6029回目の夜に

水汽 淋

第1話

 雨上がりの夏の夕陽は、やけに大きく見える。


 嬉しさに紅潮したような夕焼けがこうも心を奪うのは、人が作り出せない物への憧憬があるからだろう。


 その非現実を地上に映し出す鏡となった田んぼの畦道を、彼女よりも一歩前に出て歩いた。


 歩き慣れたはずの畦道がどうも歩きにくく、ともすれば腕の振り方すらも忘れてしまいそうになるのは、さすがに意識のしすぎだと笑いたくなる。




 後ろを付いてきているはずの彼女が、どんな表情を浮かべ付いてきているか。それは分からない。


 つまらなくてあくびを噛みしめているかもしれないし、顔を俯けこの瞬間をじっくりと味わっているのかもしれない。


 明後日には彼女を置いて、都会へと逃げる僕を恨みがましく睨み付けているのかもしれなかった。




 蛍を見に行こう、と誘い出したまではよかったのだ。もう明後日にはここを発つから、と言った僕に、彼女はそうだったね、と。


 いつもは自然に出来る無駄話も、今日に限っては口をついて出てくることはなかった。




 得も言えぬ緊張感に包まれ押し黙る僕達の代わりに、人間以上に夏を謳歌しようとする生き物達の声で畦道はごった返している。


 蛙のメイティングコールに気持ちを急かされながらも、気の利いた言葉が出てこないことに苛立ちが募り、小さく小石を蹴飛ばして顔を上げた。




 夕方という刻の一部が山陵に隠れつつある。濃紫の空が急速に陣地を拡げに来ていた。手に紐でくくりつけている懐中電灯がゆらゆらと揺れて、その存在を主張する。




 後ろを振り返ることは許されない。それは子供の意地のようなもので、絶対に曲げられない信念のようなものだった。


 話したいことがあるんだ。その一言すらも言い出せない自分に、田舎特有のむせかえるような草の匂いが加算されて、吐きたくなるような気持ちの悪さに襲われる。




 あと数分も歩けば川につく。そして蛍を見て、それで? また、無言のまま帰るのだろうか。明後日には、もう会えなくなる。彼女はそれに、何か悶えるような悲しさを感じてくれはしないのだろうか。



「夏ってさ。あんまり好きじゃないんだ」



 その声音がどこか湿っぽいのは、雨上がりの空気のせいだろうか。

 子供のような意地っ張りは続いていて、唾を飲み込みながら前へ歩いた。



「暑いし、汗はかくし、一日は長くてやることないし、スイカだって正直好きじゃない。蝉も鈴虫もうるさいし、なんなら核爆弾でも撃ち込みたいくらい」



 彼女は至って真剣に、その事を検討しているような含みをもって言い放った。


 昔から、そんな突拍子もないことを言う子だった。


 思えば、彼女は何かと上に立ちたがっていた。テストの点数で彼女に勝てる人は誰もいなかったし、気付いたら木に登っていた。


 そして、そういう時は決まって、パンツが見えることもお構い無しにピースを掲げてニヒヒッ! と笑うのだ。



「でも、虫、好きじゃん」



 せっかくの会話を途切れさせる理由はない。僕は少年時代を思い返してそう返す。

 出会い様にだんご虫やムカデを投げつけられるなんてことには、もう慣れている。んー、そうだねぇ、と間延びした声が、思ってたよりも近くから聞こえた。



「確かに嫌いじゃない。でも、今、ここに、撃ち込みたいの」

「なんで」

「知るか、バカ」



 彼女は僕を追い抜かして、くるりっ、と回転した。


 赤と緑と茶色で彩飾された風景に、白色の異物が混ざる。お気に入りの白いワンピースに、汚れなんてあるはずもない。


 つい最近まで田舎っぺだったくせに、急に色気付いた彼女は、そのご自慢の黒髪まで伸ばし始めていた。丁寧に手入れはするくせに、長かったら邪魔だ、なんていってすぐ切ってしまう黒髪を。


 ベールのように広がる黒髪に見とれていたら、なんと彼女はピースサインを作ることをせず、そのまま先導して川へと歩きだした。


 僕の心の中には動揺が広がっていた。ねずみを仕留めた猫が自慢をするように、ちょっとしたことでもピースを作る彼女が。



「な、なんかあった? 変な物でも食べた? やっぱり落ちてる木の実とかは食べちゃダメだって……」

「今さらそんなことしない。今はもう、大人になったんだから」



 彼女の予想外の返答に、僕は不審者と間違われる程にキョロキョロと辺りを見回した。もしかすると目の前を歩いている彼女は彼女でなく、その皮を被ったエイリアンなのかもしれない。


 けれど、彼女の背中にはチャックがなく、電波をどこからか受信している様子も無さそうだった。とうとう僕は、その言葉が彼女の本心からのものであるという事実を受け入れざるをえなくなって、いたくショックを受けた。



