第7話 敦成(あつひら)親王の誕生
――空晴れて朝日さし出でたる心地す。平らかにおはします嬉しさの類も無きに、男にさへおはしましける喜び、いかがはなのめならむ。(「紫式部日記」より)
藤原道長さまのお邸、土御門殿には、彰子さまのご出産を前に大勢の殿上人が集まって来ている。
産室となった
「道長さまの権力の程を現わしているんですね」
思わず、わたしは言った。
でも、これって結構やかましいぞ。みな、これ見よがしに心配の声をあげたり、調子外れのお経を唱えたりしている。
なかでも、ちょっと気になるのは。
「彰子さまを心配していると云うより、ここぞとばかり道長さまにアピールをしている、みたいな方も見受けられますけど」
声高に経を唱えながら、わざとらしく道長の様子を伺っていたりしているのだ。
「まあ、それは仕方ないでしょう」
若紫ちゃんも困り顔で首を振る。どんな場所にも、権力への糸口を掴みたい輩は出没するものなのだ。しかも、こんな機会はめったに無いだろうし。
「皆様方。これよりは、邸の外で見守って頂きたく存ずる」
やはり騒々しかったのだろう。道長さまは祈祷の僧侶の他に少数の女房を残し、その他の者たちには屋敷を出て行かせた。
その態度は、ごく丁寧ではあるが、有無を言わせない迫力があった。さすがは藤原道長さまだけの事はある。
「わたしたちは残ってもいいんですか」
「ええ。この記念すべき日を記録に残すようにと、道長さまから申しつかっていますから。もちろん、みさきさまもですよ」
若紫ちゃんは筆と紙を取り出す。
なるほど。そういえば、わたしは若紫ちゃんの助手みたいなものだからな。……まあ、あくまでも自称だけどね。
そして、ついにその時が来た。
元気な泣き声が響いた。
「男の子に御座います!」
廂の間から、待ちに待った声があがったのだ。
わたしは若紫ちゃんと抱き合い、涙した。
☆
「よし、それでは仕事をしなくては」
顔を拭った若紫ちゃんは筆と紙を持って立ち上がった。なんだろう、「今のお気持ちは」とか聞いて回るのだろうか。
「いつの時代の話ですか。そんな表面的な事をいちいち訊いたりしません。みなさんの表情や行動を記録することで、そこに秘められた感情を汲み取り、書き留めるのです」
「そうでしたか」
いかん。迂闊なことを言ったら、若紫ちゃんに軽蔑されてしまいそうだ。
「ではわたしもお手伝いします」
――暁に顔づくりしたりけるを、泣きはれ、涙にところどころ濡れ損なわれて、あさましうその人となん見えざりし――
「みさきさま。わたしの事はいいですから。余計な事を書かないで下さい!」
いきなり若紫ちゃんに怒られてしまった。でも見たままを書いたんだけどな。化粧が落ちてちょっと誰か分からなく……。
「ひいっ、ご免なさい」
すごい殺意の籠った目だ。こんな若紫ちゃん、めったに見ないぞ。
「仕方ありません。これは
「あ、はい」
その小中将の君さんは、すっかり気が抜けた様子で、普段から仲の良い、頭の中将と顔を見合わせている。たしかにあの方も化粧が流れ落ちて、ひどいことになっているから、間違いではないのだが。
「結構、ワルですね。若紫さま」
――宰相の君の顔変わりし給へる様などこそ、いと珍らかに侍りしか。まして、いかなりけむ――
「わたしと同じ事を書いてるじゃないですか、若紫さま」
宰相の君さんも小中将の君さんと同じく、彰子さまの女房だ。
「いえいえ、よく読んで下さい。一応、自分もそうだろうけど……と自省の詞を書き足してるじゃないですか」
そうか。『まして、いかなりけむ』とは、ましてや自分は、という意味なのか。
でも。これって、若紫ちゃん自身のことを装っているけど。
「わたしの事じゃ、ないですよね」
「え?」
若紫ちゃんの目が泳ぎはじめた。
「え、えーと。じゃあ次、行きますよ」
誤魔化されてしまった。
☆
「おや」
わたしは気付いた。あの人がいない。
「どうしたんですか、みさきさま」
筆を止め、若紫ちゃんがわたしの方を振り向いた。
「普通、こういう場には父親がいるものではないんですか」
「道長さまなら、いらっしゃいましたけど」
いえ、彰子さまの父親じゃなく。
「ああ、皇子の父親。つまり陛下の事ですか」
「そうです、そうです」
ふむ、と若紫ちゃんは考え込んだ。どこから説明したものか、という雰囲気だ。
「あれ。わたし、また的外れな質問をしましたか?」
この点については、いつもうちの女房の三婆に罵倒されているので、ちょっと不安になる。
いや、そういう訳では……と口のなかで呟く若紫ちゃん。
「もちろん普通の貴族の家でしたら、出産に立ち会われますよ。ですが陛下の場合は、ちょっと事情が違ってくるんです」
「お仕事が忙しいから、とかですか」
そこは天皇だからな。
さらに若紫ちゃんは困った顔になった。どうも、そうではないらしい。
「お産は血の穢れを伴いますから。陛下はそういった穢れに近付いてはいけない事になっているんです」
神聖なものの代表だから、らしい。
「なるほど。思う所はありますけど、わかりました」
納得はできないが、この時代にはこの時代の考え方があるのだろう。
でも、何はともあれ安心した。
昨夜以来、東面に詰めていた女房たちも、泣きはらした顔のままで自分の局に返っていく。でも、すぐにまた誕生関連の儀式で忙しくなるらしい。
それまで、ちょっと一休みだ。
――昨日しをれ暮らし、今朝のほど秋霧におぼほれつる女房など、みな立ちあかれつつ休む――
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