第3話 ダニェル

「……何だ今の?」


 貴子は、呆けた顔で気を失っている男を見つめ、次に自身の胸の上に手を置き、


「消えてる……」


 さきほど感じた、胸の中に突如として生まれた熱い何かがなくなっていることに気づいた。

 一方、貴子の前にいた少年は、


「ル、ル、ル」


 声を震わせ、


「ルルゥーーーーーカ!」


 絶叫した。


「ルルゥカ! ルルゥカ! マァリヤ、ルルゥカ!」


 少年が貴子の腕に抱きついて、嬉しそうに体をピョンピョン跳ねさせた。

 ガックンガックン貴子の体が揺れた。


「し、少年よ、る、るるーかって、な、何? ガ、ガックンガックン、や、やめて」


 貴子が静止を求めると、


「ホァ!」


 言葉が通じたわけではないが、少年は貴子を解放し、


「マァリヤ、エレェイ ワラ ユドゥク!」


 今度は手を繋ぎ、貴子を引っ張りはじめた。


「え? 何? ついてこいって言ってるの?」


 グイグイ引っ張る少年に、何となく言っている内容を察した貴子が歩きだす。

 しかし、数歩進んだところで、


「あいたっ! いたたたた」


 足裏の痛みに顔を歪めた。

 靴下しか履いていない状態で、小石を踏んだためだった。

 少年は、振り返り、足裏を気にしている貴子を見て状況を理解し、


「フォリ モデェトフィン!」


 何かを言い置いて、気を失っている裸男のところへ駆けて行った。

 男の元に着くと、少年は、男の履いているサンダルのような靴を脱がせ、それを持って戻り、


「セァ」


 貴子の前に置いた。


「これ履けってことね。ありがと」


 貴子がお礼を言ってサンダルに足を入れた。

 あの男が履いていたものということで、嫌そうな顔ではあるが。


「え〜っと、足首で紐をくくるのか」


 貴子が金属バットを置いてしゃがみ、サイズの大きいサンダルの紐を結んでいると、


「マァリヤ」


 少年が貴子の肩をトントンとたたいた。


「ん? 何?」


 貴子が顔を上げる。


「マァリヤ、ハァテ シィ シア ソミエ?」


「んん?」


「メイ ニス ダニェル」


「めいにす?」


「ダニェル。ダニェル」


 少年が自分を指さして繰り返す。


「あ、もしかして名前? ダニエル?」


 貴子が少年を指さすと、


「サァ」


 頷いた。


「ダニエルね、ダニエル」


「ダニェル」


「うん、ダニエル」


「ダニェル」


「よろしく、ダニエル」


「……ダニェル」


「何で何回も言うの? ダニエルでしょ?」


「……」


 ダニェルは、諦めた。


「私は、貴子。た・か・こ」


「タカコ」


「そう」


「タカコ。タカコ。タカコ。フフフ」


 嬉しそうに「貴子」を連呼するダニェル。

 美少女のような美少年なので、笑顔が眩しく見えるくらい可愛い。

 貴子もつられて笑っていると、ダニェルが、


「サリィシャ」


 と言ったあと、不意に貴子の頬に口づけをした。


「え? お?」


 貴子が驚いてダニェルを見た。

 ダニェルは、ニコニコと笑っていた。


「あ、ああ。挨拶かな? そういう文化圏の人なのね。アハ、アハハハ」


 貴子が理解し、これまで縁のなかった習慣に頬を赤くして照れた。


「え〜と……うん、これでよし」


 サンダルの紐を結び終え、貴子は、金属バットを手に持って立ち上がり、


「ダニエル、さっき私のことどこに連れて行こうとしたの?」


 ダニェルが行こうとしていた方向を指で示して聞いた。


「オゥ!」


 ダニェルは、そうだったと言わんばかりに手を打ち合わせ、貴子の手を握り、


「テカ ジェス メオ!」


 おもむろに走り出した。


「うおう!」


 貴子は、全力疾走するダニェルに、ほとんど引かれる形でついて行った。



 ◇◇◇



 獣道を一分ほど走り、ダニェルと貴子は森を抜け出た。


「お〜」


 貴子が眼前の光景に驚きの声を上げた。

 そこは、草原だった。


 貴子が遠くへ目を向けるが見渡す限り草地で、人や自転車、バイク、車等は見当たらない。町もない。

 大自然そのままの景色が広がっていた。


「マジでここどこなの?」


 貴子が首を捻った。


「ウェクト サイ!」


 走るスピードが落ちそうになる貴子の手を、ダニェルが「早く」とばかりにグイと引っ張った。


「あ、ああ、はいはい」


 動きからダニェルの言いたいことを読み取った貴子が返事をし、


「どこ行くんだろ?」


 今更ながら疑問に思った。


