3 みんな壊してくれる

 夜逃げを繰り返し、いっそ山の中で首でも吊ろうかと考えたりもした。襤褸をまとい、夢も身分も失くしてしまった。それでも足先は自然と都会の方向を向いた。高層ビルを見上げても、脳内で蹂躙してくれる怪獣なんか何処にもいないというのに。

 高架橋下で段ボールにくるまり、公園で炊き出しを待つだけの日々。最近の自販機は硬貨を使わないタイプが増えてきたせいで、小銭を集めることもままならない。ごみを漁り、ごみとして生きる。次第にあれこれ考えなくなり、眠っているのか起きているのかはっきりしない時間が増えた。

 炊き出しをしている公園の花壇には薔薇が咲いている。ふいに、馬鹿げた希望がわき上がってくる。あの時の憧れの意味が、脳の皺から染み出してくる。ぼくは、本当は特撮をやりたかったわけじゃない。本当は、本当は……。

 気が付けば薔薇の花弁を貪り食っていた。薔薇の細胞を取り込んだところで意味がないことは知っている。G細胞がなければ、G細胞が存在したところで。

 それでも食べることをやめられなかった。ホームレスたちはぼくを止めない。彼らは誰かをみるということさえない。ボランティアはぼくを不気味な目で見て、通報しようか迷っている。頭のおかしくなったホームレスを掃除してもらう相談をはじめたようだ。

 人間たちに奇異の目で見られることには慣れていた。むしろ、懐かしさと心地よささえ感じる。彼らはぼくを恐れているんじゃないか、そんな思い込みができるから。子供のころから、ずっとそうしてきたんだ。

「お前が食っているのは誰かの金でつくられた花だ。花にやる水道の水は俺たちの払う金で保たれているんだぞ。この国の穀潰しのくせに、俺たちの金を食うじゃねえよ」

 革靴の先端がこめかみに突き刺さる。怪獣みたいな叫び声がぼくの喉から出た。

 ぼくを退治しようとしたのは、通りがかりの若い男。見るからに高価な腕時計をまき、質の良いスーツは彼の社会的権力を反映して光る。騒ぎで思わず視線を向けたホームレスたちも、男の姿を認めた途端にすごすごと物陰に逃げ込んでいく。彼はぼくらのコンプレックスの象徴みたいな存在だったから。社会を捨てて逃げ出しても、心は脆く弱いままだ。そして、彼のように金も地位もある人間が、ごみクズみたいにぼくらを殺すことも理解していた。社会の健全化だの、街並みの整備、美化だのと耳障りのよい言葉を並べ立て踏みつぶすのだ。

「お前醜いな。まるで怪獣じゃないか」

 思えば昔からそうだった。

 ぼくはいつだって蹂躙される側で、踏みつけられ、奪われる。醜悪な外見をしているだけで何の力もない、人間に退治されるだけの小さな小さな怪獣。

 人間の味方をする怪獣は嫌いだった。怪獣を倒すヒーローは苦手だった。怪獣が街を壊すとき、人を食うとき、社会をむちゃくちゃに蹂躙するとき、ぼくの心はほんのわずかに救われた。ぼくをいじめ、蔑むこいつら人間を、ぼくを弾き出した人間社会を、簡単に壊して真っ平らにしてくれる怪獣がきっちとどこかに存在するのだと。いつか人類を滅ぼしに海から、宇宙からやってくるに違いない。いいや、いつかぼくにG細胞が組み込まれて、鼻持ちならない人間どもの住む醜悪な巣を踏みつぶし、焼き尽くす日がやって来るに違いない。そうやって信じこむことで、正気を保ってきた。生きていくための希望を繋いでいた。

 ぼくは怪獣になりたかった。

 叫び声をあげ、伸びっぱなしの爪を振り回して男に向かっていった。熱線は吐けなくとも、崩れかけの牙と爪でも、ぼくは怪獣なんだ。怪獣にならなくちゃ救われないんだ。

「きったねえな」

 顔面を蹴り飛ばされた。男は格闘技でもやっているのだろう、鍛えられた鋭い蹴りが付き出された。歯がぼろぼろと抜け落ち、鼻はひしゃげた。子供の頃のようにみじめさを感じる暇もなかった。男はまだ何かしらをわめいていたが、なにも聞こえなかった。耳鳴りがワンワンと反響して、まるで救急車のサイレンみたいに遠くなったり、近くなったり。脳が揺らされたのかもしれない。倒れた地面が波打っている。

 耳をつんざく、殴られたような、空気を揺るがす咆哮で意識が戻ってきた。

「怪獣だッ」

 誰かが叫んでいた。

 あっという間の出来事だった。振り返った街が炎に包まれていた。

 辺りを見回すと、ホームレスたちが方々に逃げ惑っている。ぼくを蹴り飛ばした男は落下してきたマンションの壁面に顔面を押し潰されて死んでいた。

 思えば、男は現れたその時から錯乱していたようだ。気が動転していたのだ。冷静な彼なら、ホームレスなど視界にすら入らないはずだ。そんな彼がわざわざぼくに手を挙げたのだ。何もかもを瓦礫に帰る圧倒的な理不尽に晒され、自我を壊されていたのだ。築いた地位も富も権力も、命さえも灰に帰る無敵の暴力。

 そうだ、怪獣が現れたんだ。

 怪獣がやってきたんだ。

 貧富も、美醜も、優劣も飛び越えて、頭の上から押し潰す。人類の絶対的な天敵だ。

 ぼくは笑った。抜け落ちた歯で、大声で、歓喜の叫びをあげた。

 心なしか、身も心も大きくなった気がする。

「壊してくれるッ、みんな、みんな、壊してくれるぞぉッ」

 人込みをひとり逆走する。落下する瓦礫をのけ、ぺしゃんこに押し潰れた車を踏みつけて、炎で肌を焦がして駆け抜ける。涙が頬を伝い、興奮が毛穴から噴き出る。ぼくはずっと待っていたんだ。この時を。

 風景がぼくの撮影した第一作に近づいて行く。千切れ飛んだウエハース。ラバーの足元。舞い散る埃と火薬の匂い。名もなき怪獣が暴れた、あの張りぼての街に。まるで瓜二つの光景が広がっている。

 灰燼の斜幕に遮られた向こう。

 太陽を呑み込む巨大なシルエットが影を落とす。

 怪獣だ。

 怪獣が現れた。

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みんな壊してくれる 志村麦穂 @baku-shimura

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