―― 2 ――

 sakune¥labyrinth 〉maze up

 sakune¥labyrinth 〉new maze installing…

 sakune¥labyrinth 〉■■□□□□□□□□ 20%


 目をつむると、まぶたの裏は一切の光が遮断された暗闇に変わった。

 それは異様に深く、底の知れない黒。正しく何もない、『無』そのものとも呼べる空間。

 少しの時間を経て、闇の中に文字が浮き上がってくる。

 規則正しく並んだアルファベットの文字列は、パソコンをテキスト入力だけで操作する際に使用するターミナルと同種のものに見えた。

 いつも通りにコマンドを入力する。手で操作をするわけではなく思い浮かべるだけで、小さなシステム音と共に命令が実行されていく。無機質な白い文字が闇に浮かび上がって、時間の概念を忘れそうになるこの空間に微かな変化を与えていった。

 新しい迷路が、形成されていく。


 sakune¥labyrinth 〉new maze installing…

 sakune¥labyrinth 〉■■■■■■■□□□ 70%

 

 僕はその文字をぼうっと眺めながら、いくつかのテンプレートとも言える攻略法を頭の中で思い浮かべていた。一連の理論とアルゴリズムを唱え直しては応用する余地がないかを模索する。それはもう何度も行った準備運動のようなもので、その結果得られたどれもが役に立たないことが既にわかっている。

 解けない迷路など存在しない。

 思考と試行の回数を重ねるごとに増していく無力感が、その確信に揺らぎを生じさせていた。


 sakune¥labyrinth 〉■■■■■■■■■■ 100%

 sakune¥labyrinth 〉successfully installed

 sakune¥labyrinth 〉seed-number:31217122312151


 暗闇が変質する。

 それは先程までとは全く違う、奥行きをもった重い黒。

 そこに、僕が立っている。

 姿形を完全に似せて、開帝の制服を着たプレイヤーとしての僕。彼は光のない瞳でじっとこちらを見つめている。初めはこうして自分を眺めることが不気味に思えたけれど、慣れれば鏡を見るのと大して変わらない。近くに寄って、触れた。触れる手はこちらにはないので、そう思い浮かべるだけ。

 僕と僕が一つに重なり、僕らは同化する。僕が、実体を持ってそこに立つ。

 やがて、闇を五感で捉えられるようになる。

 微かにさざ波のような音が耳に届き、潮の匂いが鼻腔びこうをくすぐった。

 視界は黒。その中にぽつりと、微かに発光する小さな白い点を見つける。

 消え入りそうなほど淡く光を放つその点は軌跡を残しながら静かに移動し、分裂し、接続して、いく筋かの線と数枚の面を構成して僕を閉じ込めた。

 ギリギリ両腕を振り回せる程度に区切られた、闇。

 四方に扉が形作られた立方体の小部屋。

 いつも通りのスタート地点。

 奇妙で奇怪で難解な、迷路の、迷宮の始まり。


 sakune¥labyrinth 〉character setup completed

 sakune¥labyrinth 〉maze start


 数十センチ先も見通すことのできない漆黒の箱の内側で、僕は踏み出した足が今日こそゴールに辿り着くことを願いながら扉の一つに手を掛けた。




 ******




「つ、」

 至近距離で炊かれた強烈な閃光に、開いたばかりの油断していた両目を焼かれる。思わず腕で庇ったけれど、手遅れだったらしく奪われた視力が戻るのに時間を要した。痛みを伴う白の中で、現実が少しずつ像を結ぶのを待つ。

 昼休みの3年C組の教室。

 自分の席に座る僕の前には、大きな一眼カメラを構えた小袖こそで咲依さよりが立っていた。

「あら、開帝一の優等生と名高い朔根さくねかいくんの居眠り姿を激写する大チャンスだったのに。もぅ、あんまり隙がないとモテないわよ」

「お節介ですよ。小袖さん」

「つれない返事だけど、ごもっともね」

 ニコニコと笑顔を崩さない、さらに言えば構えたカメラも下ろさない彼女には一旦意識を割くのをやめて、僕は机の脇にかけていたカバンから一冊のノートを取り出した。

 5ミリ四方の方眼が引かれた、普通なら数学の計算や図形の描画に使用される薄いノートブック。その白紙のページを開いて、たった今暗闇の中を歩いてきた軌跡を記録していく。

