第6話  ついに家族旅行

 初夏、交野家は突然旅行することになった。これには理由がある。

 次郎の会社の、総務担当である古参社員、岡の家族旅行の中止によるものだった。

 家族3人と愛犬の旅行を計画し、旅館を予約した出発3日前に、愛犬が病気になって入院した。 


 息子が高校生の時、校庭で捨てられていた子犬を連れて帰って来てから約10年、岡家の一員となった雑種犬は、息子にとっては兄弟同然。

 夫婦にとっても我が子同様。

 パピルスが病気なのだ。旅行どころじゃない、と取り止めになった。

 だが、予約したのは滅多に泊まれない人気の老舗旅館で、そしてキャンセル料も勿体ない。


「そういうわけで、交野さんどう?」


 岡は言った。


「ウチと同じ三人家族やから、聞いてみただけや。急な話やし、別に断ってくれても全然かまへん」

「喜んでお受けします」


 きっぱりと次郎は言った。

 裏社会の住人であり、他人だった男女と子供が表社会で共同生活を営むようになった。

 新しい生活と社会に溶け込みやすいよう、社会の最小単位である家族を称し、「夫婦と息子」その役目をそれぞれ担って生活すること3年。

 家族旅行……ついにここまで来たかと、次郎は感慨にふける。


 普通であれば、家族にはイベントがつきものだ。クリスマスや正月、お盆のイベントは、カレンダーをめくり、機械的に世間の方法に従えばいいが「家族旅行」はそうはいかない。

 家族旅行とは、家族イベントの集大成である。家族全員の健康、精神状態に経済力、結束力にスケジュール調整と、条件全てがぴたりと重ならないと実現しない。

 特に、涼の恐怖症が解決されたのは大きい。


「ついにこの日が来た。家族旅行だ」


 感慨に浸る次郎。

 妻の桃子は手を打って喜んだ。


「いいわね。温泉旅館って、フツーに泊まる分には最高なのよね」


 旅館に普通に泊まらないケースとは? と元同業者として次郎は聞かなかった。

 しかし、涼の歯切れは少々悪かった。

 休み中、クラス仲間と遊ぶ約束をしていたらしい。


「まあいいか。皆には謝っとく」


 岡が予約していたのは、有名な温泉地にある旅館だった。

 旅行先の木野崎温泉は、車で2時間ばかり先の県境にある。

 国内では有名な温泉地で、海に面し、水と空気も良いことから山の幸、海の幸の料理が楽しめる先でもあった。


 旅館は立派な純和風旅館だった。

 広々としたロビーには立派な生け花が飾られ、艶々と磨きこまれた柱に床は、照明の光を跳ね返して輝いていた。

 特に目を惹いたのは、人の背丈以上、高さ180センチはある蓋つきの巨大な沈香壺だった。


「へえ、伊万里の色絵か。鳳凰に吉祥紋、豪華絢爛ね」

「こんな大きい蓋つきの壺なんか、何を入れるの」

「元は中国のものだ。香木を入れて、来客が来たら蓋を開けて香りを漂わせる。しかしこれは、明治時代に欧米向けに輸出した室内装飾用のもので、レプリカだ」


 次郎は、ちらっと壺を一瞥しただけだった。次郎のその部分が「知識はあるけど愛はない」といわれている所以である。


 通された部屋は、十分な広さと静謐さがあった。

 広い窓の下には渓流があり、目の前には山がある。せせらぎの音を聞きながら、目に入る生まれたての緑が美しい。


「涼は?」

「お友達から、ここの名物饅頭をお土産にってリクエストされたって。売店へ行ったわ」


 次郎は涙ぐむ思いだった。

 学校の成績は優秀でも、対人スキルが氷河期並みのマイナスだったあの涼が「友達にお土産」とは。


「パート先にも、お土産買って行かなくっちゃね」

「俺は岡さんに、かりんとうを頼まれている」


 この温泉地では、有名なお菓子らしい。定番の黒砂糖味だけではなく、カプチーノ味や果物を使った珍しい味もある。

 土産物屋へと、夫婦2人で立ち上がった時だった。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、ほつれた髪を結い上げた、和服姿の女性だった。


「ここの旅館の女将でございます」


 本日はようこそ、この陽明館にお越し頂きましてと、流れるように三つ指をつく。


「この季節は、山が喜んでいるような奇麗な緑でございます。奇麗な景色を観ながら、お湯に浸かるのは本当に極楽そのものですよ」

「それは……楽しみですわ」


 ぎこちなく笑う桃子。それではと、がくんと頭を下げて、女将が出ていく。

 部屋から出ていった後も、桃子はずっとドアを見ていた。


「どうした、母さん」

「……あの女将さん」桃子が嘆いた時だった。

 再び、ノックの音。

 隙の無い着こなしの、和服の女性が顔を出した。

 そして、2人の前に三つ指をついた。


「お待たせいたしまして、申し訳ございません。私、この旅館の女将を務める塚野と申します。本日はようこそ、この陽明館にお越しいただき……」


 次郎は頭を傾げた。


「ついさっき、ここで違う女将さんがご挨拶に来られましたが、女将が2人いらっしゃるのですかね?」


 え? と女将が顔を上げた。


「まあ、お客様ご冗談を。女将は私1人ですのよ」


 笑顔だった。しかし、困惑している。


「イタズラかもね」


 桃子が口を開いた。


「大きな旅館だし、たくさんお客さんも来ているんでしょ。一人や二人、女将ごっこしたがる変な客くらいいるわよ」

「そうかもしれません」


 女将が頷いた。


「申し訳ございません、妙な目に遭わせてしまいまして」

「別に、実害はないもの。お気になさらず」


 女将はそのまま下がったが、次郎は少々気分が悪い。

 記念すべき家族旅行に、妙なものが紛れ込んだのだ。


「妙な輩が入ってきたなとは思ったが、殺気は感じられなかったので放置した」

「あのさ、お父さん。本当にそれだけ? 最初の人がおかしいって分からなかった?」

「足袋を履いておらず、しかも足がひどく汚れていた事か」


 接客業、しかも旅館の女将が、客室の挨拶に素足でいるのは疑問だったが。


「それ以外でも、ちゃんと見えてるなら気が付いたでしょ? 首にロープの跡があって、話している最中ずっとだらんと舌が出ていたじゃないのよ!」

「家族旅行に、そんなこといちいち構っていられるか」


 次郎は言い放つ。


「いいか、これは神聖なる家族旅行だ。母さんはこの家族行事の重要性や重みを、ちゃんと理解できているのか。旅行が中止となった岡さんの代理、それだけじゃない。これは個人レベルの記念だけではなく、裏社会で生きてきた者たちが、表の世界で家族を結成し、市民生活を営むことが可能であると証明した偉業でもあるんだぞ」

「……」

「首に巻かれた腰巻の紐とかうっ血がなんだ。飛び出した眼球に変色した舌がなんだ。足はあっただろ。生きている悪ふざけ人間かもしれん。せっかくの旅行に、縁起の悪いことは言わないように」

