出航準備 2

 ローマにいたのは、ボナパルト将軍の妹だけではない。サン=シル将軍(*1)がいた。


「まさかここに君がいるなんて!」

大仰にのけぞってみせるドゼ将軍を、サン=シル将軍は、冷たく見据えた。

「俺がローマ赴任になったことは、知ってたくせに」

「うん、知ってた」

けろりとして、ドゼ将軍が答える。サン=シル将軍は、3月末、俺達より、1週間ほど早く、ローマ入りしていた。



 サン=シル将軍は、ドゼ将軍より4歳上、革命戦争の最初から、二人とも、ライン軍にいた。

 少数の前衛を率いて突撃するドゼ将軍と、冷静な、詰将棋のように勝てる戦いを目指すサン=シル将軍は、正反対の気質だった。それゆえか、互いに競い合い、協力し合う、盟友同士だった。



 去年の春、長く続いたオーストリアとの戦いに終止符が打たれた。ボナパルト将軍のイタリア軍がロンバルディアを平らげ、ウィーンまで33リュー強(133キロ)のところまで進軍したのだ。オーストリアはフランスとの和睦を受け容れ、北イタリアと、ライン河西岸をフランスの領土と認めた。(一部秘密条約)



 平和になったライン軍(「ドイツ軍」右翼と名前を変えていたが)の司令官には、ドゼ将軍が任命された。ところが先に述べたように、彼は「栄光を求めて」、ボナパルト将軍の参加に入った。代わりにサン=シル将軍が司令官になったのだが……。


「ドゼ。お前、ライン軍の指揮権を俺に押し付けやがったな」

「何を言う、サン=シル。君だって、うまく逃げたじゃないか」


 この二人は、昔から、作戦の指揮権を押し付け合っていた。敗戦の責任を取るのがいやなのだ。俺は、そう思う。なにしろ昔から、ライン軍には、決定的な勝利がなかった。つまり、引き分けが多く、負けも、同じくらい多かった。


「逃げたわけじゃないぞ! オージュロー(*2)が悪いんだ! あと、ベルナドット師団のやつらも!」

 鼻息荒く、サン=シルが叫ぶ。


 去年の春のことだ。戦勝の続くイタリア軍のテコ入れに、ライン方面から、ベルナドット師団が差し向けられた。ところがどうしたことか、ライン方面から来た兵士たちは、もとからイタリア軍にいたオージュロー師団等の兵士らとウマが合わなかった。

 そしてある日、大乱闘が起こった。なんでも、ムッシュと半ズボンがどうした、こうしたという話だったらしいが、きっかけは、些細なことだったらしい。(*3)


 やがて、イタリア軍(ボナパルト軍)はオーストリアに勝利し、北イタリアはフランスのものとなった。オージュローは、ライン方面へ転任になった(今では、前述「ドイツ軍」の総司令官をやっている)。ベルナドットも、散々ごねた挙句、オーストリア大使として、ウィーンへ赴任していった。


 師団長二人が去ったローマでは、兵士達だけが、相変わらず、乱闘を繰り広げていた……。



「で、うまく鎮圧できたのか?」

目尻に笑いに含み、ドゼ将軍が尋ねる。


「当たり前だ」

仏頂面で、サン=シルが答える。去年の5月に始まった乱闘は、今年の3月、サン=シルが鎮圧に来るまで、実に10ヶ月に及んだ。

「俺がどれだけ、ライン軍のケンカを懲罰してきたと思ってるんだ? 全くあいつら、血の気が多くて……ドゼ、お前んとこのダヴーだって、相当だったぞ」


「ダヴーは、俺のじゃないから。彼は、アンベール師団だ」

「同じことだ!」



 傍らで上官達の話を聞いていた俺とサヴァリは、顔を見合わせた。ダヴーについては、俺も、サヴァリも、言いたいことはいろいろある。(*4)



「その、ダヴーだ」

不意に、サン=シル将軍の声が低くなった。

「遠征には、あいつも行くのか?」

「ああ」

「なぜ、ここチビタ・ベッキアにいない?」

「ダヴーなら、マルセイユにいるよ。彼は、ボナパルト将軍に気に入られてな。司令部付けで遠征に参加することになった」


 まじまじと、サン=シル将軍は、ドゼ将軍の顔を見た。

「俺は、そうは聞いていないぞ、ドゼ」

「どういうことだ?」


「'une foutue bête’」

低い声で、サン=シルは答えた。

 血まみれの獣。もう少し穏便に言っても、馬鹿、間抜け、愚か者、という意味だ。


 ドゼ将軍の顔色が変わった。俺とサヴァリも身を固くした。

 ダヴー。確かに問題の多い奴だが、あいつは、仲間だ。

 サヴァリの顔が、みるみる紅潮していくのがわかった。きっと俺もそうだったのだろう。罵声を吐こうとした俺の足を、サヴァリが踏んだ。俺もサヴァリの脛を蹴り返し、サヴァリは顔を顰めた。


