8 王子の帰還とこれからの話

 エファルと、ほとんど彼女に引き摺られたリカルドが廊下の奥に消えてから、二人はやっと居室に入る。扉を閉めて、ミューは大きく息を吐いた。


「やっと部屋に戻ってこれた……長かった……」


 宮殿でミューが使うこの部屋は、ソラリスが元々使っていた居室だった。広さだけはあるものの、主人の部屋にしては調度の類も私物も極端に少ない。


 面白みのない室内をゆっくり見渡したソラリスは、それでも噛み締めるように呟いた。


「そうだな。ほんとにやっとだ」


 思わずといったようにこぼれた言葉にはっとする。


(そうだよね。ずっと食っちゃ寝してた私と違ってこの人は、たくさん苦労してここに戻ってきたんだ)


 窓ぎわに寄り、荒れた庭を懐かしそうに眺めるソラリスに、胸に浮かんだ言葉をそのまま告げる。


「お帰りなさい、ソラリス……様」


 目を丸くしたソラリスは、しばらくして意味を理解したらしい。

 ミューを振り向き、はにかむように小さく笑って「ただいま」と頷いた。


 窓から差し込む月明かりを背にして微笑む姿は、自分とは思えないほど美しかった。かつての母にも似て見えるほど。


 棒切れのようだった手足は細いまま、それでもしなやかな筋肉がつき、くびれた腰は百合の花のように優美な流線を描いている。水色の髪もつややかに磨かれ切り揃えられ、これならキスを飛ばし尻でも振れば喜ぶ男も多いだろう。いや、そんな小手先の誤魔化しが必要ないのは、昼間の舞台を思い出せば明らかだった。


「……ソラリス様は、私なんかの体になってもきれいなんだね」

「えぇ? お前が素材を殺しすぎなんだよ、ちょっと鍛えて筋肉つけて手入れしただけ。踊りはまあ、かなり扱かれたけど」


 カンナの指導を思い出したのだろう。眉を寄せて苦笑するソラリスに、ミューは違うと首を振る。


「私じゃそんな風にはなれないよ。十五年その体にいて、舞台にすら立てなかったんだもん。ソラリス様に才能があったんだよ、芸人の」

「そんなことないって」

「あるんだよ。……だからさ、ソラリス様」


 謙遜するソラリスに歩み寄り、勇気を出して駄目元で聞いてみる。


「だから、もういっそのこと、このままじゃだめかな? 交換ってことでひとつ」

「……? なんだって?」

「このままじゃだめ?」

「…………………………えぇ?」


 よっぽど意外だったのだろう。可愛らしく首を傾けたソラリスはそのまま動きを止めた。たっぷり三十秒は黙った後で、近くにあった卓を叩いて叫ぶ。


「……いやだめだろ! ほんとによっぽどだなお前⁉︎」

「え、えぇ? よっぽど?」


 びくりと肩を揺らしたミューに、ソラリスは心を落ち着かせるかのように大きく長く息を吐いた。顔を上げ、一転して優しい調子で語りかける。


「あのな、俺には俺の体でやるべきことがあるんだ。お前だってそうだろ。元に戻ってやりたいこととかあるだろ?」

「……そんなのないよ。あなたと違って私は無能だもん。役立たずで足手纏いの、雑用係のミューに戻るだけ。それならここで、あなたとして何もしないでいた方が幸せだし、役に立ってる気がする」

