皐月に散る

わだつみ

第1話


家の近くの並木道で見事な花の雲海を誇っていた桜も、新緑に装いを変え、日差しも柔らかく暖かな布に撫でられるような脆いものから、熱した針を細かく刺されるような強いものへ姿を変えた、そんな五月の始まりの頃だった。

蒼葉皐月(あおばさつき)は、カーテンも閉め切り、畳張りの和室の中、一人正座して佇んでいた。彼女はこの春、高校の門を初めて潜ったばかりで、制服が変わり、一月しか経っていなかった。

彼女は壁に掛けられた真新しい制服を見る。

思えば、この制服にも数える程しか袖を通しておらず、まだ糊が効いている。入学して早々から、高校には殆ど通えなくなっていた。

その理由と密に関係している物が、皐月の足元にはある。

白いハンケチの上に、紫の何かの破片と共に、一個のヘアクリップが、カーテンの隙間から差す鋭い五月の陽光を受け、鈍色に光っている。それは元々、高校生になる彼女が着けるには、少々幼さを感じさせる、花飾りをつけた髪留めだった。彼女はこの髪留めを、小学生、中学生と着け続けてきたのだ。ある約束を、頑なに信じて。皐月は髪留めを手に乗せる。五月というのに、日差しを全て遮断された室内は寒気すら感じさせる程で、ハンケチの上に置かれていたヘアクリップも、皐月の掌に陶器に似た冷たさを感じさせる。

裂けてしまった、ヘアクリップの上に乗る紫の、フェルトフラワー。目を凝らせば花の中心に向けて、繊細な白線が幾つも引かれている事が分かる

これは、五月になれば山野の緑に紛れて咲く紫の花、アヤメであった。

裂けた花飾りの髪留めを胸に抱き、その冷たさを胸でも感じる。この髪留めを幼き日の自分に与えてくれた人がもうこの世にいない、今は冷たい骸となった事を改めて感じさせるように、髪留めの金属の冷たさは、皐月の胸に染み込んで来る。

そのまま、遺骸を抱くような心地で髪留めを胸に抱き、ふらふらと皐月はテレビのある部屋に向かう。

見るともなしに、テレビ画面を点灯させる。

「T国首都攻略を目論む、C国陸軍の大部隊と、現地では日本の自衛隊を含む多国籍軍との間で死闘が継続しています!自衛隊員にも、かなりの死傷者が出ている模様です!

C国軍の昨日の大爆撃、砲撃により、日本の他、アメリカ、オーストラリア、カナダ、イギリスの各国軍にも甚大な被害が出ているようです…!」

テレビ画面に目を向ければ、闇夜を照らし出す、雨霰と降り注ぐ砲撃、爆撃の映像、打って変わり、瓦礫の山と化した市街地で、自動小銃を手に必死の表情で兵士が、燃えている戦車の横で発砲し応戦している。そのすぐ近くの建物にロケット弾が着弾し、建物は火を吹いて爆発し、コンクリートや鉄が砕け散り、兵士らの頭上に降る。一昔前なら、誰もが「よく出来た戦争映画だ」と言った事だろうが、今、皐月の目に映る映像は、映画ではない。日本のすぐ隣の島で、今まさに起きている「本物の戦争」だ。そしてその戦火の中で、米軍等と共に、日本の自衛隊も戦っていた。

ーつい先日まで、ニュースが映し出しているあの国で、私の母も自衛官として、銃砲の火をかい潜りながら戦っていたのだ。

皐月は膝の上の手を握りしめて、テレビを消す。やはりニュースなど見るべきではなかった。嫌でも、自分の、誰よりも大切な人である母が命を散らしたあの日の事を脳内で反響させてくる。あの日の電話の声が耳元で鮮やかに再生される。

「蒼葉皐月さんの携帯で宜しかったでしょうか?陸上自衛隊第○普通科連隊の、〇〇三等陸佐と申します。貴女のお母様…蒼葉彩芽二等陸尉の直属の上官に当たります。

至急、お知らせしなければならない事があり、お電話しました。蒼葉二等陸尉が…昨日の戦闘で重傷を負い、本日未明に殉職されました」

自分の手から携帯が滑り落ちた後も、殉職、という言葉が耳の中で終わる事なく、響き続けていた。床に落ちた電話からは、尚も母の上官の男が此方にお悔やみの言葉か何かを告げているようだったが、そんな物は一つも耳には入らなかった。

ーお母さんが死ぬ筈ないじゃない。何これ、悪い冗談?だってお母さんは…今までもどんな危険な被災地の災害派遣だって難なく乗り越えて、帰って来たんだもん。私のヒーローなんだから、戦争に行ったって死ぬ筈が…。


蒼葉彩芽は…皐月の母親はいつでも、彼女にとってのヒーローだった。

地震や水害が起きれば、被災地に派遣され、今にも崩れ落ちそうな瓦礫や木材の下で助けを待つ人々を何人も救って来た事を皐月は知っていた。

そして過酷な派遣任務が終われば、祖母の家に預けられていた自分の元へ、時には迷彩服の姿のままで駆けつけて、抱きしめてくれたのだ。

そんな彼女は皐月にとっては、誰よりも頼もしく、憧れの存在であった。

小学校に入り、周囲の女子達が、男子の何君がカッコいいだのと浮ついた話をし出すような年頃になっても皐月は、そんな話題には一切の関心を示す事はなかった。何故なら、皐月の恋心は、幼き頃から、危険な任務を幾つも乗り越えて、帰って来ては自分を抱き寄せ、頬を擦り寄せてくれる、この迷彩服のヒーローの彼女に既に奪われていたからだ。

偶に、自衛官の制服姿で彩芽は、学校に迎えに来てくれる日もあった。他の母親達が皆、互いに舐められないよう牽制するように、着飾る中、唯一人、陸上自衛隊の制服に身を包んだ彩芽の姿は浮いていた。

しかし、髪を後ろで結い、凛とした横顔、そして佇まいで制服を着て、校門の前に立つ我が母を見る時、皐月はこの上ない程に誇らしき気分になった。女性としては身長は高い部類だった事もあり、彩芽の制服姿は良く映えた。

勿論彩芽の、自衛隊の制服姿を見て、快く思わない母親達もいた事は、皐月とて幼心にも感じていた。皐月には趣味悪く映る、宝石やら首飾りやらを身につけた、如何にも金持ち然とした母親らは、しばしば彩芽の姿を見てこんな事を話していたからだ。

「学校に軍服姿で迎えに来るとか、どういう神経なのかしら…理解出来ない」

「蒼葉さん、ですっけ?自衛官の方でしょう?母子家庭で。お母さんが人殺しの訓練をしている職業なんて、お子さんも可哀想ね」

「人殺し」という言葉がひそひそと、しかし確かに自分達親子に響いた時、いつも皐月の前で笑顔を絶やした事のなかった彩芽が、ぴくりと肩を震わせ、表情も何処か影が差したのを皐月は見逃さなかった。

その時の皐月は、これまで感じた事のない程の激しい怒りに自分が呑まれるのを感じた。

自分が悪口を言われるのなら我慢出来る。だが、自分の世界一のヒーローである母の事を、「人殺し」などと呼ばれ、貶められる事は我慢ならなかった。

『ふざけるな…!!私のお母さんは、お前らみたいに着飾って人の陰口を言う事しか出来ない奴らとは違う。沢山の困ってる人を、泥んこになりながらも、ずぶ濡れになりながらも助け続けてくれてる、わたしの一番の憧れの、ヒーローなんだ!それを『人殺し』だなんて…』

相手が他の児童の母親だろうが関係なく、そう怒鳴ってやりたかった。母にこんな寂しげな横顔を浮かべさせた、お高く止まった彼女らに掴みかかってやりたい程だった。

しかし、思わず意地の悪い母親グループらに噛みつこうと、皐月がそちらに振り向こうとすると、彩乃は娘が怒りに任せて何かしようとしている事に気づいたらしく、皐月の肩を掴んで止めた。

彩芽は何故自分を止めるのか。自分をあの母親グループらに怒鳴らせてくれないのか。彼女も、反論もせずに引き下がるのかとその日の小学校の帰り道は悔しさから、皐月はむくれて、一言も言葉を発しなかった。しかし、後になって振り返ると、あの時彩芽は、皐月が怒りに任せて暴走し、学校で居場所を無くすような事態にならないように気遣って、皐月を止めたのだと分かった。ただ、