 正方形の一つ一つが部屋を、それを構成する線が壁を、そして僕が記入した矢印が侵入できた扉を示している。矢印はグネグネとノートの上を縦横無尽に進み、やがてスタート地点に帰着したところでペンを置いた。負け星が一つ増える。

 十二敗目。僕の夢に迷路が現れるようになってから、もうそれだけの日々が経っている。

 カシャ、というシャッター音とともに二度目のフラッシュが辺りを照らした。カメラのファインダーを覗き込んでいる小袖さんの表情は真剣そのもので、プロの気概が感じられる。撮っているものがもっと価値のあるものだったなら、僕だってこうして呆れながら見ることはないのに。

「何かのネタに使えますか、編集長」

「開帝一の秀才である朔根櫂くんを構成するものならなんだって記事になるわ。お昼の食事の内容でも、帰宅時に寄り道したお店でも。もっとも、これがなんなのかはちゃーんと教えてもらうけどね」

「さっきも思ったけど、開帝一というならばそれは御堂みどうのものでしょう。僕には少し、荷が重いんだけど」

「それには議論の余地があるわ。なぎは伝説だし英雄ではあるけれど、それだけに普通の肩書きが似合わないのよね。想像してみてよ、『開帝一の優等生 御堂薙 首都を狙った航空機テロを未然に防ぐ』なんて見出しにちっとも使えないじゃない」

「悪くないようにも思えるけど」

「朔根くん、センスがないのね。肩書きが矮小化されたことで事実の程度を誤認させてしまうじゃない。大切なのはどう伝わるかってこと。薙の行為を、女子高生の大手柄ってレベルで語ることが問題なのよ。大問題。本質はそうね、スーパーマンが今日も街の平和を守っている、くらいかしら」

「御堂の名前を出した僕が悪かったよ」

「そうね。言いたかったのは朔根くんこそが記事にするのに最適な、普通の開帝一の優等生で、普通の開帝一の秀才だってこと。重宝させてもらってるわ。もちろん新聞部の部長兼、開帝通信の編集長としてね」

 小袖さんは褒めているつもりかもしれないけれど、結局のところ僕の評価は非常に中途半端なものなのだった。凡人としては最高。天才を除けば最上級。人にどう思われるかなんて気にするわけじゃないけど、微妙に気を使われているような言い回しが若干煩わしい。

「で、なんなの。今ノートに書いてた幾何学きかがく模様は」

 小袖さんが興味津々を体現したような表情で問いかける。立ち上がって前のめりな彼女の姿勢も相まって、気分は取調べ中の容疑者のそれだった。さて、どう誤魔化すか。

「こーら、どう誤魔化そうか考えてるでしょ? そうは問屋が卸さないわ」

「地の文を読むのはやめてくれないかな」

「面白い表現だけれど、読んだのはあなたの目線よ。ちょっとかじっただけの心理学でも少しは役に立つみたいね」

 心理学。科学的な手法によって研究される心と行動の学問。厄介な人間に厄介な武器が渡ってしまったらしい。

「安心して、齧ったと言っても犯罪心理学の狭い分野よ。優等生の朔根くんに使える知識なんてほとんどないわ」

 安心させるように、表情を緩めながら小袖さんはそう言った。これは多分、こちらを油断させる罠だ。犯罪心理学が犯罪を起こした人間だけを対象とするわけもなく、小袖さんという人が使えそうなものを利用しないわけもなく、さらに言えば手札をこちらに全て広げるわけもなく。

 悪いけど、小袖咲依に対する手強い人って印象がただただ膨らんでいくだけだった。

「警戒してますって顔してる。いいわ、交換条件にしましょ」

「交換条件?」

「こう見えても情報網に関してなら私は開帝一って自負があるわ。朔根くんにとって有益なゴシップもいくつか持っている。交換よ。ビジネスといきましょう。ただし先に出すのはあなたから」

 知りたいことあるんでしょ? と、こちらの足元を見ながら話す彼女は、同じ高校三年生とは思えなかった。戦い方を知っている彼女に、太刀打ちなどできるはずもない。

 実際、知りたいことも、ある。

「わかった。僕が折れるよ。ただし、聞いても笑わないことは約束してくださいね」

「笑う? 信用ないのね。こう見えてもジャーナリストとしての自負はあるつもりよ」

「これから話す内容に僕自身それなりの自信があったなら、こんなことは言っていませんよ」

 閉じかけていたノートを再び開く。なるほど、改めて俯瞰してみると、幾何学模様というのは言い得て妙だった。僕が彼女の立場なら、地上絵の設計図とかに喩えているかもしれない。けれど、結局のところこれはそのどちらでもなく、僕の徒労の記録でしかない。

