一章 『歌姫』と王子——1年前

1 星を持つ王子

 美しい丸型に剪定された木の根本に蹲り、地面をじっと見つめて、ミューは思った。


(どうしよう吐きそう、たぶん吐く絶対吐く、このままじゃ舞台の上で盛大に吐く!)


 そうしたらどうなるだろう。

 〈七部族〉の族長や妃、そしてよもや王室の姫や王子や王の目の前で、歌うどころか盛大に吐き戻す、舞台上の歌姫——もどき。


 斬首刑、絞首刑、それとも磔、引き回し……。


 ありとあらゆる最悪な結末を予想したミューの胃は、ギリリと絞り上げられたように痛みを増した。吐き気もますます強くなる。


 ——そもそも。悪夢のような現実から目をそらし、ミューは考える。


 そもそも、生まれてこのかた十五年、雑用及び裏方としてのみ一座に貢献していたミューが、舞台に上がることからして間違いなのだ。しかも、半年前に亡くなった母と同じ、『歌姫』として。さらに悪いことに、母の死を知らないまま招かれた、王子の立太子式という晴れやかに過ぎる舞台でなんて!


「はああぁあぁ………」


 細く長く、これ以上胃を刺激しないように慎重に、けれど精一杯大きくため息をつく。そのはずみで、太い幹についた自分の手首にぶら下がった幾つもの腕輪が、しゃらりと涼やかな音を立てた。


(お母さんの衣装だって……私には、少しも似合っていないのに)


 赤、青、黄色の艶やかな布地の上に白い薄布を重ねた鮮やかな衣装。花形である母には決して出し惜しみしなかった『コラクス』の座長、カンナが仕入れた金や銀の腕輪や足輪、玉の大きな耳飾りに、首飾り。母が纏っていた時にはあんなに軽やかにきらめいていたというのに、ミューの身に置かれた今となっては、すべてがただただ重いばかりだ。


 装いを母に似せても——いや、似せたからこそ余計に、痩せて手足ばかりが長い自分の貧相さが際立つ気がして、ミューはいっそうみじめな気持ちでしょぼくれる。伸ばしっぱなしの長い髪が、地面に触れて情けなく曲がった。その色は、〈オルニス〉の部族に稀に見られる水色だ。けれど、金色にも見える琥珀色の瞳は〈鳥〉の特徴としてありえない。どの部族ともつかない色合わせは、ミューが〈混血民〉である証明だった。


 旅芸人の父と母のもと、一座に生まれ育ったミューは、その生い立ちとは裏腹に舞台に立ったことがない。理由は単純。人様に見せるような芸がないからだ。


 踊れば転ぶ、歌っても声が小さくて聞こえない。そもそも人目に触れるのが大嫌いな上がり症。可憐さと色気を備え、常に明るかった母から産まれたことが信じられないほどに、うじうじとした内向的な性格。平たく言えば、まるきり芸人に向いていないのだ。


 ミューの所属する一座、『コラクス』は、座長のカンナを筆頭に全員が混血で構成されている。そもそも、一座と呼ばれる旅芸人のほとんどは、家を持たない混血民だ。


 普段は白い目で見られるばかりの混血民が、堂々と光を浴びて賞賛される唯一の場所は、舞台の上だ。逆に言えば、舞台上で無様な姿を見せることは、芸を売る者として最悪の出来事だった。


(それなのに、なんでカンナは、私にお母さんの跡を継げなんて言ったんだろう……)


 恥をかくことなどわかりきっているというのに、歌姫の不在を隠してまで、なんでミューを舞台に立たせたいのだろう。恥、だけですむ保証すら、ないのに。


(やっぱり、私が邪魔なのかな。お母さんが居ないんじゃ私を置いとく意味なんてないし、遠回しな厄介払いかも……カンナとお母さん、昔お父さんを取り合ったとかで仲悪かったし、『稼げるからクビにしないだけよ』とか口癖みたいにお母さんに言ってたし……)


 目の前の問題から目を背けた代償として更に鬱々と沈み込んだミューに、妙に明るい調子の男の声がかけられたのはその時だった。


「おーい、お前、そこの木の根っこにいる女子らしき人! 大丈夫か、生きてるか?」

「え……っ⁉︎ あ、あの……、うわっ⁉︎」


 死角から現れた声の主は、返事を待たずにミューを横抱きに抱き上げた。

 混乱のまま上向いた視線が、抱き上げた人物のそれと交わる。


(青空に……星……?)