「どうしてお母さんは怒らないの⁉︎人殺しだなんて、あんな酷いこと言われたんだよ⁉︎」

と、腹の虫がおさまらずに捲し立てていた皐月を見る、いつもとは違う寂しげな表情が、皐月にはやり切れなかった。

皐月は、何とか彩芽を笑顔にしたかった。このような表情は、どんなに辛い被災地派遣から帰って来た時も見せた事がないのに…。

二人、家に帰る途中、空き地が目についた。季節は丁度、皐月の名前と同じ五月の頃だった。眩い日差しの下、青々とした芝草が、打ち捨てられた空き地に茂っている。

その中に紫と、白の入り混った花が一輪咲いているのが、皐月の目に止まった。

皐月の隣を歩いていた彩芽が、急に、皐月と繋いでいた手を離して、芝草の中に咲くその一輪の紫の花に近づいていった。

その花に顔を近づけた時…、校門での出来事があってから、しばらく黙って、寂しげな表情のままだった彩芽の顔に初めて笑顔が浮かんだ。

「どうしたの、お母さん?」

「皐月は、この花のお名前、知ってる?」

紫に、繊細な白の線がひかれた花弁を指先で撫でるようにしながら、彩芽は尋ねてきた。

「分かんない」

「答えはね、アヤメ。五月になると、その辺の草むらとかにもよく咲いてる、この季節の花よ。お母さんの名前と一緒なの」

皐月は息を呑む。母の名前と同じ花があったとは。微風に、後ろで縛ってポニーテールのようにした髪を揺らしながら、その花を…アヤメを愛でている彼女の姿に、皐月は今までにない感覚が湧いてくる。今までの、ヒーローというか、制服を着こなし、凛とした振る舞いとは全く異質の…女性らしさを色濃く感じさせる。

「お母さんも、お花を見たりとかするんだ…。それに、お花に触れてる時のお母さん、何か色っぽかった」

「そこまで女を捨ててないわよ、もう!」

皐月の言葉に彩芽は苦笑いのような表情になったが、苦笑でも笑顔は笑顔だ。

「うん。やっと笑った。お母さん、校門のところで、あのクソババ…じゃなかった、他のお母さん達に酷いこと言われてから、ずっと暗かったもん。お母さんは笑顔が一番だよ!」

皐月が満足げにそういうと、彩芽は

「笑顔が一番とか、まるで私の恋人みたいなこと言うのね、皐月は…」

と返した。その言葉は、皐月の幼い胸を貫いた。

戀人。自分の、幼少の頃より名前が分からないままでいた、この彩芽への気持ちに、今やっと名前が見つかった。どうして、こんな単純な事に気付くまでに斯くも時間を要したのだろう。

自分が、かっこいいという感情を抱く時、憧れる感情を抱く時…そして、凛として、美しいという感情を抱く時、その相手は未だ嘗て、彩芽以外であった試しがなかった。同級生のませた女子達は、学校に持ち込みを禁止されている雑誌を密かに休み時間に開いては、映る男性アイドル達に黄色い歓声をあげていたが、そんな物を見ても皐月の心に何ら感情は生まれなかった。

瑞々しい感情が生まれるのは、いつも、母である彩芽を見ていた時だけだった。

皐月が、自分を直撃したこの感情の正体に呆然となっているのを他所に、彩芽はアヤメの花弁に触れながら、また皐月に尋ねてくる。

「そう言えば皐月は、アヤメの花言葉って知ってる?」

皐月は首を横に振る。そもそも花言葉という概念があるのを今まで知らなかった。

「アヤメの花言葉はね…、良い便り。あとはメッセージ」

彩芽は、自分と同じ名前の花をしばらく愛でながら、何かを考えている様子だった。それが何かは分からなかった。

ただ、彩芽は皐月の顔と、アヤメの花を見比べながら、こんな事を独り言で呟いていた。

「…うん、似合ってそうね…!」

その独り言の意味を皐月が知るのは、彩芽が所属している陸上自衛隊の連隊に、災害出動命令が下り、また何日か家を開けねばならなくなった時だった。

祖母の家に皐月は再び預けられる。其処に、出動を間近に控えた、上下を見慣れた迷彩服姿に固めた彩芽が祖母の家の三和土に立った時だった。沢山の人の命を救い、守ってきたヒーローとしての母の格好だ。

この瞬間ー送り出す瞬間が、皐月には今までも辛い瞬間だった。しかし、今度の胸を締め付ける切なさはその比ではなかった。これは明確に、彩芽への戀心を意識するようになったからであろうか。

そんな折、彩芽は迷彩服のポケットに忍ばせていた何かを取り出すと、見送りに立った皐月にそれを手渡した。

「はい、これ!皐月ももう年頃なんだから、少しはおめかししないとね!」

自分の掌の上にあるそれを見れば、髪留めであった。ヘアグリップの上には、薄紫に、中央へと白線が走るデザインのフェルトフラワーが飾られていた。その花の柄を見た瞬間、皐月の脳裏には、あの五月の帰り道、彩芽と見た、あの一輪の花が蘇った。

「この花は…もしかしてアヤメ?でもどうして花飾りがアヤメなの?」

「言ったでしょう?アヤメの花言葉は…良い便りだって。この花を身につけていれば、きっと皐月は、お母さんが無事に任務を終えて帰って来たって言う、良い便りを受け取れるかなーと思ってね。

そして、もう一つはこの花が、やはり私と同じ名前の事かな。この花の髪留めをつけてれば、皐月もお母さんをいつも傍に感じられて、寂しくないかなって。

頑張って自作したんだから、有り難く受け取りなさい!」

アヤメを飾ったこの髪留めをつけていれば、彩芽が任務中であっても、彩芽を傍に感じられる。アヤメの花言葉が、きっと皐月に良い便りをもたらし、また彩芽を会わせてくれる…。

「私って、お母さんを送り出す時、そんな寂しそうな顔してた?昔は兎も角、今は割と普通に送り出してるつもりだけど?」

照れ隠しに、少し突き放したような口調で皐月は言う。

「なーに言ってるの。ここ最近だって、私のいる連隊が出動命令下ったからって話をしただけで、気付いてるかどうか分からないけど、皐月、泣きそうな顔になるのよ。一瞬だけどね」

「なっ…!」

皐月は二の句が継げない。彩芽の言葉に自分の頬の温度が上がっていくのを感じる。鏡が有れば、酔ったように頬の紅い自分の顔が見えるだろう。

「まぁ、そんな寂しがり屋な皐月ちゃんが、私の任務中も寂しくないようにとね、お母さんも色々考えた訳ですよ。それでは言って参ります!」

髪留めを皐月に押し付けるようにした後、彩芽は仰々しく右の掌を額にかざし、敬礼の姿勢をとった。そして背を向けると、制帽の下、結んだ後ろ髪を揺らしながら去っていった。

皐月はまだ、頬を熱くしたまま、掌に彩芽の手作りの髪留めを乗せたまま、祖母の家の玄関に立ち尽くしていた。 

その夜、彩芽に、寂しがり屋という自分の本質を見抜かれた事で、細やかな自分の尊厳が傷ついた事について、多分に照れ隠しの要素もあったとは思うが、皐月はぷりぷりした口調で母方の祖母に訴えた。

「寂しがりなのは彩芽も一緒だと思うけどね、似た者同士だよ、母と娘だけあって。だっていつかの災害出動で皐月をうちに預けていく日なんて、去り際に泣いてたんだから、彩芽は」

「ええ⁉︎」

皐月は素っ頓狂な声を上げる。しかし、祖母から話の詳細を聞くうち、自分の記憶でも、一度だけ、去りゆく母の姿に違和感を覚えた日があった事を思い出して来た。

それは、晴れた日の雨跡であった。

今より皐月が幼かった時ーその日、災害出動に彩芽を見送った日は、快晴の日であった。彩芽が去っていった後、彼女が歩いたであろう、祖母の家の外へと続く白い飛び石の上に、小さな、黒い染みを見つけた。恰も其処だけ雨に濡れたようだった。しかし、空を見上げれば雲ひとつなく快晴で、雨など降った気配は無かった。

「あの日の雨の跡は…」

「そういう事。だから、彩芽も、娘の皐月と必ずまた会えるようなおまじないが欲しかったんじゃない?彩芽も、皐月と別れてるのは心細いんだよ」


皐月は、必ず良い便りを自分にもたらしてくれると信じて、次の日から学校に、アヤメを象った髪留めをつけて投稿するようになった。

彩芽の言霊が宿ったかのように、髪留めをつけている間、母とは任務の為に会えなくても、常に傍には彩芽の存在を感じられるようになった。この髪留めの力がある限り、彩芽が無事帰還したという便りが、自分にもたらされるのは当然のように思え、今まで、あれだけ彩芽の無事が心配だったのが嘘のように、皐月は落ち着いて過ごせるようになった。


