―― 3 ――

 半分ほど開いた瞼の隙間から覗く世界は、多分……私の部屋じゃない。

 どこだっけ、ここ。

 あんまり回らない頭で必死に記憶を掘り起こしてみるけど、うまくいかなかった。視界も思考も薄くもやがかかったようにはっきりしなくて、重力に逆らえず横たわっている体は身じろぎするのも億劫おっくうに感じている。仕方がないのでしばらくそうしていた。

 ここにはいくつかの優しい香りが漂っている。木の香り、布の香り、それから古い本の香り、紙の香り。

 ……

 何かを思い出しそうな頭が、小さな抵抗を試みているみたいだった。

 何かに気がつかないように。

 何かに辿り着かないように。

 何かに、触れてしまわないように。

 やがて鼻をくすぐる別の匂いに気がついた。雑味を感じない引き立ての豆の匂い。多分、エスプレッソだと思う。すぐに香りがマイルドに落ち着いたのは、きっと泡立てたミルクを上に乗せてラテかカプチーノに仕上げたから。

 少しの間その素敵な香りに身を委ねる。毎朝私が家で淹れるドリップ式のコーヒーとは全然質が違う。豆ももちろん違うのだろうけれど、なんだかコクのある大人な雰囲気の香り。

 料理のことを考えると頭が冴え始めた。

 そうだお弁当作って、学校に行かなきゃ……。

 そんなことを考えたところで、横たわる私の視界の隅に人影が映り込んだ。

 誰か、いる。

 ……誰かいる!

 呆けていた頭がようやく覚醒した。

「流花ちゃん!」

 無理矢理起こした体がズキズキと痛んだけれど、そんなことに構ってはいられなかった。

 そうだ、流花ちゃんを追いかけなくちゃいけなくて、それで……、それで?

 あれ、どうして私はここで眠っていたんだろう。体重を預けているソファーは記憶にある蔵書室ぞうしょしつのものだ。確かここを出ようとして、それから……。

 嫌な予感が頭の中を埋め尽くしていく。

 左目を庇いながら、私は人影を目で追った。

「目が覚めたようですね、逆巻さかまき紗香那さかなさん。寝覚めには少し強いかも知れませんが、丁度淹れたばかりのキャラメル・マキアートはいかがですか?」

 水月みづき先生が両手にカップを持って向かいのソファーの前に立っている。起きた私に今気がついたはずなのにカップが二つあることが不思議だったけど、今はそんなことを気にしている場合じゃないよね。

「いただきます。でも、まず流花るかちゃんのところに行かなきゃ、」

 駆け出そうとした私の頭に鋭い痛みが走った。

 思わずその場でうずくまる私に構わず、水月先生がテーブルにカップを並べる。

「まだ動くのは無理でしょう。昨日同じことを仰ったあなたにがせた薬が今も効いています。面白いものですね。人に見えぬ体を持ち、人の耳に届かぬ声を持つというのに、まるで人のように外的な作用を受けつけているのですから」

「な、」なんだそりゃ。

 聞き捨てならない言葉が、水月先生の口から発せられる。私は、薬で眠らされていた? 

 それなら体のだるさも頭の痛みにも合点がいくけど、納得できるはずない。

 それに、

「今、昨日って、そう言いましたか?」

 私は立ち上がって、部屋の隅で風に翻るカーテンの先に目を向けた。

 窓の向こうに微かに伺える空は明るい……、そんな。

 水月先生は感情の見えない顔でソファーに座り、自分の前においたカップにスティックの砂糖を加えている。それから二本目に手をかけて、メガネ越しの双眸をようやくこちらに向けた。

「あれから十八時間ほど経っています。新校舎の方では午後の授業が始まっているようですね。まるで何事もなかったかのように。まるで何事でもなかったかのように。粕谷さんなら昨晩の内に亡くなりましたよ」

