4-4

 翌日の昼、下北沢駅前のファミリーレストランに入ると、岩島が四人がけボックス席に腰掛けて僕を出迎えた。テーブルの上には、古文書のコピーが数枚並べられていた。

「早く座れ」

 岩島が急かす。

「オシリサワリってのはいったいなんなの?」

 僕が腰掛けると、岩島は古文書のコピーを一枚、こちらへ滑らせた。

「これは?」

「この間、与太草子の話をしただろ」

「江戸時代の奇人変人について紹介している書物だっけ?」

「これはそのコピーだ。そこに、オシリサワリについて書かれてる」

 僕はコピーに目を通した。細かな崩し字が並んでおり、内容を理解することはできなかった。ただ、タイトルにあたる「李澤四良りさわしりょう」という文字だけはなんとか判読できた。

「りさわ、し……?」

「しりょう。りさわしりょう」

「なるほど。で、李澤四良が、オシリサワリなの? オシリサワリってなんなの?」

 岩島が咳払いをして、李澤四良伝説について説明を始めた。

「詳しい情報はほとんどないんだ。ただ与太草子にある限りでは、李澤四良ってのは文化二年から天保十一年まで生きていた商人らしい。荏原郡経堂在家村えばらぐんきょうどうざいけむら、まぁ、今で言う世田谷区の経堂辺りに住んでいたそうだ」

「商人のわりには、かなり大仰な名前だね。名字があるし」

「李澤四良って名前は、どうものちにそう呼ばれるようになっただけらしいんだな」

 岩島は別のコピーをこちらに差し出し、指さした。

「ほら、ここに、時の将軍、徳川家斉から特別に名字帯刀を許されたと書かれている」

 一介の商人が名字帯刀を許されるというのは、どういうことだろう。

「李澤四良はなにをしたの?」

 岩島は僕の目を見て、にやっと笑った。

「李澤四良は、日本史上稀に見る、絶倫だったんだ」

「絶倫?」

 岩島は笑いながら頷いた。

「らしいんだよ。ここにある記録では、毎晩複数人の女を相手にやりまくっていたらしい」

「それはすごいね」

「なにしろ底なし沼のような性欲だったらしいからな。一晩に五人、六人は当たり前で、多いときには十人、しかも毎日最低三回は、自慰行為をしていたらしい」

 僕は思わず吹き出した。

「性病とかすごそうだね」

「いや、それが、性病には一切罹患しなかったらしいんだよ。むしろ李澤四良と寝ると、女の性病のほうが治っちゃうっていう話だ」

「妊娠とかしなかったのかな」

「それも皮肉なもんで、李澤四良はいわゆる無精子症だったらしい。だから、いくら李澤四良と寝ても、妊娠する女はひとりもいなかったとか」

「盤石だね」

「あと、李澤四良はテクニシャンだったらしい。寝た女はもう骨抜き状態になって、心も体も李澤四良に依存しちまうんだってさ。その噂が江戸中に広まって、江戸各地の女達が李澤四良と寝るために経堂村に押し寄せるようになったんだ」

「それで、李澤四良は全員と寝たと」

 岩島が首を横に振る。

「いや、李澤四良は、特定の女としか寝なかった」

「どんな女?」

「お尻が綺麗な女。なにしろお尻フェチだったんだ。『乳が尻ならばよかりしに』ってのが口癖だったらしい。『おっぱいがお尻だったらいいのに』っていう意味だな」

 もうなんのことかわからない。

「それで、どうして李澤四良は、名字帯刀を許されたの?」

「李澤四良の絶倫の噂が、徳川家斉の耳に届いたんだ。興味を持った徳川家斉が李澤四良を江戸城まで呼んで、『そんなに絶倫なら、目の前で二十人の女と寝て見せろ』と言い出した」

「目の前で?」

「そう。ただ、李澤四良もこのときばかりは緊張していたらしいな。なにしろ将軍の前だし、二十人と寝るってのは、それまで経験なかったんだ。だから李澤四良は、少し時間を貰って、試しに二十人の女と寝てみたらしい。それで無事に寝ることができたから、自信を持って将軍の前でも、二十人と寝た」

