4-2

 翌朝、桜上水駅で横山奈々子と待ち合わせた。実際に両桜線の電車に乗ってみて、触られる瞬間がどのようなものか検証することになったのである。

 奈々子は八時半の電車に乗るとのことだったので、僕は牛乳一杯を朝食代わりに、八時前に家を出た。家から桜上水駅までは自転車で二十分ちょっとだ。

 八時十五分に桜上水駅に到着した。

 改札へ向かうと、すでに奈々子が到着しており、スマホを見ながら僕を待っていた。

 ワイン色のニットセーターにライダースジャケットを羽織り、首元に黒いマフラーを巻いている。茶色がかった髪の毛が下ろされ、昨日の白衣姿とは打って変わってワイルドないで立ちである。

 僕らは挨拶をかわし、ホームへ向かった。

 八時半出発の電車に乗る。

 両桜線は二車両編成だった。すでに乗客が何人かいたが、ラッシュ時にしてはかなり少ない。出発までまだ数分あったからか、座席にもいくつか空席が見られる。立っている人間は片手で数える程度しかいない。もう一方の車両も似たような状況である。

 少しして電車が動き出した。路面電車の両桜線の車窓からは、世田谷区の街並みが間近に見える。

 僕らは学生風の男女が座っている座席の前に立っていた。

「ね? 人、少ないでしょ?」

 奈々子が笑う。奈々子は吊革を握っていない。

 僕らの周辺には誰も立っていなかった。少し離れたところで中年の女性が気怠そうに吊革を掴んでいるだけである。

「そもそもさ、なんで痴漢なんてするんだろ」

 奈々子は言いながら、電車の揺れを重心移動だけでいなしていた。足下を見ると、スニーカーのかかとが若干浮いている。体幹がかなり鍛えられているらしい。

「そりゃ、人間だから性欲があるのはわかるよ? 私だって筋肉質の男の人見たら、筋肉触りたくなることあるもん。でも、触っていい状況でしか触らないし、そもそも朝っぱらからそんな気分になる? 性欲より睡眠欲が勝ちそうなもんじゃない?」

「確かに、俺も通勤してた頃は電車で寝てた」

「でしょ? 朝っぱらからよくやるねって感じだよ」

 奈々子は痴漢被害に遭っている女性とは思えないほど、ひょうひょうと痴漢について語っている。もう少し落ち込んでいてもおかしくないところだが、むしろはしゃいでいるようだ。

「発情期の猫だって夜中に鳴いてるじゃん?」

「そういえば朝っぱらから唸ってる声は聞かないね」

 電車が南桜上水駅に停車する。停車するときが最もバランスを崩しやすいらしく、奈々子はいったん口を閉じて全身に力を入れた。

 ドアが開き二、三人乗り込んでくるが、まだまだ車内は空いている。電車が再び走り出す。

「ところでさ『友達になる』って条件は、どういうことなの?」

 奈々子が話題を変えた。

「変わった条件だよね」

「うん、俺はフリーランスのライターなんだけどね、フリーランスって、なにかと孤独なんだよ。ずっと家にいるわけだし、仕事のやりとりは全部メールとチャットだけでね。気がついたら一週間くらい、誰とも喋ってないってことがざらなんだよ」

「えぇ、つらいね!」

「それで、気軽に会える友達が増えれば、そういう状況から脱却できる可能性が高くなるでしょ」

「それで友達になろうってことか」

「それにね、俺の性格的に、友達に頼られるとテンション上がるんだよ」

「めっちゃいい人じゃん!」

 奈々子がケタケタ笑う。

「でも、友達がたくさんって面倒じゃない?」

「まぁね。だから、ある程度選んではいるよ。それに、実際はそれほど多くない」

 電車が再び駅に停まる。両桜線は駅と駅の間隔がかなり短い。

 奈々子は相変わらずつま先立ちで踏ん張っている。体はこわばっているようだが、表情は涼やかである。

「かなり体幹強そうだよね」

 話を振ってみた。

「ずっとつま先立ちだし」

 奈々子は「うん?」と首を傾げ、「ああ」と嬉しそうに目を輝かせた。

「気付いてくれた? そう、結構鍛えてるんだ、私」

「スポーツやってるの?」

「ジムに通ってるかな。あと、高校時代にダンスやってて、今でもたまに高校時代の仲間と踊ってる」

「ダンスってどんなダンス?」

「ジャズダンスだよ」

 奈々子が上半身を小さく前後左右に揺らして見せた。ダンスのムーブのひとつらしい。なんのことかはよくわからなかったが、揺れる電車内で、しかもつま先立ちでその動きをするのがかなり難しいことであることはわかった。

