第13話・釈迦堂

 弘長こうちょう二年、遥か西国の暦では一二六二年。

 よわい六十一になる思円房叡尊しえんぼうえいそんは、生涯一度の覚悟を決めた旅に出た。行く先々で戒律を説き、西大寺流の理念を伝える実りある往路であった。

 相模国に長く横たわる海岸から烏帽子えぼし岩を眺めていると、叡尊の元へ見知った僧を伴う男が歩み寄って旅の終わりを告げてきた。


「越後守の使いにございます。おそれながら、叡尊上人しょうにんでございましょうか?」

 左様にございます、そう返したところ男と僧は頭を下げて、叡尊を鎌倉へと迎え入れた。

「大層なものを賜りまして、越後守殿に何と御礼を申し上げればよいものか」

 はてな、とする使いに対し、僧には思い当たるものがあって、堪らず叡尊に話しかけた。

「南宋より取り寄せたる一切経いっさいきょうにございますね。良観上人を介して、越後守殿から拝謁しました。叡尊上人の説法を、是非ともお聞かせ願いとうございます」


 そのやり取りを耳にして、使いはあれかと思い出した。昨年末、実時は叡尊に下向げこうを請う遣いを向けた。叡尊の返事は好感触で、これに感激した実時は入宋した経験のある僧を南宋へ送り、経典のすべてが載った一切経を二巻、持ち帰らせた。

 このうち一巻を、二度目の遣いに託していた。叡尊は深く感謝し、さっそく西大寺にて一切経を使った説法を行った。

 もう一巻は金沢かねさわの持仏堂に仕舞ってある。それが何とも実時らしい。


 叡尊はというと、期待に目を輝かせる迎えの僧に、困ったような笑みを浮かべた。忍性の説法では物足りないのか、と思わずにはいられない。

「良観房は、如何にしておる」

「布教と救済に日々邁進しておられます」

 立派な方だ、そう手に取るように感じられる口ぶりだった。しかし叡尊はというと、先の言葉が耳から離れず長い眉を怪訝にひそめる。

「越後守がお待ちです、お疲れかと存じますが先を急ぎましょう」

 ふたりに促された叡尊は、実時が待つ鎌倉へと向かっていった。




 普段は冷静沈着で、影で冷徹と揶揄される実時だったが、叡尊を迎えるこのときばかりは年甲斐もなく胸を躍らせていた。はじめの使者から受け取った手紙どおりの熱意であり、疑っていたわけではないが、これが実時の真意だと叡尊は改めて感銘を受けた。

「今宵は、母の縁ある天野の邸を手配してございます。我が所領、金沢かねさわ称名寺の釈迦堂を空けてございます故、明日よりはそちらにてお過ごしくだされ」


 すると突然、叡尊の表情が雲を帯びた。非礼に気づいて陰りを払うが、日差しが差し込む気配はない。

「称名寺という名から察するに念仏の寺でございましょう。拙僧のため念仏を停止するなど、はなはだもって願っておりませぬ。どこか無縁の寺がよいのですが、ございませんか」

 これには実時、堪らず顔をしかめてしまった。叡尊をそばに置き、心ゆくまで説法を聞きたい、しかし所領の金沢には息のかかった寺しかない、希望がもろくも崩れ去ったのだ。


 ならばここ鎌倉で、そう考えたものの北条の息がかからぬ寺などあるだろうか。幕府に欠かせぬ実時の智慧も、この要望を聞き入れるのは困難を極めた。

「一族郎党挙げて無縁の寺を探します故、お待ちくだされ」

 と、平伏して天野の屋敷に金沢の一族を集め、どこがよいかと考えを巡らせたものの、そうやすやすとは見つからない。


 その事態を聞きつけたのか悟ったのか、施粥を終えた忍性が恐れながらと訪れた。誰もが背中を丸めて腕を組み、眉をひそめて唸っているので、忍性は額を床に擦りつけて叡尊の我儘をひたすら詫びた。

「西大寺の流儀にございます故、何卒なにとぞご容赦を」

 そういえば忍性も鎌倉入りした際に開口一番、無縁の寺を求めてきたと思い出し、迂闊だったと実時は顔をしかめた。しかし今は、それを悔やむ暇などない。

「招いたのは、この越後守だ。面を上げよ、良観房。それより寺を手配せねばならぬのだが、妙案はなかろうか」


 これに責を感じた忍性は、言いかけては噤むを繰り返した末、口惜しそうに歪めた口をおずおずと開いた。

「新清凉寺釈迦堂を無縁の寺とし譲りましょう」

 実時はこれに驚き、膝を立てておもんばかった。それでは釈迦堂を出た忍性は、どこに住まうというのだろうか。

 すると忍性は意を決した顔をして、晴れやかに策を述べた。

「拙僧は一旦、常陸三村寺に身を寄せます。鎌倉も永くなりました、常陸が如何なる様か気がかりにございます故」


 実時は苦悩を唸りに変えて、忍性の真正面へとにじり寄った。ただならぬ覚悟が立ち上っている様は、火炎を背負う不動明王のごときであった。

「金沢称名寺の釈迦堂にて風待ちをせよ。そして必ず、この鎌倉に戻ってくるのだ」

 忍性は林のように鎮まると、気をかけた実時に頭を下げた。永く永く伏せた顔は、苦痛と恥辱に歪んでいた。


 私は不妄語戒ふもうごかいを破ってしまった。妄言をのたまい、破戒僧に成り下がったのだ。叡尊や金沢北条一門のため、などという言い訳は通用しない。

 今の私には、叡尊に合わせる顔などない。鎌倉を一時いっとき離れ、遠く常陸は三村寺にて戒律を改めるのがよいだろう。


 悶々として迎えた翌朝、荷をまとめて扇ヶ谷を去る忍性を迎えたのは実時だった。静かで重たい足取りは、山吹色の朝日を浴びても闇の中にあるようだった。

 六浦道に歩みを進め、朝夷奈に向けて茂みが濃く、通りが狭くなった頃、実時もまた意を決して唇を噛む忍性に声を掛けた。

「寄りたいところがある、よいか」

「急ぐ旅ではございません、越後守殿の思し召しのままに」

 それから実時は目的の場所に着くまでの間、何ひとつ言葉を発しなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る