「夢の中に現れる迷路?」

 話を聞いた小袖さんの表情はなんとかジャーナリストとしての体裁を保ってはいるけれど、他人の機微に疎い僕にもわかる程度に困惑の色に染まっていた。

 当然の反応だろう。こんなことを聞かされたなら、僕だって同じような顔になる。

 けれど、それから少し考えるような仕草を見せて、彼女は表情を切り替えた。

「ふむ。ちょっとよく見せて」

 僕の返事を待たずにノートを取り上げた小袖さんは、カメラを首から下げたストラップに任せて熱心に線を追い始める。指で矢印をなぞりながら、頷いたり、傾げたりして悩む姿は迷路の中の僕自身と重なった。

 彼女の本質が単なる野次馬根性ではなく、純粋な好奇心と探究心であることは疑いようがない。僕は少し彼女への認識を改める必要がありそうだ。

 やがてノートから目を離した小袖さんは今度は僕の方を数秒見つめると、胸元のポケットに入れていた黒い手帳を取り出しながら口を開いた。

「この件については、ひとまず二つのアプローチが考えられるわ」

 手帳に書き込みながらも目は僕から離さないその姿はさながら事情聴取じじょうちょうしゅといったところで、

 やっぱりここは取調室なのかも知れなかった。事実のない罪を告白しそうになる。

「二つ。つまり夢と迷路ね。ここはまず、夢の方からいきましょう。朔根くんは夢の中で、自分自身を操って行動することができている。それって、つまり明晰夢めいせきむの一種ってことよね。あなたは元々そういう夢をよくみるの?」

 明晰夢。夢を夢と自覚してみる夢。そんな言葉がすんなりと出てくるあたり、やっぱり小袖さんの知見は侮れない。

「時々ね、けど同じ夢をこうして何度もみる事はなかったよ。それに、夢を見ているという認識はあっても、夢の中をなんでも自由に操れるわけじゃない。僕は意識だけでそこにいて、僕と同じ形のモノに同期している間だけは彼を操れる。正確なところはわからないけれど時間制限のようなものもあって、意識の僕が彼と乖離した段階でゲームオーバー」

「夢の中でならもっと自由でいい気もするけれど。それは朔根くん自身の気質なのかしら」

「それは僕の無意識に尋ねてくれよ。ただ、そうだね。何かに挑戦する際に、一定のルールを設けるのは僕らしいと言えるかもしれない」

 ストイックなんて言われることもあるけど、単に融通ゆうずうが効かないだけなんだろうな、僕は。

 小袖さんは納得したように、あるいはそういう素振りだけかもしれないけれど、手帳に何かを書き留める。

「朔根くんは、眠るたびにその迷路の夢を見るのかしら? あるいは夢を見るために、眠ることも?」

「後者だね。最近の僕は、迷路に挑戦するために意識を手放すことが増えてる」

「危険ね。妄想と呼ぶのは失礼だけれど、何かの考えに囚われて少しずつ現実を見失ってしまった受刑者のプロファイルに、近い状況が見られることがあるわ。まぁ、あなたに関してそこまで本気で心配するわけじゃないけど、のめり込まないように注意する必要はあるかも」

「ご忠告は胸に留めておくよ」

 実際、僕は少し没頭しすぎるきらいがあるから。

「で、次に迷路のことだけど……」

 机に広げた迷路の軌跡を僕の方へ回転させて、彼女はいくつかのポイントを指し示した。

「ここと、ここと、それからここ。他のページにもいくつか見られるんだけど、この記号はちょっとおかしいわよね。もしかしたら普通の迷路とは違う法則性があるんじゃないかしら」

 彼女の示した場所のことはすぐにわかった。四角い方眼の中に矢印が入り組んでいて、いくつかの数字とバツ印が配置されている。この迷路を、難解たらしめている原因の一つだ。

 僕は自分の頭では理解している概念を、どう彼女に説明するべきか考えながら口を開いた。

 少し長くなるんだけど、と前置いて。

「この迷路の基本的な考え方は、隣接する部屋同士の間に開く扉と開かない扉があって、開く扉の中から一つを選んで進んでいくって形になる。開いたからといってそれが正しい道なわけじゃないんだけどね。進んだ先が袋小路だったら、戻って別の道を探す事になる」

