2-4

 目を覚ましたと言うよりも、正気を取り戻したという表現のほうがしっくりくる。

 昨夜の記憶がぼんやりと霞み、窓から見える青白い景色が、意識を目の前の現実に向けさせた。

 雨は止んでいた。

 僕はため息をつき、リビングへ向かった。慎重にドアを開け、隙間から顔を突っ込み周囲を確認する。

 煙草は飛んでいなかった。

 安心して、今度は安堵の息を吐き、視線を足下に向けた。

「おや?」

 足下に、黒いホコリが点々と散らばっている。つま先でこすると、それは薄く引き延ばされてフローリングに線を引いた。

 煙草の灰のようだった。

 全身が熱くなる。

 とりあえず灰を放置して、僕はデスクに置いていた「orange」を確認した。四本しか入っていなかった。一本減っている。

 再び周囲に目をやった。昨日はデスク周りしか確認しなかったが、今度は部屋中をくまなく調べ上げた。トンボのように動き回れるのだから、行動範囲はリビング全体にまで及ぶはずだ。

 僕は床に体を伏せ、ローテーブルの下を覗き込んだ。そこにもなかったので、今度はソファの下に視線を送った。

 そこに、二本の煙草が転がっていた。正確に言えば、二本の吸い殻である。

 腕を伸ばして引っ張り出した。どちらも半分ほどまで燃え尽きており、もみ消したような跡がついていなかった。フィルターも、真っ白いままだ。

 誰かが吸ったものではない。

 デスクの上に広げたティッシュに吸い殻を置き、腕を組んでそれを眺めた。

 この煙草が、昨夜見かけた煙草型UFOの正体だろうか。おそらく片方は、最初になくなった煙草だろう。ということは、一昨日の夜も、煙草は人知れずこのリビングルームを飛び回っていたということか。

 僕は行田に電話をかけた。

「……はいはいはい、なに?」

 十回ほど呼び出し音が鳴ってから、大型バイクの排気音みたいに低い声が聞こえてきた。

「あ、行田か。寝てた?」

「当たり前だろ」

 当たり前だろうか?

「大変だよ」

「なんだよ? また煙草が消えたか?」

「そうなんだよ。消えたというか、消えた理由がわかったんだよ」

「ええ? 本当に?」

「消えた理由というか、どうして煙草が箱の中からなくなったのかがわかった」

「ああん?」

 行田はまだ寝ぼけているようだった。僕は昨夜の出来事をできるだけ簡潔に伝えた。

「……煙草が、宙を舞うってどういうことなんだよ?」

「怪奇現象だよ」

「幽霊が煙草を吸ってんのか?」

「幽霊かどうかはわからないけど、とにかく恐怖だよ。なにかとんでもなく恐ろしいことが起こっているのは確かだ」

 僕はできるだけ声を潜めて言った。

「怖くて仕方がないんだ」

「本当に神市、おまえ怖い話が好きなくせに、人一倍怖がりだよな」

「当たり前だろ」

「そんなに怖がってると、幽霊に憑き殺されるぜ」

「小山八雲だっていつも言ってるだろ。怖い話が好きってのと、怖い話が平気ってのは、全然イコールじゃないんだよ。むしろ、相反するものと言ったほうがいい。怖い話が好きな人は、怖がりなんだよ。怖がりなんだけど、その怖さを楽しむんだ。怖い話が平気だったら、そもそも怖くないんだから、怖い話を好きになりようがないだろ」

「ああ、その話な。全然わからねぇんだ、俺、数学、苦手なんだよ」

 誰も数学の話はしていないが、まぁいい。僕は本題を切り出した。

「それで、ちょっと行田に確かめてもらいたいことがあるんだけど」

「なに?」

「おまえ、煙草はいつもキッチンの換気扇の下に置きっぱなし?」

「ああ、家にいるときはな」

「夜は、キッチンと真ん中の部屋をつなぐドアは開けてる?」

「いや、エアコンの効きをよくするために、そのドアは閉めてる。なかなか賢いだろう」

「うん。じゃあ今すぐキッチンに行って、どこかに煙草の吸い殻が落ちていないか確認してくれないかな。本当に煙草が宙を舞っているなら、キッチンのどこかにその吸い殻が落ちていると思うんだ」

