めとか、東に向かって毎日蝋燭を灯せとか、鵞鳥の血を額に塗れとか、経産婦の月経の血を旦那に飲ませるとか、怪しい話ばかりでろくな情報は集まらなかった。しかしそれでもどうやら性交したら妊娠し易い時期がある事と、妊娠するのに良いと言われる食べ物やお茶がある事が分かり、実践してみる事にした。


 妊活自体は王太子様には内緒だったが、普段私から行為を求める事など無いのに、妊娠するのに良いと言われるタイミングに私から「したい」と言うとかなり王太子様に不審がられた。それでもして下さったけど。その内多分侍女長からの報告でバレてしまった。王太子様は笑って言った。


「言ってくれれば良かったのに。君との子供が欲しいのは私も同じだ」


 物凄く嬉しい事を仰って下さった。だけどこれは私の恩返し。王太子様にご協力頂くのは房事のタイミングだけにするようにしたのだが、王太子様も食べ物などで気を使って下さっているようだった。


 私は妊活に励みながらも「まぁ、難しいわよね」とは思っていた。聞けば国王様と王妃様も妊活には苦労し、国王様は王妃様が妊娠出来ないなら愛人を持つように、との貴族界からの圧力をはねのけるのに大変苦労したのだそうだ。大事な王妃様を妊娠させる為に占いや祈祷にまで頼ったというから切実だ。王太子様がお生まれになるまで結婚から6年も掛かったそうな。


 その国王様の御子であるし、これまで数十人と寝ても子供が出来なかった王太子様なので、私が妊活を頑張ってもなかなか難しいのではないか。と侍女長は言っていた。実際、妊活を始めてから半年以上は何の変化も無い。私は少し落ち込んだのだが、王太子様は優しく「別に子供など産まれ無くとも君の価値に違いが出るわけではない」と言って下さった。でも、私が王太子様に出来る御恩返しはこのくらいだ。


 私は忙しい社交をこなし、王太子様との日々を楽しみながらも、思い付く限りの妊活に励んでいた。怪しいとは知りつつもおまじないもやった。額に鵞鳥の血を塗って寝るだけで良いならやっても損は無い。王太子様が気味悪がったから一回しかやらなかったけど。



 そんな風にして御披露目から一年が経過した。私は流石に社交にも慣れ、楽しむ余裕も出来、相変わらず王太子様はお優しく、つまり幸せそのものの生活を楽しんでいた。


 私が頂いたローデレーヨ伯爵領の経営は父母に丸投げしたのだが、父母に会った時に聞く限りではつつがなく張り切って経営してくれているようだった。そもそも父母には確かな経営手腕があると私は思っている。6年ほど前の隣国との戦争で損を出し、それを取り返そうと焦らなければ投資詐欺などに引っかからなかっただろう。実際、領地経営と商売の再興でかなり財産を戻したらしい。


 父母はそれを王国に寄付したり慈善事業や公共事業に寄付したり、社交で高位貴族を接待したりして景気良く使っているようだ。どうやらローデレーヨ伯爵夫人、つまり私の名声を高めるためらしい。私は平民出身の新興貴族なのだから、あざとい位に名を売るくらいで丁度良いのだと父母は言うのだ。ちなみに父母は先祖の身分であるサリマルト伯爵の名と地位を授けられているが、領地までは戻されて無いから私の領地経営を上手くやってそれを実績に領地を貰う腹らしい。父母の宣伝のおかげで私の市井や社交界での評判は悪く無いようなので感謝しておくべきなのだろう。


 王太子様、ブレンディアス様は最近「私的な場所では名前で呼んで欲しい」と仰るようになり、お屋敷ではそうお呼びするようにしている。恐れ多いので困るのだが。だがブレンディアス様はすっかり私を妻として扱って下さり、そして私の不安もご存知らしく、何度も「君だけが私の妻だから」と仰って下さるのだ。しかし、王太子様がお妃を迎え無いなんて無理だよね。