「そこまでは至って普通の迷路よね。夢の中でなければ」

 夢の中でなければ、ね。

「そう言えるね。けれど不思議なことが起こる。小袖さんの指摘したところなんだけど、ここで起きていることを端的な言葉で説明するなら、『入れるけど出られない扉の存在』と『同じ部屋でも侵入した扉が変わると、出られる扉が変わることがある』ってことになるかな」

 僕はノートのページを数枚めくって、まだ何も書かれていない方眼のマスにAと記入した。そこから反時計回りにB・C・Dと書き進め、二かける二の大きさの四つの部屋を作る。


 B―A―外

 |

 C―D


「たとえば外から僕が部屋Aに入り、そこからそれぞれの部屋で侵入した扉を除く唯一開いた扉を辿ってB・C・Dと進んだとする。実際には開く扉がいくつかあることもあるけど、ここでは確認をして侵入口と出口だけだったことがわかっていると思ってもらっていいよ。今、僕はDにいる。Dへの侵入口はCからの扉だった。それから三つの扉に順に触れることになるわけだけど、不思議なことに開いた扉がAに向かっているということが起きる。もちろん、Aにいた時にはDへの扉が開かなかったことが確認できているにもかかわらずね」


 B―A―外

 | ↑

 C―D


 小袖さんが小さく頷く。

「矢印の部分は一方向からしか進めない扉ってことね。Aから見て入れるけど出られない扉」

「そう、けどさらに厄介なのはその扉から入ったことでAの出口が変化すること。つまり、外から入った場合はAからBに出ることができたんだけど、Dから入った場合はBへはいけなくなって別の扉が開くことがある」


   E

   |

 B×A―外

 | ↑

 C―D


「こういうこと」

 僕が書き直した方眼に目を落として、小袖さんは一つ小さなため息をついた。

「複雑ね。このルールだけを理解する分には大したことではないけれど、実際私がそんな法則を持つ広大な迷路に放り込まれたらお手上げだわ。一応一般的な迷路の解法としてトレモー・アルゴリズムやオーア・アルゴリズムなんかはわかっているつもりだけれど、この場合に通用するのかどうかも想像できない」

「もちろんどちらも試したよ。迷路を解くためのアルゴリズムって、結局はどうにかして効率的にしらみ潰しにしていくってことになるんだけど、正直さっきも話した時間制限のことを踏まえても現実的じゃなかった。闇雲に進んだ最初の数回に比べれば、多分よかったんだとは思うけどね」

「右手法は? ほらあの、壁に手をつけながらずっと伝っていくやり方」

「やったよ。手が攣りそうになった」

 夢の中で。だからそれはつまり、気持ちで負けているのかもしれないけど。

「そう、なるほどね……」

 僕の話を聴きながらも、ずっと手帳に何かを書き込んでいた小袖さんの動きが止まった。何かに気づいたように。けどそれを言葉にするのを躊躇ためらっているようにも見える。

「何かわかりました?」

 そう尋ねた。

 僕は変にプライドが高いと思われている節があるけれど、迷路を解くに当たって、あるいは何かの課題を解決するに当たって人の助言をもらうことに躊躇ちゅうちょはなかった。むしろそうした言葉に感謝もすれば、思いがけない知性に敬意も表す。ただ、なかなかそうした機会に恵まれないだけだ。

「さっきは少し茶化すような言葉になったけど」

 彼女の目は僕をじっと見つめている。

「私はね、朔根くん。あなたを賢い人間だと思っているの。薙みたいな化け物のせいでわかりにくくなってはいるけれど、傑出けっしゅつしているわ。だから難解だとか、制限だとか、それらを加味してもあなたならやっぱり解いてしまうんじゃないかって考えてる」

 迷路くらい、迷路なら、と言いにくそうに。

「すると私の中に当然の疑問が湧いてくるわけ。つまり、その夢の中に現れる迷路は、迷路として成立していないんじゃないかってこと。たとえば、ゴールである小部屋の扉は全て開かないようになっているとか。あるいはプレイヤーである朔根くんの位置から常に離れるようにゴールが移動し続けているとかね」

