神様の展覧会

示紫元陽

神様の展覧会

 金曜日の仕事帰り、私は疲れていたのにもかかわらず、駅の近隣にあるショッピングモールをふらふらとしていました。多くの方が明日は休みということもあってか、私と同じ仕事帰りのような人たちが、同じようにウィンドウを覗き込んでいたと思います。

 週末のお店はどこかキラキラとしていて、人が吸い寄せられているようでした。まるで神話に出てくるセイレーンのお話のようだとも感じました。いや、それでは最後に悲惨な目に合ってしまうので、少しニュアンスが違うでしょうか。

 一階のフロアを一通り物色しましたが、私はそれでは飽き足らず、エスカレーターで二階へと足を運びました。何度も来たことがありましたが、こういう場所は回数など関係なく面白いものです。各店舗に様々なものが並べられ、たとえ似た服飾店であっても各々で違う趣があります。そのほか雑貨店や家具店、書店に音楽ショップ。もちろん飲食店も軒を連ねていて、歩いているだけで楽しい気分を味わえました。

 そんな風に目移りしながら歩き、そろそろ帰ろうかと出入り口まで来たときのことです。私は通路の端にパンフレットスタンドを見かけました。音楽会や美術展などのチラシがたくさん置かれてあったと思います。

 でも、私が興味を持ったのは一つだけでした。そのタイトルは実にシンプルな物でした。


『神様の展覧会』


 絵画展のチラシで、様々な神様を描いた絵を展示すると書かれています。チラシの表と裏には、フレスコ画と思しきもの、モザイク画、油絵、水彩画など、多種多様なタッチで描かれた絵画がプリントされていました。

 私は昔から、どちらかと言うと幻想的なお話が好きでした。ノンフィクションや生々しいものよりも、軽いファンタジーといった空想のお話が好きで、よく魔法使いが出てくる本などを読んだりしたものです。そしてそれは美術的なものでも同じで、写実的な絵よりも、夢の中を描いたような絵画を好みました。抽象画はちょっと苦手ですが。

 何にせよ、そんな私にはこの『神様の展覧会』というものが気になって仕方がありませんでした。詳細を見るとすでに開催されており、来週末で終了と書かれています。場所は家からそれほど遠くはありません。明日行こうと、私はすぐに決めてしまいました。

 それから私は取り上げたチラシを二つに畳んで、鞄の中に仕舞いました。ところでその時、チラシに印刷された絵の中にあった、立派な髭をたたえた老師のような顔が目に映りました。ただそれだけなのですが、私はその姿が、というよりもその瑪瑙めのうのような瞳が、とても印象に残ったことを覚えています。

 あれは何の神様なんだろうか。もしかすると神に仕える従者かもしれない。そんなとりとめもないことを考えながら、再度チラシを見もせずに私は家路に着きました。


*****


 翌日の朝、私はいつも通りの朝食を摂り、午前のうちに電車に乗って展覧会へと向かいました。人が少ないであろう時間にゆっくりと見て、お昼はその周辺か駅の近くで済ませようと考えたからです。

 会場へ着くと、予想通り人はまばらで、快適に鑑賞できそうでした。そもそも大きな美術館ではなく、比較的小さなギャラリーで展示されているといった感じです。だから気兼ねせずとも混雑はしていなかったかもしれません。

 関係者と思われる初老の男性が座っていたので話を聞いてみると、その男性はある絵描き団体の団員だと言いました。彼によると、その団体は作成したものを不定期でテーマごとに展示しているとのことで、この展覧会がそれなのだそうです。

「ごゆっくりしていってください」

 初老の男性はそう言ってニコリと笑いました。私は「ありがとうございます」と一礼し、A4用紙に印刷された題目一覧をいただいてギャラリーに向かいました。特に何かを見たいというようなこともないので、順路に沿って見ていくことにします。

 一枚目は、痩せた老人が粗末な服装に身を包んで立っている絵でした。左手に光る杖が握られ、その先には鳥の羽のような意匠が施されていました。右手には黄色に光るランタンが提げられており、首を少し前に倒してランタンの照らす先を見つめています。背景は少し不安を覚えるような薄暗さで、細かな灰色の線が描かれているのが分かります。森の奥深くのような印象でしょうか。