 妊活は継続していた。妊娠し易くなるには適度な運動も大事だと聞いたので、体操や乗馬も初めてみた。乗馬はブレンディアス様が教えて下さった。まぁ、そんなに簡単に結果は出ないだろうと思っていたから、色々やりながらも私は半分くらい諦め始めていた。


 のだが。


 ある頃から私は体調不良を自覚し始めていた。最初は微熱だったか、立ち眩みだったか。あまり経験したことがない症状だったので最初は気のせいだと思ったくらいだ。


 が、その内に頭痛だとか目眩だとか、結構深刻な症状も出始めた。あれ?これ病気かしら。私は少し不安になった。私が病気になったなんて言ったらブレンディアス様にご心配を掛けてしまうけど、悪い病だとブレンディアス様にうつしてしまうかも知れない。


 迷っている内に一気に症状が悪化してしまった。ある朝起きたら目眩、頭痛、吐き気で頭がグルグルしている。あ、動けない。


 なかなか起きない私をブレンディアス様が心配そうに見て、私の顔色を見て驚かれた。


「誰か!医者を!カムライールがおかしい!」


 ブレンディアス様に心配をお掛けしたく無くて「大丈夫です」と言いたかったが、無理だった。明らかに大丈夫じゃない。ブレンディアス様に優しく頬を撫でられながら待っていると、中年の医者とその奥様が来た。貴族女性を診察する時は、医者の指示に従ってその奥様が診察して下さるのだ。


 男性は部屋から出される。ブレンディアス様も心配そうな表情で部屋を出て行く。私は起き上がれ無いのて、寝たまま診察を受けた。中年女性の医者の奥様は私の脈を取ったり熱を見たり、私や侍女長に話を聞いたりする。そして「まだ間違いないとまでは言えませんが」と前置きしてから、慎重な口調で言った。


「ローデレーヨ伯爵夫人は妊娠しておられると思われます」


 部屋の中に沈黙が満ちた。・・・は?


 私は声も出せない程驚いた。最も早く再起動したのは侍女長だった。


「確かなのですか?」


「まだ確定とは言えませんが、月経は比較的規則正しい伯爵夫人が、今回はかなり遅れていらっしゃるし、症状は悪阻に良く見られる症状ですから。恐らくは」


 侍女長はその言葉を聞いて目を閉じ、天を仰いだ。


「おお、神よ・・・!」


 コルメリアを始めとした侍女達も、口元を手で隠して立ち尽くしている。医者の奥様は私に向かって少し厳しい表情を見せた。


「伯爵夫人。御子は王太子殿下の御子で間違いありませんね?」


 それはもう。私はコクコクと頷く。誓って私はブレンディアス様としかシタ事ありませんとも。


「まだはっきりは致しませんが、伯爵夫人が王太子殿下の御子を妊娠しているとすれば大変な事でございます。現状では唯一の王族のお世継ぎです。今この時より伯爵夫人は王国で一番大事なお身体になられたと言っても過言ではありません。くれぐれも御身をお大切に」


 わ、分かりました。私は気合いを入れて頷いた。


 私が服を着ると心配顔のブレンディアス様が入ってきた。そして、医者の奥様から「どうやら懐妊したようだ」と聞かされる。その瞬間ブレンディアス様は目を点になさった。


「は?何だと?」


 何だとじゃありませんよ。気持ちは分かりますけども。心当たりがないわけでは無いでしょうに。しかしブレンディアス様は物凄く不審そうなお顔で言った。


「本当に私の子か?」


 とんでもない事言い出しましたよこの人。私がさすがに涙目になると侍女長とコルメリアが切れた。


「何と言うことをおっしゃるのですか!殿下!」


「ご自分の所業を差し置いてカムライール様の不貞をお疑いになるというのですか!」


 二人の勢いにブレンディアス様は本気で狼狽した。


「いや、違う違う!まさかそんな事は疑ってはいない!」


「ではどの様な意味だというのですか!そうとしか聞こえないではありませんか!」


「どの様な意図があってそのような最低の事をおっしゃったのですか!」


 厳しい侍女二人の追求にブレンディアス様が麗しいお顔を汗だらけにして弁解する。


「私に子をなせる能力があるとは思っていなかったものだから、つい。・・・だってそうであろう?あんなに何人もと寝て一度も出来なかったのだ。ちょっと信じられなくても無理はあるまい」


