3-2
翌日の水曜日は、朝からずっと小雨が降っていた。
どこへ出かける気にもならず、ギターを弾く元気も出ない。
結局家に引きこもり、締め切りが迫っているネット記事の原稿執筆に励んだ。
どんどん沈んでいく気持ちをなんとか支えてくれていたのは、長谷川だった。
前世の河童が水浴びをしたがっている。
占い師の言葉が真実であれ嘘八百であれ、実際にその通り仙川で水浴びをしている長谷川のことを、とてもおもしろく思った。
なかなかあそこまでの人はいない。
昼過ぎに長谷川からメッセージが届いた。今日は普段以上に体調が悪いから、今夜また仙川に行くとのことだ。
体調が悪いならやめたほうがいいと言ってみたが、長谷川は河童を満足させれば体調が元通りになると信じているらしい。それに、今回の体調不良は風邪とは違うし、行けば多少の気休めになると言って聞かなかった。
夜十時頃に待ち合わせをし、僕は原稿に戻った。
七時過ぎに着信があった。
氷山芽衣子からだった。
「もしもし?」
「あ、神市? なによ、ワンコールで出るなんて、まるで私からの着信を待ちわびてたみたいね」
「なにしろ久しぶりだから」
「確かにわりと間があいたのね。最後に会ったのはいつだったっけ?」
「夏の終わりに紗英ちゃんと三人で飲んだのが最後」
「そう。あれから私、忙しかったの。わかるでしょ。もう毎日疲れちゃって。神市のことなんて相手にしてられなかったのよ」
「ところでなんの用?」
「ちょっと自慢したいことがあって」
ガサガサとビニール袋のこすれる音が聞こえてくる。
やがて芽衣子が嬉々とした声を上げた。
「ジャジャーン! すごいでしょ!」
「氷山さん、電話だと、なにも見えないんですよ」
「伊勢エビを買ったのよ!」
「伊勢エビ? いいなぁ!」
「今日仕事が一段落ついてね。そのお祝いをしようと……やだ!」
芽衣子が叫ぶ。
「なにがやなの?」
「ちょっと神市、この伊勢エビ、生きてる!」
「新鮮なんだ」
「え、これスーパーで特売になってたやつよ? すごい! 脚が動いてる! ほら、見て!」
「見えないよ」
それから芽衣子は生きている伊勢エビに夢中になり、いつまでもその動きについて実況をし続けた。
少しして困ったように言った。
「ちょっとどうしよう、神市」
「どうしたの?」
「情が湧いてきちゃった。食べらんない!」
「そんなこと言ったって食べないとしょうがないじゃん」
芽衣子はしばらく黙り込んだ。
「食べたほうがいいよ、せっかく買ったんだから」
「いや、食べない! 私、ジンちゃんを育てることにする!」
「ジンちゃん?」
「そう。この子の名前」
「なんでジンちゃんなの?」
「伊勢エビだから、伊勢神宮でしょ? 神宮のジンで、ジンちゃん」
「近いんだか遠いんだかわからないところから名前をつけたね」
「とにかく、私、ジンちゃんを育てる! 立派に育てて、神市に自慢するから!」
「伊勢エビを食べたって言われたほうが羨ましいけどなぁ」
「ところで神市、元気?」
「それは会話のはじめに聞くべきことだと思うな。……」
芽衣子は本気で、伊勢エビを育てるつもりらしかった。
芽衣子と話をするのはとても楽しい。
小雨は降り続いていたが、多少気持ちが楽になった。
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