第四十二話「日常は変わる、時として急激に」

 その瞳は空を見上げていた。


 母親ゆずりの目と同じ、どこまでも青い空に、薄っすらと雲がかかっている。


 この空だけはどこにいても変わらない。

 あの頃からなにも変わることなく、ただちっぽけな自分を遥か高みから見下ろしている。


「遠いな……」


 思わずそんな言葉が口から漏れた。


 田舎から東京に出てきたことではない。



 夢だ。



 十年前、目指した場所に今、いつきは立っている。

 ただ守られる存在でしかなかった自分はもういない。


 そう、思っていた。



 だけど何度も目にした赤い背中は、十年前からなにも変わらなかった。

 未だ遠く、けして手の届かない場所にある。


 あの空と同じように。




 …………。




「すまん、待ったか」

「いえぜんぜんぜん!」


 声をかけられ我にかえったいつきは、ギョッと目を見張った。


 オリジンレッドに買ってきてほしいとお願いしたのは、たしかクレープだったように思う。

 だが彼の手に握られたそれはクレープというにはあまりにも豪快だった。


 でかい、ちょっとした花束ぐらいある。

 もう一目見ただけでわかる、これはカロリーの怪獣だ。


 おかげさまで物思いにふけっていたことも、すっかり頭の中から抜け落ちてしまった。


「あっ、えっ? クレープ?」

「おうクレープだぞ。近頃の女子高生はこんなもんを日常的に食ってるのか、すげえな」


 そんなわけないと思うのだが、いつき自身もクレープを食べるのは初めてだ。

 むかし母親が腕を振るって作ってくれたが、出てきたのはなぜかオムライスであった。


「えっと……お代は……」


 我にかえったいつきは自分の財布に手を伸ばす。

 しかしオリジンレッドは片手でいつきを制止する。


「いや金はいい、サービスしてもらったからな。株で大勝ちしたらしい。もとより払わせるつもりもない。ほらよ」

「ありがとうございま……おんもッッッ!!!」


 軽めのボーリングの球ぐらいはあるだろうか。

 ちょっと胃の中には納まりそうもない。


「どうしたいつき?」

「いえその、東京の・・・クレープは初めてなので、圧巻されちゃって」


 ちょっと見栄を張ってみたものの、いつきは後悔しつつあった。

 上のほうから生えているこれはなんだろうか、タコの足のようにも見えるがきっとなにかの見間違いだろう。


 もちろんこんなもの東京どころか世界のどこでも売られていない。

 いつきが手渡されたのは、漆黒怪人リベルタカス謹製の闇鍋クレープである。


 だがそんなことは知る由もない。


「食わねえのか?」

「いえっ、いただきます!」


 いつきは意を決してクレープにかじりついた。


「わっ、すっぱい。クレープって梅干しが入ってるんですね。あとこれは、なんだろうプチプチした……イクラかな……?」

「最近のスイーツってのはそんなのが入ってるのか?」

「入ってるんです! ……たぶん」


 また見栄を張ってしまった。


 梅干しぐらいならまだギリギリあるかもしれないが、イクラは入ってないと思う。

 たしかに形状はどことなく手巻き寿司に似ていなくもないが、たぶん入れない。


「買ってきておいてなんだけど、それ美味いのか?」

「はいっ! 美味しいです、とっても!」


 パシらせた手前そう言う他ない、というわけでもなく。

 実のところさまざまな味が絶妙に絡み合った特製クレープは、意外にも美味であった。



 だがそこでいつきは気付く。


 オリジンレッドの手にはクレープが握られていないことに。



「あの、オリジンレッドさんは食べないんですか?」

「え? ああ、俺はいいや」


 それもそのはず、太陽はもとよりこれをデートだとは思っていないのだから。

 せいぜい師弟の絆を深め合う好機だと捉えている程度である。


 ふたつの味をお互いに食べさせあいっこしよう、などとは微塵も考えていないのだった。


 それになにより。


(口にものを入れるとなると、マスクを外さなきゃあなんねえからな……)