「それにしても言い方というものがあるでしょうが!」


 コルメリアが吠えた。彼女はまぁ、ブレンディアス様には厳しい。私はコルメリアに手を伸ばして止めさせた。


「もう良いわ。コルメリア。ブレンディアス様も驚かれたのでしょう?」


「お、驚いたというなんてものでは無いよ。すまぬ。イール。紛らわしい事を言った。許してくれ」


 まぁ、私はこのお屋敷からほとんど出ないし、社交で出る時他ならぬブレンディアス様か侍女長かコルメリアと一緒なんだもの。疑いようが無いわよね。あんまりびっくりして口から出てしまったのだろう。そういうことにしてあげよう。


「そ、それで、確かなのか?」


「まだ確かには分かりません。非常に可能性が強いとは思いますが。それに妊娠初期は直ぐに流産したり何時の間にか消えてしまったりもします。あまりご期待し過ぎぬように」


 医者の奥様がおっしゃったのを聞いてブレンディアス様が少し肩を落とされた。しかし直ぐに気を取り直されたようで、私の枕元に座って私の頬にキスをした。


「それでも私に子をなす能力があると分かっただけでも良かった。良く妊娠してくれた。イール」


 良かったわ。とりあえず妊娠した事は喜んで貰えたみたい。色々な注意事項を伝えて医者夫婦が帰った後、ブレンディアス様は出勤して行った。私を心配してお休みすると言って下さったのだが「妊娠は何か月もの長丁場ですよ。その間ずっとお休みするわけには参りませんでしょうが」と侍女長に言われて渋々出勤して行ったのだ。


 侍女長は既婚で、既に15歳と13歳の娘がいるらしい。経験者がいるなら安心だ。と思ったのだが、侍女長は難しい顔をしている。


「私は悪阻もお産も軽くて済んだので、カムライール様のように立てなくなるほど辛かった事はありませんでしたから」


 え?そうなの?みんなこうなんじゃ無いの?私は驚いた。聞けば、悪阻が重い人と軽い人、出産が大変な人、簡単な人がいるそうだ。え?じゃぁ私は悪阻が重い人なのかしら。ちょっと心配になって来た。


 侍女長がテキパキと上級侍女に指示を出す。まず、私が気躓いて転びそうなものは部屋からどけて、ベッドにさえ低い踏み台を置く。動く時には必ず侍女二人以上と動くように言われ、落ち着くまではなるべく部屋の中にいるように言われた。


 それとブレンディアス様の日用品を運び出し、妊娠期間中は部屋を別にすると言われた。妊娠中は房事は無理だし、寝ている内にお腹を蹴飛ばしたりしたら大変だとの事。私は渋った。


「ブレンディアス様は寝相も良くて、いつも私を抱き抱えて寝ているだけだから大丈夫ですよ」


「万が一という事もありますから」


「ブレンディアス様が一緒に寝てくれないと心細いです」


 心細いのも本当だが、私が妊娠してベッドを別にしている内にブレンディアス様が他の女に誘惑されるのが怖いのだ。大概私もブレンディアス様への信用度が低いようだが、社交界で聞いた噂話で、奥様が妊娠中に他の女の元に通った話を何度か聞いた事がある。そんな心配をするとブレンディアス様に失礼だとは思うが、そんな不安を抱えるくらいなら毎晩一緒にいて欲しい。


 帰って来たブレンディアス様も別居に反対した。ブレンディアス様曰く「不安で心配で不眠症が再発してしまう」との事。浮気を疑ったりして御免なさい。侍女長も折れて、せめて妊娠初期の危うい時期が終わるまでは別のベッドを運ぶのでブレンディアス様はそちらに寝るように、という事で話が付いた。