 岩島はまるで自分のことのように誇らしげにしている。

「つまり李澤四良はこの晩、計四十人の女と寝たことになるな」

 いろいろおかしい。

「それで『こいつはすげぇ』ってことで、喜んだ家斉から、名字帯刀が許された。文政十三年、李澤四良このとき二十五歳」

「確かにすげぇけどさ」

「ただ、帯刀については辞退したそうだ」

「なんで?」

「『刀はすでに股間にぶらさげて候』」

「ばかばかしいや」

「まぁ、これが李澤四良という男の伝説だ」

 僕は笑いをこらえながら、崩し字だらけのコピーに目を通した。岩島のした話が本当にここに書かれているのかと思うと、なんともいえない可笑しさがこみ上げてくる。

「それにしてもさ、その李澤四良と、例のオシリサワリってのとは、どういう関係があるんだ? 両桜線の痴漢事件との関係は?」

 岩島が重なったコピーをめくり、一枚引っ張り出した。

「李澤四良は、その後も十年近くやりたい放題しながら生きていたんだけど、天保十一年、李澤四良が三十五歳のとき、寝るのを断った女に逆上されて、殺された」

「急にサスペンスだね。なんで断ったんだ?」

「その女、お尻が汚かったんだ。粉吹いたようにザラザラしてたんだって」

「そんなことまで書いてあんの?」

「それで、李澤四良は死んじまったんだけど、死んでから、オシリサワリになった」

 岩島が崩し字で書かれた一文を指さした。

「ここに、こう書いてある。『李澤四良、死して尚、尻を欲す。然るのちに悪鬼オシリサワリとなりけり』」

「悪鬼オシリサワリ? 妖怪か?」

「亡霊だろう。李澤四良の怨霊が、未だにお尻を求めてさまよっているってことだ」

「ほかになにか史料はあるの?」

「いや、李澤四良やオシリサワリについて記載がある書物は与太草子だけだ。国会図書館のデータベース探ってみたけど、李澤四良の記録はどこにもないんだ」

 つまり、李澤四良の亡霊が両桜線の電車内に現れて、横山奈々子のお尻をなで回しているということだろうか。

 僕は店員を呼び、ドリンクバーを注文した。

 牛乳がなかったのでオレンジジュースを注いで席に戻る。

「それで、その横山奈々子って子は、どんな子なんだ」

「歯科衛生士だよ。経堂の歯医者で働いてる」

「職業なんてどうでもいいんだよ。お尻だよ、お尻はどんな形だ?」

「ジーンズ越しに見る限り、引き締まってるよ。普段から足腰鍛えてるらしいから」

「プリッとしてるか?」

「うん……プリッとしてるほうなのかな」

 岩島が目を輝かせる。

 与太者草子のコピーをめくり「ここ、ここ」と指さす。

「ここに、李澤四良は筋肉質で弾力のあるお尻が好きだったと書いてある」

「つまり、奈々子ちゃんのお尻は李澤四良のお眼鏡にかなったってことか」

「そうだよ。現代にもいたんだなぁ、綺麗なお尻の持ち主が」

 岩島は壮大な自然に思いを馳せるような目で斜め上を見た。

 しかし気になることがある。

「痴漢の犯人がオシリサワリで、奈々子ちゃんが類い希なる美尻の持ち主だったとしてさ、触られることでなにか祟りみたいなものはあったりしないのかな? 『悪鬼オシリサワリ』だろう?」

 岩島が俄然目つきを険しくした。腕を組み「うん」と喉を鳴らす。

「俺もそれが心配なんだ。なにしろオシリサワリに関する史料は与太草子だけだし、ここにも、『悪鬼オシリサワリとなりけり』としか書かれてない。オシリサワリが綺麗なお尻を好むのも、李澤四良がお尻フェチだったからオシリサワリもきっとそうだろうという俺の推察に過ぎない。わからないことだらけなんだ」

「奈々子ちゃんがかなり心配だね」

「奈々子さんに変わった様子はなかったか?」

「うん、今のところ、悪いことはないみたいだよ。むしろ、お尻を触られるようになってから、体調がよくなったみたい」

「なにしろ李澤四良はテクニシャンだったらしいからな」

 岩島が椅子の背にもたれかかり、ふんっと鼻息を吐いた。

「まぁ、悪鬼ってのは言葉の綾で、実際はそれほど悪いものじゃないかもしれないな」

「そうだといいけどね」

「それにしても、俺も実際にオシリサワリがお尻を触るところを見てみたいものだな。動画にもしたいし、奈々子さんに動画にしていいか、訊いてみてくれないか」

 僕はオレンジジュースを口に運んで、「ああ、訊いてみる」と請け合った。

 奈々子のあの様子だったらユーチューバーの取材に嫌悪感は抱かないだろうし、仮に断られたとしても、岩島は聞き分けのない男ではない。訊いてみるだけ訊いてみても問題ないだろう。

 いずれにしても奈々子の様子が気になるので、今夜あたり、電話をすることにした。

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