 さらりと放たれた水月先生の言葉がうまく頭に入ってこなかった。

 でも、だめだ、ちゃんと理解しなきゃいけない。そういう言葉だったはず。

 今は、

 だから火曜日で、

 授業はもう、

 始まっていて、

 それで、

 それで、


「……?」

 

 私がここで眠っていた、その間に。

 こうして目を覚ます、ずっと前に。

「どうして行かせてくれなかったんですか!」

 思わず声が大きくなったのが自分でわかった。荒げた声を力任せに吐き出したことで喉に痛みが走るけど、理解していても自制できるわけじゃない。

「どうして……、どうして!」

 水月先生は小さなマドラーを取り出して、二つのカップに一本ずつ刺した。私の言葉なんて意に解した風もなく、軽くかき混ぜたカップの中身に口をつける。それから小さく首を傾げてまた一つ、砂糖に手を伸ばした。

「逆巻さんが粕谷さんを追いかけていたとしても、結果は変わりませんでした。彼女の死は昨日ここで会話を行ったあの時点では既に決まっていた。さらに最悪の結末があるとすれば、それはあなたが彼女の巻き添いに遭うことです。それを回避するために必要と判断したので、少々乱暴な手を使いました。感謝の言葉なら受け取りますが、謝りませんよ」

 水月先生の白い手が、ソファーをさして私に座るよう促す。

 立ち尽くしていた私の体はうまく力を入れられなくて、それに従う形でくずおれた。柔らかいソファーの座面が音を立てずに沈んで私を受け入れる。テーブルの上のカップから立ち上る湯気に合わせてコーヒーの香りが私を誘っているけれど、今は手を伸ばす気になれなかった。ただそれを、じっと見つめるだけ。

 流花ちゃん、死んじゃったんだ。

 悲しいという感情が胸を締め付ける。それから悔しさも。

 実感がまだ湧いていないからかな、うまく涙が込みあがらなくて、私はそんな薄情な自分が少しだけ嫌いになった。

 ふと気が付いて、丁寧に机の端に寄せられていた自分のスマホを手に取る。昨日流花ちゃんに送ったメッセージは既読になっていた。返信はなくて、その後かけた電話は不在着信になっている。通話が切れたのを覚えていないから、私が意識を失ったのはもしかしたらそのくらいのことなのかもしれない。

 私にできることはなかったんだろうか、と考える。

 この部屋を出ることができていたら、と。

 流花ちゃんに追いつくことができていたら、と。

 けれど冷静になってみれば、多分水月先生の言う通り何もできなかったんだろうと思う。


 流花ちゃんが死んだのなら、きっとアレと出会っているのだから。


「逆巻さん、その目……、いえ、その手と言うのが正しいでしょうか。今のままでは不便ではありませんか?」

 カップを口元に寄せた水月先生が私にそう尋ねた。眼鏡の奥の目は私の顔を見ていて、私の左目があるはずの場所に向いているけれど、決して視線が重なることはない。

 昨日からずっと、左手が私の顔の半分を覆っているからだ。

「その姿を、自身で確認されましたか?」

 続く問いかけに私は首を左右に振って答えた。

 そうですか、と残して水月先生は立ち上がり、おもむろに部屋の奥に消えていく。本棚と本棚の間をすり抜けて、その奥でガサガサとなにかを探しているようだ。

 本棚の方を見ていたくない私は視線を戻した。向こうはやっぱり嫌な気配がするから。

 手持ち無沙汰に耐えかねて机に置かれたカップを手に取った。鼻に近づけるとエスプレッソの香りよりも表層に浮いたキャラメルの匂いが強くなる。これに三本も砂糖を入れたら、随分と甘すぎるんじゃないだろうか。

 結局私は口を付けずにカップを戻した。

「お口に合いませんでしたか?」

 戻ってきた水月先生は布に包まれた大きな何かを抱えていて、私の返事を聞こうとするそぶりもなくテーブルの上にそれを静かに置いた。その動きからすると、大きさに反してそこまで重くはなさそうだけど、実は見た目に反して力持ちという線もあるのかな。