 行田は「ちょっと待ってろ」と言い、キッチンの捜索を始めたようだった。スマホの向こうから、カシャカシャとビニール袋を動かす音が聞こえてくる。

「あ、あった。吸い殻。三本。ペットボトルの山の下にあった」

 思った通りだ。

 僕は行田に、一応その吸い殻を保管しておくように伝えた。

 煙草が幽霊のように消え失せてしまうわけではなく、箱から飛び出しているだけだったのだ。後は、どうしてこのようなことが起こるのかがわかればいいわけだが……。

 とにかく、あの煙草屋の主人に話を聞いてみる必要がある。

 行田は先日マッチングアプリで知り合った女性とデートをする予定があるとかで付き合えないらしい。人の恋路は極力邪魔したくないし、そもそもこの案件は、行田がわざわざ僕に調査の依頼をしたものなのだ。いずれにしても、僕ひとりで調査をする必要がある。

 僕は義勇心に燃えた。

 十一時前に家を出て、自転車で八幡山へ向かう。

 店の前に、ひとりデモの男は立っていなかった。

 店のカーテンは開いている。僕は自転車を店先の脇にとめ、店内へ入った。

 冷房が効いており、涼しい。レジを見ると、店主の姿がなかった。ただ、レジ台の向こうにあるアルミ製のドアが若干開いていて、そこから男の声が漏れ出ていた。

 声はなにを言っているのか明瞭ではないが、少なくとも意味の通る日本語ではないらしいことはわかった。読経、もしくは呪文を唱えているようだった。

「すみません、ごめんください」

 僕はレジ台の前に立ち、ドアに向かって声をかけた。途端に声が止み、昨日見た五十がらみの男が、努めて冷静を装っているというような表情で顔を出した。

「いらっしゃいませ」

 男はなに食わぬ顔でドアを閉め、レジ台の奥に置いてある丸椅子に腰をかけた。

「どうしました?」

 どうやら僕のことは覚えていないらしい。それならこちらも初対面という体を装ったほうがいいだろう。

「あの、煙草をですね、買いたいんですよ」

 男は「ああ、煙草」と言うと、レジ台の上を指さし、「ここから、好きな銘柄を選んでください」、指先でリストを僕のほうへ押しずらした。

「珍しい煙草がいっぱいあるんですね。外国産ですか?」

「ええ、外国のやつもいっぱい置いてます」

「本当ですね。いや、友人から聞いたんですよ、この店は珍しい煙草置いてるって」

「ああ、コンビニには置いてないのがいっぱいあるよ」

「オレンジもあるじゃないですか」

 この男はなにか隠し事をしているようだが、昨日の行田とのやりとりを見た限り、本題を切り出したところでペラペラと喋るタマではない。行田のように、わけわからないことを言われてお茶を濁されるだけだ。