 私はこの構図に見覚えがありました。おそらくタロットカードの『隠者』でしょう。題を見ると、はたして『ハーミット』と書かれていました。私はカードの意味はよく知りません。だからどれほどモチーフが投影されているのかは判りませんが、直感を頼りに絵の感想を述べるならば、この老人は寂しそうでいて、だというのに悲しそうではありませんでした。独りで内面を見つめているようでもありました。

「また帰った後にでも調べてみようか」

 次の絵は、横を向いて椅子に腰かけた女神でした。純白の絹のような髪を肩から背にかけてゆったりと流し、星明りを集めたような輝きを纏っています。いや、よく見るとただの輝きではなく、無数の蝶のような何かが集まっているようです。小さな妖精かもしれません。

 ただ、それよりも掲げられた片腕が印象的でした。滑らかな空色の袖からすらりと伸び、手は虚空を摘まむような形をしています。その先には、これは間違い様がありませんが、十字の星がいくつも煌めいていました。神殿のようなものが描かれた中で裸足を地につける姿を見ると、純真無垢を表しているのかもしれないと感じました。

「あの星は、誰かの願い、とかかな? 分からないけれど」

 そんな風に順々に見て回って、ちょうどギャラリーの奥まったところにまで来ました。すると少し変わった絵に出合いました。勿論、そこまででも色々な『神様』がいました。最初の隠者や女神のような西洋的なものだけでなく、日本の八百万の神を描いたようなものや、はたまた見ようによっては妖じみた姿の作品などなど。しかし、今目の前にある絵は、それらとは一線と画すと言いますか、正直に言ってよく分からない作品でした。

「綺麗なんだけどな……」

 いくつもの線が交わり、多種多様な色が塗られています。しかし、端的に言えばそれだけなのです。抽象画であると言えばそれまでなのかもしれません。ただ私には、あまりその言葉が相応しいとは思えません。なぜでしょうか。周囲には他の観覧者もいないようだったので、もう少しじっくり観察してみようと考えました。

 冷静になって観ると、幾重にも交叉した線や色の輪郭たちは何かを形作っているように見えます。でも、それが具体的に何なのかはやはり分かりません。人の形をしているのか、動物なのか、それとももっと幻想的な何かなのか。人ならば、立っているのか、座っているのか、あるいは飛んでいるのか。散りばめられた多くの色は互いに滲み合い、ふわふわとどうにも掴みどころがありません。

 漠然とした捉え方だけでは埒が明かないので、今度は細部に目をやることにしました。私の視界は次第に狭まり、一本一本の線や狭い範囲の色合いに収束していきます。太かったり細かったり、所によっては擦れていたり。淡かったり鮮明だったり。どこを切り取っても同じ箇所はないのでしょう。私の眼に映る色彩はめまぐるしく移り変わっていきます。この世のすべてを集めて凝縮していると言われても、もしかすると私は信じたかもしれません。

 ただ、そんな万華鏡の中身をつぶさに観察するようなことをしても、大して理解できることはありませんでした。せいぜい、こことあそこのブルーはちょっと違うだとか、白でも色んな種類があるのだなと思えた程度です。だからもう一度、一歩下がって全体を目に収めてみました。

 するとどうでしょう。先程までと変わって、周囲が些か仄暗く感じました。何かあったのかと思い、私は首を回しました。しかし、これといって目につくような変化は認められません。強いて挙げるならば、鑑賞者が私の他に見当たらないというくらいでしょうか。そうは言ってももともと大した人数もいませんでしたし、そこまで不思議に感じることではないと思いました。でも、やはり何らかの気味の悪さが私の背を撫でています。

 得体が知れないというのは恐ろしいものです。どんなものにも勝る怖さではないでしょうか。と、そんなことを思案しながらふと視線を後ろに向けたとき、ようやく一つおかしなことに気が付きました。絵が、変わっているのです。

「そんな馬鹿なことって……」

 最初に見た隠者の絵も、椅子に座る女神も、妖怪と見まがうようなものも、すべて消えています。そうして、代わりに私が最後に見ていたような、線と色だけで構成されている(と表現するしかない)絵にすり替わっていました。これはさすがに奇妙奇天烈です。だって、そんな瞬時に絵を入れ替えるなんて出来っこありません。たとえできたとしても、する理由がありません。私は夢でも見ているのでしょうか。あるいは狐にでも騙されているのでしょうか。

 私は眉に唾を付ける思いで入れ替わった絵を見て回りました。しかし、近くで見てもやはり何にも変わりません。精巧な装飾が施された額の中は、不可思議な模様が浮かんでいるだけです。いや、それだけではありませんでした。