「……とりあえず、お茶でも飲んで涼を待ちましょ」


 ため息交じりに、桃子が急須を取り上げた。



 風が吹いた。

 水色のあじさいが、一斉にさわさわと揺れる。

 旅館の庭園には、広い池があった。濃い緑の葉の間に見え隠れする鯉の緋色を、池の脇で涼は見下ろした。

 生まれて初めての旅行だった。

 今の義両親に連れられて、ホテルを転々としている時もあったが、あれは移動というものだった。今はただの場所移動ではない、心が躍るものがあった。


「普通の家族」にこだわる義父の次郎は、今回やけに力が入っているし、義母の桃子も浮かれている。

 最近の涼は、義両親に対する気持ちが変わりつつある。

「交野家」は、3人の他人が世間で生きるための擬態から始まった。

 涼にとって「交野家の長男」は、割り振られた役目であり、生きるための手段だったが、今は「生活」になっている。


 そう思い始めたのは、いつからなのかは分からない。ただ、あの2人は「父親と母親の役目を演じている」ではなくて「役目を果たそうとしている」ように感じる。

 血の繋がった母親も父親とも縁が薄かった。

 生きてはいたが、生活ではなかった過去を思うと、あの2人からたまに聞かされる小言も叱咤も、涼を意のままに、利用するための改造ではないと感じる。


 ――鳴き声が聞こえた。


 涼は顔を上げた。

 周囲を見回す。聞こえてきたのは、か細く、弱々しい鳴き声だった。

 鳴き声のする方向に、小屋がある。

 庭の掃除用具、ホースなどの道具置き場のようだった。

 覗き込むと、中に人がいる。

 女の子がしゃがみ込んでいる。足元に真っ黒い毛玉がある。

 毛玉は、仔猫だった。


「あ」


 女の子は涼に気が付き、白い顔を向けた。黒く長い髪が揺れた。

 ふにゃ……と黒い仔猫は鳴いた。


「何しているの?」そう聞いた涼を、女の子は驚いた顔で見つめている。

「あ、あの……この子」


 少女は困惑を残した顔で、猫にしゃがみ込んだ。


「最近、ここにいるネコなんだけど……お母さん猫とはぐれちゃったのか、ずっと独りなの。弱っているみたいで、でも私じゃ何もしてあげられなくて……」


 悲しそうに嘆く少女へ、涼は聞いた。


「この旅館の、お客さん?」

「いいえ、ここの……娘なの」


 静かな口調だった。

 おそらく、涼より少し年上。高校生くらいだろうか。

 静謐な野の花のような可憐さに、涼は目を奪われた。

 少女は、涼の同級生の女子と、全くかけ離れた雰囲気を持っていた。絶対に大声を出しそうにないし、野川たち男子を殴ろうともしないだろう。


 間違っても「どうなのよ交野くん!」なんて叫びそうもない。

 交野くんは男子ばかりと話をして、女子と全然話そうとしないと学級会で糾弾され、特定の女子にだけ話しかけないのは許せないとか、たまたま隣のクラスの女子と立話をしたら、他のクラスの子と何を話していたんだとか、様々な要求や詰問をクラスの女子全員に突き付けられている涼は、最近女子が怖い。


「この子、どうしよう……私、ここから動けないの」


 ああ、それで困っていたのかと、涼は納得した。

 まだ両手に収まるくらいの、小さい仔猫だった。

 涼は上着を脱ぎ、震えている仔猫を包んだ。


「俺に任せて。このネコ何とかするから」

「本当?」


 悲しげだった顔に、花が咲いた。その花が涼を射抜いた。


「とりあえず……獣医、かな」


 彼女の顔を見るのが、急に気恥ずかしくなって仔猫を見る。

「それなら、この旅館から、車で15分くらいの場所に山崎先生って獣医さんがいらっしゃるの。看板は出していないけど、赤い屋根が特徴のお家よ。ベテランだし、私もよく知っている先生だから、大丈夫」

「分かった。行って診てもらう」


 駆けだそうとして、涼は大事なことに気が付いた。振り向くと、少女が微笑んだ。


「私は、ユリっていうの。百合の花と同じ。あなたは?」

「リョウ……涼しいの一文字で」


 女の子の口から、名前を教えてもらうのは初めてだった。

 自分の名前を誰かに教えるのも。

 ふわふわするような、そのくせ心臓が早い。今まで知らなかった感覚を猫と一緒に抱きながら、涼は客室へ戻った。

 客室に戻ると、義両親はお茶を飲んでいた。

 桃子が嬉しそうに叫んだ。


「あらま、ネコ拾ったの? わ、ちいさーい!」

「く、黒猫!」


 次郎がのけぞった。


「可愛いが、今は家族旅行だ! 縁起が悪い!」

「中世の魔女狩りじゃない! この子弱っているんだ、お父さん車出してくれ!」


 大声を出す涼に気圧されて、次郎が車を出す。

 家族そろって車に乗り、百合という少女の話した「山崎先生」の元へ向かった。

 田んぼと畑の中で、赤い屋根は確かに目を引いた。

 赤い屋根の前で、花に水をやっている50代くらいの男がいた。野良着の彼は、知らない少年から「やまざきせんせー!」と呼ばれて目を丸くしたが、涼が抱いている仔猫を見るや、診療室に入って白衣となった。


「――もう大丈夫。元気になる」


 診療台の上で、一生懸命にキャットフードを食べている仔猫。

 その様子に安堵の息をつく涼へ、山崎医師は言った。


「生まれてまだ2ヶ月くらいだろ。ノミとかお腹に虫がいないかも検査するから、また明日にでも連れて来てくれ。ところで君、よくウチが診療所って分かったな」


 患畜は近隣の飼い犬にネコに牛や馬で、地域柄、みな先生の顔見知りなので看板は出していない。


「はい、陽明館の娘で百合さんって人に、ここの場所を教えてもらいました」

「え?」


 カルテを書く山崎医師の手が止まった。


「ヨウメイカンって、あの陽明館? 百合ちゃん?」

「はい、高校生くらいの女の人で、髪が長くて……」


 あの白い花が咲いたような笑顔を思い出し、涼は口ごもる。

 山崎医師は、呆然と涼を見つめた。ペンを持つ手と、口が小さく震えている。

 ウソダ、と山崎医師の口が動いた。

 頭を何度も振り始めた山崎医師に、涼はひどく嫌な予感を感じた。


「そんな、百合ちゃん……高校生くらいってそんな、もう3年経っているんだぞ……じゃあ、あの子は……」


 もう、死んでいるってことじゃないか。

 山崎医師は、暗い声で呻いた。



 陽明館は、明治から続く業界からは名を知られた旅館だが、その家庭内情、嫁姑争いの荒々しさは近隣に知れ渡っていた。

 先代の女将は貴恵という。

 戦火をくぐり抜け、バブルや不景気の波が観光業界を襲い、いくつものホテルや旅館が潰れるなかで、この旅館を守り抜いた女傑だった。


 しかし、夫亡き後、次の後継者である息子の気は弱く、その妻の千文との仲は険悪というよりも最凶レベルにあった。

 その間を取り持つべき息子は、問題解決する器量も力もなく、母と妻の間で出来た焼け野原で縮こまっているだけだった。


「そうなっているうちに、千文さんは客の1人とデキちまって、旦那を捨てて駆け落ちだよ。しかも、当時は赤ん坊だった、1人娘の百合ちゃん置いてなあ」


 ふーっと山崎医師は息を吐いた。


「ま、当然離婚よな。若旦那は泣く泣く離婚届に判押して、百合ちゃんと母親と、しばらくの間は二人で暮らしてたのよ。けど親戚のすすめで、伸江さんて人と再婚したのさ。その伸江さんが、よく出来た人でね。姑とも上手くやって、百合ちゃんとも仲良くて、しばらく落ち着いていたんだけどね。4年前に貴恵さん死んじゃったのよ。そしたら、貴恵さん死んですぐ、千文さんがなんと旅館に乗り込んできたのね」


 元の夫に、よりを戻すように要求してきたのだという。


「千文さんの言い分では、客の駆け落ちも、自分を追い出すためのあの姑が仕組んだ罠だってさ。千文さんを追い出して、自分の言いなりになる伸江さんと再婚させたんだって……可哀そうなのが、間に立つ百合ちゃんよ。捨てられたとはいえ、千文さんは産みの親だ」


 千文は、1年以上も陽明館に居座った。


「自分と娘置いて逃げた女房に、出てけってと言えねえ若旦那もだらしがねえんだけど、元はといえば、不和の原因が自分の母ちゃんだ。しかも千文さん、男と出た後散々苦労して、今じゃ行く当てもない落ちぶれた身。そう状況に追い込んだ原因は、自分だって負い目もあるわけよ」

「ところで、現在旅館の女将しているのは、千文と伸江のどっちです?」

「千文さんだよ」


 伸江は、3年前に行方不明になった。


「若旦那が言うにゃ、伸江さんは腹に据えかねて家出したってな。そりゃ、昔の女房とちゃんと手を切れない、不甲斐ない亭主に愛想が尽きたってとこかと思ったさ」

「百合……さんは?」

「あの子は、最初は旅館に残っていた。でもな、伸江さんいなくなって、1週間もしない内に、不意に姿を消しちまった。千文さんは家出だって説明してたけどもよお」


 山崎医師は、診察椅子の上でタバコを吸い、その煙を窓の外に吐き出す。

 そして、涼をじっと見た。


「つぎ、百合ちゃんに会ったら、よろしく言っといてくれや。それから……今、どこにいるんだって聞いてくれ」

「どこって……」


 困惑する涼。桃子が言った。


「百合ちゃんの死体は見つかってないって事でしょ。ところでセンセ、そのいなくなった伸江さんて、もしかして左目の下にほくろある?」


 あったよ、と即答の山崎先生。

 がっくりとうなだれる桃子、眉間を指で押さえる次郎、そんな両親の姿に、涼は怪訝な顔を作った。



「……本物だったわ」


 帰りの車の中で、助手席の桃子が言った。


「嫌だなあ、まさか泊っている客室のどこかに、その伸江さんの死体があるんじゃないでしょうね」

「それはない。死体を客室に隠すなんて、そんなリスキーな真似はしないだろう。酔っ払いの客がいれば、部屋の中でどこをひっくり返すか、引きずり出すか分かったものじゃない」

