最終的に泣く赤鬼

尾八原ジュージ

最終的に泣く赤鬼

 初めて我が家を訪れた日、姉の婚約者は茶色のカジュアルめなジャケットとベージュのチノパンを身に着けていた。うちの父が「緊張するから絶対にスーツで挨拶になんか来るな」と言ったせいだ。

 服装だけ見れば、なるほど聞いていた通りの爽やか好青年に見えたけど、顔が鬼だった。比喩でなく普通に赤鬼だった。塗料で塗ったみたいな真っ赤な顔の額からは一本角が生えているし、唇をめくりあげて長い牙が覗いているし、あまりにも屈強そうな体つきといい、手指の長い鉤爪といい、とにかく鬼だった。

 父と母は上機嫌で彼氏を出迎え、母が「体格のいいかたねぇ」と言ったけれど、ツッコミらしきものはそれだけだった。

「お邪魔します」

「どうぞどうぞ」

 鬼はきちんと靴を揃えてうちに入ってきた。いやいやいやいや。私は車を停め直してきた姉をつついて小声で問い詰めた。

「どういうこと? 鬼じゃん」

「鬼だけど、だから何よ」姉は顔を顰めた。「ほーちゃんがそういうこと言う子だと思わなかった」

「えぇ……」

 人種差別とかそういう次元の問題ではない。鬼だ。とにかく姉と一緒にリビングに行くと、鬼は上座に通され、一番いい茶碗でお茶を出されて恐縮している。おまけにその黒い靴下を履いた足元には、我が家で一番発言権のある黒猫のたまこがいて、スリスリと体を擦り付けているではないか。

「あらら、やめなさいたまこ。毛がついちゃうでしょ」

「あーいやいや大丈夫です。かわいいですね」

 鬼が猫に擦り寄られてニコニコしている。私は何というものを見せられているのだろう。鬼が笑うのは来年のことを言われたときではないのか? 我が家のリビングで猫にスリスリされたときが正解だったのだろうか。そもそも姉はどこで鬼と知り合ったのか? 考えることが多くて頭がくらくらした。

「ほなみもちゃんとご挨拶なさい」

 母に促されて、私はなるべく平静を装いながら、なぜか「あけましておめでとうございます」と口走り、自分がそこそこ動揺していることを再認識した。鬼氏は「あ、ありがとうございます」と答えて頭を下げてくれたが、その口がちょっと笑っていたのを私は知っている。姉が私の脇腹に手刀を入れ、「はじめましてとかじゃないの!?」と突っ込んだ。

「はじめまして、あさみの妹のほなみです」

「はじめまして、鬼塚と申します」

「ぶっ」

 本当に失礼なのはわかっているけど、笑ってしまった。鬼の鬼塚さんて、あまりにそのまんますぎる。ネーミングが安直に過ぎる。母がギロッと私を睨み、私は慌てて咳をしながら「す、すみません、むせちゃって」と言っていたら本当にむせてしまった。

「すみませんね〜、この子緊張してるみたいで」

「いやいや、お気になさらず」

 鬼あらため鬼塚さんは大きな赤い手で「いただきます」と茶碗を包むように持ち、ちょっと口に含んでまた戻す。猫舌か。鬼なのに猫舌なのか。たまこは鬼塚さんの膝に乗ってゴロゴロ言い始めている。こいつ、私にもこんなにデレること滅多にないのに。

 何だか無性に寂しくなってきてしまった。私もソファに座ってお茶を飲む。熱い。


 姉と鬼塚さんはこの訪問の三ヶ月後に籍を入れ、九ヶ月後に結婚式を挙げた。

 親族の集合写真には、スーツや黒留袖なんかを着た人間たちのなかに、紋付袴をつけた鬼塚さんが真っ赤な顔をして写っている。二回りほど大きなその姿に、やっぱり鬼じゃん、と私は思ってしまう。

 ちなみに鬼塚さんの親族は異界の妖魔大戦で全員亡くなってしまい、まだ子供だった彼ひとりが生き残ったという。その後なにかしら大いなる存在によって、人間界に転送されてきたのだそうだ。何ひとつわからない。壮絶な生い立ちを聞いて両親は涙したが、私はまた(鬼だからな……)と思ってしまい、まったく泣けなかった。

 親族の誰もが鬼に驚かなかったというわけではないけれど、表立って反対するひとはいなかった。鬼塚さんはうちに婿入し、私の義兄になった。名字も轟さんに変わり、ますます強そうだ。

 両親は娘婿をいたく気に入り、結婚して一年が経った頃には、「今度うちを建て替えて、二世帯住宅にしようと思うんだけどどう?」などと私に相談するようになった。

「ああ……そう? いいんじゃない」

 私はそんなぼやけた返事をする。

 つまり両親は姉夫婦と同居したいのだ。悪くはないと思う。義兄はとても気立てのいいひとみたいだし、両親にも気に入られているから、同居しても上手くやっていけるんじゃないだろうか。両親だってもう年なのだから、いざというとき頼れる誰かが身近にいた方が心強い。

 でも、その家はもう元通りの私の実家ではないんだな、という気がしてしまう。切なさと寂しさが胸に渦巻き始める。

 私はその頃もう実家を離れていて、親と姉夫婦との同居に軽々しく反対できるような立場ではない。仮に姉の配偶者に問題がある、というのなら文句も言えるけれど、義兄には文句のつけようがない。鬼だけど。どう見ても赤鬼だけど。私に引っかかるのはただその一点、でもその一点が喉に刺さった魚の小骨のように、いつまでもいつまでも気がかりなのだった。