「小袖さんの言っていることはわかるよ」

 それは僕も疑ったことだから。

 解けない迷路など存在しない。

 だから目の前の扉は、部屋は、道は、迷路ではないのかもしれない。迷路と呼べるものではないのかもしれない。そして正直なところ、その疑念は今も胸に幾らか存在しているし、確かな否定の言葉を持ち合わせてはいなかった。

「何度かもうやめようって、思ったんだ。小袖さんのいう通り、解ける構造だという証拠もないし、そもそも解けたところで僕にどんな得があるのかもわからないから」

「そこまでわかっていて挑むのは、理由があるからってわけね」

「察しがいいとちょっと僕が恥ずかしいんだけど」

「あら、じゃあ今のは忘れて」

 小袖さんが上品に微笑んで、僕に先を促した。

「迷路の中にいると、ある声が聞こえるんだ。何度も何度も、繰り返し。声、というのが正しいのかどうかわからないけど、僕はそう認識している。想い、みたいなものなのかもしれない。空気を震わせて届くものではないから、方向や距離を測ることはできないけど、僕に向けて発せられているモノ。僕を急かして、導こうとしているモノ」

「その声はなんて?」


「見つけて、って」


 ふむ、と小さく唸って、小袖さんは手帳に何かを書き込んだ。それから微かにため息をつく。今度は僕から目をそらしながら。

「思うところがありそうだね」

 そう聞いた。

「重なるのよ。さっき少し触れた、受刑者のプロファイルとね。彼が刑務所でその後どうなったか聞きたい?」

「やめておくよ。君の反応を見るに真っ当な生活に戻った、なんていうオチじゃなさそうだから。それを聞けば流石に僕だって怖気づくかもしれない。もし僕がこの先何かで捕まるようなことがあって、無事収監しゅうかんされた折にはアドバイスを求めるかもしれないけど」

「そうならないことを祈っているわ。ただでさえ最近物騒ぶっそうなことばかり聞こえてきて、さすがの私も気が滅入っているところだもの」

 手帳がパタンと閉じられる。多くの書き込みで膨らんだその内側の大半が、彼女の言う物騒なことに当たることは想像に難くなかった。この学園はこのところ、不可解な事件や事故が起こりすぎている。

「昨日のことについて、続報は入っているかな?」

 僕は迷路のことは一旦忘れようと、気になっていた別のことを小袖さんに聞いた。

 昨日のこと。それはつまり昼休みの、屋上の。

「交換だものね、いいわ。わかる範囲で共有してあげる」

 手帳が再度開かれる。パラパラと数ページをめくった後、細い指先が止まった。

「そうは言っても、多くのことはわかっていないわ。屋上から落ちたのが結局誰なのかも正確にはわからないし、不審なこともいくつかあるけど全部が不審なまま。あれだけ派手な騒ぎだったのに確かな情報が少なくて、ほんと編集者泣かせの事件よね。開帝通信にはどうやってまとめるべきか……今も迷っているのが現状よ」

 小袖さんの気苦労を僕に量り知ることは難しいけれど、この学校で起きた直近の問題もまた、難解であることは伝わってくる。

「ねぇ、朔根くん。あなたの方こそこの件について、わかることはないのかしら。だってほら、いつもならあなたこの時間……」

「そうだね、今日は閉鎖されていたから教室に戻ってきたけど、いつもなら僕は屋上にいる。もちろん昨日も。ただ着いた頃にはもう下で騒ぎになっていた後だったけどね」

「何も変わらなかった? 屋上は」

 聞かれて、思い出すように軽く目を瞑った。

 本当は、少しも忘れていたりはしないけれど。

「高い日差しと、それを遮る侵入口の屋根。さびが目立つ貯水タンクに幾つかのプランター。何も変わらなかったよ。ただ、彼女がいなかっただけ」

 彼女の姿が見当たらなかっただけ。

「彼女、というのは一年生の逆巻さかまき紗香那さかなさんね。昨日の午後から授業に顔を出していないことからも、飛び降りた可能性が一番高いのは紗香那さんだわ。確定的とも言える」