 驚きを一瞬忘れ、交わった瞳の色にぽかんと見入る。

 その色は、彼の顔越しに見える今日の空のように、突き抜けて青かった。


 目尻の吊った瞳はくっきりとして大きく、だからだろうか。それ自体が光を湛えているように、きらきらと眩しく光る。まるで、夜空に瞬く一番星のように。


 瞳の色の不思議さに、黙ったまましばし見とれる。そんなミューを怪訝に思ったのだろう。瞳の持ち主である彼はぱちりと瞬いた後、心配そうに眉を寄せた。


「やっぱり顔色悪いぞ、お前。ずっと固まってるからどうしたのかと思ってたんだ。その格好からして、今日の式典に招かれた芸人だよな。医者のとこ連れて行ってやろうか?」

「え? い、いやあのえっと……⁉︎」


 ぽんぽんと投げかけられる言葉に我に返ると同時、抱き上げられていること、目の前の彼が若い男であることにも気付き、慌ててじたばたと身動ぎをする。


「だ、大丈夫っ! だから、おろして!」

「っと、暴れるなよ、落ちるぞ」

「だ、だから、落ちる! じゃなくて降りる!」

「遠慮するなよ。運んでやるからつかまってろよ」


 彼は、突っぱっていたミューの腕を、器用に自分の首に回させようとする。柔らかい髪がふわりと頬に触れた瞬間、なぜだか鼓動が跳ね上がり、ミューはとっさに自分でも驚くほどの大声を出していた。


「お、降りるって言ってる! 降ろしてよ!」

「……そうか? まあ、平気ならいいけどさ」


 納得いかないような声を出しつつも、彼はミューを地面へ戻した。

 肩を上下に揺らしたミューは、乱れた息が整う頃になってから、恐る恐る顔を上げる。


「あ、あの……ごめんね?」

「ん? 何が?」

「えっと……、気にかけてくれたのに、感じ悪くて」

「あぁ、それは別に。死んだみたいに動かないから心配したけど、でかい声出せるくらい元気ならよかったよ」


 ミューの肩を優しく叩き、屈託なく笑う。


 その時、ミューは初めて、目の前の彼が思ったよりも更に若い、同じ年頃の少年であることに気がついた。毛先の跳ねた髪が白兎のように真っ白なことにも、ざっくばらんな態度に反して中性的な、ずいぶんと美しい顔をしていることにも——そして、纏う上衣が、金糸で刺繍の入った、とんでもなく上等な絹であったことにも。


(もしかして、この人は——)


 思い当たった彼の身分に、ざっと顔から血の気が引く。


 一目で芸人と——混血民と分かるミューを気にかけてくれたのだから、てっきり同業者だろうと思っていた。けれど、王宮内でこの装い。これはまさかのまさかでは——。


「——王子! ソラリス王子! どこにいらっしゃいます、王子!」


 体をこわばらせたミューの予想を肯定するように、遠くから呼び声がする。

 面倒そうに頭をかいた少年は、徐々に近づいて来る声に答えるように踵を返した。


「あ、ああああの……し、知らぬこととはいえと、ととと、とんだご無礼を……」

「あ、そうだ」


 がちがちに固まったミューの謝罪を遮って、振り返った彼はのんきにたずねる。


「お前、何が得意なんだ? その装いなら、踊りか?」

「えっ……? ええええっと、う、歌……を……」


 とっさにそう答えてしまったミューに、彼は思いがけない頼み事をした。


「じゃあ、歌ってくれよ。心配料ってことで」

「へ……?」


 ぽかんと口を開く。そこでまた彼を呼ぶ声が響いた。さっきより近い。


「——どこにいやがるんだ、王子、ソラリス、ソル! 早く出て来いぶん殴るぞ!」

「ほら、うるさいのが来るまえに! 早く! 急いで!」

「はっ、はいっ⁉︎」


 急かされて、よくわからないままに口を開く。混乱したミューがとっさに紡いだのは、一応は練習していた流行りの歌の数々ではなく、記憶に馴染んだ母の旋律だった。


「——…………♪」


 歌詞のない、短いそれを夢中で歌い終えたミューは、そこではっと気が付いた。


(う、歌って……言えないよね、こんなの……)


 ミューにとっては大事な歌だが、歌詞もない地味な曲を、他でもない王子様が望んだとは思えない。


 叱責を覚悟して目をつむったミューはしかし、パチパチパチ、と響いた音に驚いて顔を上げる。そこには、綻ぶ花のように微笑む王子様がいた。


「何だよ、よく伸びるいい声してるじゃないか。ぼそぼそ小さい喋り声とは雲泥の差だ」


 褒めているのかけなしているのかわからない発言だが、声は素直に感嘆していた。


「なんだか元気が出るような気がする、不思議な歌だな。……一か八かの大舞台だし、ちょっとばかり緊張もしていたんだが、おかげでちゃんと頑張れそうだ。ありがとな!」


 最後に一際大きく笑った彼は、今度はもう振り返らずに、怒声を通り越して罵声になりつつある呼び声の方へ小走りに去っていった。


 取り残され、彼の去った方向を見つめて佇んでいたミューは、しばらくした後でようやく一連の出来事と彼の言葉を理解した。そしてぽつりとこう呟く。


「……歌を歌ってお母さん以外に褒められたの、初めてだ」


 声に出してみると、ふつふつと嬉しさがこみ上げた。そして気付く。さっきまでの震えるほどの胃痛と吐き気が、すっかり収まっていることに。


「……そうだよね、大丈夫。大丈夫だよね、お母さん。おめでたい席だもん、失敗しても命までは取られないよね」


 ミューにしては前向きな発言は、今しがた歌った歌のおかげか、出会った彼のおかげだろうか。何にせよ、胸にほのかな熱が灯ったことはたしかだ。


 よし、と覚悟を決めて、ミューは仲間の控える部屋に戻った。

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