【2】

― 現在 ―

      

 専務取締役の椅子。ただ、そこに置かれたからそうなっただけで、元は通販で買えるただの椅子だ。四十七歳。葉月は自分の年齢をコーヒーのひと口と合わせて、噛みしめた。湯気で曇る眼鏡も、昔はなかったものだ。組織は相変わらず、『少数精鋭』で、得意先や協力会社との他人行儀な関係も変わらず、社員は六人。その中でも優秀な二人は、社長の護衛を兼任している。大森と藤吉で、二人とも三十代半ば。飯山は当時四十歳だったのが、公平に年を重ねて六十歳になっただけで、その言動はさほど変わっていない。専務だった弟が病気で死んだのは、五年前のことだった。その時点で最長老だった葉月に白羽の矢が立ち、葉月は四十をまたいでようやく殺しから解放された。協力会社からの評判は、気難しかった先代よりもおおむね高い。事業内容は相変わらずで、かつての自分がそうだったように、半端な人間にスーツを着せて拳銃を持たせ、町に放つ仕事だ。経理は、元銀行員の増井。横領で捕まった前科があるから、普通の企業には戻れない。そして、塀の中でしっかりと更生したのかは、誰も知らない。

 雑居ビルの最上階にある、こじんまりとした貸オフィス。一見、空き部屋に見えるぐらいに殺風景で、パソコンが数台と、パーティションが何枚か。社長室と専務の部屋だけは別で用意されている。やってくるのは経費の精算に訪れる社員ぐらいで、ほとんどの打ち合わせはホテルや喫茶店を使う。葉月は、スマートフォンの画面を持ち上げると、しばらく眺めた。二十年以上変わらないスタイルで業界の一端を担ってきた飯山社長の、最近の口癖は『引退』。残り数十年を乗り切るだけの金は、十分にあるだろう。

『葉月、お前もよく仕えた。百歳まで生きても苦労しないぐらい、退職金をやる』

 オールドパーを二人で空にした夜、飯山は言った。口約束だが、今でもそれは有効だろう。他愛ない会話での約束事は、今までに山ほどあった。そのほとんどが意味のないものだ。今、ロック画面には、一件の返信が通知されている。『またな』という言葉は、再会の約束だったのだろうか。今となっては、分からない。有坂は、三十二歳で引退した。十五年前のことだ。子供が生まれたことに困惑している様子で、実感が湧かないとしきりに言っていた。それでも忠実な『引き金』であろうとする有坂に引退を勧めたのは、葉月だった。

『この業界だと、持たないぞ』

『足を抜けると思うか?』

 よく通ったバーで、カウンターに並んで座り、そんな会話を交わした。お互いの目の前には、グラスに薄く張られたマッカラン。球の形をした氷は透き通っていて、その複雑な模様は、地球を琥珀色だけで再現したようだった。有坂の心配事は、葉月もよく理解していた。自分たちの仕事のお陰で生活が楽になったり、悩みから解放された人間はあちこちにいるが、誰かが死んで初めて望みが実現されたという、不都合な共通点がある。つまり、かつての顧客にとっては、自分たちは脛の傷なのだ。そんな人間が急に姿を消したら、どこかで話されるのではないかと、不安がる人間も出てくる。色々な危惧はあったが、結果的に、なし崩し的に有坂は引退を許された。

 ロック画面を解除して、有坂が返してきたメールの中身を読んだ葉月は、読み終わる前に返信を考えていた。十五年前と同じように、酒を飲みながら話す。このご時世では、そんなこともかなわない。店はほとんどが閉まっているし、出歩けば目立つ。