ーこの戦争が始まるまでは。


事の発端は、日本列島の南西に位置する島国であるT国に対する、海峡を挟み対立する大陸の軍事大国C国の、急激な軍事行動の激化だった。C国は兼ねてより抱いていた太平洋進出の野心を剥き出しとして、その為には必ずや、海峡を挟み、邪魔をしているT国と、日本を潰す必要があると考えていた。

その為にC国は海と空からの軍事的圧力を日に日にT国に強めていき、遂には偶発的な両国軍の武力衝突が発生してしまった。

これを絶好の武力行使のチャンスと捉えたC国は、T国軍が不当に自国の軍に攻撃してきて、被害を出したと口実をでっち上げ、T国への武力制裁を宣言、T国への攻撃を開始した。

事態を重く受け止めたのはT国の次に侵攻される危険度の高い日本、更にT国と同盟関係にある米国だった。日米主導により、多国籍軍結成とT国への軍事介入が決定。有志連合として、英国、豪州、カナダがこれに続き、計五ヶ国からなる多国籍軍対C国軍の全面戦争に事態は発展した。

C国軍の次なる侵略目標が日本である事は最早明白であり、日本の自衛隊も大部隊をT国に派遣し、戦闘を開始したー。


T国戦争と呼ばれる、この大戦争で次々と日本の駐屯地からも自衛隊の援軍がT国に派遣された。戦地の過酷さ、戦況の厳しさは自衛隊の想像を絶するものだった。

そしてそれは、彩芽が所属する連隊も例外ではなかった。

ーその日、雪が舞う二月の夜、駐屯地から家に帰ってきた彩芽の口から聞かされた言葉に、皐月はしばし、声を失った。

「私達の連隊も、T国の戦地に派遣される事になったわ…。私も、もう間もなく戦地に行かなくてはならない」

戦地に行く?

最初、その言葉の意味を理解する事がどうしても皐月には出来なかった。いや、脳が理解する事を拒んでいた。

皐月も、固唾を飲んでニュースで見ていた、T国での戦闘の中継映像が頭の中をよぎる。

瓦礫の山と化した市街地、雷鳴のような音を立て、夜空を照らす空爆の様子、耳を塞ぎたくなる程の激しい銃声の中、必死に敵軍の侵攻を阻止する多国籍軍の兵士や、日本の自衛官達…。あの只中に、彩芽も行くというのか?

「お母さんも…戦争に行くの…?」

絞り出すようにして、どうにか喉から出せた言葉はそれが精一杯だった。その声も震えていた。声だけではなく、自分の体も震え始めていた。

彩芽の表情も…今までは、どんなに過酷な被災地への災害派遣にも、笑顔で向かい、そして皐月の元へ、笑顔で帰って来てくれた彼女も、未だ嘗て見た事がない程沈痛な面持ちであった。

皐月の問いかけに、彩芽は頷いた。それを見ただけでも皐月は、自分が地獄へと落とされる心地がした。

「どうして…⁉︎お母さん、本当に死んじゃうかもしれないんだよ?それに、T国なんて外国の戦争にどうして、お母さんまで行かないといけないの?」

「皐月…貴女の母親であると同時に、私は自衛官よ。命令は、受けたからには絶対なの。

私だけ拒否して逃げる事は出来ない」

「命令なんて…、そんなの知らない!!なんで私を置いていこうとするの⁉︎」

みっともない事は自分でも百も承知で、それでも、子供じみた我が儘な言葉が次々と口を突いて飛び出てくる。

今までの被災地に行く任務とは違う。これから彩芽が行く先は戦場だ。T国の戦闘が厳しい戦況で、日本や、各国軍の戦死者が増え続けているかぐらいは皐月だって知っている。

そんなところに、彩芽を行かせるのなんて絶対に嫌だ。彩芽が生きて帰れる保証など全くない。これが彩芽との永遠の別れになってしまうかもしれない。

「ねぇ、私と一緒に逃げようよ、お母さん…?私は中学やめるから。二人で、T国の戦争が終わるまで、日本の何処かにずっと隠れていれば、お母さんも戦争に行かずに…」

こんな、何処までも非現実な子供の思いつきしか口に出来ない自分が嫌になる。

案の定、彩芽はぴしゃりと、皐月の馬鹿げたその提案を跳ね除けた。いつになく厳しい口調で、言い聞かせてくる。

「馬鹿な事を言わないで。そんな事、出来る筈がないでしょう。彩芽も知ってると思うけど私は二等陸尉。40人の小隊の部下達を指揮して、死なせずに帰還させる責任も負ってるのよ。私の身は、私と貴女だけの物じゃない。私が逃げてしまったら…小隊の部下達を指揮出来る人間がいなくなるのよ?」

「部下の人達が生きて帰れても、代わりにお母さんが死んじゃったら意味ないじゃん!!」

皐月は声を上げた。彩芽に対して、声を上げるなど今までなかった事だ。さっきから、見苦しく足掻いて、彩芽の足に縋り付いて、困らせてばかりいる自分の幼さを皐月は憎んだ。それでも、唯一人の特別な存在の彩芽を失ってしまう事への恐怖は、皐月に大人の対応などはさせてくれない。

命令も、彩芽の部下の隊員達の事も、自分と彩芽の二人以外の事は、皐月にはどうでも良かった。このまま、凍てつく夜へ、彩芽と二人、何もかも投げ出して、逃げ出してしまいたかった。遂に二人の家の玄関にまで踏み込んで来た、二人を引き裂かんとする、戦争という怪物から逃れる為に。

この家を捨て、外界と連絡を断ち、戦争が終わるまで何処か遠くの街にでも彩芽と二人、身を潜めて過ごせば良い…そんな荒唐無稽な考えが皐月の頭に浮かんでくる。

「お願い、皐月。落ち着いて聞いて…」

「嫌だ!!聞きたくない!」

彩芽の言葉に、年齢が何歳も逆行したかのように、駄々っ子のような叫びを思わず、皐月は発した。自分を置いて、彩芽が戦争に行ってしまう事を正当化するような理屈を、彩芽自身の口から聞きたくなどなかった。

「皐月は、遠い外国の戦争だと思っているかもしれないけど、T国は日本の本当にすぐ隣の国で、あの国が負けて占領されたら、次にC国が侵略に来るのは間違いなく、この日本なの。私達自衛官が行かなければ、次は誰よりも大切な貴女が暮らす、この国が戦火に襲われるのよ。遠い外国の為じゃない。私は皐月を守る為に、戦いに行くの」

そんな理屈で納得して、母である彩芽を笑顔で送り出せる程、皐月はまだ大人ではなかった。

「さっきから私…言ってるじゃん…、お母さんが死んじゃったら意味ないって…。私を守る為なら、お母さんは戦争で死んでもいいって言うの?」

「…私は、皐月を一人になんてしたくない。だけど、そうする事で貴女を守れるなら、命を投げ出す覚悟で、戦地に行くつもりよ」

彩芽は、皐月の為に、自分の命が消えてしまう事まで受け入れるつもりでいる。違う、そんな事を、そんな形の愛を、私は望んでいないのに…、と皐月は唇を噛み締める。

皐月は、気が付いた時には、彩芽の背に手を回して、固く抱きしめていた。

「皐月…?」

「私が…、お母さんに欲しかった愛は、そんな形の愛じゃない!私の為になら、命を捨てるなんて事言わないでよ!そんな愛なら要らない。私が望むのは、お母さんとこれからもずっと二人で笑って生きていける日々なのに!」

彩芽も皐月の背中に手を回し、優しく摩りながら、答えた。

「私は死なないから…。戦争が終われば、必ず皐月の元に帰ってくるから。私が守りたいのは、貴女とそうして笑って過ごせる、平和な未来を守る為でもあるのよ?だから、いつもと同じように、笑顔で見送ってほしいし、私にも笑顔で行かせてほしい。今度も」

笑顔で彩芽を戦場に送り出すなんて、そんな残酷な事、出来る訳ない…皐月は彩芽の胸に抱かれ、泪を零しながら、震える事しか出来なかった。


彩芽の連隊が派遣されるまでの、残された僅かな日々を、どう過ごしたのか、皐月は、記憶に定かではない。ただ覚えているのは、いつかの五月の日に、小学校からの帰り道、二人で偶々アヤメの花を見つけた、空き地にふらりと足を運んだ事ぐらいだ。二月の寒さの中、あの紫の花は、何処にもなかった。皐月は空き地の前で雪を浴びながら立ち尽くして、幼き日の彩芽との、甘やかで大切な思い出の残像を探していた。自分の前髪を留める、アヤメの花飾りの髪留めに触れながら。

