(3)

《妖斬妃さま!》

「まじで?」

 椿が妖斬妃の案内で連れてこられたのは、一見してどこにでもある蕎麦屋だった。

 どこもかしこも明かりを消して、息を潜めるように寝静まっている通りの中で、唯一明かりを灯している蕎麦屋は、遠目からでも目立っていた。

 本当にここなのかと、さすがに拍子抜けして椿が再度腰に差した【妖斬妃】に問えば、間違いはないと、いつものように笑みを含めて断言された。

 そして、半ば疑いながら障子に手を掛け開けた瞬間だった。

 店の奥から、これまた見目の良い若草色の長い髪の青年が、浅黄色の瞳をキラキラと輝かせて飛び出して来たから堪らない。声も顔もしっかりと男だが、身に纏うのは天女の衣のごときひらひらとしたもの。椿からしてみれば異国服。

 それでも濃淡で重ね着されたような緑色の装いは、春の若草の匂いを伴いよく似合っていて。

《おお、【若草丸わかくさまる】。三百年と少し振りか? 息災であったか?》

 当然のように、椿の目の前で片膝を付き見上げて来る青年に対して、姿を現した妖斬妃が声を掛ければ。

《ええ。この三百年。むさい男の手ばかりを渡り歩き、妖斬妃さまの美しい顔(かんばせ)を見られなかったことだけが常に心残りではありましたが、今こうして再会できたことに心からの感謝を表現したく、一曲舞ってもよろしいでしょうか?》

《おお。それは良い。是非ともそなたの舞を見たいものじゃ》

《ああ……。何と身に余るお言葉! 妖斬妃さまに所望されてしまえば舞わぬわけにはまいりません。むさくるしく狭いところではありますが、この若草丸。誠心誠意を込めて舞わせていただきます!》

「――じゃねえよ!」

《痛い》

 突如、どこからともなく羽根扇すら取り出して構えを取った若草丸を、怒りを表した声と共に背後からどつく者があった。

 見やればそこに、

《何をするのですか、境土さかいど

 ――と言う名の、齢四十前後の、無精ひげを生やした精悍な顔つきの男が腕を組んで頬を引きつらせて立っていた。

「何をするじゃねぇよ」

 これで煙管を口に咥えて、体に刺青でも入れていればどこからどう見たところでやくざ者にしか見えないと思っている椿の前で、頭に手ぬぐいを巻いた境土が不満を漏らす。

「いきなり飛び出して何おっぱじめようとしてんだよ、てめぇは」

 対して若草丸も譲らない。

《むしろそれはこちらの台詞ですよ! 妖斬妃さまの御前で何を失礼極まりのないことをしてくれてんですか! あんたみたいな野蛮で優美さの欠片もない人間が、ボクの持ち主だなんて絶望的なことを思い出させないでくださいよ!》

「悪かったな。野蛮で品がなくてよ。こっちだってヒラヒラ、ヒラヒラ、蝶よ花よと女々しいお前を見る度に、背中がむず痒くてしょうがねぇよ! でも仕方がねぇだろうが、適合しちまったんだからよ」