「そうなんだけど」

 ふーん、と小袖さんは不敵な笑みを浮かべた。よく似合う。

「朔根くん、信じたくないって顔してる」

「信じられないって顔だよ。僕はそこまで感情で判断するタイプじゃない。勘には頼ることもあるけど」

「あら、そう自分を分析しているのね。興味深いわ。朔根くんの意見を聞かせて」

 改めて体を乗り出してくる彼女に僕はほんの少しの恐怖を覚えながらも、頭の中では冷静に情報を整理していく。その手伝いにするために、方眼ノートをまた一枚めくった。

「今回のことは、三つの可能性に分けられると思ってる」

 三つ、単語を小さく書き込む。


『自殺』

『事故』

『事件』


「小袖さんは、逆巻についてどの程度知っているかな?」

「私が彼女を認知したのは、あなたと噂になってからよ。だからここ2ヶ月程度ってところかしら。持っている情報は多くないわ。1年B組。調理研究部。あとは……地味めだけど可愛い子だったらしいじゃない」

 外見の感想には頷きにくかった。僕はその辺うといから。

「逆巻の性格を知っていたら、自殺という発想はまず出てこない。だから『逆巻紗香那自殺説』がほぼ全校でささやかれている辺り、この学校であの子がいかにひっそりと生活していたのか少し想像できるね」

「それって、感情的な判断とは違うのかしら」

「違う、と僕は思ってるよ。彼女はなんていうか、自分自身に対していい意味でも悪い意味でも無頓着なんだ。周りからは危うく思えるくらいに、自尊心や自意識が極端に薄い。例えば、誰かを救うためなら、もしかしたら率先して死を選ぶんじゃないかと思うね。けど、彼女自身が自分の死を願うなんて、あるいはそうせざるを得ないほどの絶望を感じるなんて想像ができない」

「言葉では傷つかないタイプ?」

「そうだね。もし今回のことが本当に自殺なのだとしたら、屋上から飛び降りたのは別の誰かってことになる」

 断言する僕を、小袖さんは露骨に疑いの表情で眺めている。

「仲良いのね。紗香那さんと」

 どさくさに紛れて探りを入れてくる彼女の言葉を僕はやんわり否定した。

「その言葉の意図はわかるけど、見当外れだよ。僕らは君が勘繰かんぐるような関係性じゃない」

「あら、まるでそう思っているのが私だけのような言い方は適切じゃないわ。あなたのファンクラブでは日夜この話題で持ちきりなんだから」

 ちら、と見せられた小袖さんのスマホの画面には大きく映し出された僕の顔写真と掲示板のようなインターフェイスが見て取れた。パステルカラーの強いピンクが目に痛い。

 存在は知っている。けれどこうして改めて目前に見せつけられると、どこか生理的な嫌悪感が湧き上がった。僕の知らないところで交わされる僕の話題。あまりいい気はしない。

「小袖さんがそのサイトを知っているとは思わなかったよ」

「みくびらないで欲しいわね。こう見えても会員ナンバー一桁の最初期メンバーよ。とは言っても、情報網の一つとして活用させてもらっているのが本音のところ。匿名で登録できるから何かと便利なの。紗香那さんのこともここで多少の情報を得られたわ」

「趣味が悪いな」

「それは……そうかもしれないわね。特に昨日のことがあってからのスレッドの盛り上がりは、お世辞にも美しいものとは言えないし。人の本性ってこういうところに現れちゃうのかしらね」

 そこで何をどんなふうに語られているのか、想像するのは容易かった。

 僕を褒める言葉と、人の死を喜ぶ言葉が交互に流れてゆく醜悪しゅうあくな絵面が目に浮かぶ。

「僕らは、そういうのじゃないよ。だから……」

「そう。私にできる範囲で静めるように努力してみるわ。ただ、あんまり期待しないでね」

 話を戻しましょ、とノートを指差して小袖さんが促す。

 僕は一つため息をついて、気持ちを切り替えた。

「逆巻は自殺なんてしない、というのはさっき話した通り。それから事故もない。屋上に行ったことはあると思うけど、端には僕の腰より高いフェンスがあって、落ちるためにはそれを乗り越える必要があるからね」

「腰くらいの高さなら、近づいた拍子に誤って落ちたということもありそうに思えるわ」

「他の誰かならね。けど逆巻は軽度の高所恐怖症で、フェンスの方へ行くことはなかった。下を覗くことだってできなかったはずだよ」

「なるほどね」

 小袖さんのペンが動く。

「最後に事件の線だけど……。僕が屋上に上がった時、そこには誰もいなかったし誰かがいた形跡もなかった。下からあがった野次馬の悲鳴を考えると、僕が扉を開いたのは飛び降りた直後だったはずだ。だから突き落とした人間がいるとするなら、僕の目に止まっているはず。つまり、」

