2-3

 八幡山駅付近にあるチェーンの定食屋で昼飯を食べてから行田と別れた。

 帰りに例の煙草屋の前へ行ってみると、ひとりデモの男はおらず、店にはカーテンがされていた。ドアには「休憩中」と書かれた貼り紙があった。

 雲が空を覆い始めた。辺りが灰を撒いたように薄暗くなった。

 雨が降るのだろうか。気分が落ち込む。どうしようもなくなる前に帰宅した。

 自転車のバッテリーをコンセントにつなぎ、僕はリビングのソファに腰を落とした。目の前がぼんやりとして、気力が湧かない。

 二時間近くぼぉっとした。

 ふと我に返り、行田から貰った炭酸水を開けてひと口飲む。気が抜けていて、抵抗なく飲めた。もうひと口飲む。

「このくらいのほうが飲みやすいな……」

 そのとき、ちょっとした疑問が脳裏をよぎった。俄に心が張りを取り戻す。

 と、スマホが鳴った。

 氷山芽衣子からの着信だった。電話ではなく、通話アプリが使われている。

「ハロー、神市、ハウアーユー?」

 音の輪郭がはっきりした英語で芽衣子が言う。不意打ちだったので笑ってしまった。

「ハロー、ファイン、サンキュー、アンドユー?」

「ちょっと気取らないで」

「芽衣子が始めたんじゃないか」

「ねぇ、私、今ヒースロー空港にいるのよ」

「ヒースロー空港? ロンドン?」

「そ。言わなかったっけ? 夏休みでロンドンへひとり旅に出てたの」

「ああ、なんか言ってたね、『自分探しの旅だ』とかって」

「ねぇ、神市聞いてよ。私の正体は、イギリス人だったのかも」

「自分を見失ってない?」

「違うの。なんだか、ロンドンがやけにしっくり来たのよ。故郷みたいな感じ。バッキンガム宮殿は、私の家なのかも」

「余計なことして捕まらないようにね」

 芽衣子が笑う。

「ところで、突然電話してきて、どうかしたの?」

 訊ねると、芽衣子がムッとしたように「ねぇ」と言った。

「お土産を買ってあげようと思ったの。十時のフライトまで三時間あるから、暇つぶしに免税店でなにか買おうと思って。なにか、欲しいものある?」

「あ、もう帰国するんだ? なるほど、それでヒースロー空港にいるんだね」

「はいはい名推理」

「お土産ね。どうもありがとう。じゃあ、ロンドンのマグカップをお願いしようか」

「もっとかさばらないものにできない?」

「じゃあ、ハンカチ」

「ハンカチ? 神市、ハンカチなんて持ち歩くの?」

「持ち歩くこともあるよ」

「ハンカチでいいのね?」

「ああ、うん……」

 言いかけ、ふと思い出した。

「あ、そうだ。あとひとつ買ってきて欲しいものがあるんだけどさ」

「ねぇ、神市、図々しいんじゃない? そもそもお土産なにがいい? って訊かれたら、芽衣子が無事に帰って来てくれればそれでいいよ、って言うのが、英国紳士ってものじゃない?」

「ごめんよ、俺はイギリス人じゃないんだ」

「で、なにが欲しいの?」

「『orange』っていう煙草」

「煙草? 神市、煙草はやめたんじゃないの?」

 今回行田から受けた遊びの依頼について説明した。

「……ふぅん。わかった。オレンジっていう煙草ね」

「そう」

「つまり、本場のオレンジと、輸入版のオレンジを、吸い比べようってことね?」

「そうそう名推理」

「初歩的なことよ、ホームズくん」

「ワトソンくん、出世したね」

「……黙れワンタン」

 ホームズとワトソンの言い間違えに気付いたのか、芽衣子は慌てたように電話を切った。

 僕はスマホをテーブルに置いた。

 炭酸水を飲む。

 昨日、オレンジを吸ったときにひどいヤニクラに襲われた。数年ぶりの喫煙だったのでただ単に体が驚いただけだと思ったが、吸った瞬間にガツンとくるあの感覚は、タールの量がかなり多い煙草を吸ったときに感じるそれだった。

 ネットの情報によれば、オレンジはイギリスの若い女性の間で人気のある銘柄とのことだ。

 オレンジのフレイバーがついているとはいえ、重い煙草が若い女性の間で人気になるだろうか。イギリス女性の煙草の好みがどのようなものかは知らないが、僕の感覚としてはそう思えなかった。

 もしかすると、輸入版のオレンジはオリジナル版とは異なる製造方法で作られているのかもしれない。そしてそのことが、今回の怪事件の謎を明らかにする、なんらかのヒントになってくれるのではないか。

 僕はショルダーバッグからオレンジを取り出し、ベランダに出た。

 生ぬるい空気が全身を膜のように覆う。

 一本口にくわえて火をつける。

「ごっふっ」

 テニスボールをぶつけられたような衝撃が胸を襲う。

 二、三回ふかして、煙草を空き缶に捨てる。室内に入り、オレンジの残り本数を確認した。

 五本だ。明日の朝には何本になっているだろう。

 その晩はネット記事の原稿をいくつか片付け、早めに床についた

 夢と現実の境目を行きつ戻りつふらふらしていると、雨が窓を叩く音に混じり、コツッコツッと固い音が聞こえてきた。甲虫が窓にぶつかるような音だった。

 妙だった。

 雨の中を虫が飛び回っているとは思えない。

 それに、そもそもその音は、リビングのほうから聞こえてくるのだ。

 寝室を出て、廊下の電気をつけた。

 リビングのドアは、真ん中がガラス張りになっている。僕はゆっくりドアに近づき、ガラス部分から中を覗いた。

「なんだあれ」

 思わず口走った。

 リビングの真ん中で、橙色の光が宙に浮いていた。豆電池ほどの大きさで、呼吸をするように光の度合いを強くしたり弱くしたりを繰り返している。

 常夜灯の消し忘れかと思ったが、それにしては灯りの位置が低すぎる。顔の高さほどの位置で揺れているのだ。

 ヘリコプターのようにふわふわ停止飛行していたかと思うと、素早く右にずれ、すぐにまた左方向へ細かく移動する。夜空でそれを見かければ、誰もがUFOだと叫ぶであろう不自然な動きをしていた。

 突然、光がこちら目がけて飛んできた。ガラスにカツンと当たり、その拍子に火花が散った。

 僕はそのとき、その光の正体を目で捉えた。

 それは、煙草だった。

 どういう理屈か知らないが、煙草が一本、先端を燃やしながら宙を舞っているのだ。

 息をするのを忘れ、トンボのように飛び回る煙草を眺めた。よほどドアを開けて中に入ろうかと思った。が、第六感が警鐘を鳴らし、右手がドアノブに延びるのを禁じた。

 全身を嫌な汗が流れる。

 再び煙草がガラス部分に突っ込んできた。コツンッと大きな音がする。

 身の危険を感じ、寝室へ逃げ込んだ。

 ドアを閉じて鍵を閉め、頭から布団を被った。なにか不吉なことが起こっているという予感が、それから数時間、僕に睡魔を寄せ付けようとしなかった。

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