第4話 「……ぱきっ」

 地獄の底で、あたしの呼吸音が荒く聞こえる。それを押しのけるように音が入ってくる。

 ドアをノックする音だ。あたしは急いで、ひん曲がった身体を毛布でおおいかくした。

 つづいてドアが開く音と、華やかな声。美桜みおだ。

 ああ、くそ。この世で一番、会いたくないやつが来た。


比呂ひろ?」

 美桜がベッドのそばに来て、毛布の上に手を置いた。

「部屋から出てこないから、叔母さんが心配してる――眠っているの?」


 ぐっと手が重くなった。あたしの枯れ木のような関節がきしむ。


 やめて、美桜、やめて。

 そう言いたいが声が出ない。あたしの声帯は取引されて、もう干からびている。

 

「あの少女像、手直しをしたのね……とてもきれいになった……ぶちこわしたいほどに」


 あたしはぞっとした。美桜は少女像に気づいたのだ。美桜の声が、低く豹変する。


「どうしてあんたは、たいして努力もしないで、こんなきれいなものを作るのよ。

 あたしがどれほど必死なのか、知りもしないくせに。

 凍えそうな朝の四時にアトリエに入って、作業をしてから学校へ行く。帰ってから勉強をして、夜は意識がなくなるまで彫る。

 一日中ずっと彫刻のことばかり考えている。

 なのにあたしは、もう限界。

 おじいちゃんはあたしの上限を知ってる。だからずっと、コンクール出品を許可しなかった。今回はあたしが頼み込んだの。

 でも、だめだわ。

 あんたの少女像のほうが、できがいい――腹立たしいほどに」


 そう言うと、美桜は一気に体重を乗せてきた。

 あたしの弱り切った関節は、美桜の重さに耐えきれない。



 ぽきり。

 ぱきん。


 骨が折れる音が脳に響く。


 いたい。


 いたい、いたい――いたいいたい……っ。



 あたしの肩と腰と肘にひびが入り、激痛で動くこともできない。あたしは毛布の下で気絶しかけた。

 ピクリともしないあたしに、美桜は低く笑って言った。


「ここまでされて黙っているなんて、よっぽど弱っているのね。また、あした来るわ、比呂ちゃん。彫刻ノミを持ってね……あの少女像、粉々にしてやる」

 美桜は帰っていった。


 地獄だ。

 こんな身体で生きるなら死んだほうがマシだと思ったけれど、あたしを憎んでいる従妹に虐待され続けるのは、もっと地獄だ。

 死にたい、とあたしは思った。今度こそ、本気で、死にたい。

 そう思った時、あたしは邪悪な小人をみた。


「取引だ。あいつを殺せ。殺したらあいつの身体をやる、才能をやる」

 小人はうっとりと続けた。

「たましい。真黒な悪い魂。食べる。殺せ――あした」

 小人は姿を消した。あたしは肩と肘の激痛に耐えながら思った。


 こんな身体で、美桜を殺せるかな。

 でも美桜を殺せば才能が手に入る。あたしはまた若くなり、少女像も守れる。

 少女像。

 美桜は明日、彫刻ノミを持ってくると言った。像をこわすためだ。

 いまとなっては、たった一つだけ残ったあたしの美しいもの。

 何をおいても、守らねばならないもの。

 たとえ十六年間ともに育った従妹をころしてでも――あたしは少女像を守ると決めた。

 


★★★

 翌日、美桜は約束どおり来た。あたしは毛布の下でふるえながら、ドアが開く音を聞いていた。

 美桜が軽やかに言う。

「叔母さん、あたしがいますから。安心して買い物にいってきてね」

 バタン、と玄関ドアが閉まる音が聞こえた。ママが出かけたんだ。

 家は空っぽ。あたしと美桜しかいない。

 美桜が近づいてくる。


「比呂ちゃん、眠っている? そうよね……きのう叔母さんに睡眠薬を渡しておいたから。『比呂ちゃん、よく眠れないみたいだから』って勧めたの。強力な薬よ……うちの猫も数秒で意識をなくしたもの」

 美桜の手が、毛布にかかる。

 あたしは手に持った鏡のカケラを握りしめる。鋭くて、ナイフみたいなカケラ。これで一気に美桜を刺す。ワンチャンスだ。弱り切ったあたしには二回目のチャンスは、ない。

 ばっ、と美桜が毛布をはいだ。あたしはギシギシする身体で必死に襲いかかった。

 美桜が口を開けている。


「……だれ、このばあさん……まさか、比呂?」

 あたしはとがった鏡ごと美桜にぶつかった。しかし美桜はひらりとかわした。

「比呂、あんた取引を……」


 あたしは鏡のナイフを握ったままゼイゼイと息をする。全身がバラバラになりそうなほど痛く、あたしは倒れた。

 ナイフを握った右手の上に、美桜の足が乗る。やつは一気に体重をかけてきた。


 ぽき……っ。

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