第5話 窮地からの救援
このままでは男に未来がないだろうということはすぐにわかる。男は頭から血を流し、青ざめた顔をしていて、逃げようにも恐怖で動けない状況である。
「っ……おいっ! こっちだ!」
ノアは物陰から出て、落ちていた石を拾って異形の手へ投げつけた。
的が大きいだけあって、コントロール力が低くても、その石はしっかりと的を射る。たいしたダメージではないが、異形の手に開かれた数多くの眼がノアを写した。
何度も石を投げつけて、自分へと注意を引かせる。異形の手が完全にノアの方へと向きを変えた。
「おじさん! 今のうちに逃げて!」
異形の手がゆっくりとノアの方へ近づいてくる。それを確認しつつ、一定の距離を保つように離れる。
男が弱い声でノアに「お前はどうするんだ」と言っていたが、ノアはそれに応える余裕はなかった。
今はただ、男を助けて自分も逃げなくては。それだけの考えでノアは異形の手の注意を引き続けて、移動する。
両手で抱えていた石がなくなったころには、噴水広場から離れることができ、人がほとんどいない高台近くまでうつることができた。
「はあ、はあ……」
これ以上どこにも行くこともできない。隠れる場所もなければ、戦う術もないノアに勝ち目などない。
人命救助に必死になりすぎていて、この後のことなど考えてもいなかった。
肩で息をしながら、追ってくる異形の手の方へ振り返る。
ぎょろぎょろと気持ち悪い目がノアを見つめていた。
一度足を止めてしまったその刹那。
異形の手からするすると黒い小さな手を模した影が伸び、ノアに襲い掛かる。
本能に従って腕で身を守るように防御態勢を取る。
ノアを捉えるべく伸び、繰り出された攻撃。小さな手であっても、数が多すぎる。一つ一つの力は弱いが、集まれば威力が増す。
ノアの体は攻撃を受け止めることができず、軽々と飛ばされた。
「うぐっ……」
高台に建つ家は一件のみ。デシベルの家だ。
その壁に思いっきり背中を打ち付け、呼吸すらままならない。
逃げなくてはならない。そう思って立ち上がろうとするも、うまく力が入らずへなへなと地面に戻される。
じわじわと近づいてくる異形の姿。繰り出される二度目の攻撃前に、ノアは死を覚悟し、目をつむった。
「貴様、何をしている」
いくらたっても痛みも衝撃も襲ってこなかったため、恐る恐る瞳を開けると、目の前に真っ赤な姿があった。
圧のある低い声。どこかで聞いたことある声に、顔を上げる。
真っ赤な髪が風に揺られ、隙間から覗く鋭い目がノアを見る。
ノアがパイシースに来て早々に、ぶつかってしまったあの男だ。
彼が握る、炎が燃え盛る剣で、異形から放たれた攻撃を軽々と切り落としたようだった。
「ふん。雑魚の一撃でその体たらく。無様なものだ」
地に落ちた異形の欠片は、彼の炎によって焼き尽くされていく。
「誰だよ、あんた……」
ノアの問いに男は異形を見つめたまま答えない。
「死にたくなければそこを動くな、チビ。俺の後ろにいる限りは、命を保証する」
そう言って、男は剣をかまえて大地を蹴る。
異形に急接近し、燃える剣で一振り。あっさりとその姿は真っ二つになる。それで終わればよかったものの、そう簡単にはいかない。
切られた異形はそれぞれが自立し、男の前でぎょろぎょろと目を動かす。
「気持ち悪い雑魚が。とっとと失せろ」
男の炎が異形を包み込む。
熱波が男を通り越して、ノアの方までやってきて、顔を手で覆う。
隙間から男の背中を見た。
炎にものともせず、まっすぐ立つ姿。頼りがいがあって、たくましくて、かっこよく見え、ノアは目を輝かせた。
「ちっ……こいつもハズレか」
燃えた異形に対し大きな舌打ちをして、男は剣を鞘にしまい、ノアの方を見たとき。
「あんた、後ろ!」
「は――」
戦いは終わったと思っていた。だが、終わってなどいなかった。
炎をまとった異形の手が男の背後に忍び寄り、男を鷲掴みにしたのだ。そのまま男を投げ飛ばした。その際、鞘から抜け落ちた剣が炎をまとったまま地に落ちる。
男の姿は離れた家屋の残骸の中に消えていった。
ノアは立ち上がり、男の元へ向かおうとするも、異形がノアの前に立ちふさがる。
戦う術もないノアは、またしても何もできず、その場で後ずさりするしかない。
「どうしよ……」
異形の眼に、ノアの額には脂汗がにじむ。
戦うことも、逃げることもできない状況。自分の無力さ痛感させられる。
分裂した異形の一つは男の方へ向かって行くのを横目に、ノアは窮地に立たされる。
何もできないノアへ向けて、炎をまとった異形の手が伸びる。
「ぎゃう!」
ノアと異形の間に、何かが飛び込んだためにあと数センチでノアの首が捕まるという距離まで迫ったが、ノアを捉えることは叶わなかった。
すぐさま異形は第二の攻撃として、早いが細い手が伸びる。それを再び別の何かが飛び込み、ノアはまたしても救われた。
攻撃が止まり、ノアがやっと間に入ったものが何だったのかを確認することができた。
一つは黒い狼。
艶のある美しい毛並みに、鋭い牙と爪を持った獣だった。
最初の攻撃を塞いだのが、この獣。牙をむき出しにして異形を睨みつけている。
もう一つは、色の異なる白い狼。
二度目の攻撃を防いだのがこちらの方だ。
どちらもノアの知る狼とは様子が異なる。整った毛並みも、その色合いも野生の狼とは思えないからだ。
思わず見とれてしまったが、すぐに狼に対する恐怖心が生まれた。
「ぐるるるる……」
低く唸る二匹の敵意は異形へ向けられている。
突然の獣に焦ったノアだったが、敵ではないのだとわかった途端に心強くなる。
これなら男の元へ行けるかもしれない。今、この場を治めるためにはあの男に頼るしかない。
ノアは逃げ腰だった自分の頬を思いっきり叩き、気持ちを切り替える。
「何とかしないと……」
ノアの眼に光が灯る。
「そこの人」
「? 声? どこ?」
どこからか声が聞こえ、ノアは左右をきょろきょろと見る。だが、見える範囲に人はいない。
「上」
「上? あ、えっと、デシベルさんの家の人!」
声はノアの背にあるデシベルの家の二階の窓からだった。窓から身を乗り出して言っているのは、ノアとさほど年齢の少年。フードをかぶっていることもあって、表情をはっきりと見ることはできない。
「まあ……そう。それより、二匹が援護するから、さっきの人を起こして」
「二匹? この狼?」
「うん。バール、バロック。その人の援護をして」
「ばうっ!」
少年の声に二匹の狼は強く鳴いた。
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