「まあ、どっちにしてもありゃ自殺じゃない、殺された姿だったわね」


 父と母の会話を、意識の外で聞きながら涼はまだ、信じられない。

 あんな、綺麗な人なのに。

 死者との会話とは思えないほど明瞭にあざやかに、百合の姿が涼の脳裏に刻まれていた。

 そして、自分が仔猫を引受けた時に見せた、あの笑顔も。

 涼は、膝の上の仔猫に問うた。


「お前、百合さんが……どこから出て来たか、知っているか?」


 返事は、ふにゃ、と鳴かれただけだった。


 旅館に到着した。3人と1匹は玄関に入り、ロビーを横切ろうとした。


「あ、女将さん」


 巨大な蓋つきの飾り壺の横で、女将の千文が一家に気が付いた。


「あらまあ、皆さまお帰りなさい……」言いかけて、涼の腕にいる仔猫に気が付く。

 眉間にわずかなしわが寄った。


「交野様、岡様からのご予約の変更でお伺いしたときは、ペットはお連れではないとい事でしたけど?……」

「さっき拾った子だ。この子も、途中参加でお願いする」


 元々の岡家の予約では、愛犬も一緒だった。つまり、この旅館はペット連れOKのはずだ。

 しかし、女将は言った。


「今の交野様のお部屋は、ペット同伴のお部屋ではないのです」

「じゃあ、部屋を変えてくれ」

「それが、もう部屋が一杯でして」

 しぶる女将へ、涼は爆弾を投げつけた。

「このネコは、お宅の百合さんに頼まれたんです」


 ――空気がすう、と冷えた。

 紙のように、表情を漂白した女将へ涼は続ける。


「池の小屋の中で会いました。水色のワンピースを着た、長い髪の女の人です。自分はここから動けないから、自分の代わりにこのネコを助けてと頼まれました」

「まさか、そんな……うそよ」


 口をわななかせる千文を、涼は睨みつける。

 千文の表情は、完全な恐怖と疑念を露呈させていた。

 3年前に家出した娘と出会い、話をしたという相手に向ける態度ではない。

 百合の悲しげな顔が浮かぶ。ふつふつと涼の感情が煮えてくる。


「うそって何だよ。あんた、百合さんの母親だろ」


 目上にあんたなどとは無礼と分かっていたが、抑えきれなかった。


「俺は嘘なんか言わない。それに娘が現われて喜ぶならとにかく、なんで嘘だって思うんだ。百合さんがここにいちゃいけないのか?」


 彼女の身に何が起きたのか。

 それを知っている女が目の前にいると、涼は直感した。

 出来る事なら、口を引き裂いてでも真相を吐かせたい……百合がどこにいるのか。


「何を、おっしゃりたいんです、お客様?」


 女将の声のトーンが低くなる。涼はそれに立ち向かおうと、口を開きかけたが。


「待ちなさい、涼」


 父の次郎が進み出た。


「女将、このちっこいのはペットではない、人間だ。大人1人分、勘定を追加でつけてくれ」


 千文が我に返る。


「あ、それはその……」

「畳や備品類に、この子が何か粗相をしていれば、それもまとめて請求してくれ。それでいいか?」


 ……それなら、と小さな声で口ごもる千文。

 次郎は頷きかけたが、突然、横にある飾り壺に目をやった。


「ん?」


 次郎は壺に近づいた。壺をコツコツとノックする。そしてノックの位置を徐々に下ろしていく。


「なにをなさるんですか! お客様!」


 女将が声を荒げる。それに一向にかまわず、次郎は陶磁器の肌をこつこつと叩く。


「ん、なに、さっきこの壺の内側から、何かが叩いてくる音がした」

「内側からって、そんなはずないでしょう! 何バカなことを言うの!」


 女将の髪が、一瞬ぶわっと逆立って見えた。


「止めて頂戴! 旅館では由緒ある、とても貴重な品物なんです! 先々代が伊万里に特注して、取り寄せたものなんですからね!」

「見りゃ分かるさ。明治時代の有田で設立された日本最初期の陶磁器製造メーカー、香蘭社が作成した、色絵扇鳳凰紋耳付き沈香壺。これはレプリカだな。九州の博物館に収蔵されている本物を見たことがある」


 青ざめる女将。桃子が言った。


「壺の内側から叩いてくる音って、そんなはずないでしょ、お父さん。まさか中に人や動物が入っているとか……」


 そして、絶句した。

 涼も見た。時が止まった。

 壺の脇にしゃがみ込む次郎の足元、仰向けの女の上半身が、厚みを無視して壺の下から突き出している。

 首にはぐるりと黒い痣がある。個人の特徴である、左目の下のほくろが生々しい。

 眼球が何かを求めてぐるぐると動いていたが、やがて千文をとらえた。


 女の体がするすると壺の下から這い出た。

 腕ががくがくと千文の腰に巻きつき、這いあがっていく。

 女の動きに合わせて、次郎の視線も移動する。どうやら父にも女が見えているらしいと、涼は推測する。

 あはは、と虚ろな笑いを桃子が漏らす。

 そんな桃子の笑いを、涼は初めて聞いた。


「ふむ、どうやら女将、あなたは随分と恨まれているな」


 顎をつまんで呟く次郎の言葉に、女将は凍りついた。

 すぐに、その目に紅蓮の炎が燃え上がった。


「何を、おっしゃりたいのです? お客さま。息子さんも何ですか、娘の事といい、何だか含ませるような物言いですこと。しかもこの私が恨まれているだなんて、思わせぶりに気持ちの悪いことを仰らないで下さい。悪質なクレームをつけるならば、即刻チェックアウトを願います」

「クレームなど別に。ネコさえ許可してもらえれば、それでいい。2人とも、客室に戻るぞ」


 千文に真正面からしがみつく女の背中を、父がちらりと見て立ち上がる。

 千文が、包丁を掴みそうな目で自分たちを見送っていた。

 仔猫を抱いて、涼は駆け出した。

 庭に出た。池の小屋へと走る。

 小屋に飛び込む。百合がいた。


 その姿から、錆びた背景が薄く透けていた。

 百合が淡く微笑む。その時、涼の大事なものが、手からすり抜けた。

 ごめんなさい、と百合が言った。

 百合の謝罪、その意味を涼は知りたくない気がした。

 腕の中の仔猫に、目を落とす。


「山崎先生は、コイツはもう大丈夫だって」


 よかった、と百合が言う。


「……先生が、百合さんによろしく言ってくれって。それから……今、百合さんは、どこに、いるの?」


 悲しそうに歪む百合へ、涼は声を振り絞った。


「山崎先生も、心配してた。どこにいるのか、聞いてくれって俺に」


 ――お母さんを……お願い、私よりも……おかあさんを……

 悲痛な百合の声が、涼の頭に染みこんで広がった。

 哀願が続いた。

 ――おかあさんを、助けて。



「……またもや、見ちゃった」


 客室にて。座椅子の上でため息をつく桃子。


「あの幽霊の正体は、もう伸江に確定だわ。女将が伸江を殺ったな……死体をどうしたかまでは、分かんないけど」

「我々には関係ない」


 次郎は言い切り、湯呑のお茶を一気飲みする。


「心霊現象などに心を乱されるな。俺たちは家族旅行に来たんだ。温泉入って観光する、土産を買って帰る。それだけでいい」


 ドアを開ける音と、大声が同時に響いた。


「お父さん! お母さん!」

「こら、涼。他のお客さんに迷惑、この子もびっくりするでしょ……ほら、ネコちゃんこっちにおいで」

「お願い、百合さんを、あの娘を助けたいんだ、力を貸してよ」

「ほう、お前がお願いとは珍しい。小遣いの値上げすらも要求したことないくせに」


 急須でお茶を淹れ直しながら、次郎は感心した。そして言った。


「だがだめだ」

「どうして!」

「家族の神聖な旅行に、物の怪を介入させてはならん」

「百合さんは物の怪じゃない!」

「観光と温泉と食事の旅行スケジュールに、死体探しを入れる余地はない」

「だって、お父さんだって見ただろ? あの女将が絶対に……」

「ずいぶん親に食い下がるな、むむ、ついに反抗期か」


 次郎は感動し、次に愕然となった。

 家族以外の他人や友達と接することにより、自分なりの価値観と考え方を身に着けはじめ、心身ともに大きく変化を始めるこの時期は、親と子の価値観の相違による衝突は避けられない。

 大勢の人の場所には出られなかった恐怖症を克服し、友達も出来た。しかも彼らの土産を買う。ここまで成長した息子には喜びはあるが、記念すべき家族旅行で、反抗期を発動させる都合の悪さ。