「何これ。溶けた絵具みたいな。液晶じゃない、よね」

 ちょうど今見ている色とりどりの絵が、ゆっくりと流れるように動いているのです。じっと見つめていないと気付かない程度の揺れではあります。でも、俯瞰する目の端で常に違和感が居座っているのですから気が付かないわけはありません。絵はじわじわとその形を変え、まるで川の淀みに落とした絵具のようです。

「酔いそう……」

 驚きのあまり凝視していたのが良くなかったのでしょう。些か気分が悪くなったので、私は眼前の絵から視線を逸らしました。気持ち悪さはすぐに治りましたが、そうすれば別の絵が視界に入り込んでくることは自然です。すると、それらの絵もぬるぬると流れていることに気が付きました。

「ほんとに何……?」

 何が何だかさっぱり分かりません。不安が胸を締め付けてきたので試しに周囲に人がいるか声を上げてみましたが、案の定、返事は一向に聞こえません。私はなぜかこの空間に独り取り残されたようです。もう、今すぐにでも帰ろうと思いました。しかしその思いは即刻へし折られました。

「あれ、出口は……どこ?」

 いつの間にか私は会場の出入り口を見失っていました。複雑な構造ではなかったはずですが、どこを探しても外に出られそうな場所はありません。まさかと思いながら壁を押して回ってみましたが、やはりどこにも扉はありません。ただ、白い壁にへんてこな絵がいくつも飾られているだけです。

「嘘でしょ……」

 私は壁を背にして座り込みました。週末の休みにふらりと展覧会に来ただけだというのに、どうしてこんな目に合わねばならないのでしょうか。きっとこれは夢です。夢に違いありません。そんな風に無理やり自分自身に言い聞かせることしか、私にはできませんでした。

 しかし、無意味な現実逃避をしても事態は進展しませんし、恨み辛みを吐いても仕方がありません。しばらく呆けた後、逆にどこか吹っ切れた私は、もう一度最初に見た奇妙な絵の前に立ちました。改めてみると、他の絵よりも一回り大きなサイズです。

「しっかし変な絵だなぁ」

 その時私の中で、この絵の流動に触れてみたいという妙な衝動が首をもたげました。頭の片隅にある理性はやめておけと忠告するのですが、そんなものは軽くはねのけられてしまいました。そうなってからは早いもので、私の腕はまるで何かに操られるようにして額の中へと伸びていきます。一度魅入られてしまうと人は自身を制御できないのでしょうか。実に面白いものです。いや、そう言うとまるで私が狂人のようなのでやめましょう。

 見ると、私の手は小刻みに震えています。だというのに、確実に絵画へと近づいていきます。止めるなんて選択肢はとうに拭い去られていました。ほんの短な距離が、実に長い時間をかけて縮まっていきます。もしかするとそう思っているのは私だけで、実際は数秒のことだったかもしれないですが。

 そうして、とうとう私の手がカンバスに触れたときです。

「え、な……ちょっと待って!」

 絵の模様が瞬く間に私の手を侵食し始めたのです。まるで紙が水を吸い上げるようにして、どろどろと腕を遡ってきます。途端に怖くなって腕を引っこ抜こうとしましたがびくともせず、さらには身体自体が金縛りのように固まってしまい、逃げるに逃げられません。あっという間に、私の身体はカラフルな絵の具によって取り込まれてしまいました。あぁ、もう手遅れです。どうにでもなればいいと思います。


*****


 川のせせらぎが聞こえます。鳥のさえずりも聞こえます。風が肌の温度を下げています。草花の匂いがします。瞼の先に太陽の光が透けています。

 そこまで知覚して、私は目を開きました。すると、眼前にはだだっ広い草原が広がっていました。後ろを振り向くと雑木林が奥まで続いています。水や鳥の音はこの林から聞こえているようです。どうやら私はどこか別の場所に飛ばされてしまったようでした。

「うーん、まいったな」

 突然のことに私は思考が追い付かず、気の抜けた独り言を呟きました。死後の世界にでも迷い込んだのでしょうか。それともライトノベルやアニメ等で最近よく耳にする、いわゆる転生というやつでしょうか。教えてくれる神様も悪魔もここにはいないようなので、途方に暮れるばかりです。

 ただ、少なくとも私の肉体は今ここには無いようです。自分の身体があるはずの場所に目を向けても草地以外に何にも見えないですし、手足を動かせる感覚もなかったからです。まさに手も足も出ないと言ったところでしょうか。

