3-3
晩飯を食べて、ネットで河童のことについて調べているうちに、約束の十時が近づいた。
僕は折りたたみ傘を片手に、霧雨の漂う夜の町へ出た。
歩道から川を覗くと、少し離れたところで、水面に反射する小さな白い光が小刻みに揺れているのが見えた。車の通りがなくなると、微かに水の飛び散る音がする。長谷川はすでに水浴びをしているようだ。
僕は土手に入り、スマホのライトを揺らしながら音のするほうへ向かった。
「神市くん」
ライトに気付いた長谷川が声を上げた。僕はライトを声の出どころへ向けた。昨日と同じ、パンツ一丁の長谷川の姿があった。
「どう? 調子はよくなった?」
長谷川は擁壁のほうまで歩いてきて首を横に振った。
「全然、だめ」
僕は土手の縁に腰掛け、腕を組んだ。
「河童の霊は、本当に水浴びをして欲しいと思ってるのかな?」
「でも、河童がしたいと思うことで、水浴び以外に思いつかないんだよ」
「水に潜るのはどうかな? 河童って、水の中にどっぷり浸かっているイメージだけど」
「ああ、確かに」
長谷川は言うと、大きく深呼吸をして、浅い川に顔から飛び込んだ。しばらく土左衛門のように背中を上にして浮かんでいたが、やがてバシャバシャと暴れて顔を上げた。
「死ぬかと思った!」
「どう?」
「だめだね。寒すぎるし、息が続かないし、なんだか、ちょっと気持ち悪くなった」
「やっぱり、水は関係ないのかな?」
僕はそこで、ふと思いついた。河童はキュウリを好んで食べている。
「河童ってキュウリが大好物だって言うじゃない? キュウリを食べてみるってのはどう?」
長谷川は「ああ」と唸って、顔の前で手を振った。
「それならもう、ここのところ毎日食べてるよ。でも、全然だめなんだ」
「そうか……」
ほかに河童が好きなものにはなにがあるか考えた。尻子玉を抜くとかいう話もあるが、それを抜かれれば人は死んでしまうらしいし、そもそも人体に尻子玉のようなものはないらしく、こればかりは完全に想像の産物らしい。
「あとは、相撲を取ることかなぁ……」
「相撲……」
僕らは相撲を取ることにした。
長谷川に土手へ上がってもらい、蹲踞の姿勢で互いに睨み合った。きっと河童の霊は相撲に勝ちたいと思っているに違いないので、長谷川が僕を上手投げで転がすことに決めている八百長相撲だ。
はっけよい残ったで僕らは組み合った。すぐに長谷川が上手投げを打った。僕は大げさに転がってやった。勢い余ってそのまま川へ落っこちた。
バシャンと大きな音が鳴り、冷たい水に全身が切り刻まれた。
「ひぃ!」
「ちょ、神市くん! ごめん! 大丈夫?」
僕は跳び上がるようにして擁壁を這い上がった。
「大丈夫!」
「そうは見えないけど」
「それよりも、そっちはどう? 気分が悪いのは治った?」
長谷川は目を閉じて鼻で呼吸をした。少しして申し訳なさそうに口を開いた。
「全然、変わらない」
ただ僕がびしょ濡れになっただけだった。
長谷川が持ってきていたバスタオルを貸してもらって体を拭き、そのままそれにくるまるような形で僕は腰を下ろした。
水浴びもキュウリも相撲も効果がないとなると、いよいよどうすればいいかわからない。河童の霊は、なにを求めているのだろう。
「こんなことに付き合わせちゃって、申し訳ない」
長谷川が僕の隣に三角座りをし、膝の隙間に顔を突っ伏した。
「なんだか、ごめん」
「なにを言ってんのよ。こんなことに付き合わせてもらえて、むしろこっちが感謝しているくらいなんだから」
「いや、でもなんだか、うん……」
長谷川は顔を上げ、尻子玉を抜かれた人間のような生気のない声でつぶやいた。
「どうしたの? やっぱり調子悪い?」
「いや、体調と言うよりも、メンタルがひどい状態なんだ。自分の存在価値みたいなものが感じられないんだよ」
「なにかあったの?」
長谷川はちらりと僕を見て、小さくため息をついた。
「実は今日、ついに仕事で大きなミスを犯しちゃったんだ」
「大きなミス?」
「そう。大事な取引先とのミーティングをすっぽかしちゃったんだよ。ちょっと体調が悪くて、そのことばかりに気を取られていたら、すっかり意識の中から抜け落ちちゃってて」
「叱られた?」
「もちろん上司から注意はされたけどね。先方は許してくれたよ。次から気をつけてくれって言われただけ」
「それなら、ひとまず安心だね」
僕が言っても、長谷川は首を縦に振らなかった。
「なんかさ、こんなことを言うのは妙に思われるかもしれないんだけど、心のどこかで、これがきっかけでクビにならないかな、って期待してた部分があったんだよね」
長谷川は組んでいる両手の指をもじもじと動かし、僕の反応を窺うような様子でなにも言わなくなった。が、やがて思い出したように、今度は僕の返事を遮るような調子で口を開いた。
