高層ビルは早々に見かけなくなり、まばらな家と田畑が視界を埋め尽くす。窓の外の景色は後ろへと、高速に乗ってから飛ぶように流れていった。 

「佐原さんたちは東京の生まれでしょう? この辺の景色はどうです? 寂しいでしょう?」

 ワンボックスを運転している長谷川さんが、二列目に座る里紗と芳樹に向けて言った。二人して顔を合わせてから、里紗が答えた。

「いえ。私たち、東京といっても外れの方なので。あんまり変わらないですよ」

「そうでしょうかねえ」

 ルームミラー越しに、長谷川さんが目を細める。答えに窮して、里紗は口を閉ざした。芳樹からも言うことはないようだった。

 ミニシアターの片づけに、人手は多い方がいい。長谷川さんにそう言われて、里紗は芳樹を誘った。断られるかとも思ったけれど、ちょうど仕事がない日ということもあり、芳樹はついてきてくれた。現場には芳樹を憶えてくれている従業員の方もいた。芳樹の表情が柔らかく変わっていくのを見て、里紗は安堵していた。動画が削除されてから、芳樹はふさぎ込むことが多くなっていた。

 午前中には片付けが終わり、捨てるものは廃棄物業者によって回収され、残る機材は長谷川さんのワンボックスに入れられた。実家の蔵に保管するという話だった。

「急なお願いですが、私の実家である群馬まで来て、手伝えるという方はいらっしゃいますか?」

 従業員も、無償で来てくれた元アルバイトたちも、顔を見合わせていた。里紗は芳樹を小突き、彼が頷くのを見てから名乗り出た。ワンボックスには二人を入れてもまだ余裕があったが、他の参加者は現れなかった。

「私はね、子どもの頃は東京に出たくて仕方なかったんですよ」

 長谷川さんの話は続いていた。

「家の周りには何もない。文化に触れる機会がない。子どもの頃はそのことばかりが悩みの種でした。もっとも、今振り返ればまだ、めぐまれていました方なんですけどね。本当に文化に触れられないなら、その機会がないなんてわかるはずないですし。それに逃げたいと思えば、電車一本で東京まで逃げることができたんですから」

 長谷川さんの視線の先には高速道路の左側を並走する新幹線の橋梁があった。灰色の巨大な建造物が、青く霞む山峰を背景に、延々と前へ延びていく。

「佐原さんたちは、御実家と仲はいいですか?」

 里紗と芳樹は顔を合わせた。今度は芳樹が、軽く咳ばらいをしてから答えた。

「まあ、年末年始にあいさつに行ったりはしますね」

「私もそれくらいです。一年に一度、会えればいいかなって」

 なにか言われるだろうかと、里紗は少し身を固くした。プライベートな内容だとつい身体に力が入る。長谷川さんと話すときはいつも映画や、ミニシアターの話だった。私生活の話は一度もないし。知ろうとももしなかった。

「お二人は十分、親孝行ですよ。私は去年、三十年ぶりに帰省しましたよ」

 三十年。里紗と芳樹の年齢と同じだった。そんなに、と芳樹が独りごちていた。

「手紙や電話くらいは、交わしていましたけどね。結婚したときが最後でした。向こうも私をほとんどいないものとして扱っていると思っていましてね。でも、帰っていったら、当たり前のようにおかえりと言われましたよ。蔵を使いたいっていう、私の都合の良い申し出も受け入れてくれました。なんだか記憶していたより、親切な人たちでした。いえ、ずっと昔からそうだったんでしょうね。私が気づいていなかっただけで」

 ジャンクションに差し掛かり、右へと急なカーブが続く。新幹線路線は離れていった。それらは上越や北陸へと向かう。里紗たちを載せたワンボックスは群馬県の中心へと向かっている。

 高速道路を抜けて、長谷川さんの実家に到着した。広い庭を持つ日本家屋だった。長谷川さんの父母が玄関で待ち合わせており、手を振りながらワンボックスを誘導した。彼らは長谷川さんと気軽にあいさつをして、里紗と芳樹にも同じように声を掛けてくれた。ご両親は見るからに穏やかで、細めた目は長谷川さんによく似ていた。

 長谷川さんを労わりながら、里紗たちは力を入れて運んでいく。従業員たちが丁寧に梱包してくれていたので、段ボールは積みやすい大きさと重さに整理されていた。ミニシアターで使用していた機材はひとつひとつ布に巻かれていた。上映する場所もないのになぜ持ち帰るのか、気になりはしたが、長谷川さんに聞かなかった。問い詰めるほどのことでもなかった。

