第6話 雪解けの先に

 ヒョクは物を言わなくなった隣人の存在を感じながら、少しだけ頭を動かして夜空を見上げた。白雪を降らせる空は真っ黒で月も星も何も見えず、枯れた木々が死人の手のように空に伸びている。

 この木の根に座り込んだときには震えていた体は、もう寒さに麻痺してしまったのか冷たさを感じなくなっていた。冷え切った頬についても溶けない雪が、むしろ温かいような気がするほどに、体温の調節はできなくなっている。


(……静かな場所で一人で何もしないでいると、時間って長く感じるんだな。人と話している時間は、あっという間に終わるのに)


 風もなく、辺りは不気味なほど無音に包まれていた。


 一人になった後の時間は不毛なほどに長く、ヒョクは正直に言うと先に死んだ隣の男が羨ましかった。話の途中で意識を失ったこの男の最期は、灰色の残り時間を黒く塗りつぶすようなヒョクの最期よりも幸せなものであるに違いない。

 こうしてどうやったって覆らないことをだらだらと考えるしかないのも、ヒョクが一人残されてしまったからである。

 だからたとえ敵であっても、ヒョクはアリョンが死んでしまったことが嫌だった。


『地元に帰って、亭子港のワカメのスープが食べたいよ』


 早く眠ってしまえないものかと目を閉じると、ついさっきまで本当に聞こえていたアリョンの声が、今度は頭の中だけに響く。


『亭子港のワカメ?』


 そして、脳裏で終わったはずの会話が繰り返された。


『俺の地元、蔚山の名物だよ。厚みがあってしっかりした岩ワカメで、すごくいい香りがするんだ。出汁もよく出るし、煮てスープにすると美味いよ』

『なるほど。それは美味そうだ』


 言葉を反芻するうちに、他に話しておきたかったことが思い浮かぶ。


『それなら俺は地元の名物ってわけじゃないけど、棒餅が食べたい。熱々に焼いて、はちみつをかけたやつだ』

『それもいいよな。俺は甘い物なら、小豆粥が好きだ』


 小豆粥なら、ヒョクも好きだった。

 その言葉に同意して、冬至の行事でお寺で出される小豆粥のおいしさについて話したかった。

 しかし語る相手はもう口を開くことはなく、隣で息絶えて硬くなっている。

 だからヒョクは、頭の中で一人で会話をするしかない。


『俺も小豆粥は好きだ。特に冬至のお寺で食べる小豆粥が、一番おいしい』

『あれは美味しいよな。外で食べるからかな?』


 終わった会話を引き延ばして何度も繰り返しても、まだ眠りは訪れてくれない。

 ヒョクは早く終わりが来ることを願って、アリョンにもらったレーションの包装紙を握りしめた。


 ◆


 やがて、ヒョクの時間も終わった後。


 参戦した中国軍はしばらく快進撃を続けたが、戦線を延ばすことには限界があり戦争は膠着状態を迎えた。

 アメリカ合衆国と大韓民国。ソビエト社会主義共和国連邦と朝鮮民主主義人民共和国。大国が勢力を争う代理戦争の結末はなかなか決まらず、どちらがより優位に立つかを両者が競い、休戦会談は難航した。


 そしてやっと一九五三年。ソ連のスターリンが死去して、アメリカでも大統領が変わり、大国の状況が変わってやっと休戦協定が結ばれた。

 だがその平和はあくまで休戦として戦闘を休止しているだけであり、戦争そのものが終わったわけではなかった。



 春になって凍っていた死体が溶けて、そのうち朽ちて骨になる。

 アリョンとヒョクの眠る山の季節は何回も巡った。

 だがそれでも二人を見つける者はおらず、アリョンとヒョクはまだ木の下にいる。

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1950年11月のある兵士 名瀬口にぼし @poemin

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