きみへ

望月あん

きみへ

 一通のはがきが届いた。

 宛名は明らかに女性のもので、すぐに誤配とわかった。以前の住人かと思ったが、そもそも住所が違う。調べてみると、ここからバスで二十分ほどの場所だった。違和感に誘われて裏面を見ると、淡い紅色がうっすら刷かれていた。今しがた絵筆で撫でたような瑞々しさがある。耳の底ではらりと無音の音がする。ふと、祖母の家で見た八重桜が思い出された。正確には八重桜の絵だ。筆のあとを指でなぞる。花びらの吸いつくような冷たさが感じられるようだった。叔父が描いたのだという直感と、そんなことはありえないという現実が喉の奥で渇きとともにせめぎあった。あらためておもてを見てみるが、差出人の名はない。

 外は雲ひとつない快晴だった。連日の猛暑日である。夕方になると混みあう駅前や商店街も、いまは火が消えたように静まり返っている。誰が描いたものなのか。宛名の女性はどんな人なのか。触れた窓の暑さに一瞬は怯むも、好奇心がまさった。宛先まで届けにいくことにした。

 日なたへ出た途端、夏が肌に突き刺さった。その痛みは十五年のあいだ胸のうちで燻り続けた感傷と綯い交ぜになる。かざした指の隙間から空を仰ぐと、どこからか叔父の楽しげな声が聞こえてくるようだった。

 小学五年生の夏休み、入院した祖母に母が付き添うことになり、否応もなく連れられた。祖父はすでに他界し、庭の茂みの濃い古い家には母の一番下の弟が暮らしていた。初めて会う叔父は、おじさんと呼ぶにはあまりに若かった。母とひと回りも離れている上、ひょろりとしてどこか浮世離れした人だったからだろう。彼は絵描きだった。シャツの袖が絵具で染まっていても、履物が左右で違っていても気にしない。やわらかな髪は寝癖でぼさぼさで、どんなに母に言われても五日に一度しか髭を剃らない。そのくせ不思議と清潔感を失わなかった。お腹がすくと台所で三角座りをして子犬のような目をしてねだり、そうして空腹が満たされると食事の途中でも絵に夢中になった。庭に咲く小さな花や、幹にしがみついて鳴く蝉や、刻々と移り変わる夏の空を、慈しむようにじっと見つめては紙に写し取る。時にはぬかるみに面白い昆虫がいたからと泥だらけになって帰ってきたり、散歩についていくと山奥へどんどん分け入って迷ったりもした。はじめは小学生よりも小学生らしい叔父の奔放さに振り回され戸惑ったが、彼の目、指、筆を通して躍動する生命に魅せられ、叔父のことも一気に好きになった。

 バスの定刻まで運よく五分ほどだった。路線の終点に懐かしい地名を見つける。かつて祖母の家があった場所だ。住む人がいなくなり、売りに出されて久しい。今はこざっぱりとした同じ形の家が建ち並んでいるらしく、鬱蒼とした庭や重たげな家の面影はもうないと、すこし前に母から聞いた。

 家の一階の角には床とタイル張りのアトリエがあった。三畳ほどの部屋には、イーゼルと小さな丸椅子、そしてたくさんのスケッチブックとキャンバスが所狭しと並べられていた。そこにその年の春に描いたという桜の絵があった。絵のことはよくわからなかったが、素直にきれいだと口にした。すると叔父は他にもそう言ってくれる人がいるのだと優しい目をした。綻ぶ音は聞こえるかと問われたので絵と睨めっこしてみたが、桜はうんともすんともいわない。そもそも綻ぶ音がどんなものかもわからない。申し訳なく思いながら首を小さく横に振ると、叔父はぼくにも聞こえないんだよと片方の頬にだけ笑窪を作って微笑んだ。

 熱気とともにバスがやってくる。ほとんどの乗客が降りて駅舎へ向かった。冷房のよく効いた車内はすっかりがらんとしている。いちばん後ろの座席に落ち着くと、待っていたようにバスが動き出す。雑多な看板やテナントビルを映していた車窓はみるみる後方へ流れていった。

 夏休みの半ばのことであった。縁日へ出かけたきり、叔父は帰らぬ人となった。溺死だった。神社の脇を流れる川は川幅こそ狭いが場所によっては深く速い。すぐに祭りの警備員が気付いたが、救急車が駆けつけたときには手遅れだった。警察は酔って足を滑らせた事故死としたが確証はなかった。数年前に賞をとったものの目立った成果がなかったことを理由に、自殺したのではないかと言うものもいた。祖母の悲しみは深く、母は二学期が始まっても留まった。それでは負担が大きいので他の叔父叔母と相談をして、長子である母が祖母を連れて帰ることになった。