『宅飲みってわけでもないが、うちに来るか?』

 葉月はそう返信して、続いた数回のやり取りで最寄りの駅まで迎えに行くことを約束すると、上着とマフラーを掴んで、雑居ビルの裏にある駐車場まで下りた。六台が停まっていて、幌をかぶせられている二台は、年代物のステージアとフォレスター。どちらも過去の遺物で、場違いなぐらいに巨大なターボエンジンを積んだ、今では作られないようなタイプの車だ。両方、いずれ仕事で使われる。葉月は、そのさらに奥に停めた、アイボリー色のランドクルーザーの前に立った。ロクマルと呼ばれる型で、乗り心地も操作の重さも、乗用車と呼べるギリギリのラインだが、簡単には壊れない。葉月がポケットから鍵を取り出したとき、白のBMWの四シリーズが入ってきて、運転席から頭を出した増井が愛想笑いを浮かべた。

「お帰りですか?」

「そうだよ。お疲れさま」

 増井は、頭を半分出したまま器用に車庫入れして、降りてくるなり言った。

「社長、やめちゃうんすかね」

 増井にはまだ伝えていないはずだが、飯山の『廃業宣言』は、いつの間にか公然の秘密になっている。

「金庫、すっからかんにしてやれよ。お前、得意だろ」

 葉月が言うと、増井は少しだけ体をのけぞらせて、笑った。笑顔になるまでに少しだけ存在した間に増井の頭を巡ったのは、『それもありですね』なのか、それとも、『そのつもりです』か。どちらにせよ、増井のことだから、何か計画は立てるだろう。

「葉月さん、この業界で長いですよね。そのこと自体が珍しいんじゃないですか」

「現場から管理側に回ったのは、おれが初めてだよ」

 葉月はそう言って、手で銃の形を作ると、笑顔のまま増井の頭に向けた。ワンテンポ遅れてぎくりとした増井は顔を引いて、ビルの入口へ消えていった。葉月はランドクルーザーに乗り込んで、家までの道を走らせた。途中、酒屋に立ち寄ってマッカランの十八年を買った。家には、タリスカーしか置いていない。会うこと自体が、十五年ぶりなのだ。連絡自体はメールや電話で取りあっていたが、お互いの風体はどこか遠慮しあうように、写真などでやりとりすることは一度もなかった。

 夜八時、駅のロータリーはがらんとしていて、店の電気も消え始めている。葉月は、十五分前に行き過ぎて停まった一台の車に、注目した。最終型の白いローレルだが、ターボのRBエンジンを積んだクラブSで、相当速いだろう。そのローレルが停まっている位置は、何とも中途半端だ。柱が近すぎて、歩道側のドアは開けられない。このロータリーを抜けた先には、信号がある。歩行者の数はそれなりに多く、赤信号では到底抜けられない。そのすぐ近くにタクシー用の入口があって、逆走にはなるが、そちらであれば、信号に影響されずに抜けることは可能だ。ローレルは、その出入口の前にいる。何かが起きれば、即座にこの場を離れられる位置だ。

 視線を合わせないように、バスに乗り込む人の流れを見つめていると、窓が鳴った。葉月が顔を向けると、コートに身を包んだ有坂が言った。

「お待たせ、開けてくれ」

 助手席に乗り込んだ有坂は、確かに四十七歳だが、予想していたよりも若々しかった。ランドクルーザーの車内を見回した有坂は、笑った。

「殺風景な車だな」

「家電みたいな車は、ごめんだね」

 葉月はそう言うと、ランドクルーザーを発進させた。ローレルはまだ停まっていたが、中に二人が乗っていて、追い越すときに目を向けたが、暗くて人相までは分からず、どちらも前を向いたままだった。赤信号の前まで来て停車したとき、有坂は改めて挨拶するように、葉月の顔を見た。