「結構、スタイルには自信あるよ。特にお尻」

 奈々子が自信満々に言う。

「カッコいいね」

 僕は素直に感心した。

 電車が赤堤あかつつみ駅に停まり、再び出発する。赤堤駅は経堂駅のひとつ前の駅である。奈々子の話によれば、この駅間で、痴漢が発生するということだ。

 相変わらず車内は空いている。僕らの周りには誰もいない。

「私、中学時代、空手部だったんだよ」

 奈々子はお喋りに夢中である。

「でも全然センスなくて、顧問から『ダンス踊ってるみたいだな』って言われて。最初は褒め言葉だと思ったんだけど、よくよく考えたらけなされてた」

「それじゃ武道じゃなくて舞踏だもんね」

「だから悔しくて、じゃあダンスやってやる! ってなって、高校からはダンス部に……あ!」

 突然奈々子が目を見開いた。

「今、今、触ってる!」

「痴漢?」

「そう! お尻! 見て!」

 急いで奈々子のお尻に目をやった。誰の手も、誰の鞄も当たっていないのに、ライダースジャケットの裾がゆっくりと、なにかに持ち上げられるようにして捲れ上がった。

「なんだこれ?」

 僕はジャケットの裾をつまんで引き下ろした。なにかに引っかかったような手応えがあった。少し力を入れると、ジャケットの裾はすぐに元の位置に戻った。が、再びぴょんと捲れ上がった。もう一度、引き下ろす。裾はそのままだった。

「ジャケットが捲れ上がってた」

 奈々子はきょろきょろ辺りを見回して、すぐに僕へ顔を向けた。

「ね? 本当に誰か触ってたでしょ! ね? ね?」

「うん。そんなふうだったね」

 電車が経堂駅に停車した。

 小田急線との乗り換えで、ほとんどの乗客がそこで降りた。

 僕らも降りる。

 不可思議千万な現象に僕は興奮した。

 奈々子も昂ぶっていたが、彼女の場合は、自分の言っていたことが事実だと証明できたことを喜んでいるだけのようだった。

 なんにせよ、これほどの謎を前にして、深入りしないわけにはいかない。

 そのまま出勤した奈々子を改札口で見送り、僕は再度、ホームへ向かった。

 経堂駅を出る電車は上下線ともにガラガラだった。

 僕は桜上水行きの電車に乗り込んだ。

 座席の端に若いカップルが座っている。服装や顔つきから見て、大学生と思われた。彼女がスマホの画面を指さし、彼氏になにやら説明している。

 彼らに近づき声をかけた。

「あの、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが」

 彼女が驚いてスマホを鞄にしまう。彼氏が若干前のめりになって僕の顔を見上げた。

「なんですか?」

「いえね、僕の友達が、この電車で痴漢被害に遭っているらしいんですけど、なにか、そういう話を聞いたことありますか?」

「痴漢?」

 二人が顔を見合わせて首を傾げる。

「赤堤駅と経堂駅の間で、お尻を触られたらしいんですよ」

「この電車でですか?」

 彼女が半笑いになる。

「この電車、いつもガラガラで痴漢なんてできるような感じじゃないんですけど」

「そうなんですけどね、誰もいないのに、お尻を触られるらしいんですよ。お姉さんは経験ないですか?」

「誰もいないのにお尻を触られるって、気のせいじゃないんですか?」

 彼女はもう興味を失ったようで、スマホを取り出していじり始めた。

「いや、気のせいじゃないらしいんですよね。こう、お尻を撫でるように、触られるらしいんですけど」

「その人、欲求不満なんじゃないですか?」

 彼女がスマホをいじりながら笑う。彼氏もすでに僕のことを見ていない。

「本当に、心当たりないですか?」

「ありませんね」

 二人の表情が若干引きつったので、それ以上質問するのをやめた。あんまりしつこく問い質しても、変人扱いされるだけだ。

 僕は二人から離れ、席に着いた。

 なにごともなく電車は走り続けた。いずれの駅でも人は乗ってこず、車内はいつまでもガラガラだった。挙動がおかしい人間は見当たらない。

 別の車両に女性の姿があったが、声をかけなかった。やはり、男ひとりでは女性に声をかけづらい。

 聞き込み調査は奈々子と一緒にしたほうがいいだろう。

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