第2話『スモーキング・キルズ』

2-1

 ギターの弾きすぎで左手の指先が痛くなった。タイピングができなくなっては飯の食い上げだ。僕はギターをスタンドに戻し、テレビをつけた。

 適当にチャンネルを回していると、昼のニュースが映った。見慣れた地名がテロップに出ている。

 興味を持ち、アナウンサーの言葉を聞くと、京王線八幡山はちまんやま駅付近の住宅街で殺人事件があったらしい。

 八幡山駅は僕のマンションから自転車で二十分程度の位置にある。

 そのエリアで殺人事件が起こるのは今月に入って二回目だった。

 一件目の事件が起きたのは八月の頭。ひとり暮らしをしている中年の男性会社員が夜中に自宅で鋭利なものを体に突き刺され殺された。現場には血のついた煙草の吸い殻が無数に落ちていた。吸い殻からは被害者男性のDNAしか検出されず、被害者男性が事件直前に吸っていたのだろうと推測された。

 今回起こった事件の被害者は四十代の女性。こちらもひとり暮らしで、悲鳴を聞いた隣人の通報で駆けつけた警察官が死体を発見したらしい。最初の事件と被害者の特徴は違うものの、現場に複数本、煙草の吸い殻が散らばっていた点や、鋭利なもので複数箇所突き刺されていたという点で、前回の事件と類似している。

『……警察は、先日起こった事件と同一犯によるものとみて捜査を続けています』

 現場からのレポートが終わりスタジオにカメラが戻ったところで、テレビを消した。

 嫌な気分だった。どちらの事件の被害者とも面識はなかったが、それにしても、自分の生活圏内で人が殺され、しかも犯人が捕まっていないというのは心安らぐ話ではない。

 不愉快な恐怖を感じつつ、台所へ行き牛乳を飲んだ。

 リビングのデスクに置いていたスマホが鳴った。気持ち駆け足でデスクへ向かう。スマホの画面には行田智春ぎょうだともはると表示されていた。

「はいよ」

「あ、神市か? 今、家にいるか?」

「うん。家にいる」

「今おれ、おまえの家の前にいるんだ」

「メリーさんか。家の前って、エントランス?」

「うん。あ、エントランス開いたわ」

 電話の向こうでカツカツとコンクリートを踏み鳴らす音が聞こえ、ガサガサと音がしたかと思うと電話は切れてしまった。どうやら別の住人がエントランスを開けたのに乗じて行田も一緒に入り込んでしまったらしい。

 不用心だ。

 少しすると、玄関のドアがガチャガチャ言った。それからすぐにチャイムが鳴る。

「順番が逆じゃないか」

 玄関を開けてやると、行田は白いTシャツの首元をパタパタと引っ張りながら、ずかずかとリビングに向かった。

 行田は「暑い暑い」と繰り返し、エアコンの吹き出し口の前で両手を挙げた。

「もう東京は人の住める街じゃねぇな。暑くて死にそうだよ」

 汗でオールバックが若干乱れている。

「今日は非番か?」

 僕は台所に入り、カウンター越しに声をかけた。

「非番じゃなきゃこんな格好でこんなところにいねぇだろ。夏休みだよ」

「牛乳でいいか?」

「麦茶はねぇのか」

「そんな洒落たものはないな」

「じゃあ牛乳でいいや。キンキンに冷えたやつ」

 僕は牛乳を二人分コップに注ぎ、リビングのテーブルに置いてやった。行田は両手でコップを持ち、一気に全部飲んだ。

「今日はどうしたんだ、急に」

 僕は牛乳をひと口飲んで訊ねた。行田はコップをテーブルに置くと、再びエアコンの下へ移動した。

「ちょっと、調べてもらいたいことがあるんだよ」

「なに? まさか事件の捜査じゃないだろうね。ダメダメ、俺は刑事事件については一切手を着けない主義だから」

「誰が素人に捜査依頼するんだよ」

「俺がやるのはあくまで、道楽。責任重大なことは承らない」

「ちげぇよ、遊び、遊びの依頼だよ」

 僕はソファの背後にあるデスクチェアに腰をかけて、「ほう」と前のめりになった。

「遊びの依頼なら、聞くよ」

「びっくりするぜ。なにしろ珍妙怪奇、不可思議千万な出来事なんだから」

 行田が「珍妙怪奇、不可思議千万」という言葉を使うのは、その言葉が、僕のブログのトップページに書かれている文言だからだ。この言葉を使うことで、僕の興味を引こうとしているのだろう。