「お前が、眼鏡? どっちだよ?」

「何が?」

「近眼か?」

 有坂は目線だけでドアミラーをちらりと見た。ほとんど景色は映らないが、ヘッドライトの光なら見える。葉月は、現役時代から引き継いでいる有坂の癖を見ながら、笑った。

「どっちもだよ。久しぶりだな」

「顔を合わせるのは、十五年ぶりだぞ。何があったんだ」

 有坂がそう言ったとき、信号が青に変わり、葉月はクラッチをつないだ。路面のでこぼこを容赦なく拾うランドクルーザーの中で、葉月は言った。

「狙撃だよ」

「は?」

 有坂は、言いながら笑った。葉月はクラッチを踏み込んで、シフトレバーを四速に入れた。その荒っぽい音を聞いて、有坂は笑顔を消した。

「お前、本気で言ってるのか?」

「おれは本気だ。とりあえず、全容を聞いてくれ。車の中じゃ無理だ」

 葉月はそう言って、有坂が口を閉じるのを待った。聞きたいことは山ほどあるだろう。一時間ほど走り、緩やかな山道沿いに建つ一軒家の、砂利敷きの車庫にランドクルーザーを入れた。エンジンを止めたとき、有坂は言った。

「全然、最寄りじゃねえな。これは本当にお前の家か?」

「おれの家だよ。田舎が好きなんだ」

 葉月は運転席から降りて、後部座席からマッカランの入った紙袋を取った。有坂は同じように車から降りて、言った。

「メシでも食うのかと思ったけど、違うんだな」

「マッカランならある」

 葉月が紙袋を掲げると、有坂は笑った。

「もらっていいのか? ありがたいね」

 葉月が鍵を開け、二人はロッジのような家に入った。暖房が常に効いていて、暖かなランプの光に満たされている。コートをハンガーにかけた葉月は、ソファを指さした。前のテーブルには、資料が広げられている。有坂はコートを脱ぎながら、苦笑いを浮かべた。

「広げたまま出てきたのかよ。不用心じゃないのか」

 グラスを二つ持ってきた葉月は、有坂とテーブルを挟んで向かい合わせに座り、両方にマッカランを注いだ。葉月の険しい表情を眺めていた有坂は、思わず笑いながら言った。

「おい」

 聞き逃した葉月が、ペン立てからパーカーのボールペンを抜いたとき、有坂はもう一度言った。

「葉月、十五年ぶりだぞ。立ち飲みで一杯やるわけじゃないんだ」

 葉月はようやく聞き取り、有坂の目を見返した。グラスを掲げて、言った。

「そうだな、再会に」

 乾杯をしてグラスを空けた後、有坂は言った。

「来年、高校だ。うちの子の話な。私立に行くから、学費が悩みの種でね」

 有坂は、殺し屋として二十代を過ごしたが、今は市井の人だ。家具店を経営しているが、わざわざ商品を見に来なくてもネットで買える時代には、厳しい商売らしい。インターネットの通販は好調だが、大型店相手に値引きでは勝てないという。葉月は、メールのやり取りが中心になった相手が目の前にいるということに、改めて居住まいを正した。メールなら返信せずに放っておけばいいが、目の前の相手は帰さない限り、そこにいる。

「女の子だっけ?」

「そうだよ。でもな、ゲーセンで銃のゲームばかり選ぶんだ。おかしいよな?」

「お前の娘って感じがするよ」

 葉月は笑った。性別を聞くのも、今日が初めてだった。会うと、歯止めが利かなくなる。それはどことなく、頭で理解していた。放っておけば、このまま思い出話だけで、朝を迎えることになる。相手を殺すという最終手段を知り尽くした二十代の自分たちは、怖いもの知らずだった。それは間違いない。一度も解凍されずに安置してきた記憶が、蘇っていた。葉月は言った。

「ヒップシュートさせてみたら、分かるんじゃないか」

「確かに」

 有坂は、サイトを見ることもなく、抜いた拳銃を腰の位置から前に向けて、まっすぐ弾を撃つことができた。その才能は本物で、葉月の命を救ったこともある。有坂は二杯目をゆっくりと味わいながら、図面に目を落とした。

「この辺は、昔から変わらないんだな」

 ゼンリンの地図に、蛍光マーカー。マジックの赤い丸印に、写真。紙のいいところは、燃やせば塵になるということだ。履歴やデータに残らない。有坂は地図の内容を数秒で読み解き、言った。