 水月先生はカーディガンを羽織はおり直して、その仕草の流れで被せていた布を取り払った。

 布を軽く巻いてお腹のところに抱えながら、私の横に立つ。

「逆巻さんには、何が見えますか?」

 現れたのは大きな鏡だった。縁が豪奢ごうしゃに飾られた年季を感じる立派な鏡台。縁の内側は綺麗に磨かれていて、つやっぽくこちらの景色を写し返している。

「私が見えます。それから水月先生、ソファー、後ろの本棚」

 私が返事をしても、水月先生は何も言わなかった。ただ鏡をじっと見つめている。

「先生には、何か別のものが見えているんですか?」

 不思議なものとか、おかしなものとか、怖い……ものとか。

 嫌な想像を膨らませながらそう聞いた。

「いえ、そうではありません」

 鏡の中の水月先生が、こちらへ振り向く。

「私には見えないのです。鏡面に映る逆巻さんの姿が」

 ぞわっと腕に鳥肌が立った。一歩、鏡から遠ざかるように後ずさる。

「こちらの鏡は、ただの鏡です。本来私に見えるべき世界を見せ、本来逆巻さんに見えるべき世界を見せている。そういう意味では真実を映し出す鏡などと大仰に呼んでもいいのかも知れませんが、特別ではないのです。すると、特別なことは別に二つあることになります」

「二つ……」

「逆巻さんが他の誰にも見えないこと。そして、私にはこうしてあなたが見えること。前者はあなたが特別であることを指し、後者は私たちに特別な繋がりがあることを指します。それはいずれわかることでしょうから、今はこちらを対処してしまいましょう」

「あ、」

 水月先生が私の左腕に触れて、軽い力で手元へ引いた。突然のことに、抵抗する間もなく抑えていた顔の半分が鏡の前に曝け出される。

「何が見えますか?」

 さっきと同じ言葉で水月先生が問いかけた。

 それに答えるために、鏡を見つめる。当然向こうの私も、こちらを覗いている。

「ぽっかりあいた穴が、見えます。左目がなきゃいけないところに、左目よりも大きな黒い、深い穴」

 じっと眺めているだけで、飲み込まれてしまいそうになる不気味な穴。

「それはあなたの右目に映る景色ですね。私にも同じように見えています。しかし聞きたいのはここにはないその左目に何が見えているのかということなのです」

 怖いですか? と続けて聞かれたのは、きっと私の腕の震えが伝わったからだと思う。

「見なきゃ、いけませんか?」

「無理にとは言いませんが、可能であれば」

 優しい言葉には聞こえなかった。言葉そのものの意味を無視して、有無を言わせぬ圧が水月先生にはある。

 唾を飲み込んで、私は渋々右手で顔の半分を覆った。今までとは逆の方。

 目の前にある蔵書室の景色が、遮られる。

 だからこうして見えているのは、きっとここではない何処か。

「真っ暗なんです。光が差していないのかほとんど何も見えなくて、ただ、」

 ただ、

 飲み込みかけた言葉を、水月先生の無言が促す。

「ただ、その、なんていうか。ずっと目が合っているような、そんな感覚があって。私のことを見つめる誰かと。多分、すごく、近くで」

 顔を振っても瞳を動かそうとしても視線はびくともしなくて、私はそれを決して見ないように左目を覆うことしかできなかった。

「結構です。これを」

 水月先生の手には、飾り気のない黒い眼帯が乗っていた。頭を一周するように斜めにかけるタイプで、目を覆う部分と同じ色の黒いゴムがついている。

 恭しく受け取って、初めてつける眼帯に手こずりながらもなんとか装着してみた。左目の視界は失われ、鏡には少し滑稽こっけいになった私が棒立ちで立っている。似合わないなぁ。

「素敵ですよ。海賊みたいでかっこいいと思います」

 隣で鏡を覗く水月先生から適当な感想をもらった。私、そこに映ってないんじゃなかったでしたっけ?