連隊が派遣される前夜…なるべく皐月は、彩芽と普段通りに過ごそうと心がけた。

彩芽が戦地に行く事を初めて聞いた、あの夜のような、見苦しく彩芽に縋り付いて、引き止めようとするような事はするまい。

彩芽を愛しているならば、彼女を心配させるような事はもう言わず、彩芽が思い残す事なく戦地に行けるように振る舞おう…、そう心に決めていた。

何度打ち消そうとしても

「今夜が、お母さんとの最後の夜になるかもしれないから、悔いのないように二人で過ごそう」

という想いが自分の中に湧き上がるのを、皐月はどうすることも出来なかった。

その晩は、途中までは、明日は戦地に行くのだという事を、彩芽に意識させずに二人で過ごせたと思う。

その日は久しぶりに、皐月は彩芽と一緒にお風呂に入った。

「貴女と一緒に入るなんていつぶりかしらね」

彩乃はそう言いながら、髪を皐月に預けて、洗わせてくれた。

彼女が昔から愛用しているシャンプーを髪に絡ませ、泡立てながら、その香りに

「昔、まだお母さんと一緒に寝ていた頃は、私をいつもこのシャンプーの香りが優しく包んでくれていたな…」

などと思い出を引っ張り出される。途端に鼻の奥がつんと熱くなり、泪が零れそうになるのを必死に皐月は堪えた。彩芽の前で湿っぽくなってはならない。今日を二人の最後の夜にしたくはないのだから。

ただ、彩芽が戦地に旅立つ前に、またあのシャンプーの香りと、彩芽の温もりを感じながら眠りたい…そう思った皐月は、彩芽に、今夜は同じ布団で寝させてほしいと頼んだ。

「今夜は、昔の寂しがり屋の皐月ちゃんに戻ったのかしら?」

少し茶化すように笑みを浮かべて、彩芽はそう言って、それでも許可してくれた。いつも通りを意識しているのは自分だけではなく、彩芽も同じなのだと皐月は感じた。彩芽のその笑みも、何処か寂しさを感じさせる物だったからだ。あっさり拒否してくれたのも、彼女もまた、今夜は皐月ともっと寄り添っていたいと願っていたからかもしれない。

寝室となっている和室に布団を一つだけ敷いて、皐月は彩芽と同じ、掛け布団の中に入る。幼い頃は、彩芽と一緒でもあれだけ広く感じた布団が、今はこれ程狭く感じられる事に、体の成長を感じる。

ただ、鼻腔をくすぐる、彩芽の髪から香る、シャンプーの淡い香りは昔のままで、目を閉じれば、もう戻らぬ穏やかな二人だけの日々が蘇るような気がして…。

そこまで考えて、思考を止める。今、自分は迷いもせずに、彩芽との思い出の日々を、もう二度と無い時間だと認識していた。彩芽が戦死したかのような…、既に過去形で彩芽との日々を振り返っている。皐月は、背筋に震えが走るのを感じた。もう、自分の中に彩芽が生きて還らなかった時の事を既に考えている自分がいるのが、堪らなく嫌だ。

その時、皐月は自分の背中を温かい手が摩るのに気が付いた。

「どうしたの、皐月?何か、怖い事でも考えちゃった?」

彩芽の声に、皐月は目を開ける。薄闇の中に、ぼんやり、此方を見つめて微笑んでいる彩芽がいた。左手で頭を支えながら、右手を伸ばして皐月の背を撫でてくれていた。

明日には戦地の空の下に立つ定めというのに、彩芽はどうして恐怖の色も見せず、今も穏やかに微笑んでいられるのだろうか。逆にもしも明日、自分が戦場に行く立場なら皐月は、きっと恐怖のあまり精神を病んだ事だろう。

「お母さんは本当に強いね…。やっぱり、どんな時でも私のヒーローだ」

「それは、どういう事?」

「だって…明日には戦地に行くんだよ?生きて帰れる保証なんて、ないのに…それでもお母さんは一言も怖いって言わないんだもの。

もし、明日戦争に行くのが私なら、怖くてどうかなってしまいそう。

お母さんは、本当に怖くないの?戦争に行くのが…?」

皐月の背を撫でながら、彩芽は、しばらく眉を伏せて、沈黙していた。灯りを落とした部屋の中では、彼女の表情は伺いしれない。

やがて彼女は、寝る姿勢を変えて、皐月の方に手を差し出すと、ぽつりとこう言った。

「私の手を握ってみて、皐月」

その言葉に促されて、宵闇の中、皐月は彩芽の手を取る。

彩芽の手が震えているのが、皐月の手にも伝わって来た。

「お母さん…?」

「こうしてみたら分かるでしょう…?私だって、怖いわよ…。今までの、災害派遣で出動するのとは訳が違うんだから。此方を本気で殺そうとしてくる敵と、決死で命のやりとりをするんだからね」

敵…、命のやりとり…、それらの、普段の彩芽の口からは決して聞く事のなかったような言葉の数々に、これから彼女は戦争に行くのだという残酷な現実を否応無く、皐月は突き付けられる。

「その時には…お母さんも銃の引き金を引くの…?相手の兵隊さんを殺すの?」

自衛官の母を持つ者として、いつかは彩芽に聞かねばならない、向き合わねばならない問いだと知っていながら、今までずっと言い出せなかったその問いを、遂に皐月は口にした。

「…戦場に行って、敵兵が本気の殺意で此方に銃を向けて来ている時、此方に撃つ事を迷っている時間なんかないわ…。私が、それに私の指揮する小隊の部下達を守る為にも、私は撃つわ。自衛官としてね」

今まで、沢山の人の命を被災地で救助してきた母の手が、銃の引き金を引いて、敵国の兵士と言えど、誰かの命を奪う…。

母とて誰かを殺したくてそうする訳ではない事など分かっている。彼女は自衛官だ。命令が下れば、人の命を救う救助隊から、敵と戦う兵士へと一瞬にして変わる。彼女の返事は、自衛官として当然の回答だった。

それでも皐月は、彩芽が敵兵を撃ち殺す場面を想像すると、幼い日に、小学校に制服姿で皐月を迎えにきた彩芽に向かって、「人殺しの訓練をしている人」と同級生の母親達が、侮蔑の言葉を放ったあの場面を想起してしまった。あの悪趣味に、派手に着飾った女達は、今の事態をもし知ったなら

「やっぱり自衛官なんて人殺しをする為の仕事じゃない?」

と嘲笑うのだろうか?

「皐月は、もし私が戦場に行って、敵を殺して帰って来たら、私の事を怖いと思う?

私を、もうヒーローみたいとは思ってくれない?」

その彩芽の言葉は、かつて聞いた事のない程哀切に、皐月の耳に響いた。今度は、あの日、小学校の校門前で「人殺し」と罵られ、寂しげな表情をたたえていた彩芽の顔が蘇る。違う、自分は、世界で最も大切な、彩芽にあんな顔をさせるような連中と、断じて同じではない。

皐月は宵闇の中でもはっきりと彩芽に分かる程、強く首を横に振った。

「そんな事…ある訳ない!!私にとっては、どんなお母さんも、お母さんで、そしてヒーローだから!!」

「でも、戦争に行けば、私の手はきっと、敵の血に塗れる事になるのよ…?それでも変わらず皐月は私を大事に思ってくれるの?血に汚れた手で皐月に触れてもいいの…?」

皐月は、彩芽への想いを伝える事に、他に手段を選んでいる余裕などなかった。

横に寝ていた彩芽の体を、気付いた時には力強く、皐月は抱き締めていた。

「私は…!お母さんが戦争で誰かを殺してしまったとしても、私だけは、お母さんを人殺しだなんて絶対呼ばない!!私だけは、お母さんの傍にいる!!だから、お願い!手が血に汚れてしまったって、構わないから、絶対に死なないで!私の元に帰ってきてよ!」

皐月の悲痛な訴えを聞いた彩芽は、しばらく皐月の髪を撫でながら、黙っていた。しかし、ふと手を止めると、こう尋ねてきた。

「皐月…私があげた、あのアヤメの花飾りの髪留めはあるかしら?」

無くす訳がない。派遣の度に、今回も彩芽が自分の元へ生きて帰って来られるよう、祈りを込めて、皐月はあの、中学生がつけるには少々幼い髪留めを今尚、毎日前髪につけているのだから。 