「波止場の反対側から狙撃か。相手は船から降りないのか?」

「相当ビビってるらしい。朝はデッキでラジオ体操をするらしいけどな」

 船の上にいるということは、上下左右に常に揺れている状態だ。波止場から持ち場までの距離を地図上で測った有坂は、笑った。

「三百七十? 無茶だろ。サプレッサーは?」

「現物はまだ見てないが、あるだろうな」

「じゃあ、亜音速だろ? それで三百七十? しかも相手は上下左右に揺れてるんだよな?」

「呼んだ理由が分かっただろ?」

 有坂は少しだけ頬を紅潮させていた。それがマッカランによるものなのか、それ以外に何かあるのかは、読み取れない。葉月は、蛍光ペンで書かれた線をなぞった。オレンジ色の線は、出入りするためのルートを示している。

「田川が、こっち側の出口で待ってる。全力で走ったら、持ち場から十秒だ」

 有坂は自分の腹を見下ろしてから、笑った。

「十秒は保証できないかもな」

「元々、足は遅かったろ」

 葉月が言ったとき、そこで会話が止まった。足の速い奴となると、どうしても佐山の顔が浮かぶ。有坂は小さくうなずいた。

「それに、銃の腕も分からないぞ」

 そう言いながら掲げた左腕は、今でも動きがぎこちない。二の腕の筋肉を削いだ四五口径は、ハイドラショックと呼ばれるホローポイント弾で、人体に可能な限りのダメージを与えるために設計されていた。十五年前の古傷。引退するというのは、一体どういうことなのか。それは、この傷跡に刻まれている。有坂は、腕を下した後、葉月の顔を観察した。安全装置を親指で解除するときの、あの小さな音。時計の秒針が鳴るのを聞き取るぐらいに、意識でもしていなければ困難だ。葉月の助けがなかったら、二発目でとどめを刺されていたかもしれない。仕事用の家で葉月と話していたとき。四五口径で口封じに現れたのは、佐山だった。ちょうどトイレに入ったところだった葉月は、飛び出してくるなり三八口径を抜き、真横から佐山の頭を撃って殺した。飯山が謝る姿を見たのは、このときだけだった。佐山は常に、自分が警察に売られるのではないかと不安がっていた。有坂自身は、仕事用の家のことを親しい仲間以外に他言しないよう注意していたが、佐山はそれを見つけた。若いころの三人組は、そうやってひとりの死体を残して終わった。有坂が得たのは、自分の家族を持って引退するという、自由へのパスポート。

 それにしても。有坂は、見取り図を俯瞰して、ひとつのことに気づいた。

「反対側を誰かが塞ぐことは、ないのか?」

 出入口は二つある。片方で、田川というドライバーが待機しているのだろう。しかし、逆側の入口はがら空きだ。両方が大きな道路に面している。誰にも悟られずに裏を取れる道が残っているのだ。葉月は言った。

「反対側は空いてる。何かが起きたら、例の十秒だ」

「走れってか? お前、無茶だぞ。後ろを気にしながら狙撃はできない」

 有坂はそう言いながら、二十年前ならどう考えたか、当時の自分を思い出そうとした。狙えば周りの空気が共に支えているように、サイトはぴたりと止まった。意識などしなくても、引き金を引く瞬間は呼吸の半分が肺から抜けている状態で、その動きは機械仕掛けのように正確だった。それから、ありとあらゆる人間的な行事に関わり、浸かってきた。機械のような手は、妻の薬指に指輪を滑り込ませたときから、その役割を変えた。それは、二十四時間家族を案じ、予測不能に駆け回る娘の動きに合わせて、カメラを振る手になった。

「他にいないんだな? 十五年前に引退した中年男を頼るしか、本当にないのか?」

 有坂が言うと、葉月はうなずいた。

「すまないと思ってる」

「本当に、そうなのか? おれが乗るって、最初から分かってたんじゃないのか?」

 有坂はグラスを置いて、地図を眺めた。娘に向けるカメラのグリップと、標的に向ける銃のグリップは、本質的には同じだ。狙った相手を逃がさないために、人間の手に吸い付くようにできている。そのスイッチを切り替えるには、マッカランをひと晩かけて飲み干す以外に、方法は思いつかない。

