1-6

 土曜日の夜、僕は紗英を再び芦花公園に呼び出した。

 紗英は二つ返事で誘いを受けてくれたが、彼氏が何か、僕に言いたいことがあるらしく、彼も一緒に来ることになってしまった。

 二十二時に、僕らは例の公衆便所前のベンチに集合した。

 紗英の彼氏は細身だが、体幹がしっかりしているように見えた。なにかスポーツをやっているか、ジム通いをしているのだろう。

「あなたが神市さんですか」

 僕を見るなり早歩きになり、高圧的な声で訊ねる。

「人の恋人にちょっかいをかけるのはやめてもらえませんか。迷惑しているんです」

「だから、今回のことは私から依頼したんだってば」

 紗英が後ろから言うが、彼氏は意に介さない。

「しかも変質者が出るって噂になってる芦花公園に呼び出すなんて、どうかしてるんじゃないですか。襲われたら、責任取れるんですか。もしかして、あなたがその変質者なんじゃないですか」

「ちょっと本当にやめて」

「紗英は黙ってろ。今回のことはおまえが悪いんだ」

「なんでよ」

「おまえがこの男に色目を使うから、勘違いされてんだ。例の変質者については俺が解決するって言っただろ」

「色目なんて使ってないよ、人を変態みたいに言わないで」

「まぁまぁ」

 いきり立っている彼氏を僕はなだめた。

「勘違いしてしまうのはわかりますけど、安心してください。僕と紗英さんは友達ですから。妙な気を起こすことはありません」

「ああ?」

 彼氏の目がギロリとこちらを向く。拳が強く握られている。紗英が彼氏の手首を掴んだ。

「いいから、とりあえず神市くんの話を聞いて」

 彼氏はまだなにか言おうとしていたが、僕は構わず口を開いた。

「今日は、毛玉小僧を実際に、呼び出そうと思っています」

「やっぱり変質者と知り合いってことか」

「いいえ、そういうわけではありません。先日紗英さんには説明しましたが、毛玉小僧は妖怪や幽霊である可能性が高いんです。僕は妖怪だと踏んでいますが……とにかく、妖怪には、ある特定の条件のもとにだけ出現するという類いのものがあります。満月の夜に現れる狼男のように」

 紗英が微かに笑う。僕は頷き、話を続けた。

「毛玉小僧の場合はその条件が、夜、芦花公園、男女というところまではわかっていたんです。しかし、夜の芦花公園をカップルが歩くことはわりとありますので、それにしては毛玉小僧の登場頻度が低い。そこで調べてみたところ、警察をやってる友人の話では、芦花公園で最近、わいせつ事件のようなものが起こっているらしいんです。そしてその被害者が毛玉小僧を見かけているということでした。毛玉小僧を見たという女性に話を聞いてみると、彼女もそのとき、不審者に追いかけ回されていたとのことです」

「なにが言いたいんだ」

 彼氏が苛々した調子で言う。僕は一呼吸を置いて、話を続けた。

「毛玉小僧を出現させる条件というのが、夜、芦花公園、男女、ではなかったということですね。夜、芦花公園、犯罪、ということです。つまり夜の芦花公園で犯罪、特に性犯罪が起こると、毛玉小僧が現れる」

「なに言ってんだ。バカバカしい」

 彼氏が鼻で笑う。

「妖怪? マジで言ってんの? だいたい、俺と紗英がその変質者見たときは、犯罪なんて起こってないんだけど?」

「ええ、僕も、ちょっとそのことが気になっていたんです。確かに、紗英さんとあなたが毛玉小僧を見たのは、夜の芦花公園でデートをしていたときです。もしかすると、知らないところで犯罪が起こっていた可能性もありますが、それにしても、毛玉小僧はあなたたちに体を向けていたというのですから、毛玉小僧の目当てがあなた方であるという可能性のほうが高い……」

 僕はそこまで言って、紗英を見た。紗英は気まずそうに俯いていた。彼氏の前でこれ以上説明するのはためらわれたが、ここまで話したからには最後まで話さなければならない。

 僕は口を開いた。

「先日、紗英さんから聞いたんです」

「なにを」

「紗英さんの、あなたに対する愛情がもう冷え切ってしまっていることを」

「は?」

「あなたへの愛情が冷え切ってしまっている状態で、お二人は芦花公園に来て、そこのベンチで、お喋りをした。お喋りをして、じゃれ合った。あなたは恋人同士のスキンシップのつもりだったかもしれません。が、紗英さんにとっては、性的な嫌がらせでしかなかった……」

「ちょっと待てよ!」

 彼氏が声を荒らげる。今にも飛びかかってきそうな剣幕だ。

「なに言ってんだ、愛情が冷めてるってどういうことだよ!」

 はっきりと言うのは余命宣告のような気がしてためらわれた。できれば紗英自身の口から告げてもらいたかった。

 そういう僕の心情を察したのか、毅然とした口ぶりで紗英が言った。

「もう、私、大地だいちのこと好きじゃないってこと」

「なに言ってんだよ。そんなわけないだろ」

「そんなわけないだろって、なに? 好きか嫌いかは私の感情なのに、どうして大地が言い切るの?」

「だって、好きじゃないわけないだろ」

 紗英がため息をつき、その息を利用するような形で言葉を続けた。

「だぁから、なんで大地がそう言い切れるの! 常に自分が正しいと思わないで!」

 それから紗英は、いかに大地が自分勝手で、独りよがりの傲慢人間であるかを、過去に起きた実例を並べながら説明した。説明と言っても理路整然としているわけではない。時系列はバラバラであるようだし、細かな描写は端折られていて、第三者が聞いてもなんのことかわからない話が多かった。