 祖母はしばらく入院していたが、今では実家で元気にしている。たまに戻ると、食べきれないほどのぼた餅を作って待っている。帰り際にはいつもぎゅっと手を握り黙り込んだ。ただじっと、しわの増えた手でしがみつく。先日母が言った。あなたあの子と同い年になったのねと。

 バスが大きく揺れながら切り通しを越えると、急に、空は濃く、山は青く茂り、家並みと田んぼの緑がきらめいた。洗濯物がはためく庭には真っ赤なトマトが生り、硬質な黒味を帯びた瓦屋根が太陽に濡れた。こんな場所が車で十分の距離にあるとは知らなかった。越してきてからというもの、駅と駅徒歩二分のアパートとの往復だった。いつだってどこにでも行けたはずなのに、あの頃と違ってしまったことを知るのが怖くて避けていた。

 その時、はがきを持つ指先に何かが触れた気がした。紅色のひと刷けが光っているようにも燃えているようにも見えた。疲れているのだろうかと目をこする。やがてあぶりだしのように別の絵が浮き上がってきた。デッサンに軽く彩色しただけのラフ画だった。傾いた停留所と小振りのポストが並び、商店の軒下に置かれたベンチで老人と猫が休んでいる。

 アナウンスがあり、バスがゆるゆると停車する。買い物帰りの老人が一人乗り込んでくる。連れが来るのというので少し待つ。外を見やると、横にはポストが、奥には食料品や小間物を扱う個人商店があった。その商店名がはがきに描かれたものと同じだと気付いて、わっと声が出た。運転手に降りるのと問われ、慌ててバスから飛び降りる。よくよく見ると停留所は傾いておらず、ポストも定形外が投函できる大きなものだ。しかし商店の主に訊いてみると、看板とポストが新しくなったのはつい最近のことなのだという。お茶を買って店をあとにした。当然バスの姿はもうなかった。

 どこからかお囃子が聞こえる。誘われるように歩き出した。バスが走る旧道から逸れて、漆喰が美しい古い路地をゆく。光の加減か、蔵の壁の家紋が目のようにぎょろりと動いた気がした。視界がひらけると水田にお囃子を奏でる稚児の一団が現れた。それぞれ異なる楽器を手に、揃いの装束を着て畦道を横切っていく。先には石造りの鳥居とこんもりした杜が構えていた。

 参道へ近付くにつれ人が増え、屋台のいい香りが漂ってくる。まだ明るかったはずがいつしか提灯に火がいれられ、暮れ始めた空にぽっかり浮かんでいた。お兄さん金魚はどう。うまいビールが冷えてるよ。呼び込みの声、笑いあう声、見世物の賑わいが飛沫のように散る。何かに躓き足元を見ると、右足はビーチサンダルを、左足には庭用のサンダルを履いていた。今ごろ家では几帳面できまじめな甥っ子が困っているだろう。帰省中の懐かしい顔ぶれが手を振っている。大人びた顔をしていても、笑顔はみな昔のままだ。和太鼓の響きに鼓動を突き上げられ、頬が紅潮するのがわかる。すれ違う人々の表情を見ていると、描きたくてうずうずした。ポケットから小さなスケッチブックを取り出して、道端で鉛筆を走らせる。あの子は今頃どうしているだろう。独りきりであることが今更ながら無性に寂しくなった。

 けたたましいクラクションに、はっと顔をあげる。振り返ると、白い軽トラックから若い男が顔を覗かせていた。道の真ん中で突っ立っていたことに気付いて、慌てて脇へよける。荷台にはビールケースがぎっしり積み込まれていた。はがきには提灯に照らされた賑やかな参道が描かれている。曖昧な記憶を辿りつつ、足は鳥居へ向かっていた。

 炎天下のなか縁日の準備で忙しい参道へ踏み入ると、はがきのデッサンは万華鏡のようにめまぐるしく変化した。驚くことはもうなかった。金魚すくいや射的に熱狂する子どもたち、浴衣姿で肩を寄せ合う恋人たち、力強く焼きそばを作る青年、境内で参拝する人々の声や息づかいまでが聞こえてくるようだった。買ったお茶がなくなる頃には、はがきの差出人が叔父であることは確信に変わっていた。こんなにも振り回しておきながら不思議とわくわくさせる人を他に知らない。描かれた景色を辿りながら参道を奥へ、石段を上がって境内の木陰に腰をおろした。空になったペットボトルに水を汲み、頭からかぶる。生き返る心地がした。

