第37話

 野上が「筋力サポート」を試作機に盛り込む相談を風見に持ち掛けた時、何か違う表現を聞いたはずだった。


――野上は、自分が考えていたより「ずっと悲惨な状況」の「報道されていない写真」を白井から見せられって言ってたよな。


 微妙に表現が違っている。だからこそ、野上は自分が出来ることを必死に探して相談したのだろう。


「姫野さんが見た内容と同じ映像で、野上が『あんな風』になると思いますか?」


「……思いません。」


 姫野が断言したことで、結城が導き出せる結論は只々忌々しい事実でしかない。


――短時間で相手の言動を操作する方法か……。野上のような人間には最も効果的な手段なのかもしれないな。


 白井という男が、そこまで不愉快な事を躊躇わず選択出来てしまう人物であることに気分が悪くなっていた。


「……なるほどね。」


 結城は、白井が野上の心を壊した方法を理解し始めている。

 最も下品な方法ではあり、姫野も白井が選択した手段を薄々気付いているのだろう。気が付いているからこそ、会社にまで慌てて連絡をしたことになる。


「白井という男に悪い噂が流れた意味が分かった気がします。」


「はい。……野上さん、優しいから。」


「私が想像している通りのことを白井がしたのであれば、その優しさを狙われたんでしょうけどね。」


「……その後、なんだか嫌な感じがしていたので、白井先生がいなくなった時に野上さんに話しかけてみました。……その時に資料を落としたんですけど、……そこに書いてあったのはフェンサイクリジンの研究内容だったんです。」


「えっ?……『フェンサイクリンジン』って何ですか?」


 結城には何の用語なのか全く分からなかった。聞いた言葉を返しただけなのに、イントネーションも怪しくなってしまう。


 姫野は少しだけ周囲を気にする様子を見せた後で、結城にだけ聞こえる程の小さな声で答えた。


「……麻薬の一種です。」


 結城は声に出して聞き返しそうになったが、何とか堪えることが出来た。「麻酔の一種」とは野上から一番縁遠い存在だった。


「何で、そんな資料を野上が……?」


 それ以上の言葉を出すことが出来なかった。


「分からないです。でも、結城さんが想像していることを白井先生はしているはずなんです。そうでなければ、あの怖い顔の理由も分からないんです。」


 姫野が、その時のことを思い出して少しだけ興奮状態になってきていた。


「ありがとうございます。よく分かりました。……水を飲んで、落ち着いてください。」


 結城の言葉で自分の呼吸が荒くなっていることに気付いた姫野は、ゆっくりと呼吸を整えてから水を一口飲んだ。


「……スイマセンでした。もう、大丈夫です。」


 落ち着きを取り戻した姫野を確認してから、結城は頭の中で話の整理を始めている。 


――麻薬の資料を野上に渡して、何の意味がある?


 結城は白井が選択した手段が分かっていても、目的が全く分からなくなっていた。


 自己顕示欲の強い白井が、自身の正当性を世間に認めさせるために野上を利用していることは分かっていた。被災地での救援活動に野上を積極的にさせることが必要だったのだろうが、麻薬に繋がる理由がない。


 野上は仕事で大学に訪問しているだけで、その期間はそれほど長くはない。その短い期間で白井の望みを実現するために強引な手法を選んだことは理解出来ていた。

 それでも、被災地での救援活動と麻薬が結びつく要素は見つからなかった。



――36年生きてきたけど、今まで無関係だった「人殺し」や「麻薬」なんて危険な単語が急に多くなってるな……。


 仕事でも様々なトラブルはあったが、異質な問題になってきていた。結城は一旦考えることを止めて、目の前に座っている姫野に声を掛ける。


「色々と申し訳ありませんでした。嫌な聞き方をしました。」


 姫野は、首を強く横に振って否定してくれていた。


「……それをお伝えするために、連絡したんですから大丈夫です。言えずにいたら、絶対に後悔するから……。」


 姫野が落ち着いてくれていることで結城は安心した。


「それにしても、こんなに野上を心配してくれる人がいてくれて良かった。私たちだけでは手遅れになっていたかもしれない。」


 姫野は顔を伏せて照れているように見えた。

 野上が東部大学に訪問を繰り返すようになって一ヶ月程度になるが、悪いことばかりではないのかもしれない。歳の差は多少あるだろうが、気にするほどではないと結城は考えていた。