「ボナパルトには気をつけろ」

サン=シル将軍が言った。

「彼は、お前から、力のある将校を剥ぎ取ろうとしているんだ」


「何のために?」


「何のため?」

サン=シルは激昂した。

「自分の地位を奪われない為さ。勝利、手柄、人望。それらすべてを、自分だけのものにするためだ」


「よくわからない」

ドゼ将軍は首を傾げた。


 ドゼ将軍の当惑が、俺には、手に取るように分かった。富や名声に執着しない彼には、全く彼岸の話なのだ。



 「ダヴーが心配です」

俺の足を蹴とばし、サヴァリが口を出した。

「賢そうに見えるけど、あいつ、結構、アレだから……」

「口と脳が直結してますし」

上官達の話には口を出すまいと控えていたが、俺もつい、加勢してしまった。


 ドゼ将軍が、頷いた。

「遠征地に着いたら、彼を呼んでみよう」


「その必要はない」

サン=シル将軍が顎を撫でている。

「ダヴーは、自分からやって来るよ。なんだかんだ口実をつけてな。ドゼ、お前の師団に」







 すがすがしい海風が吹き、春の日差しが日に日に強くなった。俺は、いつものように、チビタベッキア港へ、積み荷の点検に向かった。ところが、人夫たちの様子が変だ。荷は港に積み上げたままだし、見張りの兵士たちはたむろして、動こうとしない。それどころか、船の中から、木箱を運び出している。


 「どうしたんだ?」

顔見知りの大尉に、俺は尋ねた。

「ああ、ラップ」

軍服を粋に(と本人は思っている)着こなした大尉は、肩を竦めた。

「出航、取りやめになりそうだぜ。無期限延期とか」

「なんだって!?」


 ついさっき、パリから届いたばかりの情報を、大尉は教えてくれた。

 前に触れた通り、元サンブル=エ=ムーズ軍にいたベルナドットは、イタリア派兵を経て、外交大使となり、ウィーンに赴任していた。ところが、この4月の中旬に、ウィーンの暴徒が、フランス大使館に掲げられた三色旗を焼くという事件が起きた。(*5)


「なんたるやつらだ」

俺は憤怒した。

「奴らが焼いたのは、単なる旗じゃない。革命の精神だ」


「うむ。俺らのベルナドット将軍が、黙っちゃいまい。フランス政府もな」

 鼻息が荒い。この大尉は、2年前、ベルナドット将軍と一緒に、ライン河畔からイタリアへ来た将校だ。元からイタリアにいたオージュロー師団の兵士らと乱闘を始め、10ヶ月後、両師団まとめてサン=シル将軍から怒られ、ようやく、剣を鞘に納めた。当然、血の気が多い。

「再び、ウィーンへ進軍か!?」


血の気の多さでは、俺だって負けちゃいない。というか、革命の精神を拡げようという情熱は!

「ドゼ将軍の元に戦うのだ!」


顔を見合わせ、俺達は、頷き合った。



 この混乱は、しばらく続いた。

 だがやがて、オーストリア皇帝が、平身低頭、ベルナドットに謝罪したと伝わってきた。敗戦国の皇帝として、フランツ帝は、フランス大使に、強い態度に出られなかったのだろう。

 ベルナドットは皇帝の謝罪にも臍を曲げたまま、大使を辞し、フランスへ帰国した。(*6)


 チビタベッキアからの出航は、滞りなく行われることになった。







 「でも、いったいどこへ?」

 出航準備も終わろうという頃。俺達は、未だに、行く先を知らされていなかった。痺れを切らし、サヴァリが尋ねた。サヴァリは、俺より3つ、年下だ。そのせいか、物怖じということをしない。


 行く先は、誰も知らない。ローマでは、知っているのは、師団長のドゼ将軍ぐらいだろう。あと、学者のモンジュとか。軍の遠征になぜ、学者が同行するのか謎だったが、モンジュは、ボナパルト将軍が自ら、誘ったらしい。(*7)


 だが、行く先については、ドゼ将軍もモンジュも、固く口留めされている。それを、敢えて聞き出そうとするなんて、サヴァリの奴。


 案の定、ドゼ将軍は、困ったように顎を掻いた。

 ため息を吐き、彼は答えた。

「俺は逃げなかった、とだけ、覚えておいてくれ」


 出航準備に奔走していたドゼ将軍は、フランス軍の装備や食糧医薬等が、いかに準備不足であるかを、身に染みて理解していた。


 たとえば、エジプトに上陸してからわかったことだが、フランス軍には、水筒フラスコが、圧倒的に不足していた。というか、全くなかった。

 砂漠の行軍で、どれだけの渇きに襲われたことか!