 そう、本人には決して伝えないツッコミを心の中で唱えた時だった。

 ピシっ。

 乾いた鋭い音がして、鏡面を斜めに横断する大きな亀裂が入る。ひび割れたいびつな断面から細かなガラスのかけらがパラパラと机に散らばった。

 なんの前触れもなかったし、何かがぶつかったわけでもないのに。

「そんな、勝手に割れて……」

 小さなため息が、横から聞こえた。

「気になさらないでください。これは私の負った代償なのです。いつでもどこでも水月という女は小さな不幸を被ることが約束されている。不便ではありますが、不満はありません」

 彼女の手で、鏡はテーブルから下ろされて布に覆われる。

 言葉の意味はよくわからなかった。

 ただ、覆われる直前の鏡に映る景色が強烈に目に焼き付いている。


 


 水月先生が机の向こうに回って、新たな砂糖に手を付けながらソファーに腰を下ろした。

「さぁ、答え合わせの続きをしましょう。昨日はあまり多くのことを逆巻さんの口から聞くことができませんでしたから」

 場を仕切り直すように、先生が私の着席を促す。

 昨日言葉を交わせなかったのは水月先生のせい。そう反論したい気持ちを抑えて、私はソファーに身をゆだねた。

 呼吸を整える。本の香りで、肺が満たされる。

 落ち着いて先生の眼鏡の奥を見据えた。今度はちゃんと視線が交わった。

 答え合わせ。

 そんなふうに言ってしまえば、まるでここが普通に学校で、私たちが単に生徒と教師みたいに感じられるような気がした。

「善と悪という考え方があります。物事を捉える際に便利な非常にシンプルな二元論です。元来人には良し悪しなどありませんが、人の取る行動はその限りではありません。つまり、善い人や悪い人はいませんが、善いことをする人と悪いことをする人は存在するわけです。逆巻さんが、粕谷さんの行った悪いことに気がついたのはいつですか?」

「流花ちゃんのした悪い、こと……」

「殺人のことです。彼女があなたを呪い、殺害しようとしたことをあなたはここへくるずっと前から知っていましたね?」

 水月先生の言葉がいちいち重かった。わかっていても口にしないで欲しいと思ってしまうくらいに、それらは残酷な現実だったから。

 小さく首を縦にふる。

「目が合ったんです。屋上から落とされて、私が溺れる前の一瞬だけ」

「粕谷さんもそう仰っていましたね。逆巻さんは驚いた顔をしていたと」

「あの時……、」

 目を閉じると、校舎の外から眺めた逆さまの景色がぼんやり浮かび上がる。

「流花ちゃん笑ってたんです。我慢しようとして失敗したみたいな、ちょっと引き攣った笑い方で……。だから、あぁ、これは多分流花ちゃんが望んだことなんだって思いました」

 今思い出してもゾッとする。けれど頭から離れない流花ちゃんの顔。

「粕谷さんは、逆巻さんと親友のように仲が良かったとも仰っていましたね。あるいは姉妹のようにとも」

「そう、ですね。周りの他の友達にもそう話していました」

「実態は、どうだったのですか?」

「多分、間違いじゃないんです。仲は良かったしたくさんのことを話しました。私が選んだものと同じものを流花ちゃんが選んだり、逆のことを求められたり。けど、どう言ったらいいんだろ。それってきっと私じゃなくても良かったんだろうなっていつも感じていて、流花ちゃんが求めていた親友っていうポジションにたまたま私が選ばれたのかなって」

「いじめのターゲットのようなものですね。いじめる対象は誰でもいいけれど、一人は必要になる。そのため結論ありきの適当な理由によって誰かが選ばれることになります。蟻などの生態でも見られる、酷く原始的で生物的な構造です」

「よくわかりますけど、いじめに例えられるのはちょっと嫌です」

「そうでしたか」

 顔色も変えずに水月先生はそう答えた。

「粕谷さんはおまじない、これはおそらく逆巻さんを呪うために行った儀式のことですが、それを名前の知らない友人から教わったと言っていましたね。その友人に心当たりはありませんか?」