 理由としてはこちらのほうが大きかった。

 なにがなんでもいつきの前でこのマスクを取って正体を明かすことだけは避けなければならない。



「あの! オリジンレッドさん、よかったら、その。一口どうですか」



 そんな太陽の事情など知らぬいつきは、純粋な目で闇鍋クレープをすすめてくる。


「いやいいってほんとに。全部いつきが食べてくれ、俺に遠慮するこたあねえ」

「いえいえそうおっしゃらずに。どのみちひとりで食べきれる量じゃないと思うんで!」


 太陽はなんとかいつきの申し出を断ろうとする。

 だがあわよくばオリジンレッドの素顔を拝みたいと考えているいつきも折れない。


 ふたりの主張はこのまま平行線をたどるかと思われた。


「ほんとにいいんですか? クレープ美味しいですよ?」

「ああ、腹減ってねえんだよ」



 ぐううううううう!!!



 そのとき太陽の腹の虫が吠えた。

 鳴ったとかではなく、とどろき叫んだ。


 なにを隠そう、いつきや仲間たちが怪人覚醒の危機にさらされていると知った太陽は、昨夜からろくにご飯が喉を通らなかったのだ。

 お腹は減りに減り、さきほどから漂ってくるソースの香りもあわさって限界を迎えつつあった。


「やっぱりお腹減ってるじゃないですか! オリジンレッドさん、さあ!」

「いや……違うんだ、これは……これは……」


 太陽はキリキリと空腹を主張する己の胃を押さえながら、なんとか逃れるための言い訳を考える。


 そして。


「……は」

「……は?」

「腹が痛ええええええええ!!!」



 その場から逃げ出した。

 状況不利と見るやの戦略的撤退であった。


 背後でいつきがなにか申し立てていたがそれはそれ、これはこれである。

 なに、距離を取るのは一時いっときでいい、そうすればいつきも頭を冷やすだろう。


 そう考えた太陽が向かった先は、女人禁制バリアの張られた聖域。


 公衆の男子トイレであった。


「ふう、やべーところだったぜ。いつきのやつ、興味津々じゃねえか」


 ついでに用でも足しておこうかと、ファスナーをおろしてふと横を見ると。



「「あっ」」



 これまた見間違うはずもない人物と目が合った。


 ピンクのポロシャツをはち切れさせんばかりの筋肉。

 スポーツマンのようなツーブロック。


 桃城鉄次、太陽の部下にしてオリジンピンクの名を拝する鉄人である。


「こ、こここ、これは違うんです隊長。最初からずっと見ていましたがこれはべつに悪気があってつけていたわけでは」

「オーケイわかったモモテツ。全部話してくれてありがとう」

「申し訳ございません……」

「まあそんなこったろうと思ったよ」


 気まずい空気が流れたところで、用が済むまで離れることは許されない。

 それが聖域、男子トイレのしきたりというものだ。


 ふたりして並んで済ませ、手を洗う。


「ご存じだったのですか、自分たちが尾行していること」

「あんな呼び出され方したら、多少は警戒するさ。スナオとユッキーもいるんだろ?」

「え、あ、その、はい……います」


 しどろもどろになりながらも、モモテツは観念したようにしゅんと肩を落とした。

 尾行がバレてしまったことよりも、太陽たちを騙すたくらみに加担したという自責の念からだろう。


「ちょうどよかった、お前たちにもレッドパンチの撃ち方を教えてやる」

「いやそれは、えっと、はい。ありがとうございます……」

「遠慮すんなって、減るもんじゃねえ」


 そんな会話をしながら太陽がいつきの待つベンチまで戻ると。




「お待ちしておりました火野隊長。それと桃城隊員」




 待っていたのはいつきではなく、どこか冷たい印象の女だった。



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