「つまり容疑者は朔根くん、あなただけってことね」

 ピシっ、と小袖さんのペン先が僕の方を指した。

 突きつけているのは事実、とばかりに表情を決めて彼女はこちらを覗いている。

 ペンを軽く払った。冗談でもそれは、気持ちのいいものじゃない。

「確かにあの時、あの瞬間の僕ならできた。客観的にはそう見えると思うけど、そんなことをしていないことは僕自身がよくわかっているから、容疑者なんていないというのが答えだよ。つまり事件性もない」

「とすると、消去法で逆巻紗香那さん以外の誰かが自らの意思で飛び降りた、というのが朔根くんの推理というわけね」

 まとめられた言葉に僕は頷いた。

「そういうことになるね。次点で逆巻の自殺」

「あら、弱気じゃない。あんなに否定してたのに」

「僕のこれまでの視点を除けば、やっぱりそれが妥当だからね。ただ、今この時点で考えなくちゃいけないことがあるとすれば、それは死んだ人間が誰でどうして死んだかなんてことじゃない。むしろ逆巻が死んだわけじゃないと考えた場合に、彼女がクラスに戻らない理由の方だろう。別の問題が何か起きているってことになるんだから」

 言い終えた僕の目を、小袖さんはじっと見つめていた。

 普段の彼女から、少し余裕の消えた顔。

「どのくらい、信じてる? 逆巻紗香那さんが、今も生きているって」

「50パーセントが妥当だろうね。彼女の自殺の可能性はさっき話した通り数パーセントとしても、何か他の事件に関わってしまっているのかもしれない。この学園の不穏さを考えれば、単なる杞憂きゆうじゃすまないだろう。それらの累積を加味した上で、希望を込めた値だよ」

「そう。ならもし彼女を、紗香那さんを助けられるとしたら、あなた自身が危険を被るとしても何かをしたいと思うかしら。生きている、と仮定をしてね」

 不思議な問いかけだった。それはまるで僕の覚悟を聞くような、強い言葉。

 少し考えた。逆巻の顔を思い浮かべる。何を考えているのかわからないぼーっとした表情で、目だけがこちらを見透かすように鋭いのが印象的だった。

 そういえば、彼女の笑顔を見たことがない。

「思うよ。僕にできることなら」

「いいわ、それなら警告をしてあげる。交換条件として私が提示できた情報はちょっと薄かったものね。そのかわりよ」

 警告、という言葉が不穏に響いた。小袖さんが今更ながら周りを気遣うように声を潜め始めたのも、何かの前兆のように感じて僕は身構える。

「正直私は朔根くんの話を聞いた今も、昨日の飛び降りは紗香那さんの自殺だと思っているわ。けどそれとは別に、この学園では、何かが起きているのよ。今朝、緊急の職員会議があったでしょ?」

「あぁ、昨日の件だと思っていたけど。あれだけ騒ぎになったから」

 小袖さんが小さく首を横に振る。

「みんなそう思っているし、教職員も生徒に対してはそういうことで通すつもりみたいだけど、本当は違う。関係がないわけじゃないけど、それがまたゾッとさせるわ。朔根くん、この子に見覚えあるかしら」

 そう言いながら彼女は、手帳に挟んでいた写真を一枚抜き取って机にふわりと乗せた。

 あどけなさの残る表情でこちらを見つめる三つ編みの少女。

 記憶を辿る。

「いいや、知らないな。下級生に見えるけど」

粕谷かすがい流花るかさん。紗香那さんのクラスメイトで、一番仲の良かった子だそうよ。そういう話は彼女から聞いていないかしら」

「聞いてない。僕らはあまり互いの交友関係については話さないから」

 そう、とこれまでと同じトーンで小袖さんが相槌あいづちを打った。それから顔をこちらに近づけて、口元を隠すように手を添える。


「流花さん、昨日の晩に自宅で亡くなったの。体を幾つにも分割されて、き潰されて、家中のゴミ箱に捨てられていたそうよ」


 怖気が背筋をなぞった。

 脳が理解を拒絶して、言葉をうまく飲み込めない。

「亡く……なった?」

「夜中に帰ってきた母親が絶叫しているのを聞いて、近所の住人が通報したみたいね。家の鍵は掛かっていたし、金品の紛失も無かったことから外部からの犯行は薄いと見て、順当に第一発見者の母親が容疑をかけられているけれど、どうも会話もままならない精神状態らしくて捜査は進んでいないわ」