 背後で大きな破裂音がした。人々が夜空を見あげて感嘆している。花火だ。すぐそばで上げているからか、流れ星が降ってくるようだった。消えてしまう前に掴まえてみたい。そしてあの子に届けよう。そう思うと居ても立ってもいられなかった。裏手の山道を大急ぎで駆け下りて、川原へ至る茂みに出る。川面には星が流れていた。揺らめきのなかでいくつもの星が生まれては消えていく。それらの命の灯火を明かりにして、手を動かした。瞬きするのももどかしい。もっと近くで、もっともっと見たい。知らぬ間に茂みを抜ける。川原の砂利に足を取られた。転んだ拍子に鉛筆が真ん中から折れる。大きく息を吸い込むと、火薬のにおいが胸に沁みた。いい大人がいつまでも夢なんて口にして。もっとまっとうに会社勤めをしていくつもりはないんですか。うちの娘にはあなたとは違って将来があるんです。大体いくつ年が離れていると思って。あの子はまだ未成年なんですよ。いいですか、もう二度と会わないようにしてくださいね。サンダルのつま先を水の端っこが撫でていく。冷たくて心地いい。立ち上がり、足首まで浸かる。花火の爆音のなかはとても静かだった。時間が止まってしまったようであり、また光速の時間を生きているようでもあった。ここからなら手を伸ばせば掴まえられる気がした。あと少し、もう少し、じりじりと川を進む。消防団の法被を着た男が向こう側で何か叫んでいるようだが、花火の音で聞こえない。両手を大きく振って応えるも引き下がらない。ひときわ大きな花火があがる。続けていくつも花ひらく。そこから、ひとすじの光が飛び跳ねて、尾を引いて落ちてきた。視界の端をよぎっていく。身を翻してとっさに腕を伸ばすと視界が反転した。手のひらには羽根のような軽やかな感触がある。失くすまいと拳を握ると、伏せた瞼の裏にきらめきが散らばった。花火の残像が何度も何度も繰り返される。真昼のように明るいが、それはとても遠い世界だった。

 そっと撫でるように背中を押す手があった。そうだ、急ごう。この光が消えてしまう前に届けねばならない。懸命に足を前へ踏み出すが足元は覚束なく、水のなかを歩くように体が重い。けれど不思議な清々しさがあった。がむしゃらに手足を動かしていると、つま先が地面を捉える。石段だった。勢いに任せて駆けると、いつしか一軒の家の前にいた。辺りは白み始めていた。暑さとは無縁の冴え冴えとした空気が濡れた体にぴたりと吸いつく。石垣のある家だった。門の前には幅広の階段があり、一人の少女が膝を抱えて座っていた。風に乗って少女の嗚咽が聞こえた。彼女はこちらに気付くとよろけるようにして駆け寄り、シャツの胸元に掴みかかった。揺さぶりながら、どうして、どうしてと涙をこぼした。そうして力尽きてその場にしゃがみ込んでしまう。届け物をしに来たんだと言っても顔をあげない。彼女の腕にはスケッチブックが抱えられていた。そのページを繰りながら、掠れた声でごめんなさいと呟く。わたしが一緒にいたらきっとこんなことにはならなかったのに、きっと一人で子どもみたいにはしゃいでたんだろうね、いいな、わたしも一緒に行きたかったよ。

「……くん」

 背後からの呼びかけに、とめていた息を吐き出した。目の前にはもう少女の姿はないが、同じ場所のようだ。振り返ると、日傘の女性が立っていた。彼女は、あっとこぼして恥じらった。

「ごめんなさい。古い知り合いに似ていたから、つい」

「いいえ」

「あの、うちにご用ですか」

「え、あ……はい」

 手元のはがきに視線を落とす。描かれていたのはひとりの少女だった。走り書きのデッサンではない。ひと筆ひと筆に息吹を感じた。心なしか紙が黄ばんで、彩色も褪せている。それでもそこに込められた少女への想いは、ひとかけらも失われることなく輝いていた。

「はがきを届けに来ました。これは、あなたですよね」

 はがきを差し出すと、彼女は躊躇いがちに受け取った。

「ええ、わたし宛ですけど」

 裏返して、はっと表情が変わる。誰が描いたものか、彼女にもわかったのだろう。

「あなたはいったい……」

「甥です」

「そうですか」

 彼女ははがきを胸元に寄せて目を伏せた。口紅をひいた唇はやわらかく微笑んでいる。叔父からの声を聞いているようだった。きっと、彼女は桜の綻ぶ音を聞くことができるのだろう。

「ありがとうございます」

「渡せて、ほっとしました。それじゃあ」

 一礼して立ち去ろうとすると呼び止められた。

「よかったらお茶でも。暑いなか、せっかく届けてくださったんですし」

「いや、でも」

「お礼をさせてください……」

 きちんと化粧をした女の顔に、夜明けに泣いていた少女が重なって見えた。

 ふと、左手を握りしめたままだったことに気づく。ゆっくりほどくと、なかから一閃のいのちが飛び出した。花火の音が頭上ではじけた。

「スケッチブック……」

「え?」

「叔父のスケッチブックはまだお持ちですか」

「ええ、はい」

「それを見せていただいても?」

 かつての少女は泣きだしそうな顔で、もちろんですと笑って言った。

 彼女のうしろについて階段をあがる。手のひらには川原の小石が残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きみへ 望月あん @border-sky

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