9-4 虚無

     ◆


 ダナンはほんの一時的に、ウライヴ侯爵家に雇われただけだった。

 それも傭兵会社の十二大手の一つであるところのグングニル傭兵社から派遣されるという形でだ。

 ダナン隊は総勢で二百名で、これは歩兵で構成されている。

 ウライヴ侯爵領軍による、イユーヴ伯爵領への侵攻の結果は、勝者が存在しないというところに行き着いた。

 ルーシアの街を一度はウライヴ侯爵領軍が制圧し、略奪にまで及んだが、その次にはイユーヴ伯爵領軍がウライヴ侯爵領軍の側背を急襲し、これによりウライヴ侯爵領軍が体勢を立て直すために後退した。

 あとは睨み合いとなり、膠着し、つまり元の通りになった。

 ただルーシアの街が蹂躙され、大勢が死んだということだけが後に残った。

 私は誰を恨めばいいのか、しばらく考え続けることになった。

 イユーヴ伯爵領軍は、ほとんど意図的にルーシアの街を放棄した。自分たちが運び出せなかった物資を、敵に渡さないために焼き払いさえしたのだ。

 ウライヴ侯爵領軍は、戦陣の先頭を雇っておきながら支配が完璧ではない賊徒の集団に任せた。彼らは雇い主の許可もないまま、自分のために、ルーシアの街にある建物という建物に踏み込み、残されている金目のものを奪い去った。逃げ遅れたものを奴隷にしさえした。

 イユーヴ伯爵領軍の痛烈な反撃のために、ウライヴ侯爵領軍は損害を出したが、ほとんどが賊徒か傭兵だったようだ。ウライヴ侯爵は意外に強かであるというしかない。

 人を殺したもの、ものを奪ったものを批判することはできる。

 しかし今の世では、それが当たり前になりつつある。

 平和を訴えたところで、奪うことでその日の食事にありつくものは、平和な世では飢えて死んでしまうだろう。あるいは罪を犯し、誰かしらに裁かれ、やはり死を賜るのか。

 私はルーシアで時間を過ごした仲間たちと会うことは二度となかった。あの猛火に包まれた陣地にいたはずのものは消息不明だし、他のものも逃げ延びたのか、それとも殺されたのか、売られたのか、何もわからない。

 私はあの老人の髪のひとふさを当分、持ち歩いていたけど、ある時に不意に、捨てる決意をした。

 過去の自分はもういないと、そう思ったのだ。

 あのウライヴ侯爵領から逃げ出したところから始まり、イユーヴ伯爵領のルーシアで過ごした日々は、もう何の痕跡もなくなってしまった。

 戦闘が終わった後の日が暮れていく真っ赤に染まる原野を前にした時、私は全てが失われたこと、自分の過去がどこにもないこと、それを理解したのである。

 ずっと持ち歩いていた老人の灰色の髪のひとふさを、私は夕日の中に手放した。

 時間は流れていく。

 ダナンには私の他にも何人か女性がおり、常に私が彼のそばにいるわけではなかった。大半はどこかしらの街に滞在し、転々とする。

 この世界は私の想像よりも広いとわかったのもこの頃で、この世界には私が目の当たりにした光景とは隔絶された、平穏そのもの、退屈と言ってもいい穏やかな場所が数多くあるのもわかった。

 人と人が剣を向けあう場所を、私はもう身近に見ることはなくなった。

 争いの空気も、血の匂いも、少しずつ忘れていった。

 ダナンは戦場で生きている。

 その妾である私は、戦場に立つことはない。

 街で生活すると、様々な人が笑顔で生きていることも、見ずにはいられない。

 彼らも悲しみや絶望をまるで知らないわけではないだろう。

 人は何があろうと、最後には笑えるのか。

 ダナンと最後に顔を合わせたのは、故郷であるウライヴ侯爵領からはるかに離れた、大きな街でのことだった。

 彼はふらっとやってくると、一晩だけを過ごして、「また会おう」とだけいって去って行った。

 次に私の元にやってきたのは、彼の髪のひとふさに過ぎなかった。

 戦場において彼は討ち取られ、遺体はその場で埋葬されたという。

 どんな最後だったのか、誰が彼を討ったのかは、何も知らされなかった。私にはグングニル傭兵社から見舞金が届けられ、幾人かのダナンの同僚が私の生活の手助けを申し出てくれた。

 でも私は見舞金を受け取るだけで、他は全て謝絶した。

 見舞金は相応の額で、どこか地方へ行けば、それで当分は生きていける。

 噂で聞いた辺境の村へ行った私は、持ち主がいなくなっていた小さな建物を借り、生活を始めた。久しぶりに農作業もはじめ、日々はあっという間に過ぎていった。

 その頃から、私は夢の中でルーシアの、あの炎に巻かれた陣地のことを思い出すことが増えた。

 夢の中で、炎を突き抜けるように黒い具足の少女が乗った馬がこちらへ向かって来る。

 私のすぐそばにはダナンが立っているけれど、こちらに広い背中を向けている。

 少女、セラの手には剣があり、それが一閃すると、鮮やかにダナンの首が宙に飛ぶ。

 その場面で必ず、私は悲鳴を上げて目覚める。

 夜の闇の中では何も見えない。激しい動悸に汗まみれの体が震えているだけだ。

 どう考えても私が見ている夢は妄想だ。実際に、あの陣地ではダナンは傷こそ負ったが、斬り殺されてはいない。

 それでも、と闇の中で私は思うのだった。

 もしかしたら、ダナンを討ち取ったのはセラなのではないか。

 そうではない、と断言することはできない。

 二人ともが傭兵であり、戦場で敵同士になることに不自然さはない。

 ああ、でも、私は何を望んでいるのだろう。

 ダナンには死んで欲しくなかった。

 ダナンのそばにいた私は満たされていたと今ならわかる。

 満たされてはいたけど、あの時は何かが足りなかった。

 足りなかったものを知るために、ダナンを差し出さなければいけなかったのだろうか。

 小さな集落で、何年も放置されていた畑を耕しながら、繰り返し、私は自分の過去を振り返って日々を過ごした。

 必死だった。そして、常に何かに追われていた。

 やるべきことがあるはずだった。でもそれはわからないまま、いたずらに時間だけが流れた。

 ここで土を耕し続け、農作物を作っても、最後には何も残らないのではないか。

 そう、私は、この国においてこのままでは、何者でもないままになる。

 戦いが何もかもを奪い尽くした。

 ダナンは戦いの中に、何かを見出したのか。

 例えば、戦闘の中で私を拾ったように。

 私もここで、何かを拾えるだろうか。

 何者かに、なれるのだろうか。

 なんでもない日に、私は畑の真ん中で屈めていた腰を伸ばしながら、懐から小さなケースに収めたダナンの毛のひとふさを取り出した。

 過去を捨てることは、意識しないとできないものだ。

 そっと毛を地面に蒔いた瞬間、強い風が吹いて、私は反射的に顔を背けた。

 正面に向き直った時には、すでにダナンの毛はどこかへ消え、ただ大地だけがある。

 鍬を手に取り、私はぐっと振り上げた。

 生きている。

 でも、どこで? 何のために?

 誰のために?

 私は、何者なんだろう?

 染み付いた動作で振り下ろした鍬は、深く地面に突き刺さった。

 しかしそこには、何もない。

 私の内にも、やはり何もなかった。



(第九部 了)

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