 こうして、私の妊婦生活がスタートした。


 ・・・軽く言ったが妊婦、そんな生易しい物じゃなかった。正直、これほど辛いとは思わなかった。


 眠いとか熱っぽいとか、眩暈が、とか言っている内はまだ良かった。その内、吐き気が四六時中襲ってくるようになった。それはもう、ベッドの横にたらいを置いて垂れ流す勢いである。何も食べていなくても身動きした拍子に吐き気。寝ていた筈が吐き気。その内気持ち悪いのがデフォルトになってしまい、調子の良かった時が思い出せなくなったくらいである。


 もちろん、何も食べられない。何しろ水を飲んでも吐くのだ。食いしん坊の私が食事を見るのも嫌になるとは思わなかった。ショックだ。しかしながら食べなければ死んでしまうという事で、必死に薄いスープは飲んだ。勿論、吐いてしまうのだが、取らないとダメだとの事で無理しても飲んだ。


 ブレンディアス様には別室で食事をしてもらった。臭いがするだけでも吐き気がしてしまうからだ。何か食べられそうなものを思いつかないかと言われたのだが、妊婦が良く欲しがる酸っぱい物もダメで、妊娠初期には本当に何も食べられなかった。


 そして体中がミシミシと痛んだ。どうやら赤ん坊を生めるように身体が作り変えられているらしいのだが、これも辛い。寝ていても立っていても痛い。夜に寝ていても眠りが浅くなるので起きてしまう。眠いのも眠いので浅い眠りが切れ切れに続いてしまう。ブレンディアス様を違うベッドに寝て頂いて本当に良かった。


 私は見る間にやせ細り、目の下にはクマが出来てしまった。侍女長もコルメリアももちろんブレンディアス様も大心配してくれたが、こればかりは助けようがない。私は大丈夫だという気力も無く一日のほとんどをベッドで横になって過ごすしか無かった。


 それでも妊娠発覚して二ヶ月もすれば悪阻は少し落ち着いた。水は飲めるようになったし。身体の痛みは治まり、歩くことは出来るようになった。ただ、食べ物はほとんど食べられず、食べると吐いてしまう。困った。お腹の子供を育てるためにも無理やりにでも食べなければならないのだが、吐いてしまっては意味が無い。私は何か食べられるものを探して必死の思いで色々試してみた。


 その結果、鵞鳥の卵だけは何故か食べられる事が判明した。鵞鳥の卵を茹でたものを少しづつ食べながら、私はあの頭に鵞鳥の血を塗る変なおまじないのせいだろうかと考えた。


 妊娠発覚して半年もすればいわゆる胎児が安定する時期になる。悪阻はほとんど収まり、一部のもの以外は食べられるようになってきた。そうなれば御子の身体のためだから一生懸命食べなければならない。私はそもそもチビの大食いだからたくさん食べるのは苦にならない。ただし、お腹の子供のせいだろうか、今度は便秘に苦しめられるようになった。食べ過ぎると腹痛が起きて辛い。


 お腹も目立ち始め、この時期になると私の妊娠は貴族界でも隠れもしないものとなった、らしい。私は社交界をお休みしていたから分からないのだけど。何しろ、王族にとってブレンディアス様お生まれ以来の御子である。誰もが期待している、とブレンディアス様が言っていた。勿論、国王様と王妃様も物凄く期待していらっしゃるらしい。ううう、プレッシャーだ。生みそこなったらどうしよう。ちなみに、王国には女子にも王位継承権があるので男でも女でも構わないと仰られた。いや、でも男の子の方が良いんだろうけどね。


 お腹の子供が大きくなるにつれて、小さな私は正直立ち上がるのもおっくうになってきた。しかし、何でも妊婦が寝てばかりいるのは良くないとかで、なるべく歩くように言われた。私は侍女二人に掴まるようにしてふうふう言いながら庭園を散歩した。医者曰く順調だそうで、そこは一安心だ。しかし、妊娠がこんなに大変だとは知らなかったなぁ。