「昨日その話になった時にも考えてみたんですけど、思い当たる人がいないんです。流花ちゃん、ずっと私についてきたからほとんど一緒にいたと思うんですけど。……あ、でもお昼休みはそうじゃないか」

 そういえば私が教室にいない間、流花ちゃんはどんなふうに過ごしていたんだろう。気にしてみたこともなかったかもしれない。

「『ヒミツのお友達』という言葉に聞き覚えは?」

 水月先生の声の温度が急に下がった。

「ヒミツの、お友達?」

 聞いたことのない言葉。けれど不思議と耳触りのいい響き。

「初めて聞きます」

 正直にそう答えた。

 水月先生は小さくふむと唸って、それからマドラーをカップから抜いてこちらに向けた。

「では忘れてください」


 右目のピントが先生に合うのに、少し時間がかかった。

「えっと、なんの話をしてたんでしたっけ」

「先ほど、逆巻さんから聞かれた質問に答えようとしていたところです。あなた自身の体に起きていることについて、私のわかる範囲で説明を求められました」

「そうだ、聞きたかったんです。私、やっぱり死んで幽霊になっちゃったんですか? それで、幽霊が見える先生にだけは姿が見えてるってことなのかなって」

「少し概念に混乱が見られますね。ちょうどいいので順に訂正をしていきましょう。まず、幽霊を定義します」

 水月先生が構えていた万年筆で机上の羊皮紙ようひしに文字を並べていく。先生の文字は少し払いにクセのある、けれどとても綺麗な字。

「逆巻さんの言葉から紐解くと、幽霊とは死後の人間であり、人の目に映ることなく存在するものとなります。非常に伝統的な、どこにでも存在する怪異のアーキタイプの一つと言えるでしょう」

 いち、に。せっかく書いた幽霊の文字を、水月先生は二本の真っ直ぐな横線で打ち消した。

「しかし、実際にはそのような形で幽霊というものは存在しません。人の生と死は我々がぼんやりと想像しているようには曖昧あいまいでないのです。死んだ人間がまるで生前と同じように考えたり、あるいは何かの意思を持って行動したりすることはあり得ず、人は死ねばそこで終焉しゅうえんを迎えます」

 ですから、と鋭い言葉が続く。

「もし、死んだはずの人間を見かけた場合、それは生前と同じ人物ではありません。その姿を真似た誰か、いえ、ナニかと断定して対応すべき相手となります。ナニであったとしても怪異であり有害であることは間違いありません」

「あの、話の腰を折ってしまうかもしれないんですけど、先生の言う怪異ってなんなんでしょう。ふわっと、怖いものみたいな印象はあるんですけど」

 私の質問に反応してペン先が動く。紙には怪異の二文字が現れた。

「いい質問です。しかし残念ですが、怪異というものを具体的な言葉で説明することは叶いません。むしろ説明のできないもの、説明のつかないことこそ怪異であるからです。不思議なこと、怪しいこと、そして恐ろしいこと。共通して言えることはただ一つだけです」

 紙の上に、初めてみる言葉が添えられる。


「それらは全て『怪底かいてい』から浮き上がってくるということ」


 私は水月先生の指す文字を見つめた。

「怪底……」

 聞き馴染みのある音と、初めてみる漢字の羅列られつに私の頭は混乱している。

「先ほどの口ぶりからすると、逆巻さんは怪底を少し覗いたのではないでしょうか」

「私が、ですか?」

「屋上から落ちて、溺れた、と仰っていましたね」

 水月先生の言葉が終わるのと同時、頭の中に電撃が走ったような強い痛みを感じた。

 違う、痛み……じゃない。大きな質量を持つ記憶が、まるで力づくで回した手動の映写機から吐き出されるように乱暴に蘇る。


 眩しい日差し――いつもと同じ広い空――風に流された赤いスカーフ――アレの声――足が浮く――鉄製のフェンス――掴もうとした手が空を切って――ふわっと一瞬浮いた体が加速していく感覚――赤い塗装の屋上の縁――白く照り返す校舎の壁――窓の向こうのひしゃげた顔の流花ちゃん――見上げた先に地面が見える――目を瞑る間もなくて――