「乗ったのか?」

「お前、おれと顔を合わせてるんだぞ。十五年ぶりなんだ。その間に何があった? 眼鏡をかけだしただけってことはないだろ?」

「おれは現役だからな。話せることは少ないんだ」

「おれが乗ったら、話すか?」

「いいや」

 葉月は短く言って、立ち上がった。戸棚の引き出しを開けて、ダッフルバッグを取り出す後姿を見ながら、有坂は葉月の過ごした二十年間を想像した。若いころの葉月は、女によくもてた。結婚など想像もつかなかったし、恋人は次々と入れ替わった。今は、これ以上ない地位を得ている。この業界で現役上がりの四十七歳というのは、それだけで奇跡のような存在だ。若いころ、二人で話していた『ライフプラン』は二つあった。ひとつは葉月のような、業界を隅々まで知る伝説的な男。もうひとつは、自分のような引退に成功した男。そのひとつずつを、こうやって体現している。しかし、葉月の背中はあまりにも疲れて見える。

「なんでも博士」

 有坂が言うと、葉月はダッフルバッグを床に放って、笑った。

「懐かしいな」

 二十年前、仕事が終わった後の朝飯。横転したランサーは、今でも覚えている。佐山を家に帰し、開いたばかりの喫茶店でモーニングを食べながら、二人で語った。引退して家庭を持てたら、晴れて『ファミリーマン』の称号を得る。しかし、組織で生き残ったら? その言葉が思いつかなくて、目玉焼きを食べながら葉月が思いついた精一杯の答えが、『なんでも博士』だった。

 再び向かい合わせに座り、葉月は言った。

「明日、駅まで送る。資料はこのバッグに入れておくから、よく考えてくれ」

「仕入れとオークションで何日か空けるって、言ってある」

「じゃあ、今晩は泊まって、明日からはホテルを取ってくれ。費用はおれが持つ」

 葉月の言葉に、有坂は笑った。その笑い声が言葉に変わる前に、葉月はメモを差し出した。

『この部屋は、盗聴されている』

 有坂が、昔からの癖で葉月の目をまっすぐ見据えると、葉月は呆れたようにソファにもたれた。このタイミングで伝えたのは何故なのか。有坂は一瞬考えたが、マッカランに視線を向けながら言った。

「飛び込みを受け入れてくれりゃいいが。この家じゃだめなのか? 掃除ならしてやるぞ」

「変に触ってもらいたくないね。お前が掃除?」

「結婚ってのは、人を変えちまうもんだよ」

 有坂はそう言って、笑った。誰が盗聴しているか、それは明らかだ。自分たちの仕事でも必ず、ひとりのオブザーバーがいた。聞いているのは、ドライバーの田川なのか、それ以外の誰かかもしれない。有坂は言った。

「相変わらず、嫌な仕事だな」

「全くだよ」

 葉月はそう言うと、精一杯くつろぐように伸びをした。有坂は自分でマッカランをグラスに注ぎ、ひと口飲んだ。あの朝飯のとき、『なんでも博士』にひとしきり笑ったあと、葉月は突然『元々、価値のなかった命』と言った。それが二人を指す最も適切な言葉に思えて、間に合わせにコーヒーで乾杯したことを覚えている。

      

 朝九時に駅前で有坂を降ろし、葉月はランドクルーザーで波止場の近くの工場跡に向かった。六人の社員の内、四人がここで待機している。見た目は廃工場だが、電気が引かれていて、簡単な自炊ならできる上に、寝具や整備用の道具も揃っている。葉月がランドクルーザーを停めて運転席から降りると、テーブルを囲んでいた三人が席から立ちあがって、頭を下げた。葉月は目線だけで応じると、主役のように真ん中に停められた、逃走用の黒いスープラRZのもとへ歩いて行った。田川はボンネットを開け、中を覗き込んでいたが、足音に気づいて振り返り、姿勢を正した。

