30 疑わしきは罰せよ!

 明日に備えるため、畑で働く皆の夕食は早めに終わった。


 手分けして後片付けし、皆が厨房から去るのを見送ったミューは、改めてソラリスと自分の食事を用意する。早く食べて眠れるようにサンドイッチでいいだろう。


 ちょうど作り終えたとき、館の裏手から馬と人の声が聞こえた。出来たばかりの食事を籠につめ、厩舎まで迎えに行く。角を曲がろうとした所で、馬丁に馬を任せたソラリスが王城へ同行していた副族長と別れて歩んでくるのが見えた。近くに来るのを待ってから、声をかける。


「おかえりなさい、ソル。お疲れ様」

「うわびっくりした嫁か! ありがとう、ただいま」


 角から現れたミューに驚いた声を上げたソラリスは、すぐに青い瞳を柔らかく細める。


「嫁じゃないでしょ……えっと、その、まだ」


 まだその辺りにいるだろう副族長が気になり小さな声で諫める。ソラリスの母、アステリアの弟である副族長は、表立って混血を蔑むこともなくミューにも礼儀正しいが、武人然とした彼には冗談が通じなそうで怖いのだ。


 ソラリス越しに覗った先に彼の姿はない。ほっとした途端に体が抱き寄せられる。


「よしその感じすごく好きだ大好き、今夜は一緒に寝ようそうしよう」

「またそういうこと言って、どうせ離れてた後はすぐ——んっ」


 途中で口を塞がれる。

 しばらく好きにされ、唇が離れた時にはもう、ミューは水色の頭を見下ろしていた。


「……入れ替わるのに」

「ならいいじゃん、一緒に寝ようぜ」


 けろりと色気なく言い放つ。さっきまでとの落差に肩が落ちた。


「……それでいいならいいけど。それにしても疲れ——疲れてるね、ソル」

「馬で帰ってきたからなぁ。汗もかいたし、悪いが先に風呂に入ってきてくれ。それから飯にしようぜ」


 手にした籠の中身を察したのか、嬉しそうに笑うソラリスに文句を言う気も失せる。


「お城はどうだった? お兄さん元気だった?」

「うん、元気だったよ。俺の方が義姉上たちに人気があってなんか寂しそうだったけど。兄上より俺の方が子守は上手いな。〈うち〉の義姉上なんか別れ際に『そらりすさまとけっこんする』ってしがみついて離してくれなくて大変だった」

「……ソルのお母さんもそこに居たんだよね? 何て言ってたの?」


 選出された〈兎〉の后はアステリアの遠縁だった。アステリアは彼女の教育係として、ソラリスと入れ違いに王宮へ上がっている。


 前王后が教育係として同族の后につくのはめずらしいことではないらしい。けれど、まるで自分を避けるように王宮に戻ることを選んだ母を、ソラリスはどう思うだろう。


 ミューの心配とは裏腹に、ソラリスは母親の決断に動揺を見せなかった。大丈夫かとおそるおそる尋ねたミューに、「薄情に聞こえるかもしれないけど」と前置きの上で、どこか困ったようにこう答えた。


「あの人が俺を『子ども』って思ってないように、俺もあの人のこと、『お母さん』って思ったことはないんだよな。産んでくれた人っていう、それだけで。だからって恨みもないし、生きやすいところで生きてくれればそれでいい」、と。


「真顔で『后が重婚を望んではなりません』って言ってたな、三歳児に。余計泣いてた、当たり前だけど」


 知り合いの一人のことのように話すソラリスに、安心するような寂しいような複雑な気持ちになる。早くちゃんと家族になりたいと思うのはこんな時だ。ソラリスがどんな反応をするか読めないので、口には出せないが。


 他にもとりとめのない話をしながら部屋に戻り、言われた通り浴室へ向かう。


 くたびれた体を任されるのは、彼が一人で出掛けた後の習慣だった。長時間離れていた後は『道』を作る力とやらが尽きるのか、歌ってもしばらく体が戻らないからだ。


 里に戻って二月ほどが経過し、里の空気が落ち着いたあたりのことだ。


 ソラリスは「そういや、戻ってる最中に物理的な距離を置いたらどうなるんだろう」と唐突に言い出した。歌をやっと完璧に歌えるようになり、また特訓の成果もあったのか、戻っていられる時間も四、五時間に伸びたからかもしれない。新たな挑戦をしてみたくなったのだろう。


 ちょうどその頃、王城で定例の評議会を開くことが決まった。


「いい機会だし、ちょっと一人で行ってみる。普通に入れ替わっても会議は終わって食事会になってる時間だし、大丈夫だろ。兄上にも言っとくから」


 それにしたって、重鎮の集う場でソラリスとしてそつなく振る舞えるかというとどうなのだ。入れ替わりのことを知る者は〈兎〉の中にはエファルとリカルドしかいない。評議会に同行するのは副族長だし、敵にはなれど助けにはならない。


 などと不安に震えながら待つこと半日。心配は杞憂に終わり、彼が里に戻るまでの間、体は入れ替わらなかった。


「物理的な距離が『道』に影響することはないわ。だから気の持ちようね、きっと」


 画期的な発見と思って報告したのに、シータの返答はそっけなかった。


 入れ替わりには、正しい歌の音程に加えて「今戻ったら大変なことになる」という不安や「遠くのものは頼れない」といった感情も影響するようだ。特訓という単語を聞いた時からうっすら感じてはいたが、いよいよ根性論みたいになってきた。


