9-2 絶望の先に

     ◆


 女の一人が持っていた短剣で、老人の髪をひとふさ、切り取った。

 遺体を運ぶことはできない。葬ることもできない。せめて髪だけでも、という気持ちだった。短剣はあまりにも切れ味が悪く、ただ髪を切るのにも手こずった。

 全てがうまくいかなくなっている。

 もう一度、周りを見た。

 私を含めて、女ばかり七人。そのうち、未成年が四人だ。

 武装は今、私が持っている短剣の他に、二人がそれぞれ短剣を持っている。

 戦うという選択肢はない。女が兵士の群れに対抗できるなんて、天地がひっくり返ってもないことである。

 そうなると、この三本の短剣は、いかにも不吉だった。

 まるで自分の命を絶つためにあるような……。

 近くで悲鳴が起こり、全員がそちらを見た。路地の入り口に誰かが倒れている。通りは光に照らされており、路地は暗い。

 悲鳴の主の誰かは影の中に倒れこみ、ここからはよく見えない。

 路地の入り口に仁王立ちしているのは、体格からして男だったが、やはり逆光で見えない。

 しかし、手には剣を下げている。

 私たちは誰も動けなかった。金縛りにあったように、指一本、動かせなかった。

 兵士が一人で路地へ踏み込んでくる。完全に影の中に入ったことで、その長身の男の顔がよく見えた。

 目つきは酷薄そうで、厚い唇が引き結ばれている。

 これ以上ないほど、警戒するべき相手だと直感した。

 自分たちが圧倒的な優位に立つと、大抵のものは相手をいたぶろうとする。言葉を使うか、暴力を使うか、そんなところだ。

 なのに今、目の前にいる兵士はそんな余裕は完璧にコントロールし、冷静そのものだった。

「死にたくなければ、出てこい」

 低く響く声に、私は思わず、息を飲んでいた。

 殺す、という意思は歴然としていた。

 何の抵抗もなく、手にしている剣は私たちを切り裂くのではないか、と想像しないでいられるわけがない。

 私はゆっくりと立ち上がった。

 片手には老人の髪を掴んでおり、もう一方の手にはまだ抜き身の短剣を下げていた。

 男は表情一つ変えない。

 鋭い視線が私を串刺しにして、思わず背筋が震えた。

 手がブルブルと震えだし、短剣を落とすべきなのに、なかなかそれができない。

 これから何があるのか。

 自分の身に何が降りかかるのか。

 目の前の男に突っ込んで、短剣を突き出して、それでどうなる。

 仲間の女性たちは逃げることができるのか。

 私が無駄に死ぬだけか。

 私の行動で、六人が道連れになるのか。

 考えること、検討すること、全てが頭の中でぐるぐると回り、火花が繰り返し弾けて、何もわからなくなった。

 呼吸さえもままならなくなった。

 息を吸うことができず、息を吐くと何かが喉のあたりで邪魔をする。

 手がひときわ強く、震えた。

 そして短剣を手放していた。

 短剣が手から離れた途端、全てが楽になった。全身の強張りは消え、それは絶望、諦めに心が塗り替えられたからかもしれなかった。

 ついて来いという声が聞こえ、私は黙って従った。六人がそれについてくる。

 路地を出るとき、倒れている若い女性が見えた。目を見開いたままだ。背中が深く切り裂かれ、どす黒い血が見えた。

 通りへ出ると、兵士というには統一感のない男たちが、ルーシアの街で略奪を始めていた。逃げ遅れた住人があるものは殴られ、蹴りつけられ、切りつけられている。一方で奴隷として使えそうなものは、すでに縄を打たれ、力づくで引きずられていっていた。