 言葉が通じないので聞きようがないが、とりあえず急いでいることはわかるので、貴子は引かれるままに走った。


 速度を落とさず走りつづけ、そろそろ貴子の体力に限界が迫りつつあった時、


「ミィテヤ!」


 ダニェルが遠くを見て叫んだ。


「はぁ、はぁ、どした?」


 息を切らせ、ダニェルが見ている方向へ貴子も顔を向ける。

 五百メートルほど離れたところに数十人規模の縦に並んで歩く集団が見えた。

 姿格好は、貴子の目にはまだ見えない。


「ミィテヤ! ハァラ!」


 ダニェルは、切羽詰まったような声を出し、走るスピードを上げた。


「はぁ、はぁ、は、速いって」


 疲れで足の回転速度が落ち、ダニェルについていけなくなってきた貴子。

 そんな貴子の手を離して、ダニェルが先へと駆けた。


「あ、あの人らのとこに、はぁ、はぁ、い、行くの?」


 貴子が尋ねるが、ダニェルは振り返ることなく一心不乱に走る。

 今のダニェルの目は、列をなして歩く集団しか見えていなかった。


 集団との距離がだんだんと狭まり、貴子にも彼らの様子が見えてきた。

 三十人くらいの縦に並んで歩く若い女性の前後を、それぞれ十人ほどの男が挟んでいる。


 男たちは、髪もヒゲもボサボサの伸び放題でほぼ全員上半身裸の腰布一枚を巻いた格好。

 女は、丈の長いワンピースのような服装で、首と手首を縄で縛られ全員が一本のロープに繋がれていた。


「……おいおいおい」


 ビックリし過ぎてそう言うのがやっとの貴子。

 大昔の人攫いと攫われた人たちを頭に思い浮かべた。


「ハァーーーーーラ!」


 貴子の先を行くダニェルの声が草原に響き渡った。

 集団全員が、その声でダニェルに気づき、


「ダニェル!」


 繋がれている集団の先頭にいた、二十五、六歳くらいで金色の髪の、ダニェルと似た面立ちの綺麗な女性が応えた。

 女性は、驚いた顔でダニェルを見つめていたが、歯をグッと食いしばると、


「ヤッ!」


 前を歩いていた男に体当たりした。


「ウォウ!?」


 ダニェルに気を取られていた男はあっさりと転び、その隙に女性が男の腰帯に挿してあったナイフを取り、首と手首の縄を切り、


「ダニェル!」


 ダニェルのほうへと駆け出した。

 その様子を見ていた周りの男たちは、面白い見世物でも始まったかのようにニヤニヤと倒れた男を見て笑い、倒された本人は、顔を怒りで赤くして立ち上がり、


「モデェト!」


 女性を追いかけた。


「ダニェル! ダニェル!」


 金色の髪を振り乱し無我夢中で走る女性。


「ハァラ!」


 ダニェルも今にも転びそうなほど前のめりになって駆ける。

 脇目も振らずお互い駆け寄り、二人の伸ばした手が触れかけた時、


「テビ シィ ザバ!」


 追ってきた男が女性の長い髪を掴んで止めた。


「アウッ」


 女性が痛みに声を上げる。

 それを見たダニェルは、


「タック ケェオ!」


 走る勢いそのままに男の腹に頭から突っ込んだ。


「グッ」


 ダニェルの頭突きをくらった男は、小さく息を吐き、女性の髪から手を放したが、痛みはないようですぐさまダニェルの体を捕まえて持ち上げ、


「エアッ!」


 地面に投げ捨てるように叩きつけた。


「ギャッ」


 痛みにうめいたダニェルの体が、草地に跳ねて転がった。


「ダニェル!」


「ダニエル!」


 女性と貴子が同時に叫んだ。


「バオ サピ!」


 男は、さらに痛めつけてやろうとダニェルに大股で近づいて行く。

 それを見た貴子は、


「やめろぉぉぉぉぉっ!」


 吠えるように叫んだ。

 貴子の胸の中に熱い塊が生まれる。


 それと間を置かず風が吹いた。

 貴子を取り巻く空気の流れが指示を受けたかのように男へ向かって動き出し、突風となって襲いかかった。


「ウアッ!?」


 男は、一瞬たりとて風に逆らうことができず、重い風圧に押されて後方へ数十メートルも吹き飛んでから地面に落ち、さきほどのダニェル以上に転がった。


「……」


 男が飛んだ姿を見て、貴子は、自分の胸に手を当て考えた。


 私は今、森の中での出来事と同じような状況を前に、男が吹き飛ばされるイメージを頭に描いて叫んだ。


 胸の中に熱い塊が生まれたあと、森にいた男も今の男も想像通りになった。

 どちらも現実になった。

 現実には起こりえないようなことが現実に起こった。


「まさか……」


 貴子は、自分がずっと夢見てきた、ある可能性を連想した。

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