「オレンジってイギリスでしか買えないんですよね。一度イギリス旅行したときに吸って気に入ったんですけど、日本で見つけられなくて」

「ふぅん……オレンジが欲しいの?」

「ええ、お願いします」

 男は頷くと、背後のドアを自分が通れるだけ開けて中へ入り、すぐにバタンと閉めた。十秒ほどでドアが開き、オレンジを片手に戻ってきた。

「ああ、これこれ。懐かしいパッケージ。この『Smoking Kills』っていうシンプルなメッセージが強烈ですよね」

 僕は代金を支払った。行田が言っていた通り、思わず「え?」と言ってしまうほど高額だったが仕方がない。

「それにしても、こういう外国産の煙草ってどうやって入手してるんですか?」

 僕は煙草を片手に持ったまま話を続けた。男は面倒くさそうに、「んん?」とうなり、少し考えて口を開いた。

「直接、あの、アメリカの会社と取引して……」

 どうも歯切れが悪い。

「イギリスでしょう?」

「あ、そうそう、イギリスの会社と」

「へぇ、直輸入ってやつですか?」

「うん。そういうやつ」

 怪しすぎる。

 と、僕が眉をひそめかけたところへ、表から声が聞こえてきた。

「煙草は撲滅! 煙草は人を殺します!」

 昨日のひとりデモ男が到着していた。今日もプラカードを持ち、暑い中一所懸命大声を上げている。

「あの人は、毎日来るんですか?」

「え? ああ、そうだね」

「この店はずっとここにあるんですか?」

「ああ。でもおれが店を任されたのは三ヶ月前からだよ。それまでうちの親父がやってたんだけど、死んじまって……」

「それでおじさんが、店を継いだってことですね?」

「そういうこと。あいつはおれが店を任されてから、毎日いる」

「ああいう人が店の前にいると、迷惑じゃないですか?」

「ああ、ああいう馬鹿がいると、本当に困るんだ」

 男の口が軽くなってきた。

「頭がおかしいとしか思えない」

「でしょうね。煙草が人を殺すなんて、暴論にもほどがある。やっぱりおじさんも、煙草は吸うんでしょう?」

 男はちらりと僕の顔を見て鼻で笑った。

「いや、煙草を買ったお客さんの前でこんなことを言うのはあれだけどね、おれは煙草は吸わない。むしろ、煙草は大嫌いだよ。煙草なんて、この世からなくなればいいと思ってる」

「それは意外ですね、煙草屋なのに」

「うちは煙草屋じゃないよ。煙草も売ってるってだけだ。しかもそれだって、親父がやってたから、引き継いだだけだ」

 男はちらりと視線を外へ向けた。

「実は、あいつはおれの友達なんだよ。嫌煙家同士仲良くやってたんだけど、どうもあいつのやり方はヒステリック過ぎる。あんな極論でデモ活動したって、誰も話を聞いてくれないし、馬鹿にされるだけだ」

 男は腕を組み、嘲るような笑みを口元に浮かべた。

「おれはもっとスマートなやり方を選んだ。ただ、あいつはおれが裏切ったと思ったらしくて、ああして嫌がらせのように店の前でデモ活動をするようになっちまった」

「そのやり方って?」

 僕が訊ねると、男は「ああ」と口を開き、すぐにつぐんだ。自分の話しすぎに気がついたらしい。わざとらしく咳払いをし「大したことじゃない」とつっけんどんに言って、黙ってしまった。

 いったん我に返られてしまうと、それ以上話を聞き出すのは難しい。もう少しで核心に迫れそうだったが、仕方がない。今日のところは引き上げよう。

 会釈をして出口へ体を向けると、それと同時に背の高い白人男性が店の中へ入ってきた。大きなバックパックを背負っており、胸元には立派な一眼レフがぶら下がっている。英語でなにやら言っている。

 旅行で日本に来た写真家らしい。日本の生活を写真に撮りたくて住宅地を目指したはいいものの、道に迷い、しかもスマホのバッテリーが切れてしまい右往左往しているとのこと。ついでに飲み物も買いたいらしい。

「え? なんだ? なにを言ってんだ?」

 店主は英語が理解できないらしく困っていた。

 このまま帰るのもあれなので、困っている白人男性のために助け船を出した。僕も大して英語ができるわけではないが、飲み物の置き場と駅の場所を教えるくらいならできる。

 コーラを買った白人男性と店を出て、僕は駅までの道順を教えてやった。

「ゴーストレート、アンド、ビッグストリート。ユーウォークオンザブリッジ、アンド、ターンレフト……」

 結局通じなかったので駅まで案内することになった。

「ジャスト、ア、モーメント」

 僕は白人男性を待たせて、ひとりデモ男に近寄った。店主の友人であれば、この店の煙草について、なにか知っているかもしれないと思ったからだ。

「すみません、ちょっといいですか?」

 オレンジを片手に近寄ると、ひとりデモ男が「ふざけるな!」といきなり怒鳴った。

「煙草なんて吸いやがって! ふざけるな! 煙草は人を殺すんだ! 人殺し!」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