《本当に、悪い夢のようですよ》

 互いに顔を突き合わせて睨み合う。

 だからこそ、椿は聞き捨てならずに口を開いていた。

「ただの蕎麦屋の店主が、【揺り籠刀】の適合者?」

「そういう嬢ちゃんは、妖どもがひれ伏す【八妖刀】が一つ。【妖斬妃】の適合者――ってやつなのかい?」

「だったらなんだ?」

「別に。適合者の資格ってのは解からねぇもんだと思ってな」

「私が年若い女子だからと侮っているのか」

「そうじゃねぇよ。そうじゃねぇから、そんなに睨むな。せっかくの可愛い顔が台無しじゃねぇか」

「私を可愛いなどと言うな!」

《いや、どんどん言っておくれ》

「妖斬妃!」

《なんじゃ、椿。何か問題でもあるのかえ?》

「気に入らないんだ!」

《じゃが、事実じゃ。のォ、若草丸? 妾の主は可愛かろ?》

《ええ。勿論です。その凛としたお顔立ち……は、妖斬妃さまに比べれば格段に落ちますが、それでも、そんじょそこらの人間の娘と比べれば、十人並みには十分に入ります》

『おい。それはどういう意味だ』

 笑顔と弾む声で紡がれた若草丸の言葉に、間髪入れずに椿と境土の突っ込みが入る。

 ただし、二人の声に含まれた響は、片や怒り、片や呆れと異なるもの。

 それを受け、妖斬妃はとても楽しそうに笑った。

《憤慨するだけまだ希望はあるということにしておこう》

 その意味ありげな目を向けられて、椿はようやく自分が揶揄われたのだということを知り、不快も露わに口元を引き結ぶ。

《おやおや、我が主はご機嫌斜めになってしまった》

「そりゃそうだろ」

《おい! 妖斬妃さまに対して軽々しく口をきくな!》

《良い良い、若草丸。妾はそのような些末なことは気にしない。むしろ、此度はこちらの協力要請に応えてくれたこと、感謝するぞ》

《そんな! 妖斬妃さまが困っているのであれば、何もとりあえずとも馳せ参ずるのが本当であるというのに、刀に封じられたためにそれも叶わず》

 と、心底悔しげに端正な顔を歪める若草丸に、

《だからじゃ》

 と、妖斬妃は続けた。

《我らはこうして自我を持ち肉体も持ってはいるが、その本体は刀。刀はそれその物では役に立たぬもの。揮ってくれる者がいて初めてその力を存分に発揮できるもの。故に、我らと意志疎通のできる者は貴重な存在じゃ。ましてや、こうして外に出してくれる者は更に貴重な存在と言えよう。たとえ吹けば飛ぶような脆い人間だとしても、その人間がいなければ存在しえぬのが我ら。故に感謝するし、大切にしたいと思うもの。そなたもそうじゃろ?》

 分かっているとでも言わんばかりの優しい笑みを向けられて、若草丸はなんとも複雑な表情を浮かべてコクリと頷いた。

《故にな。暫し厄介になるぞ、人間よ。我が主に協力してやって欲しい》

「つまり、飯を食わせればいいんだろ」

《とりあえずは、そういう事かのォ。妾たちは暫し離れて積もる話でもしておる故、椿のための寝床も用意してもらえると助かる》

「別にそれは構わねぇが。うちは蕎麦しか出してねぇからな。他にもてなせと言われても何もでねぇぞ」

「構わない。空腹が満たされればなんでもいい」

「――って言われ方されると、それはそれでなんだか腹立つな。これでも網目衆や戍狩たちの間では美味いって評判の腕なんだぞ」

《それは身内びいきというものだろ。元はそこにいたのだから》

「うるせぇなァ。どうせ人のもん食っても味判んねぇお前にどうこう言われたかねぇんだよ」

《それは失礼しましたね》

「ほんとだぜ。店に来て蕎麦食ってる連中の顔みりゃ分かるだろうが。まぁいい。とりあえず適当なところに座れ。今作って来るから。で、その後で詳しい話を聞かせてもらうぜ。今一体何が起きているのかを――な」

 と、鋭い眼光を向けられて、椿はやはり、ただの蕎麦屋の店主に【揺り籠刀】が具現化できるわけではないのだと思い、妖斬妃は、

《なんじゃ。まだ何も説明を聞いておらぬのか?》

「まったく聞いてねぇよ。そいつが四六時中口走っていたのは、『妖斬妃さまが来る。妖斬妃さまが来る』って、あんたのことだけ。何しに来るんだって聞いても、耳に入ってねぇのか、あんたの美しさやら強さやら素晴らしさを語られただけだからな」

《…………》

《だって仕方がないではありませんか! 三百年ぶりですよ?! 三百年ぶりに妖斬妃さまとお会いできるのですよ?! もしかしたら今後一生妖斬妃さまとは会えないのかと恋焦がれて枕を濡らしてきたところにこの朗報ですよ?! 境土には妖斬妃さまが来るということだけ知らせておけば何も問題はないではありませんか!》

 静かな笑みを向けられた若草丸が、必死になって弁解し、それを苦笑を持って眺める妖斬妃を見て、椿は告げた。

「とりあえず、腹が減った」

「はいはい。今すぐ用意するよ」

 急かされるように境土は厨房へ向かい、いつにもまして賑やかな若草丸の言い分を聞きながら、ピンと張り詰め切った弦のごとき椿の様子に厳しい目を向けていた。

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