第9話「突然いなくなる」


父「一緒の部屋だった小笠原さんが突然、仕事を辞めるって、言い出したんだよ」


娘「何かあったの? 実家で親が倒れたとか?」

父「いゃ、俺と一緒の生活が嫌だから辞めるって……」

娘「お父さん、何かしたの?」

父「何もしてないよ。それでさ、契約期間が、あと1ヶ月くらいで終わるから契約が終わるまでいたらって言ったんだよ。慰労金ももらえるからね」

娘「うん、そうしたら?」


父「それが、すぐに辞めたいようなので寮の管理人さんと相談したんだ」


娘「うん、いい判断じゃない?」

父「それで、空いてる部屋が有るから、部屋を移って契約期間まで居るってことになったんだよ」

娘「そうだね、お父さんと一緒の部屋が嫌だから辞めるなら、別の部屋ならいいよね」


父「別の部屋と言っても、一人部屋じゃないけどね。部屋には一人いるから、やっぱり相部屋なんだ」


娘「それは、しかたないんじゃない? 寮の部屋ってお金かかるの?」

父「いゃ、タダ。会社が全部持ってくれた。電気代も水道代もなし! 飯代はさすがにかかるけどね」

娘「へ〜〜っ、いいね。お給料もいいんでしょう?」

父「けっこういいよ。余裕で暮らせたもんね」

娘「あたしも行くかな?」

父「やめといたほうがいいよ。知らない人と一緒に暮らすんだから、いろいろ問題が起きるよ」

娘「そっか、面白そうだけどね……」

父「今思えば面白いけど。その時は、そんなに面白くはないよ……」

娘「それで、小笠原さんは別の部屋に移ったの?」


父「それがね、次の日に会社の人事に直接『辞めたい』って言って、いきなり会社を辞めちゃったんだよ」


娘「え〜〜っ、なんで? 契約期間まで居ることになったんでしょ!?」


父「そうなんだけどね……結局、本当の理由っていうのは、隣の部屋の坂本さんが恐かったんだ」


娘「お父さんが原因じゃないの?」

父「坂本さんが怖いから辞めるって言ったら、また坂本さんに怒鳴られるかもしれないから、俺と一緒にいるのが嫌だって理由にしたらしいんだ」

娘「本人がそう言ったの?」

父「そうだよ、寮から出て行く時にね」

娘「お父さんのせいにしなくてもいいのにね」

父「俺なら怒らないと思ったんだろう……他にも、坂本さんともめて、すぐに寮からいなくなったおじさんもいたんだ……」


娘「すぐに辞める人って多いの?」


父「自動車工場は辞める人は多いけどね……そのおじさんは自分でラーメン屋さんをやっていたんだけど上手くいかなくて、店は休みにして働きに来たと言っていた。坂本さんが寮に来てしばらくすると廊下でケンカしてたんだよ」

娘「殴りあってたの?」

父「いゃ、手はだしてないけど、怒鳴り合ってたから周りの部屋の人はいっぱい見ていた。坂本さんがトイレに入っているのに、そのおじさんがトイレの電気を消したらしいんだ。坂本さんは30分くらいトイレに入っているからね」


娘「そんなことで怒鳴るの?」

父「そうなんだ。そのおじさんは前にも坂本さんがトイレに入っている時に電気を消したらしくて、二度目なので頭にきたらしい」

娘「坂本さんはトイレの個室に入っていたんでしょう? よく誰が電気を消したかなんてわかったわね」

父「そのおじさんは、よく独り言を言う人だからオシッコをしながら独り言を言ってたみたいなんだ」

娘「なるほどね。それで、どうなったの、ラーメン屋さんが上手くいかなかった人は?」


父「怒鳴り合った、次の日にいなくなった」


娘「うぁっ、凄いね、夜逃げ?」

父「夜逃げみたいなもんだね。そのまま居たら○されると思ったんじゃないかな? それくらい迫力があるんだ。あれは、あれで凄い才能だよ!」


娘「才能なの?」


父「戦争中なら、あの人は出世したと思うよ。昔なら理想の軍人だね。現代ではまずい性格だろうけど……」


娘「あたしは、会いたくない……」

父「小笠原さんも坂本さんに怒鳴られてから行動がおかしくなったんだ」

娘「どんなふうに?」

父「まず、部屋のカギを閉めるようになったね。それまでは仕事に行く時にしか部屋のカギは掛けなかったんだけど、怒鳴られてからは常にカギを閉めるようになった。俺がトイレに行ってるだけなのに部屋のカギを閉めるんだ。トイレは共用で廊下の先にあったんだけどオシッコして戻るのに5分程度なのにカギを閉めちゃうんだ」


娘「よっぽど怖かったんだね」


父「それでね、カギをゆっくり閉めるんだけど、最後に“カチャ”って言う音がするんだ。その音を異様に怖がってた」

娘「なんで?」


父「その、カギが閉まる音で、また坂本さんが怒鳴りに来るんじゃないかって思っていたらしい」

娘「そんなにうるさい人なの?」

父「いゃ、いゃ、そんなことないんだ、坂本さんの部屋で話してた時も上の部屋(3階)の人が2段ベッドからドン! と降りた音がしたけど別に怒りもしないんだ」


娘「それほど怖い人でもないの?」


父「いゃ、怖い人だったよ。でも、この人も普段は笑っているんだ」

娘「ニコニコしてる人は実は怖い人?」

父「ニコニコしていても、いろんな人がいるっていうことかな?」

娘「お父さんと一緒の部屋の小笠原さんもニコニコしていたんでしょ?」

父「うん、そうだよ。でも、テレビの音とか大きかったし、隣の部屋との境い目にタンスと机があったんだけど、そこに荷物をドン! と置くのは日常だったね。それと夜中にトイレに行く時もドアをドン! と閉めて、よく起こされたよ。それが坂本さんに怒鳴られてからはピタッと無くなって、ドアは静かに閉めるし、テレビもイヤホンで聞いていた。一人でね……」


娘「そういう怖い人も必要なのかな?」


父「どうかな? 戦争で負けるまでは、そういうカミナリ親父みたいなタイプの人も多くて、周りも歓迎するような風潮はあったようだけどね……」

娘「現代ではまずいんじゃない?」


父「そうだね。直接、怒鳴るんじゃなくて、何かあれば、寮の管理人さんに相談して、苦情を言ってもらうくらいが良かったんじゃないかな? 現代では……」

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