「後は、私たちが直接野上と話をしてみます。絶対に、これ以上のことは起こさせませんし、白井とも私が話をつけます。」


「大丈夫、でしょうか?」


「もちろん大丈夫ですよ。私は捻くれ者なので、白井なんて相手にしません。……野上は、アイツは優しすぎたんです。」


「……そう、ですよね。……でも、白井先生も一癖ある人なので気を付けてください。」


「ありがとうございます。まぁ、そう言うのを相手にするのは比較的慣れているので問題ありませんよ。」


 ここで結城は姫野に少しだけ意地悪く笑顔を見せてから、お願いをすることにした。


「白井とのことは問題ないとして、野上の性格だと今回の件が後を引くかもしれないのが気がかりなんです。野上が明るく前向きでないと仕事にも支障が出ると思うので、落ち着いたら姫野さんで面倒を見てやってもらえませんか?」


 それを聞いた姫野は再び下を向いてしまった。だが、消え入りそうな声で「ハイ。」と返事があった。

 結城が他人の幸福の手助けしている余裕など存在しないが、上司として対応が遅れたことの罪滅ぼしとすることにした。



 結城は、大学まで姫野を送って届けてから会社に戻ることになる。姫野に確認したところでは、野上は大学に来ていないらしい。

 会社に戻る途中で開発ルームに連絡を入れて、風見に報告を入れることにした。


 事前に連絡して「フェンサイクリンジン」についても、戻るまでに資料の準備をお願いしなければならない。何度聞いても記憶する自信がなかったので、姫野からメモ書きを残してもらっていた。

 そして野上には、「遅くなっても構わないから必ず会社に戻るように」と風見からの連絡を依頼する。


 こういう時の風見は余計な質問を一切せず、ただ一言「分かった。」とだけ言って電話を切る。



 結城は帰る途中に車を止めて、今までの野上の態度や姫野との会話を思い返してみた。怒りや苛立ちは必要なく、冷静に野上と向き合って話しをするためにクールダウンしておきたかった。


 結城は、白井が野上にしていることは「洗脳」に近い行為だと予想している。


――たぶん、白井は野上の価値観を歪める映像を見せたんだろうな……。


 それは想像しただけで気分が悪くなることだった。


――無残に横たわる死体、家族を失って泣き続ける子ども、救いの手を待ち続けて疲弊する人たち。……そんな映像を見続けたら気が変になる。


 野上が白井と接触していた時間を考えれば、野上の心の深くまでは支配している余裕はなかったはずだった。


――現在の野上は、白井にとって都合が良い世界だけしか見えていないんだ。その世界を広げることさえ出来れば、間に合うはず。


 その映像が事実であったとしても、極端に偏った世界だけを見せられれば捻じ曲げられてしまう。野上のように優しい人間であれば容易に捻じ曲げてしまえると結城は考えていた。


――そんな状況で、「この人たちを救う方法がある」とでも言われれば縋りつきたくなるかもしれない。


 単純ではあるが、乾ではなく野上を選んだところに白井のいやらしさが透けて見えていた。


――でも、野上は何も失っていない。


 極端な思考は様々なものを遠ざけてしまう危険性がある。家族、友人、財産、仕事、信頼、人として生きるために必要なものを全て失いかねない。


 結城は、野上が本当に見なければいけない世界に誘導するだけだった。それでも、誘導する方法を間違えてしまえば、結城の声は野上に届かなくなってしまう。

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