「とにかく、観光と温泉だ! それ以外の行動は許さん!」


 桃子が抱いていた仔猫をひったくり、次郎は宣言した。

 だが。

 次の朝、旅館のレストラン。

 朝食はレストランのビュッフェ形式になっている。


「お早うございます、よくお休みになられましたか?」


 朝から輝かんばかりの仲居の接客笑顔に対し「……はい」とぼんやりと嘆くように挨拶し、一同は席に着いた。


「2人とも、なんだその顔は」


 次郎は不機嫌に聞いた。

 自分が食べる分として取ってきたのは、白米、鮭と鯖の焼いた切り身にスクランブルエッグ、ベーコンにソーセージにほうれん草のお浸し、切り干し大根に野菜サラダ、カブにセロリの漬物。

 食欲旺盛というより、やけ食いだった。


 対する桃子と涼は、ヨーグルト、果物と紅茶だけである。

 紅茶にすら口もつけず、ネコの食べっぷりを見守っている涼。

 ふう、と桃子は、次郎へため息と視線を放り投げた。


「お父さんは、よく寝られたようね」

「ふん、まあな」

「わたしさあ、夢見最悪……」


 むっつりと、桃子は紅茶の湯気をため息で吹き飛ばした。


「夜に、布団で寝てるところを襲われてさあ、布団ごと押さえつけられて、腰巻の紐で首絞められてさ……自分が殺されるなんて夢、昔にだって見なかったわよ」

「ふん」


 次郎は、艶々と橙色に輝く鮭の切り身を箸で割った。


「どうせ自分を押さえつけた相手が、ここの旦那……伸江の亭主で、首を絞めたのが女将だって言うんだろ」

「へ?」

「しかもノコギリでバラバラにされて、切り落とされた首、つまりは自分の目の前で、手や足、胴体を狭い穴に1つ1つ落とされていくんだろ。最後は首だけになった自分が残されるが、すぐに暗い中に放り入れられて、重なった手足の上に落ちる。やがて蓋が閉められたか、目の前が真っ暗になって終わりだ」


 昨夜見た夢の内容に、ああ全く気分が悪いと、次郎は米を口に入れた。さすがに旅館だけあって、ご飯は旨い。鮭の切り身の塩気と米の甘味のハーモニー。


「……すごい、絶望感だった」


 涼の暗い声。


「性格の弱さを知ってはいたけど、それでも、信じていた相手に押さえつけられたんだよ……旦那が自分を殺す女に加担するなんて、自分を裏切るなんか考えもしなかった。旦那自身の手で殺される方がマシだ。恨みなんて、2文字で済むものじゃないよ……あのさ、百合さんが、俺に言ったんだ。お母さんを助けて欲しいって、このことかな」


 次郎はソーセージを取り落としかけた。

 バカ男子たちのおかげで、せっかく明るくなった涼が、物の怪の影響で以前の暗い少年に逆戻りしてしまう。

 桃子が嘆いた。


「3人とも、おんなじ夢を見たって事よねえ。シンクロニシティなんて横文字じゃないわ、これって漢字だわ。怨念とか懇願とか復讐とか」

「言いたいことは、よく分かった」


 次郎は、味噌汁をぐっとあおった。


「しかし、物の怪の抗議活動に、生者が加担してはならん」

「お父さん!」

「この偉業を妨害されてたまるか。何度も言うぞ、これは只の家族旅行ではない。元々は赤の他人の寄せ集め、しかも裏の社会から出て来た者が、家族を形成して普通の市民生活を営み、ついには揃って家族旅行をするという到達点に至ったのだ。この偉業は、後世の学校の歴史教科書に載せても良いほどだ」

「……どんな学校の教科書よ?」


 桃子がため息と一緒に、紅茶を飲みほした。

 朝食が終わっても、三人はすぐには部屋に帰らず、ロビーのソファに座り込んだ。

 共有スペースには雑誌入れがあった。旅行マガジンやドライブマップなどの本を、次郎は手に取り、膝の上に仔猫を乗せたまま、ぱらぱらとめくる。


「食事をしたら、ネコを山崎先生の元に連れて行く。その後で観光だ」

「そうしましょ。気分直しよ。まったく気分が悪いったら」


 あーやだやだ、はっきり思い出してきたわと桃子が呻いた。


「大体ねえ、人間バラすのにノコギリって何なのさ。骨を細かい歯で引く、あのジージーなんて音、最悪だわ。せめて電気のこぎり使えっての。一瞬で終わるから」


 旅行マガジンのバックナンバー「木野崎温泉であそぼう!」のページをめくろうとして、次郎は桃子の背後に立つ相手に気が付いた。


「思い出せば、絞殺って楽な殺し方じゃないのよ。一瞬じゃすまないし、相手も暴れるから余計に時間かかるのよ。お互い楽じゃないんだから、他にもっと良い方法考えろっての」

「おい、母さん」

「何よ」


 次郎は無言でサインを送った。後ろ後ろ。

 ふん、と桃子が鼻を鳴らす。どうやら最初から気が付いていたらしい。

 凛とした声が降りかかった。


「共用のロビーで、気持ちの悪いお話はお止めください。他のお客様の迷惑になります」


 女将が険しい顔で立っていた。3人をにらみつける。

 涼が立ち上がった。


「すいません、すぐに席を立ちます」


 セリフは謝罪だが、目つきは女将を貫き通しそうな氷の刀だった。

 両者の間で、空気が帯電した。

 昨日のお話ですが、と女将が口を開いた。


「あまり、妙なお話をひろめないで下さいまし。手前どもも、商売ですし旅館の評判というものもございます。目に余るものがあれば、風評被害ということでこちらにも考えがありますからね」

「俺が百合さんに会ったという話が、風評被害につながるんですか。何故です?」

「……」

「風評被害じゃない、あなたが聞いていて不快になった、それだけでしょう。何か後ろ暗い事でもあるんですか」


 女将の目が、暗く光る。


「……できるだけ、お早いお引き取りを」


 次郎はガイドブックを眺めながら、2人の間に口をはさんだ。


「それは無理だな。観光が残っている」


 3人は車に乗り、仔猫を連れて診療所に向かった。

 山崎医師は、次はちゃんと白衣で待っていた。


「あんまり鳴かないし、じっとしているし、元気が無いように思えるんだけど」


 涼の心配に、山崎先生は答えた。


「大丈夫、発熱もないし、ごはんはちゃんと食べているんだろ? ストレスかな」


 まだ、本当に小さいからね。環境の変化には弱いんだわと、仔猫を診察する山崎医師。

 大きく安堵の息をつく涼。


「でも念のため、ネコくんにはここに一晩泊まってもらおうか。ワクチン注射や検査もしたいし」


 先生、と涼は、カルテを書く山崎医師の横顔に話しかけた。


「また、百合さんに会いました」

「そうか……元気そうだったかって、そう聞けたら良かったのにと思うよ。で、どこにいるって?」

「教えてくれませんでした。ただ、お母さんを助けて欲しいって」

「どっちの?」


 涼は詰まった。そういえば、伸江も千文も、百合にとっては産みと育ての母親だ。


「伸江さんは、誰かさんに殺されちゃっているわね。根拠は言いにくいけど」


 あーと山崎医師は、桃子に応じた。

 分かり切っていることを、とでも言いたげな響きだった。


「ま、俺にとっても不思議には思わんよ」


 事実、そういう噂が近隣で飛び交ったという。


「だってなあ、捨てた亭主と娘の元に押しかけて、再婚した相手の家に1年も居候を決め込むような女だよ? どんなことするか、分かったもんじゃないだろう。伸江さんと百合ちゃんに何かあったら、絶対にあの女が怪しいって皆噂していたよ。実際、2人はあの女に殺されたんじゃないかって言う人もいたしな」

「警察は動かなかったの?」

「旦那が、伸江さんと百合ちゃんは家出だって言い張ったんだよ。失踪人届けも、世間体とか旅館の評判に関わるからって出さなかった」


 百合の悲しそうな顔が、ひしひしと涼にのしかかる。


「最低な男だ」


 思わず漏らした言葉に、山崎医師は強く頷いた。


「その通り、しかも自分の嫁と娘が消えてすぐに、旦那は千文とよりを戻した」


 女将はついに呼び捨てになった。


「去年、旦那は死んだけどね」

「死んだ?」

「ああ、心臓発作らしくて、朝に布団の中で……と言いたいけど、布団から這い出して、こう身をよじってぐわっと目を剥いて死んでいたよ。まるで何かから逃げるように、何を見たのか、何に遭ったのか、黒い髪が半分白髪に変わっていた。しかも、すげえ顔が歪んでいてさ、すぐに旦那とは分からないご面相になっていたらしい」


 黙り込む涼。あらまあと桃子。


「まあ、この話は、あんまり口に出さないほうが良いな。今や陽明館はあの女の天下だ。しかも千文は商売柄、地元のヤクザとも懇意でよ。この話をしたり千文の事悪く話す人間は、旅館の風評被害って名目で、地元の人間も散々嫌がらせとかされたからさ」