「もともとさ、今の仕事、やりたい仕事じゃないんだよ。企業向けの営業ばかりで、しかも、利益を追求するための施策を売り込むもんだから。言ってみれば、他人の金儲けの手伝いをしているだけなんだよね、今の僕は」
顧客の企業も、人様のためになっている商品やサービスを提供している。金儲けの手伝いをしているだけという言い方は少々乱暴だ。
しかし、落ち込んでいる人間とそんなことで議論をしても仕方がない。おそらく長谷川だって、そのようなことは重々承知しているはずである。
「考え方によってはそうなるかもね」
「僕は、直接的に人の役に立つ仕事をしたいと思ってるんだよね。学生時代の就活のどさくさでさ、特になにも考えず仕事選んじゃって」
「確かに就活はどさくさ濁流下りみたいな部分あるよね。なんでもいいから無事に下りきることだけ考えよう、みたいな」
「会社で利益利益、営業先でも利益利益、ってやってるとさ、自分の仕事って世間の役に立ってるのかな、こんなことばかりしている自分は、世の中に必要なのかなって、疑わしくなっちゃって。そのうえ今回の河童さわぎで、神市くんを川に突き落としちゃったし」
僕はついつい笑ってしまった。
「僕が川に落ちたのはね、僕が勝手に転がりすぎただけだよ」
長谷川もふふっと鼻で笑う。
「転職は考えた?」
このようなことを訊くのは野暮かもしれないと思った。今のご時世、職場に不満のあるエリート社員が、転職について全く検討をしたことがない可能性は極めて低い。ただ、話の流れ上、訊かないのは不自然だった。
案の定、長谷川は頷いた。
「そりゃね。でも、ちょっと気に入らないからってすぐ転職してたんじゃ、仕方がないだろ? それに、職場環境自体は恵まれているほうなんだ。ブラック企業ではないし、給料だっていい。友達連中からはかなり羨ましがられてる。会うたびに、いいなぁいいなぁ、って言われて」
確かに、有名企業のトップ営業マンで稼ぎも良い、どうやら同棲している恋人もいるらしいし、端から見れば生活に不満があるようには思えないだろう。
しかし、幸せそうに見えること、そのことが不幸の原因になることもある。
「なるほどね。なんとなく気持ちがわからないでもないよ。実はね、僕も今はフリーランスのライターをやってるけど、何年か前までは会社勤めのサラリーマンだったんだよ。ネット関係の仕事。ウェブサイト作成の代行だったり、コラムの代筆だったり」
「コンテンツマーケティング?」
「そうそう。僕はコラムの執筆担当だったんだけど、こういう仕事って、顧客と顔を突き合わせて話をすることがほとんどなくてね。だいたいが電話かメールかチャットね。基本的にはパソコンばかり睨みつけてるわけ。顧客とのやりとりは、だいたいが執筆したコラムに対する修正依頼に関することばかりで。お褒めの言葉をいただくなんてほとんどないわけだよ。たまに読者の需要を無視した『誰が読むんだよ』っていうような内容の記事の執筆を依頼されることもあって。だんだんとさ、それこそ長谷川くんが言うように、俺の仕事ってなんのためにあるんだろうって思えてくるんだよね」
僕はそこでいったん言葉を切り、長谷川の様子を窺った。長谷川は続きを聞きたそうに、僕を見ていた。
僕は話を再開した。
「仕事量が多くなって、残業残業ばかりで。自分の時間なんて全くなくなるわけね。詳しくは長くなるから話さないけどさ、端的に言うと、鬱病になっちゃって」
できる限り明るい調子で話したので、長谷川は俄には僕の話を信じられないようだった。僕は続けた。
「でもそれがきっかけで、会社を辞めてフリーになった。自分の時間をしっかり確保できるようになって、こうして友達のためにいろいろやってあげられるようになってから、だんだん元気になってね。ただ、最近も雨が降ったりすると気分が落ち込んでどうしようもなくなったりするけどね」
「フリーになったほうが楽?」
「生活は苦しいよ。毎月、今月分の生活費を稼げるだろうかって不安になるしね。ただ、自分で仕事を選べるから気分は楽。仕事断っても、困るのは僕だけだし」
「大丈夫なの?」
「今のところはね。社員時代のクライアントで良さそうなところといくつかそのまま継続契約してもらったし、社員時代の元同僚で友達の女の子が、たまに仕事を紹介してくれることもあるし。ちょっとおかしな人なんだけどね、その子」
長谷川は羨ましそうに僕を見た。
「だから長谷川くんも、環境を変えてみるとなにか変わるかもしれないよ」
霧のようだった雨粒の輪郭がはっきりし、少し、気持ちが落ち込み始めた。
長谷川は頷き、腕時計を確認した。時刻は十一時を回っていた。
辺りはしんと静まりかえっている。恋人が心配すると長谷川が言うので、僕らはそれぞれ帰宅することにした。
多少、長谷川が元気そうになったので、ひとまず安心した。
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