第6話 道長と末摘花、親王の誕生を待つ
「あれは何ですか」
内裏の中庭沿いの廊下を歩いていたわたしは、その光景に足を止めた。
「菊の花に何か載ってますけど」
その一角はたくさんの菊が植えてあるのだが、その花を蔽うように真っ白いものが置いてある。
まるで雪が降ったみたいだ。
「ああ。あれは綿じゃ。明日は
先を歩く
「はあ」
たしかによく見れば綿に違いない。けれど。
「なんで菊の上に綿を」
「おや。そなたの時代には、こういう風習は無くなっておるのか。明日の朝、あれに降りた露で顔や身体を拭うのじゃ」
ほう、綿に菊の露を含ませるのか。まさに平安朝、風流なものだな。
「すると、どうなるのです」
わたしが問うと、源典侍さまは、にんまりと笑う。
「聞いて驚けよ。十年若返ると云われておるのだ」
「な、なんと!」
これは、わたしもすぐに、どこからか綿を探してきて、あそこに置かなくては。
「もう遅い。この辺りの菊は、すべて
あっはっはっ、と高笑いする源典侍さま。
「うーむ、上司ながら、なんて腹立たしい」
☆
「入りますぞ、道長どの」
どうやら執務室の中をうろうろと歩き回っていたらしい。藤原道長さまは立ったままでこちらを振り向いた。なんか、痩せたような気さえする。
「やれやれ」
源典侍さまは呆れ顔で、どっかりと部屋の真ん中へ座る。
「彰子さまのご出産が近づき、心配なのは分かるが、少し落ち着かれるがよいぞ」
「お、おお。これは失礼した。で、何の用かな」
源典侍さまの前に腰を下ろした道長さまは慌ただしく訊いた。
「彰子さまは現在、ご自宅の
「そうだ。明日か明後日には産まれそうなのだよ」
もう、あきらかに、気もそぞろな道長さまだ。
「おい。あれを」
と、わたしを振り返る。わたしは持たされた絵図を源典侍さまに手渡した。
「これは土御門邸の見取り図じゃ。この不細工娘に聞いたところでは、ここに
通例に倣い、邸の奥まった場所を、彰子さまが出産される場所としたのである。
その場所を確認し、道長さまは頷いた。
「ああ。だが、それが何か」
「今日より数日、この方角は星宿の巡りが悪い。よって場所を変えねばならぬ」
源典侍さまは安倍晴明さまに匹敵する陰陽師でもあるのだ。この当時、陰陽道はれっきとした科学とみなされているので、ちゃんとした教養のある貴族であれば、方角、つまりは
そのため、平安貴族は
「まあ、それは目当ての女の所へ行くための口実であったりするのだがな」
道長さまが、平安貴族の裏側をぶっちゃけている。
「最低ですね、こいつら」
「なるほど。それでは早速、彰子の居室を移さねばならんではないか」
道長さまは言い終える間もなく立ち上がると、執務室を飛び出して行こうとする。
「あの、お仕事はいいんですか?」
わたしが問うと、道長さまは一瞬足を止めた。
「愚かな。娘より大事な仕事など、有ろう筈がないではないか」
「娘よりも、ですか」
その瞬間、わたしの中に電流が走った。
「他の話はあとからじゃ、ではこれで失礼するぞ!」
道長さまは迷いなく出て行った。
「か、格好いい!」
わたしは、はじめて道長さまを尊敬した気がする。
でも源典侍さまは微妙な表情だ。
「あの。なにか」
ふっ、と苦笑する源典侍さま。
「娘ではなくその子供、はっきり言えば、将来の摂政の地位が、であろうがの」
冷ややかに言い放つ。
「そんな事はないです!」
「おおっ?」
わたしの勢いに源典侍さまは目を丸くしている。
「あれは、心から娘を思う親の顔でした!」
しばらく源典侍さまはわたしの顔を見ていたが、やがてぽりぽりと頭を掻いた。
「そうかのう。ま、そなたの言う通りかもしれん」
源典侍さまは、わたしの頭を撫でてくれた。
「これは妾が間違っていたかもしれんな。すまぬ」
やっと気付いた。わたしの頬には涙がすごい勢いで流れていたのだ。
「うええええん」
わたしは源典侍さまにすがって泣いていた。
「そうかそうか。そなた、前世でよほど辛い事があったのだな」
そうだ。わたしの両親は自然災害に巻き込まれ行方不明になった。そしていまだに見つかっていない。道長さまの一言をきっかけに、その思いが溢れだしたのだった。
どうやら、わたしはあの藤原道長に父性を感じていたらしい。
☆
彰子さまの陣痛が始まって、すでに丸一日が経過した。
「大丈夫なんでしょうか、彰子さま」
わたしは若紫ちゃんにすがりつく。でも、そうか。若紫ちゃんだって出産経験はないだろうし。
「わたしの時はこんなに時間は掛かりませんでしたから、心配です」
そうなんだ。
「ええっ」
若紫ちゃん、子供がいるの?
「もちろんいますよ。今は実家に預けていますけど」
「そ、そうなんだ」
あっち方面だけじゃなく、わたしとは人生経験が段違いだった。
「やむを得ん」
道長さまが祈祷を続ける僧の一人を呼び出した。中でも一番偉そうな人だ。
「彰子を出家させる」
その僧に道長さまが告げた。
「え、あの。ちょっと」
わたしは動転した。出家って、尼さんになるって事でしょ?
「これは仮に、という事だと思います。尼になれば在家よりも御仏の加護を強く受けられますから」
若紫ちゃんが解説してくれる。
「そういうものですか」
仏教の知識が無いわたしは、ただ茫然とするしかない。
痛みに苦しむ彰子さまの隣に座った坊さんは、手にした剃刀を彰子さまの髪に当てた。小さな音をたて、ひと房の髪を削ぎ落す。
「ああ」
見守る人々の間から声があがる。
加持祈祷の声は、更に一層大きくなった。
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