 さてどうしたものかと呑気に考えていると、目の前の光景がじわりと滲みました。それに気づくのが早いか否か、忽ち空間がぐにゃりと曲がったかと思うと、刹那、私は大海原の真っただ中にいました。

「ちょっ! おっ、溺れ……ないよね」

 私は金槌なので、突然水中に投げ出されてかなり慌てふためきましたが、よくよく考えると肉体がないので溺れようがありません。立て続けに意味の分からない体験が重なったせいか、そろそろ私の肝も据わってきたようです。不思議の国を旅するアリスはきっとこんな気分だったのだろうなと思います。

 海は夕陽を浴びて黄色や赤に煌めいています。風や潮で揺れる水面みなもには、時折白く透明なしぶきが舞っています。それに揉まれてできた無数の泡がわらわらと渦を巻きながら、まるでシャボン玉のように光を集めて海中を漂います。水泳が大っ嫌いで海もあまり好きではない私でしたが、水の美しさを初めて知ったように思いました。なんで今まで誰も教えてくれなかったのでしょうか。私が聴く耳を持っていなかっただけかもしれませんが。

 キラキラした泡沫に見蕩みとれていると、それらのうちの一つが膨らんできました。そうして眼の前まで来て私の視界を歪めると、パンッと一息に破裂しました。思わず目を瞑りましたが、次に瞼を開けたとき、今度は神殿のような場所に私はいました。

「今度はどこ? っていうかほんとに何が起こってるんだろ」

 混乱する私を差し置いて、周囲の景色は否応なく変わっていくようです。神様か何かが悪戯でもしているのでしょうか。もしそうならばとんだ迷惑です。

 神殿と思ったそこは、どうやら寂れた街のようでした。遠くで子供たちが駆け回っているのが見えます。何かを喋っている風でしたが、何と言っているのかは声がぼやけて分かりません。ただ、彼らはとても楽しそうではありました。服は粗末で裕福ではなさそうですが、そんなことはお構いなしといった印象です。彼らは一度こちらの方に手を振り(おそらく私に向かってではないでしょうが)、そのうち建物の陰に去っていきました。

 すると急に黒く重い雲が立ち込め、すべてを洗い流すような雨が降り出しました。濡れはしませんが、あまり気分の良いものではありません。と、一瞬ピシャリと稲光が走り、とたんに視界が遮られました。

「またか」

 形は違いますが、流れとしては先ほどまでとそう変わりません。どうせまた淡々と別のところへ旅をさせられるのだろうと思えば、悪態の一つも付きたくなるというものです。これが誰かの創り上げたシナリオならば、もう少し面白みのあるストーリーにしてほしいと思います。

 しかし、そんな苦言が『誰か』にバレたのか、今度は先程とは毛色が異なりました。

「これは、さっきの絵?」

 周囲は真っ暗。その中に、線と色彩で描かれた模様。ただしギャラリーで見た絵とは違って額縁には収まらず、私を中心にして四方八方へと色彩が拡がっています。そして展覧会ですり替えられた絵と同じような、ゆったりとしたおりのような感じ。

「帰ってきたわけじゃないよねぇ。じゃあ何なんだろ。あれ、ちょっと光ってる?」

 私が閉じ込められた模様は、仄かに明滅していました。そうやって生み出される色は、まさに極彩色と言ってもいいでしょう。ただでさえ数多の色が寄り集まっているというのに、その透明度が絶え間なく、いたるところで変化しているのです。最初に見た絵は奇妙で、少し怖さも感じたほどでしたが、今見ている模様はとても綺麗に思えました。

 しかし、それ以上に何かが起こる気配がありません。いや、何かが起こることが前提になっていること自体、私の感覚が間違っているとは思いますが。

「また触ってみれば、いいのかな」

 絵具に侵食されたときはこの上なく恐ろしかったように思いますが、それ以上にその後の体験が私を魅了したようです。身体を奪われる恐怖よりも、身に染みこんできた心地よさを求める気持ちが、今は勝っていました。

「まぁ、もうここまで来たらやるしかないね」

 ええいままよと、私はいつの間にか元通りに存在していた腕をまっすぐ伸ばして、紋様に触れました。すると、思いもよらなかったことが起こりました。

『ねぇマリア、明日はピクニックに行こうかしら』

「えっ、何!?」

 てっきりまた人気ひとけのない場所に吸い込まれるものだとばかり思っていた私は、突然聞こえた声に度肝を抜かれました。思わず腕を引っ込めます。今度は問題なく手を離すことができました。同時にさっきの声も聞こえなくなりました。