 ――それから、確か、そうだ、

「地面にぶつかるって思った瞬間、大きな水音がしたんです。強い衝撃はあったけど痛みとかは全然なくて。ただ真っ暗で、何にも見えなくて。何かに包まれたような暖かい場所にいました。溺れたような感覚があったからもがくんですけど、もうどちらが上かわからないんです。体も重くて、水っていうより油みたいな液体の中にいるようでした」

 私は両手で肩を抱えた。嫌な寒気が首筋をなぞる。

 今のいままで忘れていたのは、きっとすごく、すごく怖かったからだ。

「通常、人の側から怪底に触れることは容易にできることではありません。しかし、いくらかの体験談は実際に存在しています。この部屋の本にも記述がありますよ。彼らは自身の経験を鮮明に覚えていて饒舌じょうぜつに語るのですが、不思議なことに三人いれば三様に、それぞれ全く別の世界のように語られます。怪底の内側が不定であるのか、あるいは怪底とは人そのものに依存しているのか、それはわかってはいませんが、いずれにせよ逆巻さんはラッキーでしたね」

「ラッキーなんかじゃ、ありません」

 無神経な言葉に、気分を逆撫さかなでられたような気がした。

「そうですか。けれど逆巻さんは幸運なのです。こうして戻ってきたのですから」

 私の態度は少しも気にされることなく、水月先生は会話を進めるために二本の矢印を怪底の文字から上に向けて引っ張った。

「怪底から浮上する怪異は、大別して二つに分類されます。無作為かつ偶発ぐうはつ的に起こる事象と、人の意思に寄り添うモノです。前者を単に怪異と呼び、後者は呪いと呼ばれます」

 呪い。

 水月先生の持つ万年筆が画数の少ないその文字をゆっくりと書き上げるのを、私はじっと見つめた。ただの漢字のはずなのに、大きさの歪な両眼がこちらを覗き返しているように感じるのは、私に左目のことがあるからだろうか。

「呪いは昨日説明をした通りです。必要量の犠牲と明確化された目的が、形式的な儀式を介して怪底から怪異を呼び込みます。これは誰にでも可能です。粕谷さんが逆巻さんを殺害する意思を持って、おそらく頭部の一部を削ぎ落としたように」

 水月先生の手の中でペンがまた文字を生み出していく。金属のペン先が紙を擦るカリカリという音が小気味よく耳を撫でていった。そんなことで、交わされている会話のおぞましさが失われることはないけれど。

「ことのあらましをなぞるためのピースが揃ってきましたね。まとめてみましょう」

 羊皮紙を一度俯瞰ふかんして、水月先生はそれをくるりと半分回転させた。書いた文字が私の方へ向くように。そして手に持ったままの万年筆で、単語を順に指していく。


 ――『粕谷かすがい流花るか』『呪い』『逆巻さかまき紗香那さかな』『殺害』


 自分の名前が盤面の上にあることで、不安な気持ちが胸の奥から込み上げる。

「まず、粕谷さんが逆巻さんを呪うために儀式を行い、殺そうとしました」


 ――『屋上』『首のない死体』


「その結果として、逆巻さんは屋上から落下した。そして校庭には首なし死体が残ることになります。しかし、」


 ――『幽霊』これには打ち消し線が引かれている。


「幽霊という存在はありえません。それを先ほど説明しました。生に近い死はない。つまり生というあり方に限りなく近い逆巻さんの今の状態は死ではないのです。このことから、」


 ――『呪い』『失敗』『死亡』


「逆巻さんを呪ったのにも関わらず、殺害することができなかったことが粕谷さんの死の要因となったことがわかります。呪いが、自らに返ってきたということになるでしょう」

 水月先生の口から淡々と繰り広げられる説明に、私は割って入った。

「それって、流花ちゃんが死んだのは、私のせいってことですか?」

「そうは言っていません。事象として、逆巻さんが関与しているというだけです。もし自分を責めているのであればそれは見当違いでしょう。彼女が亡くなったのは彼女自身の呪いによるものなのですから」