「おつかれさまです」

「走りそうか?」

「はい」

 田川はそう言って、三リッターの直列六気筒エンジンを見下ろした。タービンは二つ装備されている。一回使えば、二度とその姿を見ることはない。逃走がただのドライブで終わったとしても、このスープラはスクラップ行きだ。

「葉月さん、昔はドライバーだったと聞きました。この車は、どう思いますか?」

 田川はたどたどしい、緊張した口調で言った。葉月は笑った。

「おれが現役だったときは、車はもっとポンコツだったよ」

 言いながら、葉月は視線を移した。テーブルの前にいた三人は、ハイラックスの荷台に積まれたケースを取り出してテーブルに移し、中身の確認を始めている。銃身を短く切り詰めたレミントン八七〇と、不格好なサプレッサーの取り付けられたグリースガンが二挺。海外の警察で使われていたものだ。バイヤーが誰だったかは、もう思い出せない。

 田川がボンネットを丁寧なしぐさで閉じて、言った。

「この後、どうしますか?」

 誰が広めたのか知らないが、また廃業の話。葉月は笑った。

「たこ焼き屋でもやるか」

 田川は、自分が真面目に取り合われることはないと悟ったらしく、一礼すると三人の元に合流した。スープラは後期型で、フロントとリアでタイヤのサイズが異なる。これも、当時出たばかりのころに、有坂とよく話した、『夢の車』だった。パッと買えるだけの資金はあったが、見逃してきたもののひとつになった。物に対するこだわりというのは、相手が生き物でない以上、全てが過去に向けられている。そこに、未来はない。流線型の車体を眺めた後、葉月は四人のもとに近寄った。

「弾は?」

「四五口径はミリタリーボール、散弾はダブルオーです」

 田川の隣で、グリースガンの薬室を開いている笠岡が言った。

「ボディアーマーは?」

「ありません」

 笠岡は笑った。現世代の『引き金』は、自分が撃たれるつもりがない限り、撃たれることはないと信じているように見える。トランスミッターの埋め込まれたボタン式の発信機を人数分揃えて、他の三人の反応を試すようにボタンの面に触れた。

「おい、押すなよ」

 田川が額を汗に浮かべて言った。笠岡は初めからそのつもりなどないように、口角を上げて笑った。発信機はいわゆる『緊急シグナル』だ。想定外のことが起きたときにボタンを押せば、飯山と葉月のスマートフォンに瞬時に伝わるようになっている。

     

 昼の二時、フロントのホテルマンはやや不審そうな表情を巧みに隠し、部屋を充てた。巨大なキーホルダーのついたルームキーを振りながら、有坂は案内された部屋に上がった。葉月の家は、盗聴されていた。葉月ならそれに気づくだろうし、特に腹も立てないだろう。永遠に続くわけではないし、それがオブザーバーの仕事だ。三百七十メートル。狙撃というのは、繊細な作業だ。まずはライフルのことをよく知らなければならない。今晩、波止場で下見をする際に対面する。どれだけ低い姿勢が取れるかはライフルのデザインによるから、その形を知ることが最優先だ。有坂はそこまで考えて、小さく息をついた。十五年を、普通の人間として過ごした。でも結局こうやって、ホテルの一室で何かに怯えるようにカーテンも開けずに、葬式を待つ死体のようにぴたりと息を潜めている。その動きや作法を全て覚えている体は、自分のものではないようだった。有坂はダッフルバッグの中身をひとつずつベッドの上に開けていった。地図を開いて、昨晩見たばかりの波止場に目を凝らせた。葉月が向かい合わせに座っていたときは何とも思わなかったが、ひとりだと、それは死刑宣告の詳細な見取り図にすら見えた。有坂は高鳴る心臓を抑え込みながら、ミネラルウォーターをひと口飲んだ。カーテンから真っ白な光が差し込み、有坂は柔らかな光の帯を跳ね返す地図を見つめた。もう一枚が、重ねられている。有坂は地図をめくった。地図は一枚ものではなく、小さな四枚をひとつにまとめたものだった。左上は海沿いの住宅。左下は、貸倉庫。右上は展望台近くの公園。そして右下は、廃工場。それぞれに出入口がマーカーで記されているが、葉月から聞かされた仕事には入っていない。