 ロビーで、職人たちが作業をしていた。

 旅館のシンボル、蓋つきの沈香壺に近寄れないよう、周囲に、1メートルの高さの金網をぐるりと張り巡らせている。


「下部分や、台座の文様が見えにくくなりますけどね」

「仕方がありません。ふざけて叩くとか、うっかり足をぶつける方もいらっしゃいますし」


 女将の言葉に、職人は笑った。


「こういう昔の大壺はね、厚みが普通じゃありません。金属バット振るっても、ちょっとやそっとじゃ割れませんけどね」


 ――これで良い。

 千文は金網を見つめる。

 これでいい、あんな妙な真似はさせない。

「陽明館」の女将、塚野千文が、宿泊客に対して、ここまで気味の悪さと怒りを感じたのは初めてだった。

 今までに、旅館に対する悪質なクレーマーや、とんだマナー違反もいた。しかし、あの交野家はそれ以上の、千文の基盤そのものを揺さぶるとんでもない災難だった。


 ――嫁いだ先の姑とは折り合いどころか、何から何まで気が合わなかった。

 間に立つ夫は、味方どころかボンクラだった。

 生まれた娘は病弱で、それがまた家庭の戦火にガソリンを注ぐ、そんな最低な場所で男と出会えば、相手がどんな畜生でも、新しい幸せとその伴侶だと錯覚するだろう。

 結局、畜生は畜生だった。千文は最低な地獄から、最悪な地獄に引越ししただけだった。


 男とはすぐに別れた。

 元の夫の場所に戻れるはずもない。心身ともに擦り切れて、ぼろ雑巾のような日々の中で朗報が来た。あのにっくき姑が死んだと聞いたのだ。

 捨てた夫は、姑には逆らえなかったが、千文にはベタ惚れだった。これで元通りだ、その希望を胸にして、陽明館に舞い戻った千文は再び叩きつけられる。

 夫は再婚していた。伸江という、地味な女が夫と娘を取り込んでいた。


 美人でもないくせに、癒しというぼんやりした武器を持つ女。実はこういうタイプを敵に回すのが一番厄介だが、千文はもう崖の縁で転落寸前だった。

 なりふり構わず、陽明館に居座った。

 百合は旅館の跡取り娘だ。その産みの親がここにいて、何が悪い。

 夫のボンクラぶりは相も変わらずで、しかも千文への未練がわずかにあったのか、ズルズルと滞在を許した。


 当然伸江は怒った。当たり前だろう、しかし千文は策を弄した。

 伸江に男がいると、夫に吹き込んで夫婦間に亀裂を入れ、その亀裂を広げて、わが身をよじ入れた。

 伸江が自分を裏切ったと信じ込んだ夫は、千文の目先の偽りの優しさに篭絡された。ほんとに、臆病で気の弱い男は、腹が立つけど役には立つ。

 伸江は夫と手を組んで、排除した。


 邪魔者はいない。これで夫と娘と、ここで平和に暮らせると、そう思ったのに。

 ――水に浮かぶ百合の姿を思い出すと、さすがに千文の気は滅入る。

 夫も死んだ。心臓発作で、布団の中で死んでいた。

 何を見たのか、見せられたのか、部屋には逃げ回った跡があった。

 死に顔は凄まじかった。苦悶と恐怖、苦痛と後悔が顔に切り刻みこまれ、その面相は、すでに夫ではなかった。


 夫も、娘も死んだ。

 だからこそ、降りるわけにはいかない。降りたら負けだ。

 男と逃げて、別れた後の最底辺の暮らしを千文は思い出す。

 町に住む野良猫以下だった。あの暮らしに戻りたくない。例え死人を背負っても、逃げおおせてやる。


 懇意にしている地元のヤクザを使い、風評被害を取り締まるという名目で、噂する口は力づくで閉じさせた。

 伸江のことも、夫の死も、百合も、沈黙の箱に入れられた。

 警察沙汰になるというのは、死体が出るからなのだ。死体さえなければ、誰があれこれ言おうと事はなかったも同じだ。

 しばらくは、心穏やかに暮らしていたのに。


 あの家族は何なのだと、千文は交野という一家3人を思う。

 沈香壺に対する妙なふるまいや、意味深な言い回しも、あの少年の戯言も、きっと演技に違いなかった。実際に過去、根拠もない妄想をネタにして、千文を恐喝しようとした者が何人かいた。