 先生のいう言葉の意味は理解できる。けれど、うまく割り切ることはできなかった。

 動き出してしまった呪いを、私にどうこうすることはできなかったかもしれない。

 でも私の行動が流花ちゃんを儀式に駆り立てなければ、こんなことにはなっていなかったのかもしれないよね。不安定で歪な後悔が胸を締め付ける。

「時間が必要なこともありますよ」

 掛けられた声に視線を上げると、初めて水月先生の目が優しげに微笑んだような気がした。

 少し先生のことがわからなくなる。けれど、私にとってそれは必要な言葉だったように思えた。

「……ありがとう、ございます」

「気になさらないでください。話を進めましょう」

 声はそれまでと同じ淡々としたものに戻っていた。改めて机の上に視線を落とす。

「これまでの経緯から、いくつかの不可解なピースが残ります。それが、」

 ――『失敗』『逆巻紗香那』『首のない死体』

「なぜ、粕谷さんの呪いは失敗したのか。なぜ、逆巻さんが人の目に映らない姿で存在しているのか。なぜ、残された死体に首がないのか。これらを理解するには一つキーワードが足りていないのです」

 先生が大仰に万年筆を持ち上げる。それから、ゆっくりと二文字の名前をそこに記した。


 ――『水月みづき


「私です」

 水月先生はおもむろに万年筆を机に置くと右手で左の手のひらを抱えるように胸の前に持ってきた。左の袖に右手を潜らせる。そして、何かを引き抜くように右手に力を入れた。

 ポスっと軽い音がして、薄手の真っ白な手袋が机に落ちる。薄暗い蔵書室の中では全く気が付かなかったけれど、それはずっと左手に装着されていたということだ。そういえば、掴まれた腕が妙に冷たかったのを思い出した。

「その、手……」

 さすがの私でも気がついた。

 五本の指がウニウニとそれぞれ別の生物みたいに器用に動いている。ごくごく自然に。人の在り方そのままに。それが、この狭い景色に不協和音をもたらしている。

義指ぎし、ですか?」

 明らかに色の違う薬指と小指を見つめながら、私はそう尋ねた。

「木製の人工装具の作成を生業とする友人から仕立てていただいた特注の義指です。彼は自分の作ったものに『義』の字をつけて呼ばれると怒るのですが、この場にいないので構いませんね」

 親指から順に一本ずつ指を折り曲げて、それから逆の順番で今度は少しずつ開いていく。

 水月先生のその動作には、少しの違和感もない。関節の曲がる駆動音すらも、この距離にいて聞こえなかった。

 嫌な予感が、寒気になって肌を刺す。

「何に、使ったんですか?」

 そう聞いた。それが自然だと思ったからだ。自分の指を、ナニに使ったのか。

 水月先生の左手が動きを止める。木でできた二本を残して畳んだそれを先生はくるりと返してこちらに向けた。

「開帝の箱庭の中で不穏な動きが活発化していることは、かなり前からわかっていました」

 眼鏡越しの目が鋭くこちらを見据えている。

「遠からず新たな犠牲者が現れることが予測されたため、校内で感知できる呪いに罠を張っておいたのです。罠とは言っても、大したものではありません。かつてある人から教わった、身代わりの呪いの応用です」

「身代わりの呪い、ですか?」

「呪いはファンタジーの世界に出てくるような魔法とは違います。万能ではなく、扱いも非常に難しい。しかし目的と犠牲を間違えなければ、ある程度の指向性を持たせることが可能になります。とはいえ知識と技術が必要になりますし、犠牲の大きさもシンプルな呪いとは比べ物になりません。また、全ての準備をうまく整えたとしても、自身の思い描いた通りに行くとは限らないのです。ちょうど今回のように」

