第29話 カノジョ

 ひとしきり泣いて、もう涙は出なくなった。

「落ち着きましたか?」

「うん。ごめん。かっこ悪いところ見せたね……」

少し恥ずかしくて、目を伏せたまま小さく言う。

「いいんですよ。人間、誰しも弱いものって小学校の道徳の授業で習いました」

明里さんは少しおどけて笑いながら、優しく僕の涙を肯定してくれた。

「そっか……。ありがとう、明里さん」

お礼をしっかり伝えて、僕は明里さんから少し距離を取った。

「先生? こんな時に訊くのもアレかもしれないんですけど……。今、お独りなんですよね?」

いきなり、明里さんが伏し目がちに聞いてきた。

「まぁ、そうだね」

こちらも目を伏せて、首に手を当てながら答える。

「あの、それじゃあ……。私と。その、付き合ってくれませんか?」

明里さんは真剣な眼差しで、そうはっきり言って恥ずかしそうに視線を足元に逃がした。

「……」

僕は正直、返事に困ってしまった。僕の本心として、明里さんが好きなのは確かである。でもここで、明里さんの気持ちに応えてしまったら、先生と生徒という崩すことが許されない関係を壊すことになってしまう。

「も、もちろん家庭教師も続けたままで。授業料も払います。それに――」

長い沈黙が怖くなったのか、明里さんは慌てたようにペラペラと口を動かした。そんな明里さんを見て、彼女の想いがひしひしと伝わってきた。

 言葉の節で向けられる可愛らしい視線。くねくねと体を動かして、置き場所の定まらない手。ほんのり赤らんでいる頬。とても緊張していて、うしろめたさなんて一切ない、真っすぐに向けられた気持ち。そんなストレートな想いに、胸の奥がじんわり熱くなってくる。

「こんな僕でよければ、お願いします」

僕はあたふたしている明里さんの手を取って、しっかりそう伝えた。

「ほんと、ですか?」

疑うように上げられた視線。胸がドクンと跳ねる。

「もちろんです」

小さく微笑んで返すと、

「やった~!」

明里さんは、一気に表情を華やげて僕に思いっきり飛びついてきた。

「ちょ、明里さん?」

とつぜん起こった予想外の行動に動揺してしまい、視線が宙を彷徨う。

「今は“カノジョ”なんですから、明里って呼んでください」

明里さんは可愛らしく頬を膨らませて、可愛らしくねだってくる。心拍数が上がって、自分の鼓動が彼女に伝わってしまいそうなほどに大きく心臓が跳ねる。

「分かったよ、明里。それじゃあ、二人でいる時はお互いに、タメ口で話すようにしよう」

「うん!」

夜空に咲き誇る花火のような明るい笑顔。顔が紅潮しているのを感じる。

「それじゃあ帰ろうか」

「うん!」

僕は、たった今付き合ったばかりの明里の手を握って、さっき歩いた道を戻った。左手に感じる温かい感触。思い返してみれば、元カノのこの感覚を僕は覚えていない。アイツとはこれまで一回も手を繋いだことなかったんだな、と小さな苛立ちが生まれたけど、隣で楽しそうに鼻歌を歌っている明里を見たら、そんな気持ちもどこかに消えていた。

「それじゃあね」

「うん。バイバイ」

可愛らしく手を振って、明里は玄関扉の奥へと消えて行った。

 少し出来過ぎているこの展開に恐怖心が芽生えたけど、きっと神様はこんな惨めな僕に救いの手を差し伸べてくれているんだと言い聞かせて、心の中の大きな恐怖心を払拭した。

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