「今、確かに声が……」

 可愛らしい少女の声でした。私はマリアではないので、他の誰かに向けられた声でしょう。しかし私にはマリアという名の友人もいませんし、知り合った覚えもありません。先ほどの少女の声も記憶にありませんから、おそらく全くの他人の声なのだと思います。

 さすがにどういった状況なのか気になりました。とっさに手を離してしまったので一節しか聞き取れませんでしたが、もう少し辛抱すれば色々聞けるかもしれません。私は再度、妙ちくりんな模様に手を伸ばしました。すると今度は別の声が頭の中に響きます。

『えぇっと、平方完成すればこれは必ず正の数になるから……』

「えぇ、なんで数学やってるの」

 正直、理系がさっぱりの私はうんざりしてしまいました。少年が言う単語は学校で習ったような気がしますが、もうすっかり忘れてしまっていますしね。

 そうは言っても、今度は逃げませんでした。掌はしっかりと模様に接したままです。拍子抜けしてそんな気も起らなかったのかもしれませんが。ただ、そのまま続きを聴こうと思ったのですが、そう上手くはいってくれませんでした。先の少年の声はいつの間にか消え、また別の声が流れ込んできます。

『拓哉っ、打て!』

 同時にボールが弾む音が聞こえました。おそらくサッカーか何かだろうなと考えていると、私の思考に呼応したのか映像まで脳内に流れ始めました。中学生くらいでしょうか、半袖短パンの少年たちがコートを縦横無尽に駆け回っています。

 しかし、そんな光景もすぐにフェードアウトし、また別の映像と音声が脳内に入ってくるようです。次は何だろうかと、私は一寸ちょっとわくわくしました。と、少し気を緩めたのがよくなかったのでしょうか。次の瞬間、ぜの景色が濁流のように流れ込んできました。あ、と思った時にはもう後の祭りです。身体はまた彫刻のように微動だにしなくなっています。私に選択の余地などありませんでした。

『フルートの今のところ、もうちょっと感情込めて吹ける?』

『声出せ声!』

『手入れをしっかりすれば、物もそれに応えてくれますから』

『もう、いっそのこと消えてしまえば楽になれるのに……』

『まずいまずい、締め切りがー!』

『誕生日おめでとう。これ、私たちからのプレゼント』

『本物なんて、あるのかな?』

『あれがふたご座のカストルとポルックス。お兄ちゃんがカストルで……』

 次から次へと、声が、光が、移り変わっていきます。

『お母さん、お腹空いたー』

『明日の会議って十時からだよな?』

『うぅ……寒い……』

『美咲ちゃん、三番テーブルお願い!』

『病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も……』

『俺、実はポニーテール萌えなんだ』

『ちょ、お前のキャラ強すぎだろ。どんなステータスしてんだ?』

『ここはもうちょっと、くすんだ色の方が良いかなぁ』

 時々非リアルなものが混じっている気もしますが、私の思考に留まる暇もなくどんどん流れていきます。

『よしっ、プロットはだいたいできた』

『マルティン、メリークリスマス!』

『あそこに飛車打って、取られて、えぇっと』

『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……』

『なんで、なんでよ! 私だってちゃんと頑張ったじゃん!』

『難波津に~咲くやこの花冬ごもり~今は春べと咲くやこの花~』

『みてみて、イルカさんっ!』

『どうせ何をやっても一緒だから……』

 老若男女の声と共に紡がれる喜怒哀楽のあらゆる感情が、私の身体を巡っていきます。

『合格おめでとうー!』

『かき氷うっま』

『(このメロディー……うん、いい感じ)』

『その根拠は何ですか? 今の状態だと納得できないんですよ』

『彼は○○が特徴的で、その点で他にはない魅力を持ってるの! 見て、この神イラスト! あぁもう尊すぎる! 特にここ……』

『次の駅は○○~、○○~』

『お辛いんですね。痛くて、独りで耐えて、でも誰も理解してくれなくて』

『よしじゃあ、俺はダブルダウンだ』

 七色の光を放ちながら千変万化の景色を持った欠片が無限に現れ、一瀉千里いっしゃせんりに私を飲み込んでいくようです。

 赤、青、緑、黄、黒、白、紫、金、シアン、黄緑、オレンジ、藍、グレー、ピンク、銀、茜、ブロンズ……。鐘の音、鳥の羽ばたき、水の落ちる音、機械音、何かが爆ぜる音、吠え声、衣擦れ、怒声、泣き声、笑い声、奏でられる楽器、ペンが走る音、キーボードの打鍵音、クラップ、紙を繰る音、歌声、ホイールを回す音、駆ける足音、叫び声、鈴の響き……。