 しかし、大地はそのすべてに思い当たるところがあったらしく、紗英が言葉を継ぐごとに表情を歪め、目つきを険しくしていった。

「少しはさ、人の気持ちってのを考えたらどうなの?」

 紗英もかなり昂ぶっているようで、荒れ狂う憎悪をコントロールできなくなっている。これ以上二人の修羅場を放置していると、紗英が必要以上の罵詈雑言を大地に浴びせる可能性があった。

 そのような展開は好ましくない。

 僕は口を開こうとしている紗英を牽制するように、「まぁ、ちょっと」と割って入ろうとした。途端に大地が「何様のつもりだ!」と叫んだ。

 大地が紗英の肩を掴む。紗英は必死に「やめてよ!」と抵抗するが、大地の手は紗英の肩を離さない。

「ふざけんなよ!」

 今にも紗英を組み伏せてしまいそうな勢いだった。

「ちょ、やめなさいよ!」

 僕は慌てて大地の腕を掴んだ。大地の顔がこちらに向く。

「うるせぇ! だいたいおまえが……」

 そう言いかけ、「ああ!」と叫んだ。視線は僕の背後に向かっている。紗英も同じほうを見て、「いや!」と叫んだ。

 振り返ると、公衆便所の入り口の辺りに、毛玉小僧が立っていた。

 金縛りに遭ったかのように、体が動かなくなる。銃口を突きつけられているような、絶望的な恐怖が襲う。

 逃げなくては。

「出た出た!」

 紗英は尻餅をつき、涙を流していた。大地もへっぴり腰で、今すぐ逃げたい気持ちを、体面を守りたいという一心でこらえているようだった。

 毛玉小僧がゆっくり近づいて来る。

「こ、この変態が!」

 大地は僕の肩を突き飛ばすと、一直線に毛玉小僧の元へ行き、目にもとまらない速度で右ストレートをお見舞いした。そのフォームは素人のものではなかった。大地はボクシングかなにかをやっていたらしい。

 毛玉小僧はその場に崩れ落ちた。大地は馬乗りになり、何度も何度も拳を振り下ろした。

「警察に、突き出してやる!」

 鈍い音が何度も何度も繰り返されたが、鮮血は上がらなかった。血が出ないことを不思議に思ったのか、大地が肩で息をしながら殴るのをやめた。

 毛玉小僧の体は動かなかった。

「毛玉小僧は、悪い妖怪ではないと思うんです!」

 僕は大地の背中に言った。

「毛玉小僧は、むしろ、良い奴なんだと思います」

「どういうことだ」

「毛玉小僧は、公園内で強い恐怖心、または嫌悪感を抱いた人間を察知して、その人を救うために出現するものなんです。芦花公園では性犯罪が頻発していた。しかし、そのすべてが未遂で終わっている。紗英さんと大地さんのいちゃいちゃも、未遂で終わったでしょう。毛玉小僧が、自分が持つ妖力で見る者すべてを恐怖させ、性犯罪者を追っ払っていたからです。先日、ここで紗英さんと会ったとき、カナブンに怯えて暴れ出した紗英さんの肩を、僕は強く押さえた。そのとき紗英さんは、カナブンに対する恐怖心のあまり、『やだやだ!』と繰り返していた。紗英さんが去った後、僕が振り返ると、ちょうどあそこの木の脇に、毛玉小僧が現れていたんです。きっと、僕が紗英さんを襲っていると勘違いして、現れたんだと思います」

 僕が説明すると、紗英が起き上がり付け足した。

「確かに、大地と毛玉小僧を見たときも、私は最初、『やめて』って言って拒否したよね」

 大地が立ち上がり、自分の拳を見つめた。舌打ちをして、拳の持って行き場を探るように小さく数回腕を振った。

「ふざけんなよ」

 絞り出すように言う。

「なにが妖怪だよ。ふざけたこと言うなよ。そんなものがいるわけねぇだろ」

「後ろにいるじゃん!」

 紗英が食ってかかる。

 大地が鼻で笑う。

「妖怪が殴れるか……」

 そう言って振り返った瞬間、仰向けに倒れて動かなかった毛玉小僧の姿が青白く光った。だんだんと体が透けていく。やがて体の輪郭が歪み、形を崩しながら煙のように浮き上がった。

 青白い塊になった毛玉小僧の体は、そのまま夜空へ向かい、十メートルほどの高さで霧消した。

 大地は腰を抜かし、ガタガタと震えている。

 紗英が僕のそばへ寄ってきて訊ねる。

「毛玉小僧、死んじゃったの?」

 僕は見上げたまま、首を傾げるしかできなかった。

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