 作業がひと段落して、いただいた麦茶を飲みながら、縁台で休憩をした。三月の末。桜がこの庭にも咲き誇り、節くれだった枝に薄い紅の陰が降りている。

「それにしても、お菓子作りが趣味だったなんて。知りませんでした」

 雑談のひとつとして里紗は口にした。

「お菓子?」

 と、芳樹が尋ねてくる。

「長谷川さん、今度お菓子屋さんを開くんだよ」

「ケーキ屋さんですよ」

 長谷川さんは含み笑いをしながら、首を横に振った。

「それに、私の趣味じゃないですよ。家内のです」

 長谷川さんの奥さん。会ったことはないが、画像では知っている。長谷川さんのスマートフォンの待ち受け画面に、今も収まっているはずだ。画面の中の奥さんは、白い帽子を目深に被り、いつも長谷川さんに微笑みかけていた。

「ケーキを焼きたいらしくてね。今度は自分の番だと、意気込んでいますよ」

「私の番?」

 里紗が聞いた。

「ええ、今までは私の、ミニシアターを経営したいというわがままを聞く番。私は夢を叶えて、無事に、といえるかわかりませんが、やり切るところまでやって、終わりを迎えました。だから、今度は家内が夢を叶える番なんです。私が長いことやってましたからね、あいつもなかなか続ける気ですよ。うちの両親も必ず行くなんて息巻いてましてね」

「お二人の夢が、代わる代わる続いていくんですね」

 芳樹の声が、会話から少し遅れて続いた。 長谷川さんが愉快そうに、しきりに頷いていた。里紗はあいまいに笑って、吐息が麦茶の水面を揺らした。空を映した水面が一瞬乱れて、また戻る。何事もなかったかのように。

「ところで、お二人に聞いてほしいことがあるのですが」

 長谷川さんが言った。改まっての口ぶりに、里紗と芳樹は背筋が伸びた。桜の花びらが三人の前をゆっくりと散っていった。

「あの機材はしばらく、私が保管しておきます。まだまだ十分、使えます」

 長谷川さんは二人をまじまじと見つめていた。言わんとすることが、里紗には何となくわかった。芳樹も同じだったようで、僕らがですかと、動揺していた。

「お金もないし、経験もないし」

「もちろん、資金は必要です。私に財力があればいいんですが、あいにくそれもかなわない。しかしそれよりも、大事なのは気持ちです。もしも君たちにその気があるなら、稼げるだけ稼いでください。私の目が黒いうちは、きれいに保管しておきます」

 冗談かとも思った。しかし長谷川さんは終始真顔で、里紗からは言うことがなくなった。麦茶はすでになくなって、口につけたガラスの縁の湿り気にすがった。

「どうして僕なんですか」

 芳樹が言う。長谷川さんと向き合って、空になったコップを縁台に置いた。

「働いていた里紗ならともかく、僕は、もう映画にはかかわっていません。ミニシアターにも近づいていませんでした。近づこうともしなかった。継ぐような資格は、ないと思います」

 芳樹は一言一言をかみしめるように言った。今の芳樹が映画をどう考えているのか。それは里紗の知らなかったことだ。あえて知ろうとしなかったことだった。

「君は映画から離れていませんでしたよ。だから、あんなに動画も作れたのでしょう?」

 長谷川さんの言葉に、芳樹も里紗も唖然とした。

「知ってたんですか? 芳樹の動画を?」

「ええ。映画の解説と聞いたら興味が惹かれましたし。拝見して、マスクはされてましたが、話し方や目の雰囲気で、察しがつきましたので」

 説明を聞いても、芳樹は依然として言葉を失っていた。頬が赤くなってきているのは、日差しのせいばかりではないだろう。恐縮ですと、か細い声がその気持ちを伝えていた。

「君の動画を見ていたのだから、わかりますよ。君は映画が好きです。里紗さんもです。だったら、私が継がせるのに何の支障もありません。映画を好きでもない人に扱われるよりよっぽどいいですからね」

 長谷川さんは相変わらず穏やかな顔をしていた。穏やかだが、瞳に力が籠っている。人を惹いてやまないその瞳は、数え切れないほどの映画に惹かれ続けてきた瞳でもあった。

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