「なんだこれ……」

 有坂は言いながら、答えを求めるようにダッフルバッグの中を覗き込んだ。青色のピストルケースが入っていて、それを手に取った有坂は、手が意思と関係なく動き出したように、ケースを開けた。中身は黒色の四五オートで、シュアファイアのフラッシュライトが取り付けられていた。有坂はダッフルバッグを掴み、裏返した。弾倉が入った状態の二連のポーチが落ちてきて、その上にカイデックス製のホルスターが折り重なった。上着で完全に隠れる、薄い型だった。有坂は四五オートを手に取り、弾倉を抜いた。メーカーは分からないが、ホローポイント弾が八発装填されていて、ポーチに入った弾倉二本も、同じだった。薬室は、空。この二十四発の弾は、いったい何のためにある? 葉月は、狙撃だと言ったはずだ。右手に拳銃を持ったまま、有坂が立ち尽くしていると、カーテン越しの光がさらに明るくなった。有坂は、二枚目の地図の端に、メモがホチキス留めされていることに気づいた。葉月の荒っぽい字は、メモ用紙を彫り込むような強度で踊っていた。

『地図は全部頭に入れろ。あと、必ずその銃を持ち歩け。練習もしておくべし』

 有坂は、葉月の字に気が抜けたように笑った。用心深いにもほどがある。ホルスターにベルトを通して右腰の位置に合わせ、有坂は何度かドライファイアを繰り返した後、地図と睨めっこする作業に戻った。

       

 夕方に、葉月は事務所へ寄った。パソコンに向かっていた増井は、画面を真っ暗に消して、振り返った。

「葉月さん、おつかれさまです」

 葉月は目だけで応じると、コーヒースタンドから熱いコーヒーを入れて、ひと口飲んだ。

「昨日、廃業の話をしていたよな?」

 増井はうなずいた。特殊な会社だから、日中に人がいることは滅多にない。葉月はデスクの前に立って、言った。

「ここだけの話だが、あれは本気らしい。飯山社長は、堅気に戻るつもりなんだよ」

「そうなんですか……」

 増井は、整髪料と汗が混じって光る額に手を置き、拭った。葉月が目をまっすぐ見て言葉を交わすことは、今までになかった。大抵が立ち話や、すれ違いざまの軽口だった。

「葉月さん、リタイヤで悠々自適ですか? 具体に、いつなんでしょう」

「時期は分からない。社員はおそらく、協力会社が引き取るだろうな。フリーランスになるやつもいるだろうが、それは本人次第だ。おれは、足を洗うよ。社長の予定はどうなってる?」

 葉月が言うと、増井はメモ帳を取り出した。秘書に近い存在だから、葉月よりも社長の行動を把握している。

「今日は一日、海沿いの別荘ですよ。夜はレストランを予約してますが」

 増井はそう言って、葉月の顔を見上げた。

「説得するつもりですか?」

「いや、もう遅いよ」

 葉月は言いながら笑った。増井の、整髪料交じりの汗。それは、おれがパソコンにあまりに近い位置に、立っているからだろう。

「画面をつけろ」

「はい?」

 増井が答えるよりも前に、葉月は画面のスイッチを押した。見たことのない企業の口座への送金履歴。個人的な、自分で自分に宛てた退職金。増井の首を手で捕まえた葉月は言った。

「お前は、いつかやると思ってたよ」

 増井が返事をするよりも早く、葉月はナイフを首の左側に突き刺した。失血死した増井を床に倒し、葉月は画面を眺めた。増井にしては、送金された額は控えめだった。小分けにして送るつもりだったのかもしれない。葉月は事務所から出て、駐車場に降りた。ランドクルーザに乗り込むと、ダッシュボードからファミリアのキーを取り出し、キーリングに追加した。

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