 私たち七人はただ男の後ろを一列で歩いた。他に二人が短剣を持っていたはずだが、気づくと捨てていた。

 私たちはどうなるのか。

 男たちの慰めの対象になり、いいように使われ、最後には捨てられるのだろうか。

 ぞろぞろと歩いていると、数人の兵士が男に向かって敬礼をしているが、男が無視するという場面があった。それも一度や二度ではない。

 男はどうやら、相応の立場にあるようだった。

 私は少しずつ冷静になっているのを自覚していた。

 いつでも逃げ出せるのだ。男は油断していない、だから今は無理だが、人間はいつまでも集中し続けられるものでもない。どこかで隙が生まれる。それを見逃さないことだ。

 黙って歩き続けて、街を出たところで、幕舎がいくつか見えてきた。何本も旗がたち、ウライヴ侯爵家の紋章が見て取れた。ルーシアの街はすでに彼らに占領された、ということか。

 男は一つの幕舎に私たちを入れると、あっさりと出て行ってしまった。幕舎は私たち以外に人はおらず、何かの荷箱が重ねて置かれていた。手で触れると後でよくないことが起こるかもしれない。まさか武器を保管する幕舎に私たちを入れるわけもないのだ。無価値なものなのだろう。

「どうなるのかしら」

 女性の一人がぼそりとそう言った途端、泣き始めた。最初は声を抑えていたが、少し声が漏れたところでついに箍が外れたように、声が空気を震わせる。他に二人もさめざめと泣き始めた。

 その光景を前にして、私は唇を噛んで、ひたすら思考を巡らせた。

 イユーヴ伯爵領の兵士は撤退したのか。それともルーシアの街を一旦、敵の手に渡して、反撃を狙っているのか。ルーシアの街にも駐屯している兵隊が相応にいたけど、先ほどの様子では抵抗らしい抵抗はしていない。

 やはり、イユーヴ伯爵領軍は、敵を誘い込んでの反撃を狙っているのではないか。

 狙っているとしても、しかし、いつその反攻作戦が始まるかが、わからない。わかるわけもない。

 待つことだった。

 待って、好機がやってきた時に、そこで何かができるように備える。

 その時、私に何ができるだろう。

 武器はない。放火しようとしても、火をつけるために必要なものがない。

 大声で騒ぐのも意味がない。

 何もできないのか……。

 しばらくすると全員が泣き止み、意気消沈の様子でただ幕舎の中で座り込んでいた。

 光が差したと思うと、先ほどの兵士の男が立っていた。

 お前だ、来い。

 そう言われたのは誰でもない、私だった。

 ゆっくりと立ち上がる。膝が痛む、と思ったら、擦りむいて血が滲んでいる。

 気にしないようにした。

 死ぬことに比べれば、膝の痛みなんてなんでもない。

 幕舎を出ると、それが見えた。

 ルーシアの街のそこここから真っ黒い煙が上がっている光景。

 略奪の中での放火だろうか。それとも、イユーヴ伯爵領軍が撤退するにあたって、重要な施設や、物資を貯蔵している辺りに火をつけたのか。

 私には何もわからなかった。

 しかしわかっていることもある。

 私が短い間とはいえ、過ごした場所がもうなくなりつつある。

 平穏は去り、混沌は私をまた飲み込みつつある。

 男は私を従えて進んでいく。

 幕舎の間を行き交うのは兵士たちで、彼らは明確に兵士である。具足が統一され、武器も同じものを手にしている。

 私の記憶の中では、街を襲った男たちと彼らはまるで違う。

 街を襲ったのは正規軍ではない?

 私がウライヴ侯爵領を逃れるきっかけは、盗賊による襲撃だった。

 そしてそれを、傭兵たちが討伐した。

 ウライヴ侯爵は、正規軍を温存して、盗賊を雇って先頭に立てたのか。

 では私の前にいる背中を向けている男は、どちらなのか。

 正規の兵なのか、雇われた賊徒なのか。

 男たちが敬礼した以上、ただの無頼ではない。

 装備からすると傭兵だろうか。

 傭兵というものは、私には様々な形で目の前に現れるものだ。

 男が小さな幕舎の中に入ると、立ち尽くした私の鼻先で香の匂いがした。中にはただ寝台が置かれているのと、小さな卓があるだけのようだ。卓の上に数本の酒の瓶が載っていた。

 私が入ろうとしないと、男が無言で振り返る。

 言葉はなくとも、入るように促しているのがわかる。

 そろりと私は幕舎の中に踏み込んだ。




(続く)

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