皐月は、彩芽から身を離すと、枕元に置いていたアヤメの花飾りの髪留めを拾い上げた。髪留めのヘアグリップの金属は、窓の方からこの寝室に染み入ってくる二月の冷気の為に冷え切り、皐月の掌に乗せると冷たさが滲んで来る。

「皐月は、私が作ったその髪留めを、本当に大事に使ってくれているわね。もう中学生も終わろうとしている年頃なんだし、もっと大人っぽい髪留めとか買ったらいいのに」

「私にはこの髪留め以外、使う気ないから。だってこの髪留めは、私にとってはお母さんの分身のような物だから、これがある限り、私はお母さんと一緒にいられる」

二人はしばし、皐月の掌の上のアヤメの花飾りの髪留めを見つめていた。小学校の時から皐月は、これ以外の髪留めを前髪に留めた試しがない。母と同じ名を持つこの花を常に身につける事が、彩芽の存在を常に傍に感じさせてくれた。

「それに…お母さん、あの時、空き地で初めてアヤメの花を私が見た時、花言葉を教えてくれたでしょ。花言葉は良い便りだって…。

だから、この花を常に身につけてれば、お母さんが無事に派遣から帰ってきたって便りが聞けるって、そう信じて今迄ずっとつけてきた」

皐月は、髪留めを握ったまま胸元に持っていき、大事に胸に抱いた。

彩芽は薄く微笑んで、皐月の髪に触れる。

「こんなに大切にしてもらえるなら、私も皐月にその髪留めをプレゼントした甲斐があったわ。髪留めの、そのアヤメの花飾り、いつも貴女にとっても似合ってた」

髪を撫でながら言う彩芽の言い方が、過去形である事が皐月には気になり、心が揺らいだ。

「そんな、もう私の事を見られなくなるような、お別れみたいな言い方しないでよ…。私を一人にしないって、必ず戦地からも生きて帰るって言ったじゃない…」

声に泪が絡まり、振り払おうと足掻く。今夜は彩芽を心配させない為に、彼女の前で泪は見せないと決めたのに…。

「お別れだなんて、そんな事思ってないよ。これで皐月の事を見られなくなるなんて、私も絶対に嫌。戦争が終わればまた笑って、皐月の元に帰ってくるから。だから…」

そう言って彩芽は皐月の、髪留めを握った手を掌で包み込んだ。

「この髪留めの、アヤメの花がきっと、今度だっていい便りをもたらしてくれるわ。戦争が終わった事、そして私が生きて、貴女のところへ帰ってくるっていう便りを…」

そして、皐月の前髪が、彩芽の指先でかき上げられたと思うと…皐月の額に、少しひんやりとした、しかし柔らかく心地良い物が触れた。一瞬、彩芽は何が起きたか分からなかったが、額に触れたそれが、彩芽の唇であったという事に気付くと、忽ち、頬に朱が差していくのが分かった。

夢にまで見た、彩芽の唇。あの唇で、口づけを自分に欲しい。自分もまた、あの彩芽の柔らかそうで、瑞々しい花弁に口づけたくて仕方がなかった。何度も懸想したそれが、彩芽に今、触れたのだ。

「次に会えるまで、今度は少し長い任務になりそうだから、皐月成分をしっかり補充しないとって思ってね」

彩芽はそう言ったが、よくある彼女の少し茶化したような口調の中に、普段とは異なる恥じらいや照れ隠しが含まれているのは、皐月にもすぐ分かった。

そうだ。戦地に立ってしまえば、次に彩芽に会えるのはいつになるか分からないのだ。朝日の到来と共に、彼女は異国の激戦地に旅立つ。

それならば、自分も、少しでもこの夜を後悔をより少ない物にしよう。

そう心に決めた皐月は…胸に秘めた想いを、伝えるのは今夜しかないと腹を括り、大胆な行動に出た。

「お母さん…いや…彩芽!」

突如、名前で娘から呼ばれた事に、明らかに顔に驚きの声を浮かべている彼女に皐月は手を伸ばす。そして勢いに任せて、彩芽を布団の上に仰向けにすると、皐月は彩芽に覆い被さるような姿勢をとった。彩芽の頭の、両脇の畳に自分の掌をつく。

「さ…皐月?」

彩芽もよもや、実の娘に押し倒される日が来るとは夢にも思わなかった事だろう。敷布団の白の上に、彩芽の艶やかな黒髪の束がばらけて、微かに、あの懐かしいシャンプーの香りが中空に舞うのを皐月は感じた。

皐月は、耳元で鳴っているかのように喧しい心臓の鼓動を無視して、薄く開かれている彩芽の唇へと、迷う事なく自分のそれを重ね合わせた。唇が触れ合う寸前、彩芽の目が驚きから見開かれるのが見えた。彩乃に拒絶されたら、跳ね除けられたらどうしようという思いは勿論あったが、それでも皐月は止まらなかった。

彩芽は…一瞬こそ、身を固くしていたものの、しかし皐月を拒まなかった。夢中で彩芽の柔らかい唇を貪る皐月の背に、下から手を回し、いつものように優しく抱きしめてくれた。皐月は、夢にまで見た彩芽の唇と今触れ合っている事、そして、彩芽から拒まれなかった事への悦びに、脳髄が溶けていくかの如き心地がした。

皐月がようやく、唇を離した時、二人とも息は荒く、喘いでいた。部屋の闇の中でははっきり見通せないが、薄らと見える彩芽の頬は紅潮していたように思う。

彩芽から先に何か言葉を聞くのが怖くて、皐月は、先に喋りだしていた。

「本当は、小さい頃から、ずっとこの気持ちは胸に締まっていた…。私は単に彩芽を、お母さんとして好きで、尊敬しているだけなんだと思い込もうとしていた。だけど、大きくなっていくにつれて、彩芽の喜ぶ顔、寂しそうな顔、色んな表情を見ていると、単にお母さんとして好きっていうだけじゃ、説明しきれない感情が芽生えたの。喜ぶ顔を見れば、綺麗だなとか、可愛いなって思うようになったし、逆に寂しげな顔をしていたら、私の胸まで苦しくて、死にそうになった…。同級生にも何にも感じなかった私の心に、瑞々しい動きが生まれたの…。そして、いつしか、彩芽と…こんな事をしてみたいって思い始めた自分がいて…やっと分かったの。私は彩芽を、単にお母さんとしてじゃなく、戀人として好きなんだって!

ごめんなさい、お母さん、名前で呼び捨てて…。でも、戦地に行く前に私からの最後のお願い。今夜…そして明日の朝、送り出す時までは私を娘としてではなく、戀人として扱って…!私もお母さんを、戀人として…お母さんではなく、彩芽として、一緒に過ごしたいから…!」

怒涛の勢いで、幼稚な言葉で、自分の感情を吐き出した後、何とも卑怯な告白だったと皐月は思った。自分は、結局は彩芽の、母としての情につけ込んで、残された時間だけでも戀人でいさせてほしいという願いを押し通そうとしているだけだ。皐月の彩芽に対する戀は本物でも、それに彩芽が返す感情は本当の戀ではないだろう。

彩芽の返事を聞くのが怖かった。明日には戦地に彼女が言ってしまうという、常ならざる状況からの焦燥で、自分は取り返しのつかない事を口走ってしまった。

「ごめんなさい…お母さん…、私の事を、気持ち悪いって思ったよね。でもこの気持ちを、伝えられないまま戦場にお母さんが行ってしまうのは嫌だったから、我慢出来なかった…」

自分の頬を、冷たい物が零れ落ちるのが皐月には分かった。せめて今夜ばかりは、泪は見せず、彩芽を送り出す気持ちでいたのに…。自分を見上げている彩芽の顔のすぐ傍の、白い布団にもそれは零れて、布に滲んだ。

ふと、寝室のカーテンの隙間に目が向くと、窓の外は、ちらちらと街灯を受けて光りながら、霜が宵闇の中を舞い遊んでいた。きっと地面に落ちたらすぐに夜露となって溶け、明日には一面を濡らしている事だろう。この二月の夜空は宛ら、自分と共に泣いてくれているようだと皐月は思った。

「皐月…」

彩芽の声に、皐月はビクッと身を震わせた。

気付けば、彩芽の温かい指先が自分の頬に触れていて、皐月の頬を濡らす雫を拭ってくれていた。

「私は、皐月を気持ち悪いなんて、思ってないわ。貴女が、それ程に私の事を大切に思って、見てくれていたのが嬉しい。

可愛い皐月ちゃんが勇気を振るって告白してくれたんだから、私もちゃんと返事をしなくてはね…。

私と貴女がこうして二人暮らしになってから…自衛隊っていう過酷な場所で、どんな厳しい任務にも耐えられる力をくれたのは、貴女だけだった。家に帰れば、皐月が笑って迎えてくれると思えば、どんな任務も苦ではなくなったわ。よくそんな話を同僚とか部下にもしたら、『蒼葉二尉は皐月ちゃんが戀人ですからねー』って冷やかされた事もあったわね」