 そんなこんなでそろそろ臨月である。お腹はもうはち切れそうで、怖くて歩けないくらいになっていた。お腹の中で御子が暴れるせいで痛い。早く出せというのだろうか。「それほど元気なら男の子だろうか?」とブレンディアス様が言うと「そうとは限りません。私の二人目も良く暴れて男かと思ったら女でしたから」と侍女長に言われていた。私としてはブレンディアス様が欲しい方の性別の御子が良いのだが、ブレンディアス様自身は一度もどちらが良いとは言わなかった。


 ブレンディアス様は私の妊娠中、最低限の社交だけをこなして一目散に帰宅なさった。浮気などとんでもない。私は心の中でブレンディアス様に何度も謝った。後で聞いた話では、悪友(多分ウーフ様だ)などはしきりに浮気を誘ったり、実際誘惑して来た女性もいたらしいが「カムライールが辛い時にそれどころではない」と一蹴していたらしい。本当に誠実な方だ。


 良く分からない計算方法によればそろそろらしい。私は「出産て凄く痛いらしいわね~。痛いのは苦手だからなるべく軽く済むといいわね~」などと呑気にコルメリアと話していた。


 ・・・まさかあんな事になるとは思わずに・・・。


 その日、朝起きたらもう腰からお腹に違和感と言うか、張りがあった。一応は起きて、ブレンディアス様と食事をして、お見送りをしたのだが、ソファーに腰掛けたらズキッと来た。


「痛っつ!」


 私が呻くと侍女たちが大慌てになった。


「大丈夫でございますか!」


「横になった方が良いのではありませんか!」


 しかし、しばらくすると収まった。ふ~。何だったんだろう。お腹の子供に何も無ければ良いけど。とか思っていたら、侍女長が顔色を変えた。


「カムライール様。それは陣痛かも知れません。痛みの無い今の内にベッドにお入り下さい。みんな!打ち合わせていた通りに準備を!」


 侍女たちが一斉に走り出した。え?陣痛?という事は生まれるの?私はよろよろとベッドに戻った。コルメリアが出産用の服に着替えさせてくれる。


「どれくらい掛かるのかしら?」


「私は軽かったので半日でした。ですが掛かる方は丸二日掛る事もあるようでございますよ」


 二日?とんでもない事を聞いてしまった。それは本当に大変だ。私は勧められるままに水やゆで卵を口にした。


 陣痛は最初はそれこそ忘れた頃に痛くなるという感じだった。痛みもまだ大したことは無く、これくらいなら耐えられるかな?といった感じだった。医者の奥様は「まだまだお生まれになる感じではありませんね」と言っていた。なんだ。まだまだか。


 実際、その日の夕方くらいまではそんな感じだった。ところが日が暮れたあたりから俄然痛みが増して、痛みの間隔が短くなってきた。痛い痛い!ちょっとのたうち回りたくなるくらい痛い。私はコルメリアに手を握られながら脂汗を流して呻いていた。ところが、医者の奥様曰く「まだまだでしょう」というのだ。ちょっと待って!まだまだって!この痛いのがまだまだ続くって事なの?


 私はちょっと気が遠くなり掛けたが、もう出産は始まっているのだ。頑張る以外の選択肢など無い。私は呻きながら必死に耐えた。時間の間隔は無かったが、どうやらそれから数時間。真夜中まで私は苦しんだらしい。ブレンディアス様は廊下で待っていたのだがその間も生きた心地がしなかった、と後で仰っていた。


 耐えると言っていられる内はまだ良かった。もう我慢出来ない傷みが延々と続くようになると私は泣き叫んだ。侍女も医者の奥様も必死に励ましてくれるが無理。もう無理!その内絶望的な痛みが襲ってきて、私はとうとう意識を失った。失う瞬間にどうやら赤ん坊の泣き声が聞こえたような聞こえなかったような。私の意識は暗闇に落ちていった。意識を失えば流石に痛くないかなぁ、などと思いながら。


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