 きっとあいつらも、伸江や百合のことを何か噂で知って、一家で千文を揺すぶろうとしているのだ。


 盗みを生業にしている一家がいるなら、恐喝を生業にしている一家があってもおかしくはない。事実、あの交野という夫婦は一見普通に見えるが、妙な凄みを奥に沈めている。

 只者じゃない、と直感が嫌な神託を告げた。そうなると、当初の客、岡との予約者の交代も、何か含みがあるものに思えてくる。


 あの家族が旅館を出てからすぐ、千文は懇意にしている会社の社長に電話をした。

 地元を仕切っているヤクザでもある。客の多い観光地は、もめ事は多い。それをヤクザが介入して話を仕切ることが多い。

 特にこういう案件に関しては、警察以上に頼りになる。以前もこれと同じことで恐喝されたが、その時にも彼らにカタをつけてもらった。


「――女将さん、これで終わりましたよ」


 気が付くと、工務店の職人が道具を片付けてこちらを見ている。


「まあ、ありがとうございます。これで一安心ですわ」


 千文は微笑んでみせた。  



 仔猫は、一日診療所で預かってもらうことになった。


「いい子にしてろよ」


 涼が、ふわふわとした仔猫の頭を撫で、山崎医師に一礼した。


「じゃあ、よろしくお願いします」

「おう、任しとけ」

「では、観光に入るぞ」


 次郎の号令によって、車に戻る。

 緑と土で出来た風景の中、車は走った。

 空は青い。微風も心地よい。


「あー、ゆーれーも何も消えてなくなるよな、いいお天気」

「今は観光に集中しろ。幽霊や物の怪の話は禁止する」


 向かったところは「参段壁」と呼ばれる景勝地だった。断崖絶壁が2キロほど続き、高さ50メートルの岩壁に打ち寄せてはじけ飛ぶ波の風景は、迫力の一言に尽きる。


「わーお」


 地平線と青空が溶け合う風景に、桃子が叫んだ。


「感想は月並みけど、綺麗ね」


 そろそろと崖の際に近寄り、海を覗こうとしている涼へ、次郎は声をかけた。


「あまり近づくな。滑って落下する事故が多いし、自殺の名所だ。落ちたら助からないぞ」


 崖の縁は、砂交じりの緩い石の斜面で、落下防止の柵もない。

 下を覗き込もうにも、崖の際まで近づくのは、1メートルが限界だ。これより先は傾斜が急になり、砂で滑りやすい。

 涼が海に背中を向けて、次郎の元へ歩もうとした。

 その時、涼の足元で石がはじけた。


「うわっ」


 涼がバランスを崩し、仰向けに倒れかけた。このままだと勢いがついて、頭から崖から落下する。


「りょうっ」


 次郎はとっさに手を伸ばし、涼の腕を掴む。

 耳元で風を切る音、自分の頭を狙い外し、飛んでいく石が見えた。

 次郎は腰を落とし、涼の腕を思い切り引いた。涼が腕に倒れ込む。桃子が石を掴み、車の影で潜んでいた相手に投げつけた。

 桃子が投げた石は、フルフェイスのヘルメットをかぶった男のシールドに跳ね返った。慌てた男は、止めてあったバイクにまたがった。


 次郎は涼の無事を確認、そして拳2つ分ある石を掴み、投球フォームを取った。

 大きく投げる。

 剛速球ならぬ剛速石が、男の頭にクリーンヒットした。なぎ倒されるように、男がバイクから転倒する。横転したバイクのタイヤの回転が土ぼこりを上げた。

 男のポケットから飛び出したものを、桃子が拾い上げた。


「スリングショットか。良いもの持っているわね」


「パチンコ」とも言われる玩具だった。Y字型の竿にゴムを張り、弾とゴムを一緒に引っ張ってから放し、弾を飛ばす。

 構造は単純だが、使い方や飛ばすものによっては殺傷力も強い。


「観念おし」


 桃子がヘルメットを奪った。現れたのは、若い金髪の男だった。


「使った弾が石ころなら、飛んで行って遺留品も証拠も残らない。悪質以前に、殺意が見えるな」


 次郎は身をかがめ、男を見下ろした。


「誰に頼まれた?」


 地べたに座り込んだまま、プイと横を向く男。


 次郎は腕時計を見やった。


「スケジュールでは、ここに滞在するのは30分ばかりだ。まだ行く場所や予定がある」


 次郎は突然、男の足首を持って立ち上った。


「うわっ」


 ひっくり返った男が手足をばたつかせるが、次郎はびくともせず、男の左足首を掴んだままでズルズルと歩き出した。

 男は悲鳴を上げて暴れるが、重さを感じさせない足取りで、次郎は崖っぷちに向かう。

 そして、まるでブーメランを投げるような軽さで男を海へ投げた。


「あああああああっ」


 波の音と混じる男の絶叫。

 うわっと涼が目を閉じた。そろそろと目を開けると、次郎は崖の縁で男の足首を持って、マグロを持つ漁師のように、ぶらりぶらりと男を吊るしている。

「お父さん! 危ない」涼が絶叫した。

 下りの傾斜になっている、崖の縁ギリギリに次郎は立っている。

 男は海の上で宙づり状態である。

 涼が転落しかけた場所だった。バランスを少し狂わせたら、男と共に落下する。


「あああああ」


 上下逆さま、海の波の上で男は泣き叫ぶ。

 つま先に少々力を入れながら、次郎は聞いた。


「さてと、時間がないので簡潔にいこう。お前の雇い主と依頼者は?」

「せ、せんしゅうぐみのもんですう」

「ウチの息子を狙えと、頼んだ奴は誰だ?」

「し、しらない、それはしゃちょおが知ってる、おれはしゃちょおに言われただけだぁ」


 次郎は男の足首を持ったまま、ついでにゆらゆらと揺らした。

 泣き声が耳をつんざいた。


「ところで、息子に、何か言うことはないか?」

「ご、ごめんなさいすいませんゆるしてくださいおねがいします!」

「よろしい」


 次郎は、男を座布団のように放り投げた。



 絶対に思い出したくもないが、涼は義父の本性を知っている。

 いざとなればとんでもないことをする、ではなくて、基礎がトンデモで出来上がっていて、その上を「普通に振る舞う」という心がけで抑え込んでいるのだ……が、その心がけも力み過ぎて、明後日の方向へ暴走している趣があるが。


 午後は、漁港の市場を見学だった。

 敷地内にの食堂で、握り寿司を食べながら次郎が言った。


「ヒトの旅路を邪魔するものは、馬に蹴られて死んでしまえ」


 海鮮ちらしを食べつつ、桃子が応じた。


「全くね。ネコちゃんを先生に預けて正解だったわ」


 周囲はにぎわっている。その喧騒を聞きつつ、涼は黙って海鮮丼を食べた。魚肉の桃色と緋色の取り合合わせが美しく、身にはそれぞれ弾力と甘味があって美味い。


 ――漁港の青空市場で、義両親と店や生けすを冷やかしながら歩いていたら、後ろから突然ぶつかってきた男がいた。

「いってぇぇ!」と大仰に痛がり、骨折したと怒鳴り散らされた。

 気が付けば、三人は数人の男たちに取り囲まれていた。

 治療費だの謝罪しろだの、怒鳴り散らす相手は五人。ああやばいと、トラブルに対する怯えとは違う意味で、涼は顔を半分覆いたくなった。


 次郎はむっつりとしていたが、義母の桃子は、生贄を見つけた魔女の笑顔だったのだ。

 自分に掴みかかってきた相手は、背負い投げて倒したが、義父と義母はと振り返れば、泡を吹く4人をそれぞれ片手に、堤防へ引きずっていくところだった。

 あの父ちゃんと母ちゃんの動きは見えたか? 4人とも瞬殺だよおいと、ざわつき怯える見物人たちを押しのけて、涼は2人を追った。

 2人とも、男たちを海へ、ごみのように投げ捨てるつもりらしかった。


「後ろからぶつかってきておいて折れる骨なんか、どうしたって長生き出来ないわよ。ここで死んでおしまい」

「魚のエサになってしまえ」


 止めろと声を上げかけた涼。

 だが涼を押しのけて飛び出したのは、漁師の老人だった。


「待たんかい! 海にクズを捨てるな! しかもそのエサで魚がハラを壊すじゃろ!」


 ――おじいさん、ありがとうと涼は思い出し感謝をする。

 涼の前で、次郎と桃子のボヤキは続く。


「全く、まさか地元の人から、海へのポイ捨て禁止と魚の健康でお説教されるとは思わなかったわ」

「だが、彼の言うことは最もだ。環境問題は人類のテーマだ」

「また、あいつら来るかもよ」


 涼は一応言ってみた。涼が投げた1人は逃げてしまったのだ。

 もしも来れば、どっちが被害甚大かは至近距離で見えてはいるが、口に出さずにはいられない。


「せんしゅうぐみ、とかさっきの崖の奴は吐いたな」

「今は崖じゃなくて、木の枝に引っかかっているでしょ」


 次郎が男を放り投げた先は、崖の向こうではなくて陸の向こうだった。放物線を描いて木の枝に引っかかり、そのままぶら下がっている。


「まだ回るところも残っているし、そのせんしゅうとかいう奴らは最後にしよう……母さん、iPhone貸してくれ」


 はい、と桃子が次郎に携帯を手渡す。

「ふむ、北方向へ向かっているな。おや、木野崎のメインストリートの方角じゃないか。ちょうど良い」

「ちょうど良いって?」

「これから郷土の文豪の資料や、画家の絵を展示している文芸館へ行って、鎌倉から江戸までの仏教美術品が収められている宝物殿を鑑賞する。そしてメインストリートへ行き、土産を買うついでにセンシュウグミとやらを潰す。明日の観光のために」


 箸に挟んでいたマグロが落ちた。


「……もしかして、お父さん、わざと一人だけ逃がしたの?」

「GPS機能をオンにした、俺の携帯をズボンのポケットに忍ばせてリリースしてやったから、母さんの携帯で位置を検索できる。追跡可能だ」


 昼ご飯を食べ終えて、文芸館へ。

 今後の展開に多少の不安はあれど、文芸館は楽しかった。

 この温泉は、近代文学の文豪たちが多く滞在し、この地を舞台にした短編や長編が生まれた。涼も読んだことがある作家の資料も展示されている。

 古びた原稿用紙に書かれた肉筆は、印刷された文字にはない太さがあった。幾度も書き直した跡や、一度は丸めたらしい紙のしわを見ると、執筆に苦闘している文豪の人間臭さに笑ってしまう。


「ふん、鉄斎か」


 絵の前に立つこと2秒で、次々と移動する次郎。まるで工業製品の検品を思わせるそれに、涼は聞いた。


「もう少し、鑑賞しないの?」

「もう憶えた」

「憶えるって、鑑賞とはそういうものなのか?」

「人それぞれなのよ、涼」


 桃子が言った。


「お父さんの場合、鑑賞というより、データ収集だけどさ」


 この後は、仏教美術の鑑賞に宝物殿へ向かうはずだった。

 文芸館を出て、駐車場に停めてある自家用車を見た瞬間、涼は嫌な予感がした。

 交野家の車のボンネットに、やくざそのものの男が2人で腰かけて、挑発的な笑いでこちらを見ている。屋根の上にも二人が座っていた。

 そして、門番のように待ち構えているのが一人。

 タイヤはパンクしていた。


「はい、さっきはウチの若いのがどうも~」


 相手は五人、次は凶器を持っていた。それぞれ手にバットだの角棒を手にして、威嚇に振り回している。

 ……しばらく、次郎、桃子、涼は押し黙った。

 それを恐怖と勘違いしたのか、リーダー格らしい男が、ハリネズミのようなバットを振りながらやってくる。


「すいっませんねぇ、ご家族の団らん、お邪魔しまああす。ボクたち、この観光地の正義と秩序を守るため、日夜活動しているグループでえす」

「……」

「お宅ら、ある人を脅迫しているんだって? そのやんごとなき人に、恐喝とか嫌がらせするために、お宅らここに来たの? あのさあ、ここはみんなが楽しむ観光地よ? そんな人間の屑がうろつく所じゃねーんだよ、ボロ車押してさっさと帰りやがれ」