「他殺ってこと、だよね」

 自分の吐いた言葉の幼稚ようちさに驚く。それ以外、何があるというんだろうか。

「そう見る他ないんでしょうけど、信じ難いわね」

 人にできることなのかしら、と小袖さんが続けた。僕もそう思った。いくつかの意味がそこには込められている。

 人に、高校生の体をそこまで損壊そんかいすることができるのか、という物理的な側面。

 人に、それだけのことを行う残忍性ざんにんせいが備わっているのか、という精神的な側面。

 冷静に考えれば、どちらもあり得るのだろう。それは事実が証明している。

 受け入れることが、うまくできない、だけ。

「いっそ、怪物の仕業とかであって欲しいわ」

 小袖さんの言葉に、僕は心の中で首を縦に振った。

 この学校で、何かが起こっている。

 それは、多分身の毛もよだつほど恐ろしいこと。

 そしてきっと、吐き気をもよおすほどおぞましいこと。

 人の手によるものならば、人の手で止められるのかもしれない。

 けれど、

 それはどこか得体の知れない、人智の及ばない事象によって引き起こされている結果のように僕の目には映った。

 逆巻のことが頭をよぎる。

 人の手によらないナニかが起きるなら、人の目に映らないダレかがいるのなら、僕の推論はすべて覆ることになるはずだ。

 自殺も、事故も、そして事件も、僕の想像がつかないステップを踏むことで、すべてが起こりうると見た方がいい。

 論理的な過程が意味をなくして、不可視の事象と不可思議な結末だけが残る。

 それはもう奇譚きたんと呼べるもの。

 僕の目の前に、そしてまさしく現実に、奇怪で奇妙で難解な迷路が広がっていくのを感じた。焦りが思考を空回らせて、うまく考えがまとまらない。

「逆巻……」

「他人を心配しているようだけど、警告というのは朔根くん、あなたのためのものよ」

 スマホの画面をもう一度こちらに向けて、小袖さんが言う。

「昨日の夕刻を最後にあなたの熱心なファンの一人がサイトにアクセスをしていないのよ。会員ナンバーは32。それまで特に熱く朔根くんへの情熱を語っていた人間で、昨日のお昼のことがあってからも会話の中心にいた人物。もちろん匿名だから誰なのかはわからないけれど……私はこれ、流花さんなんじゃないかと思ってるわ」

 机の上の写真に目を落とす。

 粕谷流花。昨夜死んだ、知らない少女。

 話したことも、すれ違った記憶もない。

「先週から行方のわからない雨宮さんもあなたに好意があったなんて噂もあるし、まぁ、あなたがモテるのはわかるんだけど」

 小袖さんの指先が、少女の写真を拾う。

「つまりね、朔根くん。あなた本当は自分自身が思っているよりもずっと、この学園で起きている不穏なナニかの中心に近いところにいるんじゃないかしら」

 心当たりはないんでしょうけどね、と小さく呟いて小袖さんは手帳を胸元に戻した。腕に嵌めている時計を確認する彼女に釣られて僕も自分のスマホの画面を見る。

 昼休みがもうすぐ終わる。

「私はクラスに戻るわ。たくさんの収穫があったけれど、どれも過激で記事にはできないわね。仕方がないから昨日あった鶏小屋のかわいい小火ぼや騒ぎでお茶を濁すしかないかしら。開帝通信は健全で爽やかな学園の日常をお届けする機関紙だもの」

「小袖さん、」

 呼び止めようとした僕の目を、再び閃光が焼いた。

「気の抜けた顔の朔根くん、頂いておくわ。お返しの情報はツケておいて」

 視覚を取り戻した時、僕の前にもう小袖咲依はいなかった。

 午後の授業が始まる直前の、3年C組の教室。受験を控えたこの時期は誰もが少しピリピリしていて、居心地はあまりいいとは言えない。

 その教室の真ん中で、僕は季節外れの寒気を感じながら机に広げたノートに目を落としている。物騒な言葉を並べたページを数枚めくって、現れた幾何学模様をもう一度眺めた。

「心当たり、か」

 始業のチャイムに重なって微かな、本当に微かな声が耳に届いたような気がした。


 見つけて、と。

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