 また、靴は常に足りなかった。暑い砂の上を、兵士たちは、ぼろきれを足に巻き付けて何リューも歩き続けた。


 サヴァリは、水や薬の代わりになる酒精スピリットの不足を嘆いていた。ついには、ボナパルト将軍の分を回せと、司令本部と、侃々諤々のやり取りを始めたものだ。


 要するに、エジプトは、未知の大陸だった。フランス遠征軍は、対策も準備も、まるでできていなかった。



 「俺達の乗船するフリゲート艦の名を知っているか?」

ドゼ将軍が俺とサヴァリを等分に見ながら尋ねた。

俺達は首を横に振った。


「勇気号(la Courageus )というのだよ」


 勇気。

 その名は、ドゼ将軍にこそ、ふさわしい。

 だが、この時の彼は、自分の勇気を掻き立てようとしているかのように、俺の目には映った。

 ドゼ将軍は、この遠征を、無謀なものと考えているのか。


 ……「俺は逃げなかった、とだけ、覚えておいてくれ」


 エジプトに来てから、俺は、何度も、この言葉を思い浮かべている。

 そして、思うのだ。

 ドゼ将軍は、思慮深く、それゆえ、勇敢なのだ、と。








∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


*1 サン=シル

 後の、ナポレオン時代の元帥。ドゼの友人。「負けないダヴーの作り方」にも登場しています。

 https://kakuyomu.jp/works/16816452218559266837



*2 オージュロー

 イタリア遠征時代からのナポレオンの部下。ライン方面軍の総司令官になる。詳細は同じく「負けないダヴーの作り方」に



*3 乱闘

 1796年のウィーンへの侵攻は、ライン方面とイタリア方面、二手に分かれて行われました。オーストリアのカール大公に阻まれライン方面軍が苦戦した一方、イタリア方面では、若い将軍ナポレオンが勝利を重ねていました。更なる梃子入れの為、ライン方面から、ベルナドット師団が応援に派遣されました。

 ベルナドット師団はライン方面軍としての誇りを保ち、規律正しいので有名でした。彼らは、お互いを「ムッシュ」と呼び合っていました。

 もとからイタリアにいた兵士達にとっては、これが面白くありませんでした。

 そんなある日、街中で、オージュロー師団イタリア軍(一部マッセナ軍含む)の兵士達が、ベルナドット師団元ライン方面軍の兵士達に出会いました。

 すかさず、イタリア兵は言いました。

「こんにちは、ムッシュ・高貴な方々」

間髪入れず、元ライン軍の兵士は答えます。

「こんにちは、半ズボンを穿いた市民の皆さんシトワイヤン・サン・キュロット

 高貴な方と崇めてやったのに、半ズボンしか穿けない市民とは、何事か!

 いやいや、そもそもその、「高貴」っていうのが、イヤミだろ!

 というわけで、大乱闘が始まりました……。



*4 ダヴー

 後のナポレオンの「鉄の元帥」。

 ラップとサヴァリとの絡みは、フィクションです。

 ダグーを表したナポレオンの言葉は史実です。ダヴーが、ドゼから離され、最初は、司令部付きでエジプト遠征に参加したのも。ちなみに、ダヴーをナポレオンに紹介したのは、ドゼです。「負けないダウーの作り方」最終章は、この直前で終わっています。

 https://kakuyomu.jp/works/16816452218559266837



*5 ウィーンで三色旗が焼かれた事件

 ウィーンに大使として赴いたベルナドット(*6参照)は、外に派手派手しく三色旗を飾りました。しかし、当時ドイツには、国旗を掲揚するという習慣がなく、これは、ウィーンっ子たちの反感を買いました(なにしろ彼らは敗戦国ですからね)。で、フランス大使館に乱入し、旗を奪って焼いた通りが、今でも「旗通り」として残っています。

 ここでフランス大使を怒らせたら大変。オーストリアの皇帝フランツは平身低頭、丁寧なお手紙をベルナドット様に差し上げたのですが、臍を曲げた彼は、さっさとパリへ帰ってしまいます。あまつさえ、自分達への護衛を差し出すよう、皇帝フランツに要求して。

 「三帝激突」19話「Flaggenstraße(旗通り)」に詳細あります。

https://novel.daysneo.com/works/episode/9d5521055acd2834eb655f5745a1da5c.html



*6 ベルナドット

 革命期からのフランス将校で、ナポレオンの元カノを妻にし、後にスウェーデン太子(王)になった、あの人です。



*7 モンジュ

 ガスパール・モンジュ。エジプト行を告げられたのは、前年夏、ドゼとほぼ同じ時期。自分の年齢を考え(50代に入っていた)、モンジュは断ったが、モンジュの妻を通して、ナポレオンが搦手から、彼を遠征に彼を引き入れた。ナポレオンは、彼に、父性を感じていたとか。("Bonaparte in Egypt" J.Christopher Herold)





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