 芋づる式に現れては流れ、消えることなく私の視覚と聴覚を埋め尽くしていきます。ぐるぐると回り、巡り、まるで生きた鏡の破片が全てを映し出しているようです。もしかして、全世界のすべてを寄せ集めているのでしょうか。そう考えたとき、ふと思いました。この中に私はいるのか、と。

 私は血眼になって、さらにはこれ以上ないほど耳を澄まして、光の渦に己の姿を探しました。砂の中から米粒を見つけるようなことなので、それくらい必死にならないといけません。と思ったのですが、存外苦労はしませんでした。というのも、私の思念が通じたのか、ちょうど目の前に『私』が映る断片が浮き彫りになったからです。

 『私』は例の絵画展にいました。静かに、じっと何かを見つめて。でも何を見ているのかは分かりません。そこいらにある欠片に映った光景はいくらでも認識できるのに、『私』については靄が掛かったようで、それ以上判然としません。だからでしょうか。私は『私』の見ている景色を見たいと、強く願いました。理屈なんてありませんが、そうすれば私の瞳に映る『私』を取り戻せると思ったのです。

 周囲の喧騒なんて目もくれず、私は『私』に向かって必死に手を伸ばしました。実際に動けているのかは不明です。それでも伸ばせるだけ、伸ばそうと思えるだけ、腕を『私』の方へと突き出します。

 途中、いったい私は何をやっているのだろうかと、なんだか可笑しくなりました。だって自分自身は現在ここにいるのですから、私は今何を掴もうとしているのでしょうか。肉体? 自我? 個性? 希望?

 きっと違うと思います。というよりも、そんな何でも包含してしまうようなありふれた文字列で表すなんて、今の私には到底できるとは思えませんでした。たとえ横合いから誰かに名前を付けてもらっても、そんな陳腐なもので語るなと憤ったかもしれません。

 とにかく、私は精一杯『私』を求めました。どれくらい時間が経ったか分かりませんが、近づいているのは確かです。少しずつ、ほんの少しずつ。その間も、星雲のような渦がしゃらしゃらと私を取り巻いています。もう本当に訳が分からないですが、事ここに至ると彼らがなんだか愛おしくなって、またどこか可笑しくって、私は思わず笑みをこぼしてしまいました。

 そうして、やっとのことで私は『私』に触れることができました。「やった!」と思ったのも束の間、続く一瞬のうちに全ての色と音とが私の後方へと走り抜けていきます。辺りが真っ白になりました。


*****


 意識を取り戻すと、私は絵画展の一角で棒立ちになっていました。他の観覧者たちが怪訝な目つきで私の傍を通り過ぎていきます。でも私は、その場をすぐに動く気にはなれませんでした。

 私の眼には一枚の絵が映っています。それは私がへんてこだと言った絵で、また、私を奇妙な体験に引きずり込んだ発端です。模様に吸い込まれ、草原に放り出され、海に投げ入れられ、割れた鏡のような部屋に閉じ込められ。振り返ってみると、なんともまぁ随分な扱いを受けたものです。しかし、こうして無事戻ってきたのだから良しとしましょうか。戻ってきたという感覚とはちょっと異なる気もしましたが、考えてもどうせ堂々巡りをするだけなのでやめました。

 ところで、謎だと思っていたこの絵の正体がやっと分かりました。鞄から昨日持ち帰ったチラシを取り出して眺めると、なお合点がいきました。だいたい、他と同様に絵の下にラベルが貼られていますし、ちょっと記憶をたどればすぐに見当がついたはずです。最初は予備知識を入れずに先入観なしで作品を見たいという、私のくだらない癖がいけなかったのでしょう。本当に馬鹿みたいだと思います。自分は大嘘つきだとも思いました。

 それにしても、せめて純真な子供の時分なら、この体験をもっと楽しめたかもしれません。大人になった結果、詰まらない人間になってしまったのでしょうか。いや、それこそ考えても無駄ですね、やめましょう。私は最後に苦笑して、絵の前から離れました。


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神様の展覧会 示紫元陽 @Shallea

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