第5話

 二月。正雪の姿は長崎にあった。


 老中松平信綱により、長崎で明の滅亡と清の現状を聞くようにという指示を受けたためである。船を乗り継いで、九州に入り、そこから馬や駕籠を使い、半月ほどの道程で長崎に入る。


(まさか倒幕運動をも考えていた俺が、老中の紹介状をもって長崎奉行に会うことになろうとは…)


 運命というものは簡単に変わってしまうものだと正雪は痛感する。


 四日。出島近くにおいて、正雪は長崎奉行馬場利重ばば とししげと面会した。信綱の紹介状を渡すと、奉行から「明日の朝、再度お願いいたします」と依頼され、その日はそれだけで終わる。


 出島から海を見渡し、また、出島にいるオランダ船などを眺めた。当然のことながら目指す中国の姿は見えない。もちろん、正雪はある程度の地図の認識はしていた。自分がこれから向かおうとしている舞台がどれだけ大きいかということも理解している。



 翌日、改めて長崎奉行を訪ねると奉行は二人の男を連れてきた。一人の服装が明らかに異国風で、強い印象を受ける。


「由井殿。こちらは明からの使者黄宗羲こう そうぎの副使であった万其有まん しゆうと申す者で、もう一人は通訳の者である」


「由井正雪と申します」


 通訳からの話を聞くと、万の師匠である黄宗羲は明の大学者であり、儒教はもちろん、史学、地理、天文学に精通しているという。


「黄先生は、明のために手を尽くしたのですが、誰の手にも立て直すことができないくらい明は傾いておりました」


「どうして、そこまで傾いてしまったのだ?」


 これは素朴な疑問である。


 明と言えば、豊臣秀吉が日ノ本の力を結集しても全く太刀打ちできなかった相手である。それから50年という長い年月は経っているが、どうして滅亡してしまったのか、全く見当がつかない。


「清はそれほどまでに強いのか?」


 正雪の言葉を、通訳が万に話す。万は何やら首を左右に振っている。


「話すと長くなりますが、まず、明は自ら傾いたと言っていいでしょう。また、北京に攻め込んで崇禎帝すうていていを弑したのは清ではなく、李自成り じせいという男でございます」


「むむむ。確かに長くなりそうだな…。私は構わないが、先生はいかがか?」


「構いません」


「では、色々教えていただきたい」



 万の話によると、明は寛永かんえい二一年に北京の支配を失うことになった。そこに至るまでには清との抗争、また、日本の侵攻や海賊勢力による消耗、国内の政治争いによる消耗などの要素があったという。


「私は明の側にいる人間ではありますが、崇禎帝時代に至る少し前から、明が多くの人の支持を失っていたことは間違いありません。そこに出てきたのが李自成です」


 李自成というのは、輸送や通信に携わる仕事をしていた男であったらしい。しかし、崇禎帝が経費節減のため、これらの制度を廃止してしまい、それにより多数の失業者が出た。彼らの不満が高まり、李自成ら数人の人物が指導者となり、反乱を起こすことになったという。


(日ノ本も明も、失業者が不満を高めて、謀反を起こそうというのは同じということか。いや、日ノ本では武士以外の者は武器を持たないが、明はそうしたことはないから、明の方がよりそうした話は多いのかもしれないな)


「李自成という男は、中々によく出来た男でありました。多くの反乱というものは、自分達だけのことを考え、支配地の者に厳しく当たることが多かったのですが、李自成の軍はそうしたことがなく、民衆からも慕われておりました」


「ふむ。なるほど…。しかし、いくら傾いていると言っても、その李自成という男の軍に負けてしまうほど、明は弱かったのであろうか?」


 再度、秀吉の時代のことを思い起こす。秀吉は明に攻め込む前段階として朝鮮に攻め込んだが、その朝鮮でも苦戦していた。それほどの力がある明が一揆で滅亡したとは、どうにも思いにくい。


「そうではありません。明の軍は強かったのですが、これらは全て清との国境近くに展開していたのでございます」


「総力をあげて清と戦おうとしていたところに、一揆が起きたということか」


「左様でございます。都を守る兵士はなく、民衆は李自成についてしまいました。崇禎帝は誰も来ない中、絶望して自害したということです」


「そうすると北京の支配者は李自成ということになるな?」


「はい。しかし、ここで清の国境にいた明の軍が、仇討ちのために清と協力したのです」


「何?」


 正雪は驚いた。だが、落ち着いて考えると分かる話でもある。


「そうか。李自成というのは農民上がりの一揆のような男。明の武士としては、清の方が与しやすいと考えたわけか」


「少し違います。明は故郷を離れて清と対峙していましたので、自分達の故郷が攻め込まれたという事実に焦っていました。早く戻りたいという思いが先走り、清に譲歩することになったのです」


「その結果として、明と清が連合軍を組み、李自成を追い払い、明軍は清軍に協力を求めた関係から、支配を認めることになったわけか」


「その通りです」


「ふうむ…」


 正雪は頷くとともに、先行きの不安さも感じた。


(敵は明と清という大勢力の連合軍というではないか。こちらはその敗残軍の集まりと考えると、大坂の陣の真田のように厳しい戦いを強いられそうであるのう)

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