その話に、皐月は自分の頬が熱を帯びたのを感じた。

「でも、皐月が今夜、自分の気持ちをぶつけてくれたおかげで、私も、自分の中の気持ちにやっと整理がついたような気がする。皐月と私は同じ気持ちでずっと過ごしていたんだって分かった」

「それって…お母さんも、私の事を、ただ娘としてだけじゃなくて…一人の女として見てくれていたって事?」

「…ええ、私が初めてその気持ちに気付いたのは、きっと、皐月の学校帰り、あのアヤメを、空き地で見つけた五月のあの日だった。覚えてる?」

皐月は深く頷く。あの場所を、あの日を忘れようとて、忘れる筈がない。

「あの日の校門前での事も覚えてるわね。自衛隊という仕事柄、何処に行っても、ああいう風な事を言われてしまうのは仕方がない事だと割り切っていた。皐月は知らなかったろうけど、派遣の時も、もっと酷い罵声を浴びた事だって一回や二回じゃないわ。ただ耐えるしかなかった。

でも、あの日は皐月が私の為に怒ってくれた。今まで、私の為に怒って、立ち向かってくれる人は他にいなかったから。

あの日は、私も『人殺し集団』みたいな事を言われて、貴女との帰り道、本当は遣る瀬無い思いだった…。だけど、あの空き地でアヤメを見つけた時、私に皐月が『お母さんは笑顔が一番』って笑いかけてくれたら、嫌な気持ちも溶けていって…それと同時に、私の中にもう何年もなかった、瑞々しい心の動きが生まれたの。まさか、娘の言葉にときめいているのかと、私も最初は自己嫌悪した事もあった。だけど…貴女とのあの日の記憶が消える事はなかった。私の、娘である皐月への、初戀の日の記憶がね」

皐月は、自分の耳が信じられない心地でいた。彩芽も、自分に母娘だからというだけでは説明しきれない感情を抱いてくれていたのか。彩芽が戦地に行くという知らせを聞いた日から暗黒の中を歩く心地だった自分の前に、一筋だけ、しかし強い光明が差した感覚だ。鼓動が早まっていくのが分かる。

「私もお母さんも…いや、彩芽も、あのアヤメを見つけた日から、もう戀は始まっていたんだね…」

嗚呼、どうしてこの事実を、自分はもっと早く知る事が出来なかったのだろう。あの五月の日から、何年も時間がありながら自分も彩芽も、同じ気持ちを抱いていたのに、互いに言い出す事がずっと出来なかった。その気持ちを伝えねば、後悔する事になると二人の背中を押してくれたのが、明日、彩芽を自分の前から連れ去る、戦争という怪物である事実は、皐月にはあまりにも皮肉が過ぎるように感じられた。

「だからね…今夜だけ、とかじゃなくて、皐月はもう、あの五月の日から私には戀人だったのよ。私の方こそ、もっと早くに気持ちを伝えてあげられなくてごめんね…」

「…。本当よっ。なんで、明日、戦地に行くなんて時まで、言ってくれなかったのよ…。

そうしたら、自己嫌悪も何にもなく、彩芽と私は、母娘以上の、戀人でいられたのに…」

皐月は、彩芽の傍に身を横たえると、その額に、首筋に、指先に、口付けを与えた。

「これは戀人として、彩芽への、私からの餞別。だけど、彩芽が死ぬのだけは絶対嫌だし、彩芽が死んだら私も、もう生きていられないから、だから、もう一度、今度は母娘としてじゃなく、戀人として約束して。私の元に帰ってくるって」

「何度だって、約束するわ…。私は、可愛い戀人の皐月を残して、絶対死なない。行き先が戦地でも、必ず生きて帰ってくるから」

そう言って、布団の中で、彩芽と皐月は、まるで幼な子のように、指切りをした。

「指切りげんまんって…小さい子扱いしないでよ…」

皐月が少し頬を膨らますと、

「してないよ。これも立派な約束でしょう?寂しがり屋の戀人の皐月ちゃんを、悲しませない為なら、どんな形でも、何回だって約束するわ」

そう言って彩芽は笑う。彩芽が、皐月の事をちゃん付けで呼んだり、寂しがり屋と呼んだりする時は、本当は自分も辛いのを、皐月に心配させない為にわざと戯けて見せている時だということくらいは、とっくに皐月も分かっていた。今だって彩芽は辛いし、怖い筈だ。しかし、皐月の前ではいつだって泪は見せないのだ。

皐月は、彩芽にお願いをした。夜明けまで、腕枕をして、抱き寄せていてほしいと。彩芽はその通りにしてくれた。

カーテンの隙間がまた見える。外では、銀白の霜は街灯の中、舞い続けていた。

『今夜の霜を、貴女を送り出す私の涙雨にしないで…生きて帰ってきてよ…彩芽』

時折漏れそうになる泣き声を堪えていると彩芽は頭や、背中を撫でてくれた。泣きたいのは彼女だって同じだった筈なのに…。


翌朝、彩芽は連隊に向かう為、家を立った。

皐月は、玄関まで見送る気力も無かった。

泣き崩れずに彩芽を戦地へ、見送れる自信などなかった。

別れ際、茶の間で卓に寄りかかり、茫然自失としていた皐月に、今度は、彩芽から口付けをくれた。

「晴れて戀人になれたのに、まだ皐月からしかしてもらってなかったからね」

本来ならば、皐月の心は喜び、沸き立っていた筈なのに、今の自分にはそんな余裕はない。

「これが、最初で最後の、彩芽がくれた口付けなんて絶対嫌だからね…」

既に彩芽は迷彩服に身を固め、連隊に向かう準備を整えていた。今、彼女の姿を見れば、確実に戦争の現実が、皐月に襲いかかる。真っ直ぐ、彩芽を直視も出来なかった。

「…それじゃあ、行ってくるね。向こうからも宿営地の電話を使えるから、必ず皐月に連絡するからね」

皐月はそれに頷くのがやっとだった。今もまだ、泪は油断すれば零れそうになる。涙腺が焼き切れそうだ。

そうして、呆気なく彩芽の出立は終わった。彩芽が去った玄関に行く事も辛かったが、それでもふらふらと、玄関の三和土の前に行った。彼女が最後に見たであろう、二人の家の景色を。

玄関の引き戸は閉め切られ、霜は降りこんでいなかった筈なのに、今しがたまで彩芽がいた、玄関の三和土の石の上には、雫が二、三滴落ちて、濡れていた。

皐月は、彩芽が戦地に立った日から、祈りを込めて、アヤメの花飾りの髪留めをつけて、残り少ない中学生活を過ごした。

このアヤメが、彩芽の帰還という良い便りをもたらすと只管に信じて…。


しかし、彩芽からの、戦地からの電話はなかった。理由は皐月にもすぐ分かった。テレビをつけ、ニュースを見れば、T国での、日本の自衛隊が参戦している多国籍軍の戦況は悪化しており、C国軍の陸海空からの猛撃に退却の一途となっていた。米軍や他国軍と共に、自衛官の戦死者もうなぎ上りに膨れ上がり、ニュースのテロップでは毎日のように、「〇〇三曹、〇〇陸士長、T国〇〇市の市街戦にて殉職」という風に戦死の報道がされていた。これだけ苛烈を極める戦況で、宿営地にいる時間など殆どないのだろう。

ただ、毎日のニュースで、今日も殉職者の中に蒼葉彩芽二尉の名がない事を確認する事だけが、皐月の安心の材料だった。


高校入学を控えた三月末、空気は春の色が濃くなりつつある頃、皐月は幸せな夢を見た。

T国戦争が終わり、日本の自衛官らも帰国する、というニュースが流れる。

やがて、二人が暮らす、古ぼけた長屋の引き戸ががらがらと、建て付けの悪い音を鳴らしながら開く。

「皐月!帰ったわよ!」

と、彩芽の元気の良い声が玄関から聞こえてくる。皐月は喜び勇んで玄関に向かい、その胸に飛びつき、迷彩服に包まれた彼女の背中を固く抱きしめる。

「もう、戦地になんて行かないよね、彩芽?」

「ええ、T国の戦争はもう終わったわ。今日からまた平和な日常が帰ってくるのよ!」

皐月の心は、欣喜雀躍たる思いである。もう彩芽は戦場に行く事はない。これからは母娘としてではなく、戀人としての生活が始まるのだ。

帰ってきた彩芽と、共に行きたい場所など、あの場所を置いて他にはなかった。

「彩芽!また、あの空き地に行こう!アヤメの花を探しに!」

アヤメは、花言葉の通り、良い便りをくれた。自分と彩芽を繋ぎとめ、彩芽を戦地から自分へと返してくれた。素晴らしい花だ。

またあの空き地に行き、二人でアヤメの花を探しに行こう。そして、言えなかった初戀が、お互いに芽生えたあの場所で、あの告白のやり直しをしよう…。皐月の頭はその考えで一杯になった。