「……」


 ……怒っている。

 次郎と桃子の間に挟まれて、涼は戦慄した。

 この流れる気は、とんでもなく怒っている。表情を確かめるのも怖い。

 うおおおおおと、空気と地面が振動した。

 両脇から、2人が同時に飛び出した。そして同時に地面を蹴って舞い上がった。

 次郎のライダーキックが、桃子の空中膝蹴りが、ボンネットの上の二人を同時に蹴り落とす。そして、同時にボンネットの上に着地。

 車の屋根に足を踏みしめ、次郎が呻いた。


「ゆるさん……旅行の邪魔を、車移動が……次の行先と明日の予定がっ」

「ぶち殺す……この車、ランドクルーザー、私が選んで買ったのよ! お気に入りなのにっ」

「げっ」


 あっという間に、2人が倒されて気絶している。リーダー格の顔に焦りが浮かんだが、相手は素手だと、軽はずみな計算をしたらしい。

 相手は3人、いや、内の1人はこっちの人質だと、リーダーが涼に向かって走ってきた。

 釘を無数に打った金属バットが、涼の肩に向けて振り下ろされる。

 涼は身体を開いてそれをかわした。

 そのまま流して背後に回り、男の腰を蹴り倒す。

 男は顔から、まっしぐらに地べたに突っ込んだ。バットが手から離れて落ちた。


「よーし、涼、お手柄だ」

「そうそう、一人くらい殺さずに置いとかなきゃ」


 義両親の声なのに、猛烈な寒気を感じて涼は振り返る……そして一瞬だけ、振り向いたことを後悔した。

 屈強な男二人、向こうで白目を向いて気絶している。

 悪鬼と復讐の女神がそこにいた。


「貴様っ……よくも神聖な家族旅行を……スケジュールの邪魔を!」


 桃子がハリネズミの金属バットを「ハイお父さん」と手渡した。

 うむ、と次郎がそれを受け取り、振り上げた。

 次の瞬間、男が座り込んでいたアスファルトが砕け散った。

 バットの釘が飛んで、男の頬に跳ね返って落ちる。


「真っ二つだ。ふん、安物だな」

「ぎひぃいいいっ」

「家族の団らんを邪魔すると分かっていながら、なぜ邪魔をした! お前のような不真面目な奴には想像もできまいが、今我々家族は、歴史に重要な足跡を残そうとしているんだ!」

「車どうしてくれんのよ! しかもボンネットに傷! 軽々しくパンクさせるんじゃないわ、このクソ馬鹿!」


 男の首を締め上げる桃子を、涼は止めた。


「待て待て! 殺しちゃダメだって!」

「もう許さん、今日の宝物殿は中止だ! この借りを数億倍にして、利息もつけて返してくれる! おい貴様、乗ってきた車があるだろう! 土下座はやめてキーを寄こせ」

「はいっはいはいはいはいっ」


 男が差し出した車のキーを奪い、5人組の車へと向かう。

 次郎はエンジンをかけ、そして気付いたように涼へ振り向いた。


「おお、そうだ涼。さっきお父さんはバットを壊したが」

「そ、それが何?」

「さっきの父さんを見習っちゃいかんぞ。道具は大事に扱うものだ」

「わ、分かってる」

「ならば良い」


 市内のメインストリートへ向けて、車は走った。


「目的地は、メインストリートから近いわね。あ、そこ曲がれば近道よ。それから二つ目の角を左ね……全くもう超むかつく。私たちが女将を恐喝ですって? とんでもないわよ、こっちは一家そろってユーレイ見ただけよ! 完全にとばっちりじゃないの!」


 次郎の携帯のGPSを追いながら、桃子が怒っている。


「お父さんがね、あのでかい壺をコンコンして変な事言ったから、あの殺人犯が妙に勘ぐったのよ!」

「仕方がないだろう。本当に内側から、何か叩く音が聞こえたんだ」

「それだけじゃないでしょ! 随分恨まれているなって、幽霊の代弁をしてやったじゃない。あれが誤解の元よ! そんなの本人にいわせりゃ良かったのよ」

「親切のつもりだったんだ!」


 夫婦喧嘩は珍しい。

 しかし、共通の敵は向こうにいる。

 涼は目を閉じた。百合が浮かぶ。

 ――お母さんを助けて。

 運転席と助手席では、喧嘩が続いている。

 涼は百合を想うと、やり切れなさに足を踏み鳴らしたくなる。

 やり切れない。とてもやり切れない。


 百合も、産みの母親に捨てられた。

 だけど2度目の母親は良い人で、可愛がってくれた。

 助けて欲しい母親とは、畜生道を歩く千文ではない、育ての母の伸江のことだ。

 その優しい母親を殺したのは、産みの母親。そして加担したのは父親。

 百合は伸江があんな酷い姿で、千文に取り憑いているのを知っている。成仏出来ずにさ迷っていることに、死んだ今も心を痛めているのだ。


 死んだ今も……じゃあ、百合さんはどこにいる?

 涼は気が付く。

 彼女は、伸江さんが殺されたことを知っていた。

 そして伸江さんの救済だけを願った。

 あの池が脳裏に広がった。

 池には、鯉が泳いでいた。


 鯉は悪食だ。食道と胃が直接つながっているので、食べたものはすぐ腸に入り、満腹感がない。

 そのために、猛烈な勢いで目の前にあるものを食べ続ける。


「……」


 涼は顔を上げた。

 車はメインストリートに入っていた。道は観光客であふれて、観光バスも車道に連なって走っている。

 雑誌やテレビで紹介される飲食店や、土産物を扱う店はここに集まっている。車の外から、店の前の行列がいくつも見えた。

 車が道の脇に止まった。


「さて、涼。ここでお前は降りろ」

「え?」

「当り前よ、子供をヤクザの事務所になんか、連れて行けるはずないでしょ」


 なんだか、妙にまともな言動に戻った両親に面食らう涼へ、次郎が言った。


「先に旅館に帰っていなさい。歩いて帰れる距離だし、道も分かるだろう」

「大人しく待っとくのよ」


 涼を残して、車は走り去った。



 メインストリートから陽明館までは、せいぜい2キロである。

 繁華街を抜け、緩やかな坂を上がっていくと、石垣が見えてクラシックな日本建築の陽明館が見える。

 涼は玄関口に入らず、庭に回り込んだ。あじさいの水色と、濃緑の池が目に飛び込んだ。


 夕方の涼しい風が吹いた。

 涼は、立ったまま池を見つめていた。蓮の葉の下に、緋色が見え隠れする。

 どれほど時が経ったか。

 太陽の力が弱まるのを感じた頃、横に人の気配を感じた。

 足音はしなかった。


「……百合さんは、自分で死んだんだね」


 涼は聞いた。


「自分で死んだから、自分より、殺されたお母さんを助けてって言ったのか……でも、酷いよ……百合さんだって、あいつらに殺されたようなものじゃないか」


 気配はある。自分の声は届いている。

 ただ、何も言わないだけだ。


「酷いよ……」


 涼は繰り返した。酷いと。

 百合は、きっと見てしまった。自分の実の父母が、大好きな義母を殺した場面を。

 想像しただけでも、すり潰されそうな話だ。百合は、その時に心を殺されたのだ。

 百合がいるのは、きっとこの池だ。鯉は悪食だ。何でも食べる。

 百合の死体が浮かばなかったのは、そのせいに違いない。

 涼は、池の縁に足を踏み出した。


 やめて、と声が聞こえた。


「百合さんを、このまま放っておきたくない」


 だって、寂しすぎる、口惜しすぎるじゃないか。

 許さない。


「俺は百合さんほど、優しくないんだよ!」


 池に飛び込んだ。首まで水位がある。思い切って潜る。

 緑の藻が顔に絡んだ。緑の視界に細かなゴミや草が、そして鯉の尾が見えた。


「ぶはっ」


 顔を出すと、池の中央にいた。泊り客か従業員か、声が上がった。


「おい! 何をしている!」「落ちたのか?」

「うるさい!」


 怒鳴ってもう一度潜る。水面から顔を出すごとに、池の周囲の人間が増えている。

 水中に、ひらりひらりと舞うものがあった。

 手を伸ばした涼に、百合の声が聞こえた。

 ――見ないで……お願い……


 水底の布の中に、頭蓋骨が一緒に沈んでいる。

 ゆらゆらと、残った髪が水中で揺れている。 

 おねがい、わたしをみないで。

 悲痛な、振り絞るような百合の声。

 それでも、涼は水底に横たわる百合に手を伸ばした。

 そして、抱き上げた。



 執務室で帳簿と伝票の整理をしていたら、携帯が鳴った。

 千文は取り上げた。懇意にしている社長からの着信だった。


「はい、塚野です」

『わ、わしだ。泉州だ。女将か?』

「そうですわ。朝はどうも。その件は上手くいきましたか?」


 朝に、交野一家をこの温泉地から追い出してくれと依頼したのがこの社長だ。

 ヤクザに絡まれれば、どんな家族でも怯えて逃げ出す。

 しかも泉州会は、この付近では知られたヤクザだった。多少強引な手を使うが、仕事はきっちりとしてくれる。


『あ、あのな、もう仕事はおしまいだ』

「まあまあ、流石にお早い事。ありがとうございます」

『ちがう! その仕事じゃない!』


 絶叫だった。千文は思わず耳を離した。


『わしが仕事をやめる! この話降りる! 女将、あんたなんて奴……うわわっ奴だなんてすいません! ……なんて御方を怒らせた!』

「どういう意味です? 社長? もしもし?」

『ロビーに来い!』


 執務室を出てロビーへ走る。

 従業員たちが庭へ慌てて走っていくが、構ってもいられない。

 ロビーに出た。

 宿泊客たちがいる中、あの交野がいた。

 真っ青になって震える、泉州会組長の後ろ襟をつかんで。


「ちょっと女将」


 心臓が跳ね飛んだ。いつの間にか、横に交野の妻がいる。


「何が恐喝よ。自分で蒔いた種が芽を出したんでしょ。そのとばっちりをこっちに飛ばすなっての」

「とばっちりだなんて、何のことですか?」

「俺はな、中立派だった」


 交野……次郎が怒りのこもった息を吐いた。


「誰が惨殺されようが、その殺人犯が目の前にいようが、被害者の幽霊が化けて出ようが、俺たちがここに来たのは、家族旅行のためだ。観光さえ出来れば、そんな些細な事はどうだって良いと思っていた」