(まぁ、たしかにそれからも、ここぞという時は入れ替わらないもんな……根性なのかな、やっぱり)


 そうだとして、完全に戻れる日は来るのだろうか。根性の無さには自信があるのだが。


 そんなことを思いながら服を脱ぎ、体を洗って湯を使う。首の付け根にぴりっとしみるような痛みが走り、怪我でもしたのかと心配になる。

 気になって鏡を見れば、痛んだ箇所には小さな歯形がくっきりと刻まれていた。


「…………なにこれ?」


 動物のものではない。明らかに人間の、大きさからして小柄な者の歯形だ。

 いやしかし、なんでこんな際どい場所を噛まれ。噛まれた? どうして——誰に?

 混乱した頭の中に、ふと昼間のエミルの言葉が過ぎる。


 ——あれで押しにも弱いから、うっかり流されちゃったりして。


「——……っ!」


 唐突に至った結論に、服を着るのもそこそこに浴室を出る。ベッドに座るソラリスが読んでいた書類を乱暴に取り上げると、不思議そうにミューを見上げた。


「……? どうしたミュー、風呂場にでかい虫でも出たか?」


 あくまでのんきな彼に、冷え切った頭に血が上るという初めての感覚を知る。


(結婚しようとか、嫁とかさんざん言ってたくせに。……ソルは、私のなのに……!)


 皺の寄った書類を床に投げ捨てる。異変に気付いたソラリスが慌てた声を出した。


「どうしたんだ、ミュー。何が……っ⁉︎」


 細い肩を掴んでベッドに押し倒す。急に変わった体勢に声を詰まらせたソラリスの動きを、上に乗り上げることで封じる。


「おい、ほんとにどうした! なんで急にこんな——」


 焦ったように肩を押してくる手を逆に掴み、白いシーツに押し付ける。それと同時に唇を塞いだ。


「…………っ‼︎」


 乱暴な口付けに硬直した彼は、すぐに首を振ってミューから逃れようとする。その仕草が、今は無性に気に障った。

 どうせ自分の体だし、構うものかと感情のまま、抗う唇に歯を立てた。驚いたように肩が跳ね、掴んだ腕に力がこもる。


 しばらくして顔を離すと、怒りを湛えた琥珀色の目がミューを睨んでいるのが見えた。


「なに考えてるんだよお前……っ、いい加減にしろ! 自分の体に乱暴するな!」


 こんなに素直に怒りを表すソラリスは初めてだ。瞳の星が敵を見るように鋭く光ったのを見た途端、怒りが萎えて悲しくなった。


「だ、だって……こういうことをしてきたんでしょ⁉︎ だったら私とだって」

「………………は? ど、どこで、誰が?」

「ソルが! お城で! 誰か、わ、私の知らない女の子と……っ、だって首に……っ」


 言葉にしたら今度は泣きたくなってきた。

 ぐずぐずと鼻を鳴らすミューをぽかんと見上げたソラリスは、やがてミューの襟首を掴んで寝ている自分の方へ引き倒した。とっさに手をついて体を支える。


「うわっ、ちょ、ちょっと……!」


 抗議を無視して肌蹴た服の襟を開き、首元を確認した彼は、黙ったまま大きくため息をついた。


「……ソ、ソル…………? な、何か言っ、いたっ!」


 ちょうど歯形があった箇所に、ソラリスが噛み付いた。わざと痕を残すように強く歯を立てる。痺れるような痛みの後に、ぷはっと音を立てて口が離れた。


「な、なに⁉︎ 自分の体に乱暴するなってソルが今言って」

「おあいこだろおあいこ! それ! その首見てみろ今すぐに!」

「み、見ろっていっても自分じゃ見えな」

「——…………♪‼︎」


 雑な歌に、しばらくは入れ替わらないはずの体はすんなりと元に戻った。『入れ替わりは根性』の根拠がまた一つ増える。


 ミューが流した涙を乱暴に拭ったソラリスは、体を起こして首元をくつろげる。


「これで見えるだろ。どう思う、今つけた痕と比べて」

「…………ち、小さいです、だいぶ」

「どういうことだと思う」

「………………こ、こども……」

「そうだよ! しがみついてた義姉上に噛みつかれたんだよ! それだけ‼︎」


 怒鳴ったソラリスは、すぐに肩を落として眉尻を下げた。


「……俺はそんなに信用ないわけか? そっちの方まで?」

「だ、だって…………うぅ……っ、ご、ごめんなさい……」

「泣くなよ、なんか俺も泣きたくなってきたけど」

「ごめんなさい……」


 重くなった空気の中で、しばらく二人して落ち込む。


 十分ほど経っただろうか。

 ふう、と大きく息を吐いたソラリスは、俯くミューの背中を優しくたたいた。


「……外行くか。今日はあったかいし、作ってくれた飯、外で食おう」


 軽く言う声は、すでにいつもの彼のものだ。

 濡れた顔で見上げると、「そろそろ泣き止めよ」と困ったように手を差し出してくれる。


 繋いだ手の慣れた温もりに、ミューはやっと安心して涙を止めた。

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