気づくと、場所はあの空き地に移っている。皐月は、まだ迷彩服姿の彩芽の手を引いて、うららかな五月の日の下で、草をかき分け、アヤメの花を探した。

しばらくしてから、皐月は、自分の前髪を止めていた、あの大事なアヤメの花飾りの髪留めが、消えている事に気がつく。花探しに夢中になっている間に、芝草の中に落としたのだろうか。あの髪留めだけは、無くなっては困る。あの髪留めに込められた思いが、きっと自分と彩芽を守ってくれていたのだから。

アヤメの花探しから、落とした髪留め探しに切り替わり、皐月は必死に草をかき分けて探す。

「どうしたの、皐月?そんなに慌てて」 

背中から響く、彩芽の声に振り返り、皐月は必死の形相で答える。

「彩芽が…私にプレゼントしてくれたあの、アヤメの花飾りの髪留めがないの!草の中に落としてしまったのかも。待ってて、すぐに見つけるから!」

髪留めが無くなったという報せを聞くと、彩芽は寂しそうな表情になった。早く、髪留めを見つけて、彩芽を安心させなくては…。

草を手当たり次第むしってまで、探すのに躍起になって、ふと我に帰った皐月は、周囲に誰もいない事に気付く。

「え?」

皐月は叢から身を出すと、空き地を見回すが、彩芽の姿を何処にも見つけられない。

一瞬、自分を驚かそうとして、茶目っ気を出した彩芽が姿を隠しているのかと思った。

「ちょ、ちょっと彩芽?隠れてるの?そんな、悪いノリはやめてよ…」

しかし、彩芽の気配は全く感じられない。皐月の声は無人の空き地に響き渡るだけだった。

「彩芽…?何処に行ったの?彩芽!」

急に胸苦しい程の不吉な予感に襲われて、皐月は空き地から飛び出して、近くの道を走りながら、彩芽の名を呼ぶ。しかし、彩芽の姿は街の何処にもない。髪留めを無くした、という報せを聞いた時の、寂しげな表情を残して、彩芽は掻き消すように消えてしまった…。


そこで皐月は布団を跳ね除けて、飛び起きた。幸せな夢から一転し、彩芽の姿が無くなるという不吉な終わり方に、自分の胸が脈を乱れ打っているのが分かる。夢の中での出来事にも関わらず、皐月は髪留めが無くなっていないか、枕元に手を伸ばした。まだ薄暗い部屋の中、髪留めの冷たいヘアグリップに指先が触れ、それをしかと掴む。

「良かった…夢か…」

しかし、髪留めを眼前に持ってきた瞬間に、皐月は息を呑んだ。

彩芽がフェルトで作った、アヤメを模した花飾りは、真っ二つに割れていた。


彩芽の上官を名乗る人から電話があり、銃撃で重傷を負った彩芽が、T国〇〇市の野戦病院で息を引き取った…その報せを彩芽が電話で受けたのは、アヤメの花飾りが割れた、まさしくその日だった。話からは、彩芽が息絶えた時刻は、自分が夢の中で、彩芽の姿を見失った時と同時刻と、皐月には思えてならなかった。あれは、皐月に彩芽が別れを告げに来ていたのか。


それから後の数日は、皐月の記憶から欠落している。ようやく自我を取り戻した頃には、只管に朝から晩まで泣きじゃくり、布団に包まり、彩芽の名前を呼び続けていた。

四月に入っており、入学式にも姿を見せなかった皐月を心配した、高校の教師らが、学校に来てはと促しに来たが、門前払いにした。

彩芽がいない未来を生きる為に、自分に一体何を高校で学べというのか。

布団に包まったまま、やっと戀人になれたばかりの彩芽を、斯くも無惨に奪い去った戦争を、戦争を起こした世界を、暗い部屋の片隅か、包まった毛布の中で、皐月は呪った。彩芽を自分から惨たらしく奪ったような戦争をする世界など、滅びて仕舞えばいいと本気で願った。

祖母も心配して、幾度となく蒼葉家を訪問したが、皐月は祖母すら追い払った。お裾分けを持ってきてくれたが、それも受け取らなかった。彩芽の戦死の報せを受けてから、幾日とまともに物を食べておらず、体は痩せ衰え始めたのは分かっていても、なんとも皐月は思わない。寧ろ、このまま楽に死んでいける、彩芽の待つ冥府に行けると、自分の衰弱の兆候に喜びさえ覚えた。

五月が来るのが、煩わしかった。彩芽との、数年間言えずにいた両片思いの始まりの季節だからだ。きっと五月が来たら、自分は耐え切れずに、死を選ぶだろうという確信に近いものが皐月にはあった。

四月後半、テレビをつけると、皐月は、キャスター達が深刻な表情で、

「ニュース速報を繰り返します」

と言っているのを見た。内容に耳をやると

「C国は、日米を始めとした五カ国の多国籍軍がT国と我が国の戦争に、これ以上の不当な軍事介入を続けるならば、多国籍軍の参加諸国に、容赦なく先制核攻撃を行う。これは単なる脅しではなく、我が国からの最後通牒である」

という恐るべき声明を、C国政府が発表したとの事で、どのチャンネルも、核攻撃の可能性についての話題で騒然としていた。

しかし、恐れ慄いた表情でコメントしている報道番組のキャスターや出演者らと異なり、皐月はこのニュースに、安堵すら覚えた。

「核戦争になれば、きっと今に私がいるこの街の頭上にも核ミサイルが降ってくる…そうしたら、私は何をせずとも、核が私を殺して、彩芽の元に連れて行ってくれる…」

そう考えたからだ。


アヤメの花も、この砕けた花飾りも結局は嘘っぱちだった。良い便りを…戦争から彩芽が帰ってくるという便りを自分にもたらしてはくれず、彩芽は亡き人になった。もう、何も信じない。何も信じられないこの世界は、彩芽が死んだ時点で終焉を迎えねばおかしい筈なのに、まだ続いているのが不思議に感じられた。核攻撃という、馴染みのない、しかし何処までも破滅と終焉を感じさせる言葉は、皐月の望む死をもたらしてくれるように思われた。


五月…暗い部屋の中、布団に包まったまま、ぼんやりと皐月は、T国の戦争の推移を伝える中継を見ていた。

そうした中、中継が切れ、ニュース番組の場面がスタジオに切り替わる。

「C国政府発表で、最後通牒に従わなかった国のうち、日本、オーストラリア、カナダへ多数のミサイルでの先制核攻撃を実施するとの発表がたった今なされました!!既に核弾頭ミサイルは三ヶ国に向けて発射体制に入っており間もなく発射されるとの発表です!防衛省、在日米軍は核弾頭ミサイルの飽和攻撃を全力で阻止すると声明を出し、ミサイル迎撃態勢に入っております!国民の皆様、核ミサイル攻撃情報を引き続きお伝えしますので、絶対にテレビを消さず、そのままにしてください!…」

皐月はテレビを消した。今頃、日本全国は大パニックに陥っている事だろう。何処が核攻撃されるか、何処へ避難したら安全かで外は大騒ぎに違いない。

しかし皐月は、この家を捨てて逃げ去る気はない。彩芽の残香が、魂の一部が微かに残っている気がするこの、母娘が暮らした家を捨て置くなど出来なかった。皐月自身、生への執着は捨てていた。日本への核攻撃が間もなく始まるという情報を聞いても、皐月は逃げようとはせず、布団の上に横たわり、目を閉じた。胸元に、彩芽が遺した髪留めだけは握りしめて。


眼前まで、太陽が迫ったかのような灯りが、皐月を照らし、瞼の裏の血管が透けて見えた。次の瞬間には、地震のような、地響きの音と共に爆風が皐月のいた長屋をも瞬時に包み込み、瓦屋根は剥がれ、壁は薙ぎ倒され、皐月の体も軽々と風に乗せられて、宙空へと投げ出されていった。 

