天井のオレンジ色の小さな照明が灯されて、会場に明るみが増してくる。折り畳みのソファに腰掛けた観客たちが拍手を送っている。ここ数日、何度も見てきた光景の総決算だ。拍手は一段と大きく、長く続けられた。スクリーンを保護する暗幕がモーター音とともに閉じられて、豊かな白髪を後ろにまとめた背の高い男性、長谷川さんが壇上に現れる。長谷川さんはこのミニシアターの経営者だった。

「当シアターは約四十年間にわたり、この町で愛されてきました。元はといえば映画好きが高じて始めてしまったこと。今まで地域の方々に愛されて、どうにかここまで続けて来れました。次代に引き継げないのは悔やまれますが、これも時代の流れ。募る話はありますが、とても本日中には語り尽くせません。上映後の余韻を抱きつつ、速やかにご退出。これが長年の、当シアターの締めの言葉でありました。私もその言葉にあやかります。長年のご愛顧、ありがとうございました」

 長谷川さんが頭を下げる。今一度、拍手が沸き起こり、先ほどよりも長い間、鳴り響いていた。里紗も含めた従業員たちが、入口のそばに並んで、退場する観客たちにお礼を交わした。

 ミニシアターを閉める話は、半年前に長谷川さんから社用のメールと直接の言葉で二回に渡って伝えられていた。誰もが驚き、中には思いとどまらせようとした人もいた。しかし、長谷川さんの意思は固く、建物の引き渡しも早々に決められてしまっていた。閉店は決定事項となり、最終営業日である今日へ向けての準備が着々と進められてきていた。

「どうして今日で終わってしまうんですか?」

 足繁く通ってきていた観客から、こんな質問が幾度となく、従業員やアルバイトの区別なく投げかけられた。答えようとする前にいつも長谷川さんが駆けつけてきて、真っ先に深々と頭を下げた。

「本当に申し訳ありません。厳しい状況でやりくりしていましたが、前々からの経営難に加え、昨今の感染症対策の負担も相まって、限界に達してしまいましたということで、どうぞご理解ください」

 長谷川さんの言葉には重みがあった。聞いていると、否定できなくなる。同情の言葉を掛けて、観客は去っていく。その姿が見えなくなってから、長谷川さんはようやく頭を起こす。そのやりとりが毎回丁寧に繰り返されていた。

 最後の観客が名残惜し気にシアターを後にする頃には、窓から赤い夕陽が差し込んでいた。ミニシアターの中にはまだ従業員たちがいるのに、静けさが耳を打つ。スクリーンも折りたたみ椅子も含めて、すべての機材が最終日であることを承知しているかのようだった。

 従業員たちは控室へと移った。長谷川さんからの伝言で、アルバイトとの契約は今日で終わること。三月の末に片づけをして、このミニシアターは跡形もなくなることが改めて伝えられた。長谷川さんの穏やかな語り掛けに、場が静まり返る。若いアルバイトの子が時折鼻をすすっていた。

「お別れは、明るくしましょう。皆さんからはご厚意でお菓子をいただきました。皆さんの大好きな、佐原さんからのプリンもあります。分け合って、楽しくお別れしましょう」

 長谷川さんが言うと、場が湧いた。持ち寄ったお菓子がテーブルに並べられ、里紗のプリンも冷蔵庫から出される。今までも里紗がプリンを配ることは度々あった。芳樹の分を作る際に、材料を使い切りたくて、いくつか作るのだ。従業員全員を合わせて両手で数えられる程とはいえ、今日のように全員分を作ったのは初めてだったが、用意するのは苦ではなかった。プリンを配る際、他の従業員や長谷川さんから材料費の補填を耳打ちされ、里紗は気持ちだけを受け取ることにした。

 ミニシアターの従業員同士での飲み会は、新しい従業員やアルバイトの歓迎会や、年末の忘年会などを除いて元々あまり行われてこなかった。加えて数年前からの新型コロナウイルス感染症の流行で、宴会を開く気運は完全に断たれていた。突然ではあったものの、お菓子を分け合う今日の会は、あちこちで思い出話の花が開き、なだらかな盛り上がり方を見せていった。

「佐原さんは、もう十年になりますか。観客だった頃から今まで、本当にありがとうございました」

 長谷川さんが目を細めて言ってくれた。思い出が蘇っているのかもしれない。里紗もまた、過去を振り返る。

 時代も流行も気にせずに、知る人ぞ知る映画を流し続けている、時間の流れが止まったかのようなミニシアター。芳樹の誘いにつられて向かったこのミニシアターの雰囲気が、里紗の心の奥底を震わせた。アルバイトを募集していることを知り、芳樹の後押しもあって始めたものが、従業員としての今に結びついている。始めた当初は、芳樹の好きな世界に関わっていることが嬉しかった。試行錯誤の痕跡が観られる設備や、映画の話しかしない観客たちに囲まれた空間は、外の世界からは切り離されていた。その孤高さが快かった。

「芳樹くんにも伝えてください」

 芳樹が映画の話をしなくなって、ミニシアターに来なくなっても、長谷川さんは芳樹のことを憶えていてくれていた。芳樹の近況について深入りはせず、ただ知っていてくれていることが、里紗にはありがたかった。

 長谷川さんが手を伸ばし、里紗は握手を交わした。長谷川さんの、年を経た人の手は、植物の幹のような手触りがした。

 会が終わり、里紗はミニシアターから外に出た。宵の口の路地は雫型の街灯に照らされている。少し離れたところにある商店街の賑わいが、風に乗って運ばれてきていた。他の従業員たちと別れた後、ミニシアターの入り口に置かれた掲示板に目をやった。長年のがんこな汚れに晒されたガラス扉の中に、今日上映したイタリア映画のポスターが貼られていた。俳優の男が顔を歪めて空を見上げている。亡き祖父から鍵を託された青年が、国中を巡って祖父の思い出の地をたどる旅に出る。そんな内容だった。普段は観客の希望などを参考に上映する映画を選んでいたが、最後の日に上映する映画だけは長谷川さんの一存で決められていた。

「最後のわがままです。これで最後、やりたいことも、これでおしまい」

 長谷川さんの言葉が耳に残っている。

 ミニシアターを閉めることを長谷川さんはスタッフの誰にも相談しなかった。それは決意の強さの表れなのだろう。やりたいことをやりきって、自分のタイミングで終わりにする。それはとても、恵まれたことなのかもしれない。そんな終わらせ方ができる人は、とても少ないはずだ。

 芳樹が仕事を辞めたときは、もっと唐突で、事前の相談は一切なかった。仕事を辞めたその日、夜遅くに帰ってきた芳樹を、同棲中だった里紗が手伝って、リビングのソファに横たえらせた。芳樹はひどく酔っていた。里紗が持ってきた水をつかむと一気に飲み込んで、せき込んでうつむいた。ごめん、と何度も口にしていた。

「俺は仕事を辞める」

 やりたいことをやりきったとは、とても言えなかっただろう。芳樹はとても苦しそうで、里紗は苦しむ彼を見たくなかった。詳しく聞くこともせず、芳樹の決めたことを受け入れた。

 それ以来、里紗は変わらずミニシアターで働き続けていた。芳樹は最近になってパートで働く傍ら、映画解説の動画を作り始めた。映画の話には触れない。その不文律を敷きながら、お互いに映画には関わり続けている。この状況を、気軽に笑い合うことができればいいのにと、里紗は思わずにはいられなかった。

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