 ひとりデモ男は僕の胸ぐらをつかみ、前後に大きく揺すぶった。

「煙草を吸いやがって人殺しめ! 殺してやる! 人殺しめ!」

「どっちが!」

 ひとりデモ男は僕の手から無理矢理オレンジをもぎ取り、「煙草は人を殺す!」と、ひときわ大きな声で叫んだ。

 なにがなにやらわからず、「オー、クレイジー」と笑いながらカメラを構える白人男性を促し大慌てで逃げ出した。


 命からがら帰宅して、牛乳を飲み呼吸を整えた。

 気を取り直してパソコンに向かう。「オレンジ」についてもっと情報を得ようと考えた。「flying cigarette orange」と検索をかけ、空飛ぶ煙草の噂がないか探す。

 しかし、ネットでもSNSでも、オレンジが空を飛ぶという話は見つからなかった。

 やはり、イギリスのオレンジと、あの店のオレンジは全くの別物である可能性が高い。別物だからといって煙草が空を飛ぶのは妙だが、別物であることが、空を飛ぶことのヒントになっている気がしてならなかった。

 夕方、芽衣子からメッセージが届いた。無事に帰国し、頼んでおいたお土産を宅配便で我が家へ送ってくれるとのことだった。時差ボケがひどいらしい。お土産話が聞きたかったら一週間後に家へ来い、というので『そうするよ』と返事しておいた。

 荷物はその日の夜に届いた。中を見ると、ハンカチとオレンジのカートン、そしてマグカップが入っていた。

 僕は芽衣子に礼のメッセージを送り、早速オレンジを開けてみた。

 パッケージのデザインは、行田から預かっているものと変わりがない。一本くわえてみる。柑橘系の香りが鼻を抜ける。あの店のものよりも、香りが柔らかいように感じられた。

 ベランダに出て火をつける。軽く吸うと、煙は抵抗なく肺へ入った。口当たりも爽やかだ。試しにもう一度、今度は大きく息を吸ってみる。呼吸をしているのと変わらないくらい、煙は滑らかに気道を流れた。

 別の箱も開けてみて、ひと口ずつ吸ってみた。イギリス土産のオレンジはすべて同じ口当たりだった。

 体が喫煙者時代を思い出しただけかもしれない。僕は勇気を出して、行田から預かっているオレンジを一本くわえて、火をつけた。

「うっふ、うふっ」

 むせた。

 比較してみると、こっちのオレンジはかなりエグい味がする。確かに柑橘系のフレイバーはついているが、ミカンの皮をかじっているみたいで、全く爽やかさはない。

 イギリス土産のオレンジは、アロマオイルのレモンフレイバーを嗅いでいるような軽やかさがある。煙の量も少なく、これなら若い女性に人気があるというのも頷ける。

 僕は、あの店で売られているオレンジは正規品ではないと確信した。

 輸入しているというのも嘘だろう。イギリスの会社と直接やりとりしている個人商店の店主が、英語を理解できないわけがない。そもそも煙草嫌いの店主が、日本で入手困難な外国産の煙草をわざわざ輸入して販売するなどおかしな話だ。

 もしかすると、この不自然な煙草の輸入販売が、男が言っていた「スマートなやり方」なのかもしれない。

 その日の晩も、ベッドの中で物音を聞いた。

 リビングから聞こえてくる。強い好奇心にかられたが、恐怖がそれを凌駕した。できるだけ気にしないようにベッドで目を閉じ、眠りについた。

 翌朝確認すると、行田からもらったオレンジの残り本数が二本になっていた。ソファの下を覗くと、案の定そこに、半分ほど燃え尽きた吸い殻が転がっていた。

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