「弱小部族のただ飯ぐらいが何の役に立ってるんだよ。雑用係以下だろ」


 呆れを隠さないソラリスに、ミューもむきになる。


「少なくとも、私があなたでいる限り、お兄さんに歯向かったりしないで生かしておいてもらえるもん。リカルドもエファルもあなたを心配して、それを望んでくれてるし」

「……なに言ってるんだ、お前。わかってないのか?」


 怪訝に眉を寄せたソラリスは、そこでミューが思ってもみないことを言った。


「俺がを望んでる奴なんて、この世界のどこにも居ないぜ」


 当然のように告げられた言葉の意味がわからず、それでもその内容に、ミューの声は細くなる。


「……なんで? そんなわけ……」

「わからないならそれでいい。もう止めよう、こんな話がしたいわけじゃないんだ」


 哀れむような目をしたソラリスはしかし、一瞬でその感情を消した。

 仕切り直すように「とにかく」と両手を上げて宣言する。


「俺たちに元に戻らないなんて選択肢はない。さすがにそれを前提に動いてくれよ、よっぽどちゃん」

「よっぽどちゃんってなに……」


 馬鹿にされていることだけはありありとわかる呼称に肩が落ちる。


「私はミュスカ、ミューだよ。ソラリス様はよく知ってると思うけど」


 ミューにしては皮肉な物言いに、ソラリスは気を取り直したように笑った。


「俺はソラリスだ。身内はソルとも呼ぶな。深い仲だ、様はいらない。ソルって呼んでくれ、ミュー」

「え? う、うん……」


 初めて呼ばれた名前に、何故か心がむず痒くなる。というか深い仲ってなんだろう。まあ、裸は確実に見ているけれども。お互いに。


「で、直入に聞くけど、ミューはあの時どうして決闘に割り込んだんだ?」

「えっと……」


 問われてミューは、レムの『円の腕輪アーミラル』から黒い光が出てきたこと、迫る光から逃がそうと、とっさにソラリスを突き飛ばしたことを語る。


「黒い光……かぁ。俺にはそれは見えなかった。一座の皆からも、そういう説明はされてないな。……でも、何かに貫かれた感触は俺も覚えてる。とすると、やっぱり謎はその光と、光の源である腕輪か。原因が腕輪なら、兄上が何か知ってるのかもしれないが……」

「そんな感じはなかった……よ? お兄さんも、いきなり私が割り込んで倒れた、としか言ってなかったし」


 レムとのやり取りのどこまでを彼に明らかにすればいいのかわからなくて、中途半端な言い方になってしまう。


 ソラリスを悪い人とは思えないが、事実として、彼はレムに決闘を挑んでいる。レムはいまいち掴み所がないし腹の立つこともままあるけれど、少なくとも一年間、守ってもらった恩がある。レムが入れ替わりに気付いていると知ったソラリスがどういう行動を取るか読めない以上、余計なことは言わない方が良さそうだ。


 余計な手出しにより、ソラリスがまたレムに刃を向けるという展開は何よりも避けたい。さすがにそうなれば、レムは弟を許しはしないだろう。


(ソラリス……ソルには、今もまだ、野心があるのかな。どうしてお兄さんに挑んでまで、王様になりたいんだろう。命をかけてまで)


 考え込んだソラリスをそっと盗み見る。心の底の思惑は見えなくても、ソラリスの瞳の星は美しい。理由は自分でもわからない。けれどミューはどうしても、この星が砕かれるのは嫌だった。たとえ、彼にその覚悟があったとしても。


「兄上の言葉を信じるべきか、疑うべきなのか……。腕輪を調べてみたいな。もう一度光にやられれば戻れるかもしれないし」

「えぇーそれは怖い……し、お兄さん、今は旅行に行ってて留守だよ。腕輪もつけていってるんじゃない?」

「は? 旅行? 自分のための祭典の最中なのに?」

「顔出しの出番は少ないから大丈夫って言ってた」

「自由すぎるだろ。不用心なところは変わらないな、昔から」


 顔をしかめて言う様はどこかレムを案じているようにも見えて、ミューはますます困惑する。殺そうとまでしていたくせに、どういう気持ちなのだろう。


「ま、文句を言っても居ないものは仕方ないな。しばらくはミューとあれこれ試してみるしかないか。一緒に過ごせば帰巣本能的に元に戻るかもしれないし」

「帰巣本能……?」


 一気に適当な感じになった。


「とりあえず寝ていい? さすがに舞台は緊張したしベタベタ触ってきたオヤジはいるし疲れてるんだ実は」


 大きく伸びをしたソラリスは、そうと決まればとばかりに無駄に広いベッドに潜り込む。と、図ったように扉が破られた。


「おい夜食だぞ! ……って何でソルのベッドで寝てんだ混血女!」

「ぐうぐう」

「てめぇ絶対起きてるだろ出ろ! 出ていけ! くっそこいつ見た目より重いぞエファル助けろ!」

「リカルド君がへなちょこなんですよ〜、まったくうるさいなぁ夜なのに」


 すったもんだの末、ソラリスには別の寝室があてがわれることになり、ミューはようやく長く騒がしい一日を終えた。

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