第6話 過去の苦痛

静寂の中で響く音がやけに大きく聞こえ、絃葉は思わず身を硬くする。これから入ってくる人物に動揺を悟られぬように絃葉は毅然とした態度を装った。懐刀を手にしたことが身内に気づかれれば奪取されるか、問い詰められるかの2択だ。この部屋に来たのが梓忠ならば尚の事だろう。身構え、次の瞬間に聞こえてきた声に弛緩する。


「私、時之です。絃葉様、少しよろしいですか?」

「ええ、大丈夫。どうしたの?」

「失礼致します。……やはり寝付けませんか?」

「え?」

「先程の様子を見て、もしやと思い。絃葉様は梓忠様のお話を聞いていたみたいなので」


相変わらずの洞察力に呆れつつも何年経っても変わらない時之に安堵する。昔から時之は絃葉の様子にいち早く気づき、声を掛けてくれるのだ。


「……そう気づいてたのね。ねえ、お母様ってどんな人だったの?昔のものを気晴らしに見ていたら気になったの」

「色葉様ですか?そうですね。とても優しく淑やかな奥方様でしたよ。私もまだその時は久峨家に来たばかりでしたが……そんな私にも優しく接してくださいました」


言うと時之は表情を和らげる。時には母として、時には当主の奥方として立ち振る舞っていたと時之は告げる。元々親同士の見合いで梓忠と出会い、十九で絃葉の兄の良忠を産み、二年後に絃葉を産んだらしい。病弱で外に出ることは許されない日々の中、芯の強い色葉は弱音ひとつ零さず己の為すべき事をやり遂げていた、と。


「……お母様、すごい人だったのね」


殆ど母の記憶はないが、少しでも色葉が長く生きていればもっと話せる事はあったのだろうか、などと思うと無性に切なさが込み上げてくる。


「はい。ですのであの妖狐に会い、抜け出した時は驚きました。……当時も夜でした。色葉様がいつあの妖狐とお会いしたのかは分かりませんが、きっと話すうちに絆されたのだと。絃葉様、何故貴女まで外に──」


言いかけ、気づいたように時之は口を噤む。普段は冷静だが、瞳には戸惑いが見え隠れしている。


「時之?」

「絃葉様……どうかあの妖には近づかないようお願い致します。色葉様のような末路になるのは見るに耐えません。色葉様は──」


言葉が途切れる。言い淀む時之の不自然な様子をみた絃葉の頭に過ぎるのは、先程目にした褐色に染まっていた懐剣。誰かに殺されたのか、自害したのか、それとも──


悪寒が這い上がる。


「っ、いえ。長話し過ぎましたね。私はこれで」


悲痛な面持ちで部屋を出ようとする時之を急いで追う。


「っ、時之。お母様がどうなったかは聞かないわ。けれど私は真実が知りたいの。絆されるとかではなくてあの妖狐に何があって何を考えているのか、それを確かめたいの」


真っ直ぐに時之を見据える。嘘偽りない本心をぶつけるように。例え知った先が辛く哀しいものでも後悔はしない。このまま何も出来ずにあの妖狐が捕らえられ処刑されるのを待っているよりもずっといい。本当は懐剣の事も訊ねたかったが無闇矢鱈に探れば事が変に警戒されるだけだ。やはり一部始終を知っていそうな妖狐に直接聞くのが最善に思える。


「……そうですか」


眉尻をさげ、複雑な笑みを浮かべる時之。時之の瞳には仄暗い影が差しているようにみえた。それは行灯の灯りによってかは分からないが、絃葉は妙の引っ掛かりを覚えた。

*******

 一方絃葉と別れた後、妖狐は屋敷から離れた樹の影に身を潜めていた。月が翳り始め、より一層闇の密度を濃くしている。遠方からは慌ただしい久峨の家臣の声が響いてる。恐る恐る様子を窺うと抜刀した久峨の家臣が二手に分かれて城下町に向かう所だった。こうなってしまえば見つかるのは時間の問題だ。だがここで無闇に動く訳には行かず、走り去っていく家臣達の足音に慎重に耳を澄ませた。


「……しかし久峨。やはり侮れないな」


流石旗本と言うべきだろうか。行動の速さが尋常ではない。絃葉を一時とは言え外に連れ出せたのはある意味奇跡だ。狐の姿をしている時は庭への侵入は容易いが、変化している時はその分見つかる可能性が高くなる。今宵の出来事によって久峨家の警備が厳重になる事は火を見るより明らかだ。暫く絃葉を連れ出すのは難しいだろう。


「……たが」


やはり似ていたな。そう思いながら空を見上げる。桜を眺めた時の絃葉の何処か物寂しげな表情を思い出す。それがかつてみた色葉の面影と重なった。


──この子はどうか自由でいてほしい


今から数十年ほど前の事。屋敷の前を通った時にふと声が聞こえて庭を覗くと、夜に縁側でまだ赤子の絃葉を抱き、庭を眺めていた色葉。時節聞こえて来る声には寂寥が滲んでいて、そんな色葉に声をかけたのが事の始まりだった。これが後に悲劇を起こすとは露知らず。真っ直ぐて健気でありながら芯の強い色葉。あの時抱いた印象は今も変わらず残っている。


「……私があのような結末を招いてしまったのか」


意識が引き込まれる感覚と同時に、残酷な光景が脳裏に浮かび上がる。


──お願いします。この子が大人になったその時、自由に屋敷を出ることを望んでいたら


切実な声。目の前に飛び散る鮮血。流れゆく深紅は闇の中で主張する──見せつけるように地面に広がっていた。過去に引き起こしてしまった悲劇に、色葉が告げたひとつの願い。それが蘇る度に心を蝕んでゆく。軽く目眩を起こし、眉間を抑えた。色葉の願いは果たしたいが、生易しいものではないのも事実。


「芯の強い者ほど散りやすい……」


人の血も争いも何百年も見てきた。信念を貫くが故に命を落としてきた人々を。本当に人は時に残酷で儚いものだと、妖狐は思う。


「先刻は言えなかったが……絃葉には真実を話す必要がありそうだな」


もし捕らえられてしまったその時はせめて絃葉だけでも。小さく決意して辺りを見るといつの間にか静謐としていた。閑散としている道は闇に呑まれていてよく見えない。動くのなら今しかない。変化を解くと妖狐はその場を離れた。

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