爆風の次の瞬間には、溶岩に直に身を晒されるような、強烈な熱波が皐月の服も、肌も焼き焦がしていくのが分かった。

それらは、全てが時間にして数秒から、精々が数分以内の出来事であったろうと思う。

気がついた時、皐月は全てが瓦礫と化した街の上に倒れていた。どの程度気を失っていたか分からない。

胸元に握りしめていたアヤメの花飾りの髪留めが、まだ手の中にあるのを見届けて、皐月は安堵した。体に目をやれば…服は殆ど焼け落ち、肌は、白くなる程まで焼き焦がされていた。白い火傷の部分を指で突いても、感覚は殆ど分からない。

髪留めを、自分の頭へと遣ってみる。髪に留めてみようとしたら、掴んだだけで前髪がボロボロと根っこから抜け落ちた。自分の身が、あの爆発の熱波で頭から足まで焦がされたのを皐月は悟った。立ちあがろうとすると、左足が奇妙な方向を向いて折れ曲がっていた。その痛みに耐えながら、手には髪留めを握りしめ、皐月は、一瞬にして廃墟の有様と化した、見慣れた筈の街へふらふら歩き出す。

これが核攻撃というものの結果らしかった。街中では瓦礫の山の至る所から、絞り出すような声で助けを呼ぶ声が上がっている。かろうじて生き埋めを免れた人々も、皆手や足は折れ曲がり、焼け爛れた体にボロ切れをまとい、奇妙な歩き方で街を彷徨っていた。

歩くのも疲れ、倒れた電柱の上に皐月は座り込む。すると、ぽたぽたと足元の、アスファルトが剥がれて剥き出した地面に、水滴の染みが出来始めた。

皐月は見上げる。空はどす黒い雲に覆い尽くされ、そこから、黒雲を一粒、また一粒切り取ったかのような、黒い雨が降ってきた。

黒い雨粒が自分の爛れた肌にも当たっているらしい事は皐月にも分かったが、それが熱いか冷たいかすら、今の皐月には判別出来ない。

肌に突き刺さるような強さを感じ始める五月の眩しい陽光も、その陽光を眩しく照り返す、目に鮮やかな緑や、草花達も、街中の何処にもありはしなかった。木は薙ぎ倒され、葉も草も花も全てが灰塵に帰していた。核の着弾で、刹那のうちに街は黒雲と黒い雨が包み、死の匂いが充満した街に変わり果てた。

家もほぼ全て倒壊した中、記憶を頼りに祖母の家を探し当て、様子を見に行ったが、瓦礫から、皺だらけの手が、血溜まりと共に滲み出て、その下で祖母も事切れていた。

皐月も本能的に、自分の命ももう長くない事は悟っていた。

せめて、最期に行きたい場所は何処かを考え…あの、自分と彩芽の初戀が芽生えた地であるあの空き地を目指した。自分の死に場所は、あそこを置いては他にない。

黒い雨を浴び、左足を引きずって歩きながら、アヤメの花は咲いているだろうかなどと、皐月は考えた。この、核攻撃により、人も自然も全てが死に絶えたか、死を待つ定めとなったこの街で花が咲いている筈も無いのに。

徐々に視界もぼやけて、怪しくなっていく中、皐月は遂にあの、遠い五月の日、アヤメの花を二人で見つけた空き地に行き着いた。

そこまで来た時、皐月は崩折れるように空き地の地面に倒れ込んだ。

「ア…アヤメを、探さなきゃ…」

一人呻くと、聞いた事も無いような、しゃがれた声が自分の喉から出た。皐月の喉は焼き焦がされたらしい。

視界に入る空き地の草花達は皆、真黒に焼き尽くされ、花らしいものなどとても見つからなさそうだった。

それでも皐月は左手には髪留めを握りしめたまま、両手で這いずるようにして、焦げた草花の中に入っていく。アヤメを見つける為に。その先には、彩芽が待っているかのように。

黒い雨に打たれ続け、意識も徐々に遠のいていくのが分かるが、それでも皐月は最後の力を振り絞り、地を這って焦げた草を払い除け、あの紫と繊細な白線の花を探し求める。


その時、皐月の視界の片隅に紫と白の花弁が見えた。

黒い雨を浴びながらも、一輪だけ、アヤメの花は気高く咲いていた。

「ア、アヤメ…だ…」

ほぼ声も出ない筈の喉から、その言葉だけは零れ出る。水分を体から奪い尽くされたように感じるのに、泪が一筋頬を伝うのが分かった。あと、数センチで花に手が届く。

皐月はその数センチを死力を奮って這って進む。手を精一杯伸ばして、アヤメの花を掴み、摘み取る。ようやく掴めたそれを、髪留めと共に、大事に胸元に持っていく。

アヤメの花弁を、震える手で口元に運び、目を閉じて唇をつけた。


その刹那に、奇跡は起きた。

次に皐月が目を開けた時には、眼前には驚くべき光景が広がっていた。

全てが死に絶えたかに思われた、空き地には五月の爽やかな緑の草に、花達が蘇っている。アヤメの花も咲き乱れていた。眩しい陽光が、皐月の白い肌を照らしていた。

焼け爛れていた筈の自分の肌に目をやるが、そこには小さな火傷すらなかった。あれ程、歩くのも苦しかった筈の体も、すんなり起き上がる事が出来た。

皐月の耳に、忘れる筈の無い声が響いた。

「皐月!」

我が耳を疑い、皐月は声の方角を振り向く。すると、そこには、迷彩服ではなく、家にいる時の普段着の姿の彩芽が、生前の姿のままに、微笑んで立っていた。

「彩芽!」

皐月は草を踏みしめて走り出し、忽ちに彩芽の胸へと飛び込んでいった。戦地に送り出す前夜、堪えていた分まで、泪を溢れさせながら。

「寂しがり屋の次は、泣き虫の皐月ちゃんになった?困ったわね…」

茶化す声も生前のままだ。

「う、うるさい!帰ってきてたなら、何ですぐに私の元に来てくれなかったの⁉︎」

「サプライズみたいな感じでパッと帰還しました、みたいな感じの方が皐月ちゃんも感動するかなって思ってね」

「そ、そんな、回りくどい演出とか、別にいらないから!私は、彩芽が帰ってきたなら、今度からは戀人同士として暮らせるなら、他には何もいらないの!」

皐月は幼な子に戻ったように、彩芽の胸で声を上げて泣いた。シャンプーの匂いまでが、昔のままだ。彩芽は本当に自分の腕の中にいて、彼女もまた、自分を抱きしめてくれているのだ。

「勿論、私もそのつもりでいたわ。戦争も、もう何も私達を縛らない。これからは、母娘は卒業、戀人同士として暮らしましょう」

泣きじゃくる皐月の背を撫でながら、彩芽は優しくそう言い聞かせた。皐月はその言葉に何度も頷いた。

『やっぱり…アヤメは素敵な花だ…。もう会えないと思っていた彩芽に再会させてくれた。戀人同士として暮らせる幸せを与えてくれた…』

「わ、私達、本当はあの五月の日にするべきだったけど、あの時と同じこの場所で、今度は戀人として、また始めようね!」

そう言って、皐月は、彩芽と抱き合ったまま、アヤメの花咲く中で、再会を喜んでの口づけを交わしたー。


C国の核弾頭ミサイル着弾により甚大な被害が発生した〇〇市に、放射線防護服を着た救助隊がようやく到着したのは、それから数日がたった頃だった。

救助隊員らは、空き地だったと思われる場所に入り込んで息絶えていた、少女と思われる被爆死体を発見した。その死体に彼らはこぞって首を傾げた。

死体は重傷熱傷に、複雑骨折という悲惨な状態であるにも関わらず、彼女の表情は世にも幸せに満ちた表情をしていたからだ。

更に彼らは、少女が握りしめていた物にもまた首を傾げた。それは壊れた何かの花飾りがついた髪留めと、紫に白線の走った一輪のアヤメの花だった。焼け残りの花があった事に加え、少女が何故それを胸に抱くようにしていたのか不可解だった。

「何がこの子にあったかは確かめる術もない。だが、これだけ大事に胸に抱いてるんだ。大切な花と、髪留めなんだろう。遺品として、共に埋葬してあげよう」

という結論にまとまり、少女の死体は袋に収容され、その胸の上には、髪留めと、まだ色鮮やかな一輪のアヤメの花が乗せられた。

そのジッパーが閉じられ、少女ー、蒼葉皐月の死体は車両に乗せられ、被爆死体安置場へと、運ばれていった。


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皐月に散る わだつみ @scarletlily1125

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