 彼女はこちらを振り返りもせず、跳ぶように歩くでもなく、淑やかな大人の女性然とした歩行をもって、川へと僕を導いていた。



「なんだか、急に大人らしくなった」

「逆に、子供過ぎる」



 そうなのか、と思って、そうかもしれないと思い直した。高校生にもなって、蛍を見に行こうなんて。


 都会の高校生は、ネオンで嫌味みたいに飾り付けられた繁華街へと繰り出しているのだろうか。


 でも残念なことに、この辺鄙な田舎町でネオンの代わりになるのは、せいぜいが蛍の光だった。夜中の虫のうるささは、繁華街の喧騒と比べると、負けず劣らず。


 夕は急速にはけていき、夜がその顔を見せ始める。追いたてられた夕焼けは、微かな抵抗として山を燃え上がらせるように照らしていた。




「川、着いたよ」




 畦道を通り抜けると、すぐそこには川があった。都会に取り残された田舎町の川は、まだコンクリートで固められるというひどい川権侵害にはあっていない。


 湿った川岸の草むらに並んで座る。このためにレジャーシートも用意して、虫除けスプレーもしている。また、沈黙が続いた。




「夜って、怖いよね」




 ポツポツと、浮かぶように現れる緑の小さな光を眺めながら、彼女はそんなことを言った。


 少し変わった所のある彼女がそんなことを言うのは、とても深い意味があるのか、何も考えてないのか、そのどちらかだった。


 そういえば、今日はまだ一度も彼女の笑顔を見ていない。ずっと、憂鬱な暗鬱とした表情を浮かべているばかりだった。



 僕は首肯する。


 彼女はそれを感じたのか、言葉を続けた。



「夜っていうのは、別離の時間なんだ。誰そ彼時と言うように、見分けがつかなくなって、あやふやになる。自分自身でさえも、今ここに存在して、こうやって喋ってる私が本当に私なのか、分からなくなるんだ」



 彼女は大真面目にそんな話をしているようだった。今までの彼女は、やれ誰々が私の罠に引っ掛かっただの、やれ今日はこんな冒険をしてきただの、わんぱくな少年のようなことしか話して来なかったものだから、息が詰まって何も言葉が出て来ない。



 彼女はこてんと三角座りした膝に頭を乗せ、こちらへと向いた。


 幻想的に舞う蛍が重なって、やけに色っぽく見えて、心臓が激しく脈打つのがどうしても我慢ならなかった。この鼓動が、地面を通して彼女にも伝わっているんじゃないか。そう思うと、今すぐにでも立って家へと帰ってしまいたくなる。けれどもそれは、彼女の視線によって縫い付けられた僕に出来る行動ではなかった。




 見つめあう沈黙の時間が、永久のようにも刹那のようにも感じた。



「どうして私は夜を迎えるのが怖いの? 前まではそうじゃなかったのに、最近は怖くて眠れなくなる。もういっそのこと、夜なんか二度と来なければいい。そう思って、私は夜に眠るんだ」



 彼女はそう言って、僕の唇に唇を重ねた。


 それは余りにも自然な行為で、蛍が光るのと同じくらいに流暢にやられたものだから、僕は一瞬何をされたか分からなかった。


 彼女も何もなかったかのように、夜は更けていくのと同じように当たり前な顔をしていたから、とうとう僕は僕が何をされたか理解出来なかった。




 彼女は優しく眼を細め、口角を緩やかにあげて微笑むと、立ち上がる。



「帰ろうか」



 僕はただそうプログラムされた機械のように頷いて、帰路についた。

 帰り道で何を話したかは、記憶に無い。






 とうとう僕が都会へと旅立つ時になって、駅には村の皆が集まっていた。


 横断幕が掲げられ、口々に激励の言葉を投げ掛けてくる中、一人だけそこにいない人物に、頭の中身は全て持っていかれていた。


 送り出される主役がどうも上の空でいるのに気づいて、場は白けたような空気になったことすらも気付かずに、無気力に握手を返しながら改札口を見つめている僕は、あまりにも未練がましい。




 二時間に一度来るかという電車がようやく到着した時も、彼女は現れなかった。僕は集まってくれた皆にお礼を言うと、ガラガラの車両に乗り込んで、外がよく見える窓際の席に座った。


 癖のあるこなれた口調で、車掌がアナウンスを読み上げる。


 


 そこで、何の脈絡もなく頭の中にある考えがよぎった。彼女はやたらと上に立とうとしてたんじゃなくて、自分を目立たせるためにああして木の上に登ったり、テストで満点なんかをとっていたんじゃないだろうか。それでは、なんのために?




「…………………………あぁ…………………………………………」




 ガタンゴトンと揺れる電車の中で、背もたれに身を預けて動きもしない。


 鉄の塊が風を切り、アナウンスが頭上を流れていき、ぬるい風が体を吹き抜け、車輪のこすれる衝撃が体を響かせる。


 しかし、今感じる刺激は、唇だけだ。

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6029回目の夜に 水汽 淋 @rinnmizuki

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