 結局古い実家は取り壊され、立派な二世帯住宅が建てられた。広いし、設備も新しくなったし、よかったよかったと皆大喜びだ。

 私も祝いながら、実家とどんどん縁遠くなっていった。帰省の回数が減って、滞在時間も減って、なんとなく親と連絡を取る頻度も落ちた頃、たまたま仕事先である男性と出会った。

 爽やかで優しそうで、どう見ても人間の顔をしたその男性と、私はどんどん親しくなった。やがて私は彼を実家に招き、姉夫婦がやったのと同じように結婚の報告をした。

 私は実家から離れた街で、夫と二人で暮らすことになった。実家よりはずっと狭いマンションの一室だけど、ここが私の家なのだと思うといとおしい。

「家計はおれが支えるから、ほなみには家のことを全部やってほしい」

 家に帰ると誰かが待っている、そういう家庭が夢だったのだという。夫にそう言われて私は仕事を辞め、専業主婦になった。収入がいっさい断たれると不安で、子供もいないからアルバイトにでも出ようかと思ったけれど、相談すると夫は嫌がる。じゃあいいかこのままで、と生活していくうちに、私はどんどん家から出なくなった。

 なにせ用事がないのだ。自由に使えるお金も少ないし、頻繁に出かけると夫が嫌がる。そのうち女友達と連絡をとるのにも文句を言うようになった夫は、ある日唐突に私の携帯を解約してしまった。そのことに対して文句をつけると、突然お腹を殴られた。

 それがスイッチだったみたいに、それから少しでも夫の言うことをきかないと暴力を振るわれる生活が始まった。私が仕事をしていないのは夫の意志なのに、収入がないことに対して嫌味を言われることもあった。ご飯のわずかな硬さについて何時間も説教されたこともあった。私はげっそりと痩せ、体中に痣ができた。

 こんな兆候がまったくないわけではなかったかもな、と自分を責めつつ、私には誰かに助けを求めるすべがない。独身時代の貯金なんかとっくに取り上げられてしまっているし、携帯電話も持っていない。私自身すっかり反抗する気をそがれてしまって、夫の機嫌にさえ気をつけてさえいれば平和なんだからいいや、という気持ちになってしまった。


 限界が来たのは突然だった。年末、たまたまニュースで見た帰省ラッシュの、楽しそうな家族の映像を見て、何かがプツンと切れたのだ。

 夫が仕事中なのを幸い、私は家を飛び出した。冬なのに部屋着のスウェット、足元はサンダル、髪はぼさぼさですっぴんのまま最寄り駅にたどりつき、ようやく所持金がないのに気づいて途方にくれた。

「あら〜、お姉さん大丈夫?」

 声をかけられて振り向くと、見知らぬおばさんが五人立っていた。

「急いでおうち出てきたの?」

「寒いでしょう」

「ご実家はどちら?」

 矢継ぎ早に問いかけられて思わず実家の地名を答えると、おばさんのひとりがお財布の中からお札を何枚か出して私に握らせ、「これで足りるかしら」と言った。ほかのおばさんたちも「お古で悪いけどあげるわ」と言いながらマフラーをほどいて私に巻いてくれたり、近くのコンビニから買ってきた温かいお茶とおにぎりを持たせてくれたりした。

「すみません。いつかお返しします」

「いいのよ〜。あげるんだから」

 連絡先を聞こうとすると、おばさんたちは口々に「名乗るほどのものではございません」と言いながら、さっさと歩き去ってしまった。お金をくれたおばさんが振り返って「早く逃げなさい!」と叱るように言った。ボーッと立っていた私はその一言で飛び上がり、彼女たちの歩いていった方向に頭を下げると、急いで切符を買った。

 ひさしぶりに帰ってきた実家は見慣れた姿とは違う。でもやっぱり実家だなと思った。両親と姉夫婦が私を出迎えてくれた。

 いい年をして親を泣かせてしまったのが恥ずかしかった。落ち着いてみると夫にも申し訳なくなり、「もう帰らなくちゃ」と立ち上がろうとしたら皆に引き留められた。

 夫が私を迎えにきたのはその翌日だった。聞き慣れた車のエンジン音がしたので、インターホンを鳴らされる前から私には夫が来たことがわかった。思ったとおりすごく怒っていることも。

(やっぱり帰らなくちゃ)

 私は誰にも知らせずに玄関を出た。夫は出会いがしらに一発私の頬を張り飛ばした。寒空にパンッという音が響いた。顔を殴られたのは初めてだった。

 その時、誰かが家の奥からどかどかと走ってきて、私と夫の間に強引に割り込んだ。義兄だった。元々真っ赤な顔をもっともっと赤くして、牙を剝き出し、見るからに恐ろしい顔をしていた。でも少しもこわくなかった。

「出ていけ!」初めて聞く本物の鬼の怒鳴り声は凄い迫力だった。「俺の妹に触るな!」

 玄関の摺りガラスがびりびりと震えた。

 夫は真っ青になって逃げ帰った。義兄の声を聞きつけた両親と姉が、わらわらと家の奥から出てきた。

 義兄はまだ怒っていたけれど、大きな両目から涙がぼろぼろこぼれていた。姉が「このひと、興奮すると泣くのよね」と言って鼻をすすった。

「絶対離婚しましょう僕の同期に弁護士がいるんです目にもの見せてやりましょう絶対あいつ許さん」

 義兄はべしょべしょに泣きながら、めちゃくちゃ早口になって言った。「そんな泣かないでくださいよ」と返しながら、私の目からもぼろぼろ涙が溢れて仕方なかった。泣いている私の足元に、たまこがすり寄ってきてニャンと鳴いた。

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