ラーメンのためのぶよぶよした本当の前奏曲

煙 亜月

ラーメンのためのぶよぶよした本当の前奏曲

「父さんな、お前くらいの年頃はラーメン屋になりたかったんだ」

 そうなの? 思わず麺をすする箸がとまる。上目遣いに見た父はこと自慢げで、受験生だった私へ夜食をこさえた以上の仕事ぶりといわんばかりであった。


 だがラーメンでは家族を養いきれない。それで血反吐吐きながら一橋に入って、法曹界を目指した。司法試験のむちゃな倍率に辟易して、地元の大手企業に就職したんだ。目下のところ、家族に貧乏はさせてはいない。


 たしかに父さんの会社は潤っている。潰れることも、事業を縮小することも今後ないだろうな。だからって「さあ、お金はある。お前はどこへでも好きな道を行け」という話になるかといえば、そうはならない。ラーメン屋は駄目だ。お前が店主で、奥さんは背中に赤子を負ぶっている。そしてある日、お前が倒れる。父さんもとっくのとうに鬼籍に入っている。


 お前は自分の思い描く人生を歩みたいだろうが、お前の人生は始まった時からすでにお前だけのものじゃない。お前に可能性という未知の事実がある限り、期待、信頼、責任、それらが大挙してお前の背中めがけてやってくる。断言するが、人生ってのはお前ひとりでは背負いきれない代物だ。だから、人の背中を借りろ。お前だけしかできないことは、するな。自分の予備を作れ。お前はお前だけではやりきれない。


 父さんも、母さんや子どもにも恵まれ、ローンも完済したし、だんだんと終わりが近づいている。人生や生活なんてのはひとりでやるもんじゃない。みんなで分け合っていくもんだ。ちょうど今、お前がぜんぶ自分でやろうとしている受験も、一人暮らしも、絵のことも、実は誰かに頼めばやってくれるもんなんだ。しつこいようだが、お前はお前だけのものじゃない。ひとり立ちは、するな。背中をいつも何かにあずけられる状態でいろ。父さんもいずれお前を極限まで頼りながら死ぬし、お前も死ぬ。


 ラーメンを食べ終え、ご馳走様をする。美味しかったよ、父さん。

「だろう? だろうなあ。ネギを切らしてたのが残念だけど、まあ仕方ない」

 ネギ? ネギなら刻んで冷凍庫に。

「え? ああ、そうか、そうなんだな」と大仰にうなだれる。

 

 父がラーメンを作ってくれたのは後にも先にもこの夜、一回だけだった。父のラーメンはすこし伸びていたし、鍋を洗ったのも私だった。

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