差別について②

②差別の善悪について


そもそも「善悪について」で述べたように、善悪とは「定義する人間(社会)にとって都合が良いか悪いか」ということです。


声を挙げるのはどういう人か。

差別されて被害を受けている人ですよね。


差別されると都合が悪い人が、声を挙げている訳です。


何故無くならないのか。是正されないのか。

差別をすることで、都合が良い人も居るからです。


議論をする時は、目的を共有しなければ話になりません。差別の被害者と加害者で、目的は同じでしょうか。

違うのです。だから、話はずっと平行線。だって善悪が真逆なのですから。


では永遠に変わらないのか?


私は教育で変わると思っています。

私は子供の頃から、学校で差別についてこう学んできました。

「人種差別、障害者差別、部落差別。そういうのが、昔あったよ」と。

「昔あった」と教わりました。

私の学校には車椅子の子もハーフの子も居ました。男の子に真面目に告白した男の子も居ました。

その「属性」が理由でのいじめはありませんでした。

車椅子の子は人気者だったし、ハーフの子とは一緒に毎日遊んでいました。男の子に告白した男の子は、男子女子から愛される中心人物的キャラクターでした。

友達は皆それぞれ特徴があって皆違う。「鈴と小鳥とそれから私」を素直に学んだ私達にとっては、そんなの「特徴のひとつ」でしかなく、悪感情を持つ子なんて居ませんでした。少なくとも、表に出して問題になることは一度もありませんでした。

実際に、私の周りには差別は


いじめはありましたよ。そりゃ当然。でもそんなの差別では全く無い。普通レベルのいじめです。私も被害者です。属性が理由の不当な……とかいう、小難しいことではなく、単にムカついたとか、気に食わないとか、子供らしい感情的ないじめでした。事件になるほど悪質なものでもありませんでした。クラスが変わればもうお互い会わなくなっておしまいくらいの。あくまで「差別が理由のいじめ」が無かったんです。


だから、社会へ出てびっくりしたんです。「現在も差別されている!」という人が、ネットに居て、しかも結構多いことに。ニュースを観るようになって。新聞を読むようになって。本当にびっくりしました。え、差別ってもう終わった太古の歴史でしょ? と思ってましたから。


とまあ、話を戻して。

差別の善悪ですが、「社会の目的に沿っているか否か」ですね。

差別があることで社会に与える影響はどんなものか。無くなることでどうなるか。誰が得をして、それはどれくらいの人数が居るのか。

この国は民主国家ですから、適法に声を挙げた場合、票を多く獲った方の法律が優先されます。


ですから、「それによる」という答えになります。

良いか悪いかを決めるのは人の社会です。自然界には元々、善悪なんてありません。


差別があって都合が悪い人は声を挙げて、理解を得て、社会を変えていくしかありません。もしくは、世俗から離れて仙人となるかですね。

声を挙げることは大事だと思います。これは差別にかかわらずですけれどね。よくTwitterで政府への不満や法改正なんかを主張する人達を見ますけど、じゃあなんで立候補しないんでしょうね。法を変えたい、政治を変えたいなら候補に立つしかないのに。本当に多数から認められればきちんと当選する筈です。

とは言っても、立候補する程ではないけど不満はあるし、では立候補しない人達は今の政治を全肯定なのかと言われれば違いますけれどね。


差別について客観的に、他人事のように語っていますが、もし友人が差別されて被害に遇っているならもっと真剣になると思うんです。

つまり、声を挙げる人達が票を集めるためにすべきことは、「とにかく多くの友人を作る」ことなんじゃないかと。

例えば反対派の人達を攻撃するのではなく、理解してもらって仲間になってもらえたら、近道じゃないですか。それしたら良いのに。

敵を倒そうとすることのなんと無意味なことか。


また脱線しましたね。話を戻します。

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