 本質は怪異ですから、と続ける。説明のできないもの。説明のつかないもの。

「誤算は二つありました」

 一拍置くように、水月先生はテーブルの上のカップを持ち上げて口をつけた。

「私が設定していたこの度の罠のシナリオは、感知した呪いの対象を入れ替えるというものです。おそらく逆巻さんが屋上から突き落とされた際に呪いと判定され、地面にぶつかる前に入れ替わりが行われたと考えられます。そうして、呪われた人間は救われるはずだった。しかし私の罠は完全なものではなく、逆巻さんの体『以外』を一瞬ですが怪底に落としてしまった。これが一つ目の誤算」

「それって、」

 思わず、身を乗り出す。

「私、水月先生に助けられたってことですか?」

「受け取り方次第ですが、そういう見方はできます。同時に、今の不完全な状態を私のせいと見ることも可能です。事前の行程に不備はありませんでした。しかし、実際の罠が不完全だったのはおそらく……」

 一瞬だけ、本当に珍しく水月先生が言い淀んだ。

「私が、いつでも少し不幸だからでしょう」

 私のことをラッキーだと言った水月先生の言葉を思い出していた。それはたまたま海底から戻ってこれた偶然に対してのことだと思っていたけれど、そうじゃなかった。

 自らを犠牲にしても、悲劇を回避しようとした人がいたこと。

 私は本当に、本当に幸運だった。

 先生の指を見て、嫌な想像をした自分を叱ってあげたい。

 自然と涙が溢れた。歪んだ視界の中で、水月先生が不思議そうにこちらを見ている。

「ありがとう、ござい、ます」

「先ほども聞きましたよ」

「それは、別のことじゃ、ないですかぁ」

 右目を擦りながら不細工に伝えた感謝の言葉はどうやらうまく伝わっていないみたいだ。

 それでも水月先生は話の続きを、私が落ち着くまで待ってくれた。

 空になったカップが、小さな音をたてて机に着地する。

「誤算はもう一つあります。そしてこちらが、今この開帝学園が抱える問題の本質でもあるのでしょう」

 水月先生の指が羊皮紙の文字をすぅっと囲んだ。


 ――『首のない死体』


「身代わりの呪いにより、逆巻さんの体は入れ替わりが行われました。この入れ替わりですが、当然人が対象となることが想定されているため、入れ替わる先にも人の大きさのスペースが確保される必要があります。ですから入れ替わりは、『人の形に近い、けれど人ではないもの』と行われるというのがシナリオだったわけです。私の想定としては、理科実験準備室の人体模型が使用されるはずでした」

 でも実際には、そうはならなかった。



 ぞくっと、寒気が背筋を駆け抜けた。

 水月先生の口が続きを告げる。

「校庭に落ちた首のない死体は、この学園のどこかにあらかじめ存在していたものです。それが逆巻さんと入れ替わり、公衆の目に晒されることとなった」

 手の震えを止めることができなかった。

 それは、あってはいけないこと。

 不思議なことが起きているんだって思っていた。

 何か私たちには想像もできないことに巻き込まれているんだって、そう思っていた。

 でも、これは違う。これはそんなんじゃない。

 つまり、と水月先生が前置いた。

「開帝学園には呪いなど使わずとも、自らの手を汚して人を殺すことのできる殺人鬼が、今も人知れず潜伏していることになるのです」

 

 学園の誰かが人の首をねて、それを隠したまま平然と授業を受けているということ。あるいは生徒にものを教えているということ。

 うまく事態を飲み込めなかった。けれど今も止まらない震えが、全身を蝕む悪寒が、ほんとは全部理解していることを愚直に示していた。

 信じたくなかった。

 だってそんなの怪異より、呪いより、幽霊や妖怪やお化けより、ずっと怖いことだから。

 何も言葉にできない私に、水月先生は囁くような小さな声で、けれど脅かすようにも聞こえるいつもの口調で、呟いた。


「逆巻さん、あなた一体どこにいるんでしょうか?」

 


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