 それは些細なのか? 市民の義務は? 人としてどうよと、ロビーにいる宿泊客たちの間でざわめきが起きた。


「勝手に俺たち家族を脅迫者だと思い込み、ここから追っ払おうと、行く先々で待ち伏せとは……車まで壊されたおかげで、観光予定が大幅に狂った。俺は怒ったぞ」

「ああら、何を仰いますの? 交野様?」


 宿泊客たちの目の中で、千文は自分を立て直した。

 しらを切りとおす。今はそれが得策だ。

 とにかく、事を曖昧にしてやり過ごす。


「妙なことで騒がれたら、他のお客様たちにもご迷惑です。ぜひご一緒に応接へ」

「ばっくれんな、このクソ女!」


 玄関の方から、突き刺さるような声が飛んできた。

 モーゼの海割りのごとく、野次馬たちの海が割れる。

 ずぶ濡れの少年だ。その腕に抱いているものを見た瞬間、千文の心臓は氷の刃で貫かれる。


「自分が何をしたか、誰を殺したか見ろ!」


 あちこちから、悲鳴が上がる。

 骨だけになった人間だった。

 池の水で洗われ、緑が付着したワンピースを着た死体。

 ゆり、と声がこぼれた。

 朝の池に浮かんでいた娘。遺書はなかった。

 だが、娘が死を選んだ原因は知っていた。百合は産みの親より、自らの命を絶って伸江を選んだ。


「百合さんを悲しませやがって!」


 真正面からぶつけられる少年の怒りに、千文は耐えがたくなる。いっそ倒れてしまおうか、と思った時だった。


「じゃあ、母娘対面と行くか」


 次郎が腕を伸ばす。2メートルほど離れた壁に、沈香壺がある。周囲はぐるりと金網で取り囲んでいる。

 その人差し指と親指に500円硬貨が挟まれていた。

 高さ180センチ。レプリカとはいえ職人たちが作り上げた、今では希少な名品。

 優美なフォルムと緻密な手描き、そして豪華絢爛な金と色絵。

 その美しさと価値に一切構うことなく、躊躇も微塵なく、親指は硬貨を弾き飛ばした。


 金網の目をかいくぐり、当たる確率は低いはずだった。当たっても、厚さのある堅牢な陶磁器が割れるはずがない。

 そのはずだった。だが、千文の耳にはバリンという音が聞こえた。

 巨大壺が破裂した。


「きゃあああっ」「うわっ」


 陶磁器の破片が飛んだ。ぱらぱらと降ってくる破片を、ロビーの客は腕で避ける。

 黒い手足が、千文の上からばらばらと降ってきた。腐汁で変色した伸江の頭骨は、千文に当たり、そしてつま先に落ちた。

 千文は絶叫を上げた。



『老舗旅館の愛憎劇』『殺人女将』『共犯の夫は謎の死・祟りか?』


 ワイドショーの報道陣と警察のパトカーが、そして野次馬と観光客まで押し寄せて、陽明館は次の朝から人でごった返している。

 涼は、仔猫を抱いて池の縁に立った。

 ワイドショーも警察も、建物の中で現場検証とインタビューでかかりきりだ。今は庭に誰もいなかった。まるで別次元のように切り離されている。

 あじさいの花が揺れた。


 百合がここにまだ留まっているかは分からない。

 だが、涼は言わずにはいられない。


「何で、死んじゃったんだよ」


 仔猫が涼を見上げた。


「後、3年だけ生きていてくれたら、俺、百合さんと、会えたかもしれないのに……そうしたら、力になれたかもしれないのに」


 言っても仕方がない。何を言おうとどうしようと、書き換えることも出来ず、どうにもならない事がある。

 出会った時には、百合はすでにこの世の人ではなく過去の人だった。

 その過去と自分の現在が、一時とはいえ交差した。

 出会えるはずがないのに、出会えた。

 それが素敵なことだと思うには、もう少し時間がかかる。


 風が吹いて、見えない手が涼の前髪をはね上げた。

 涼くん、と呼ばれた。

 涙をぬぐって顔を上げた……目の前に百合がいる。

 あの悲しげな顔じゃない、優しい笑顔が涼の目に映った。

 ふいに、柔らかな風が唇に触れた。ありがとう、と声が滑り込む。


 百合が手を振り、池の向こうへ消えていく。池の上で百合を待つ女性がいた。

 柔和な表情で、その左目の下に、ほくろが一つ。

 こちらを見て一礼した姿に、伸江さんだと涼は思った。


「この子は、俺に任せてくれ。大事に育てるよ」


 ふにゃあ、と仔猫が百合へ向かって鳴いた。



 次郎は落ち込んだ。

 警察の事情聴取を受けることになり、観光は中止となった。警察署で他の宿泊客と一緒に事情聴取を受け、担当の若い刑事二人から「せっかくの家族旅行にねえ、災難でしたねえ」と同情されたが、1ミクロンも慰められはしなかった。

 伸江の死体が飾り壺から出て来たことで、殺害容疑を女将は認めたそうだが、現場検証の捜査官たちは頭をひねった。


「もしも、ヒビが入っていたにしても、これは普通に割れたんじゃない。内側から爆発したようだ。火薬もないのに」


 それは次郎にも分からない。指弾で500円硬貨を壺にぶつけたが、割ることは出来ても破裂させることは不可能だ。

 だが、そんなことはどうだっていい。


「家族旅行は中止だ……失敗だな」


 警察署の待合室で、次郎はがっくりと肩を落とした。


「何という事だ……この俺が……5年前のA国要人暗殺の際、ターゲットが腹を壊してトイレの中で1時間こもりきりになった時であっても、計画を変更せずに仕事を遂行したこの俺が……」

「警察署でそんな話はしないの!」


 桃子が次郎の肩を叩いた。


「それにね、お父さん。観光の計画を無事に消化するのが旅行じゃないのよ。旅行はね、思い出作り、それがメイン」

「……」

「その点じゃ、カルピスの原液と焼肉のたれを混ぜ合わせたくらい、家族の濃い思い出が出来たじゃないの。食事もしたし、温泉もちゃんと入ったでしょ。これでいいのよ」


 桃子はきっぱりと言い切った。


「家族旅行よ。これから何度でも機会があるのが、家族旅行ってものでしょ」


 休みが明けてから、次郎はお土産のかりんとうを持ち、岡の席へ行った。

 愛犬のパピルスは元気になったらしい。

 しかし、ワイドショーで事件を知ったのか、元はといえばの陽明館の予約者、岡は少々きまり悪そうに聞いてきた。


「えーと、旅行どうやった? 大変だったみたいやね……」

「ええ、まあ多少は」


 次郎は頷いた。

 確かに母さんの言う通りかもしれない。

 我が家の家族旅行はあれでいいのだ。

 家族だ。

 これから何度も旅行する機会がある、家族だ。


「一家そろって幽霊を目撃して、恐喝者と誤解されてヤクザを差し向けられ、車を壊され、初めて夫婦喧嘩をして息子が池から死体を抱いて旅館に戻ってきました。あ、車は修理代を取り立てましたが」

「……ワシ、このお土産もらってええんかいな……」

「ああ、そうだ。大事なことがあったんだ」


 携帯の待ち受け画面を見せる。


「旅先で、仔猫を拾って飼うことになりましてね。名前はユリです。オスですが、息子に『ユリ』で押し切られてしまいました」

「おお! 真っ黒けや。可愛いな」

「そうでしょ。家族が増えました」


 そうなのだ。可愛いのだ。

 自分の足によじ登ってくる小さな黒猫ユリを思い出し、思わず浮かべた次郎の表情に、岡が感心した。


「へえ、そういう顔もするんか。交野さんて意外と普通の人やね」

                                       了


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まがいもの家族 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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