「やけに自信満々じゃない。どんなこと?」

 行田はジーンズの右ポケットから煙草の箱を取り出した。

「室内は禁煙で頼むぜ」

「吸うわけじゃねぇよ。煙草なんだよ。煙草が妙なんだよ」

 行田が持っているのは、見慣れない銘柄の煙草だった。前屈みになってよく見ると、白いパッケージに「orange」と書かれており、その下に大きく「Government warning: Smoking Kills」とあった。外国の煙草らしい。

「これな、オレンジっていうイギリスの煙草なんだけど、妙なんだよ」

「味が?」

「ちげぇよ。吸ってねぇのに、本数が減るんだよ」

「は?」

「これ、見ろよ。何本残ってる?」

 行田が箱を開けて中を見せる。

「ひぃふぅみぃ……八本」

「びっくりするだろ?」

「なんで?」

「信じるか?」

「信じるも豚汁もないよ。説明してくれよ」

 詳しく聞くと、こういうことだった。

 夜寝る前に十本残っていたはずの煙草が、今朝見ると、なぜか八本になっていた。

 単純明快。

「知らないうちに吸ってたとかじゃないの?」

「ちげぇよ。そんな間抜けな話だったら、わざわざこのクソ暑い中こんなところまで来ねぇよ」

「数え間違いとか」

 行田は頑として認めなかった。

「そんなことは絶対にねぇ。それにな、似たようなことが、この間もあったんだ」

「いつ?」

「先々週くらいかな。そのときもオレンジだったんだけど、夜、十五本残っていたはずの煙草が、朝、十四本になってたんだ」

「そのときは疑問に思わなかったの?」

「そんときは酒飲んでたからさ。酔っ払ってたのかなって思ったんだけど、昨日は素面だったんだよ。数え間違えなんてあり得ねぇ」

 行田は細かいことは気にしない豪放磊落な男で、基本的にはどんぶり勘定、目分量、百の位まではすべて端数で片付けるような豪傑だった。

 そんな男が煙草の本数をしっかり把握しているのは妙だ。

「なんで言い切れるんだよ」

「だっておれ、今、節煙してるんだよ。本数を、一日五本までって決めてんだ。そうなると一日の終わりには、煙草の残り本数が、五の倍数になるはずだろ?」

「まぁ、理論上は」

「それにいつ吸うかとか、タイミングもしっかり固定してんだ。朝起きたとき、昼休憩、夕方休憩、風呂に入る前、晩飯後。それ以外は吸わない。それで、昨日、晩飯後に吸ったときには、確かに十本あったんだよ。そしたら今朝、どういうわけか八本になってた」

「今日はまだ一本も吸ってないってこと? もう昼だけど」

「この煙草は証拠の品でもあるからな。手を着けないほうがいいだろうってことで」

「なるほど」

「だからここ来る途中にそこのコンビニで新しく買って、一本吸った」

 行田は左ポケットからセブンスターを取り出した。

「本数減らしたいんだったら我慢しろよ」

「我慢は体に毒だろ」

 僕は行田からオレンジを受け取り、ざっと観察した。煙草に関する注意喚起が英語で書かれていることと、箱が日本の煙草よりも少々縦長であること以外、特に変わった様子はない。

「こんな煙草、どこに売ってるんだよ」

「家の近所の煙草屋だよ。一ヶ月くらい前に見つけて気に入ってさ。普段はセッター吸ってんだけど、たまにオレンジ吸ってんだ」

「なんでたまに、なんだ?」

「これ高ぇんだよ、ほかの煙草より。倍くらいの値段するからな」

「そういうことね」

「調べるか?」

 行田がソファの座面で膝立ちになり、背もたれから上半身を覗かせる形になって訊ねた。

 まだ行田の話が本当かどうか疑わしい部分はあったが、疑わしきは信じるというのがモットーだ。

「調べてみるよ。この煙草、ひと晩借りていいか?」

「ああ、いいよ」

 行田は嬉しそうにぴょんとソファから立ち上がった。僕はひとつ質問を付け加えた。

「ただ、ひとつだけはっきりさせておいて欲しいんだけど、本当に夜中、知らないうちに行田が吸ったってことはないんだよね?」

「ねぇよ」

「夢遊病でもない?」

「あるはずねぇだろ」

 行田は笑い、牛乳のおかわりを要求した。

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